本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月23日 延日数 第2日
出発地 大沢温泉・道の駅 出発時間 5時30分
到着地 愛知県田原町・道の駅 到着時間 18時45分
天 候 曇り時々晴 体 調
走行道路名 県15、R136、県17、R414、県380、R1、R149、県199、R150、県31、R150、R1、R42、R259
主移動地名
松崎⇒土肥⇒戸田⇒大瀬崎⇒伊豆長岡⇒原⇒三保の松原
⇒久能山⇒焼津⇒御前崎⇒浜岡⇒浜松⇒伊良湖⇒田原
現在(宿泊)地 田原市・道の駅「めっくんはうす」
道の駅(R) 田原市・「めっくんはうす」
温 泉 伊豆長岡「あやめ湯」
名所・旧跡 伊豆・堂ヶ島 恋人岬 伊豆長岡温泉千本松原松蔭寺
由比海道、三保の松原久能山東照宮、焼津の松並木、
御前崎浜岡砂丘浜名湖伊良湖崎 

写真集T

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 656 今回入油 36.6 本日支出 1189 本日支出 4755
昨日表示 310 前回累計 0 前日累計 2278 前日累計 0
走行距離 346 今回累計 36.6 本日累計 3465 本日累計 4755
総距離  

西日本編   2日目:PartT(松崎、土肥、戸田)  PartU(伊豆長岡、沼津、蒲原)へ 
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白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)

「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」

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写真:道の駅の「花時計」

日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎の町並み」



引き続き西伊豆・「松崎」について・・、

第一日目のためか、やや緊張気味で早朝4時半には目が覚めてしまった。
ここは、松崎より少々内陸へ入った大沢温泉の「道の駅」である。  

明るくなった朝のしじま(静寂)中、公園に出て深呼吸を二つ、三つ・・、空は高曇りで雨の心配は全くなさそうだ。 

大きな花時計に立って様子を覗う、白い長短の針の上を赤い極細の秒針が絶え間なく時を刻んでいる。 
特に、文字盤には数字といったものは無く、それでも凡その時間は読み取れる、まだ五時まえである。 
眠気覚ましに道路へ出てゆったり散歩を楽しむ。
時おりフルスピードで車が横切る、そろそろ頭のほうも冴えてきたようだ。 
花いっぱいの公園としゃれた花時計をカメラに収めて、いざ出発とする。
松崎の町はまだ眠りの中にあるようだ。
しかし、漁業関係者であろう、例の軽トラックが行き来している。 


西伊豆の松崎は温泉と観光と歴史の町だが、漁業の町でもある。 
岩地・石部・雲見を中心とした水産漁獲は、宿泊・観光施設との連携によるところが大きいようだ。
特に駿河湾に生息するタカアシガニは西伊豆の特産品で、足をひろげると、なんと3メートルを超えるという世界最大のカニである。
今では、かなりの高級品らしいが一度は食してみたいもんである。



「入江長八」という人物・・、

松崎には、一介の左官建築職人から絵心を加えた名人、名工となって名を残し、松崎の町並みを一新したという「入江長八」という人物がいる。
入江長八は、江戸末期、松崎に生まれ、12才で左官建築の弟子となり19才で江戸を出て左官の修行をつむが、同時に3年間、狩野派の絵も学び、江戸から明治にかけて活躍し左官の名工と言われた人物である。
左官とは、壁を塗る職人、壁塗りのことでその材料は「漆喰」といわれるものである。 

日本の木造建築の独特の塗壁材料で、消石灰に布のり・苦汁(にがり)などを加え、これに糸屑・粘土などを配合して練ったもので接着効果・施工性、亀裂防止のため“つなぎ”を高めたものである。 
現代風には、石膏・石灰・セメントなどをそのまま、または砂などをまぜて作ったモルタル漆喰をもいう。

代表的な建築物である城郭や土蔵など、伝統的建物に塗られた漆喰壁が広く知られているが、色粉を加えた色漆喰や材料に糊を使わない土佐漆喰など、その種類は多々ある。
漆喰は、勿論、鏝(コテ)で塗り上げるものであるが、「鏝絵」とは、左官職人が鏝を使い、漆喰をレリーフ状に盛り上げ、民家の戸袋や壁、母屋や土蔵の妻壁や持ち送りに絵柄を塗り出したもので鏝絵には家内安全、火災除け、不老長寿といった施主の願いを表現したものであるという。

入江長八は漆喰塗物に、更に装飾的、絵画的な要素を取り込んで芸術性を意識し高めたものといわれる。
松崎の町並みは、「なまこ壁通り」と言って江戸末期頃の建物が並び、火災や保温・防湿・防虫などに役立つと言われ、格子模様が歴史的な古い町並みと調和し、独特の雰囲気を醸し出している。

中でも代表的な建物で、「旧岩科学校」がある。 
明治13年開校という洋風の建築物で、甲府の旧睦沢学校、信州松本の旧開智学校と並ぶ歴史をもち、国の重要文化財の指定されている。 特徴なのが社寺風建築と洋風建築を取り入れ、「なまこ壁」を十分に生かしたものである。

なまこ壁とは、土蔵などの漆喰を風雨から保護するため、平たい瓦を竹釘で打ちつけて並べ、瓦と瓦の間の目地を漆喰でなまