日本周遊紀行



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日本周遊紀行(12)伊豆長岡 「温泉と源氏」



源氏、鎌倉幕府発祥の地・・、


西浦や淡島を左に見ながら、伊豆長岡温泉へと向かう。
市街地の主要道を左に曲がり、ナビに従って「源氏山」の麓の温泉街へ来た。
この辺り一帯を「古奈温泉」とも称している。 

古奈温泉(こなおんせん)は伊豆長岡の中でも1300年の歴史ある温泉地で、伊豆では伊豆三古湯(伊豆山:熱海、修善寺、古奈)の一つとして数えられ、弘法大師や源頼政、源頼朝、北条氏らにも所縁のある由緒ある温泉場でもある。 

老舗旅館が軒を連ねる通りの一角に「あやめ小路」という石畳小路があり、浴衣姿で散策し、昔ながらの温泉街の風情を感じるにはいいところである。

ここの角に目的地の立寄り湯・「あやめ湯」があった。
近所のお上さんさんであろうか・・? 
こちらの温泉に入りたいけど、駐車場はどちらですか・・?」、
駐車場は特に無いようだけど、お風呂だけなら、ここへ止めてもいいよ・・

確かに大きな駐車場があり、看板に西淋寺専用駐車場とあった、すぐ横はお寺の参道になっている。
お寺の人かな・・?。


先ず、湯に浸かろう・・、


建物はひなびた銭湯風で洒落た敷戸の玄関から300円の入湯料をはらって早速湯船へ。 
透明なお湯があふれている、気持ち良い掛け流しである。さっそく漬かるとけっこう熱い、お湯は癖がなくさっぱりしている。
泉質はアルカリ性単純温泉、泉温60度、熱い湯に浸かっていると体の芯まで熱くなってきた。


「あやめ」という女性の出実・・、

この辺り「あやめ小路」、「あやめ湯」、「あやめ祭り」、と「あやめ」の呼称が多い、別にあやめ花の名所ではない。

平安期、この地に、「あやめ」という女性(にょしょう)が誕生し、成長した後上京して近衛の院に仕える。 
その美しさは宮廷随一といわれ、和歌も嗜(たしなむ)んで、やがて歌道に優れた武人・源頼政公と結ばれた。 

しかし、頼政は源平の戦いで露と消え、あやめ御前は伊豆長岡古奈の里へ戻り、頼政の霊を弔いながら89年の生涯を静かに閉じたという。 
あやめ御前の霊は、この寺「西淋寺」に祀ってあるという・・。


平家打倒の真の先兵は、「源の頼政」とも云われる・・、


頼政は摂津源氏の祖である。 
保元の乱(天皇と院の争い)の時に後白河天皇方について戦い、又、平治の乱(院の体制近臣の争い・源平の争いで平清盛と源義朝の合戦、この時嫡子頼朝が伊豆のこの地へ流人となる)では源氏でありながら平氏方に付き、平氏政権では軽役人から何とか従三位にまで上る。 

ところが、京で栄華遊興に耽る平家に業をにやし1180年、75歳という高齢の身でありながら以仁王(もちひとおう・後白河天皇の子=皇太子)に平氏打倒の話を持ち掛ける。 
以仁王がその気になったものの、謀反の動きは平氏方に漏れ、体制を整えないまま合戦に突入してしまい、宇治の平等院あたりで討ち死にしてしまう。
この事がきっかけになって、以仁王の令旨(皇太子、親王および王の女院の命令を伝える文書)に呼応して立ち上がった源義仲、源頼朝らによって平氏政権は滅亡することになる。 
それは既に頼政、以仁王の死後のことでもあったが。


あやめ御前は、頼政をこの地に弔っている。 
そして、この地で源氏の旗を揚げた頼朝によって頼政の復讐もかなったのである。 
歴史は因果である。

その時期あやめ御前は鎌倉の頼朝に逢っているかもしれないのである、その時どんな会話を交したのだろうか、興味津々である・・?。


伊豆長岡の市街から狩野川の千歳橋を渡ると、伊豆鉄道の伊豆長岡駅に出る。 
一つ手前の駅が「韮山」で、この辺りが蛭ケ小島といわれる所である。
平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼の命乞いによってこの地に配流されている。 
1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされる。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われる。
箱根、伊豆山、三島の三社詣でや天城山での巻狩り、そして北条政子との結婚などの逸話も残る。 


このあたりは狩野川の流域にあたり、後年「蛭ケ小島」と呼ばれるようになった・・、 


現在は周辺の公園整備が進み、平成16年、富士に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が立っている。
1180年、以仁王の令旨、頼政の訓令を以って頼朝は兵を挙げた。 
一行は真夜中に北条館を出発、蛭ケ小島の近くの山木館へと向かった。 
激戦の末ついに陥落、流人・頼朝の監視役だった山木判官平兼隆は討ち取られた。 
源平合戦の初戦、頼朝の旗揚げは勝利で飾ったのであったが・・、その後、源氏・鎌倉時代が到来することになる。

伊豆長岡は良き温泉と源氏の故里でもあった。


伊豆長岡町は2005年4月1日、韮山町、大仁町と合併して「伊豆の国市」が誕生している。
伊豆の国市は京・平安期の頃は流人の国と言われてきたが、縄文・弥生時代の文化から始まり、源頼朝や北条氏にまつわる数多くの史跡を残している。 
又、韮山は後の室町期、伊勢新九郎長氏、後の北条早雲(小田原北条)が一時、伊豆全土を支配下した拠点でもあった。

因みに、伊豆半島で伊豆と付く行政地域名は「中伊豆町」、「東伊豆長」、「南伊豆町」、「西伊豆町」「伊豆市」そして、「伊豆の国市」で六市町と多彩である。 
伊豆の人は、これだけ「伊豆」という地名に愛着、執着があるのだろう。
くどい様だが解る気もする。

次は東海道・沼津へ参ります・・、

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日本周遊紀行(13)沼津 「原と白隠」



臨済宗中興の祖・白隠禅師の出身地・・、

伊豆長岡から国道414にて沼津へ向かう、市街地から狩野川の港大橋をわたって、沼津魚市場方面へ。
千本港町、沼津魚市場は早朝から魚介類の取り引きの威勢のよい掛け声が響く。 
周辺には寿司屋や飲食店、土産品店が軒を並べ、沼津港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を味わうことができる。
先達て上さん(妻)と、この地を訪れて時期物ではあるボリュームたっぷりの「サクラエビ」の唐揚げが絶品だったのを思い出す。 

更に、県道380号線を行く。
松の林が限りなく・・?、続く海道で緑の美しい景観は、日本100選の「千本松原」である。 
狩野川の河口から、富士市の田子の浦にかけて続く総延長約10kmに及ぶ海岸線で、千本どころか30数万本の松の木が植えられておるという。
旅の僧・増誉上人が近隣の人々に呼び掛け、5年の歳月をかけて復活させたと伝えられている。

増誉上人は、千本山乗運寺(浄土宗・千本松原の近くに寺院がある)の開祖で、始め長円といった。
増誉上人をめぐる千本松原の物語は、今なお人々に語り伝えられているという。 

一説によると、天正8年(1580年)武田対北条の激しい戦いが行われた時、無惨にも千本松原の松を伐り倒してしまったといい、荒廃したこの地に、一人の旅の僧(長円)がやって来て、土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見るにみかね、一本一本お経を唱えながら松の苗を植えたという。
千本松原の恩人として、千本公園に像が建てられている。

中間地にJR東海道の原駅がある、今は普通の町並みであるが、旧東海道の原宿で東海道五十三次の13番目の宿場であり、昔は相当に賑わったところだ。

この一角に「松蔭寺」がある・・、
 

 『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり 
                      富士のお山に 原の白隠
 』


白隠 慧鶴((はくいん えかく・正宗国師)、江戸中期の名僧である。

1686年、駿河国・原宿(現・静岡県沼津市原)長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、のちに病となるも、内観法(身心を安楽にする観法)を授かって回復し、信濃の国・飯山の正受老人の厳しい激励を受けて悟りを完成させたという。 
以後は地元に帰って布教を続け、衰退していた臨済宗を復興させている。
現在ある臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は全て白隠が中興したとされている。 

京の広大な妙心寺は江戸期に中興され、その第一座に白隠禅師が住持(僧衆の長)している。 
因みに、小生の田舎(いわき市白鳥町)の菩提寺・龍勝寺は、京都・大本山妙心寺の末寺である。

白隠は江戸中期(1763年)、隣町で三島市の龍澤寺を中興開山し、現在、両寺には彼の描いた禅画、禅筆が多数保存されている。 禅師の墓は原地区の松蔭寺にあって、県指定史跡となっている。
師の著書の一つに「夜船閑話」(やせんかんな・過度の禅修行による病いの治療法として、身心を安楽にする観法を説いたもの)がある。
小生、入院療養中の時、その解説書を読んだが、現代にも通ずる古式健康法とでもゆうのだろうか・・?


原から更に松林をゆく、この辺りの松林は手入れがされてなく、雑木下草に覆われて雑然としている。
せっかくの常緑樹林が美観を損ねているのは残念である。

道は東海道線と並行してゆく、吉原は、今は製紙業が盛んな街だが、昔は東海道・吉原宿で風光明媚なところ、目前に田子の浦をひかえ、万葉集にも詠われた地であった。
  

 『 田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ
                        富士の高嶺に 雪は降りける
 』
(田子の浦をずっと歩いて、やっと見晴しの良い地点に出て見ると、遥かに雪が降り積もっている富士山が望まれた・・) 


誰でもご存知の名句である。 
時は奈良時代、山部赤人が詠んだ万葉集の一句であり、小倉百人一首にも選ばれている名句である。 

次回は蒲原、由比・・、

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日本周遊紀行(14)蒲原 「広重と由比正雪」



由比正雪と江戸のクーデター「慶安事件」・・、

国道1号線へ出て、富士川の長い鉄橋を渡ると間もなく蒲原で、東海道五十三次の蒲原宿である。
安藤広重」が、とある一行に加わり、東海道を京まで旅行したときに描いたのが「東海道五十三次」であるのは承知だが、中でも傑作なのが雪の蒲原宿を描いた「蒲原・夜之雪」と言われる。 
広重はこの絵を契機に風景画の第一人者としての出世するのだが。 

ただこの絵の不思議なところは広重が京に向かうのは夏季であり、ましてこの地方は温暖で冬でもめったに雪は見ないという。 
蒲原が何故雪景色なのか・・?、未だこの謎、疑問はまだ解かれていないとか・・! 
きっと広重は当地で「北国の冬景色の夢でも見たのだろうか・・??」
 

「由比」は賑やかなところである。 
はじめ国道1号線は太平洋の雄美な海岸線を走っていたが、東名高速と交差する辺りから、今度は東名が海上をゆくようになる、そのすぐ横を国道1号線、さらに東海道線、そして地方道、この間に住地が密集している、おまけに東海道新幹線が山の端から顔を出しているのである。
山腹が海岸近くまで迫り出しているため、こんな風景を形造っているのだろう。
時折、ポスターなどにも描かれているようだが、国内でも珍しい処だろう。 


江戸時代に政変があった・・?、


由比は、チョッと騒々しく賑やかなところである。 
江戸初期の慶安期、徳川幕府を批判しクーデターを計った事件が発生する、世に慶安事件という。 
事件の首謀者は「由比正雪」、由比町の紺屋・染物屋の出身という。

江戸初期の頃の幕府の政策は、所謂、武断政治(武力を以って行なう強圧的な政治)が強行されていた。
問題を起こした諸大名はお家断絶や取潰しも珍しくなく、浪人が発生する要因にもなっていた。 

江戸で軍学塾を営んでいた由井正雪は浪人に人気があり、幕府の強圧政治に不満を持つ彼や浪人衆は、三代将軍・家光の死を機会に江戸、駿府、大坂、京で決起挙兵をもくろむ、現在で言うクーデターであろう。 
しかし、計画は事前に漏れ発覚、同腹の丸橋忠弥が逮捕されて死刑になると、発覚を恐れた由井正雪は駿府で自害してしまう、クーデターは失敗に終わったのである。

この時代、幕府の強圧政策や浪人圧迫に対する反撥で、江戸庶民の間にも関心を呼び、「慶安太平記」などの芝居となったり、講談にて語られた。 
近代では浄瑠璃・歌舞伎にも演じられているようである。
この事件が契機で、幕府の武断政策は文教政治の方向(儒学者の新井白石などを登用する)へと転化されるに至ったという・・。

【 閑話休題 】

走行中、或るニュースを耳にした、「北海道の稚内で今日、日本列島最後の桜が開花した」という、時に本日は5月23日である。 
今年の桜前線は1月15日に沖縄の石垣島でヒカンザクラが咲いてスタートし、4カ月少々かけ北上して稚内に最終ゴールしたことになる。
(平成17年:2007年5月23日訪問)


桜の開花に関する事について・・、


桜花が開花する時は「開花予想」と「開花宣言」という呼称があるという。
開花予想については、現在は気象庁のコンピューターで計算している。 
まず、花芽が休眠から目覚める日を「起算日」(事柄を計算する時の初日、桜花開花の場合、気象庁が管轄する部署で花芽を見て起算日を決める)とする。

一般に、花芽が目覚めてから平均気温15度の日が21日分あれば、開花の準備が整うといわれる。
開花宣言は、観測地点ごとに定めた「標本木」の開花状況を見て出される。 各地区によって標本木の本数と桜の品種によって決められている。 

因みに東京地方の開花と満開の定義での対象樹は「ソメイヨシノ」で、靖国神社の開花基準木(標本木)三本中二本の木でそれぞれ5〜6輪の花が開いた状態を東京地方の「開花」と言い、また、「満開」とは、同じ開花基準木(標本木)三本中二本の木で花が80%以上咲いた状態を東京地方の「満開」と言うらしい。 
標本木は、日当たりのいい平地に生育するものを複数本選び、各管区気象台技術部観測課の職員が予想開花日の一週間ほど前から毎日観測箇所に行き、観測は肉眼で数輪咲けば開花、80%以上咲けば満開と称しているという。

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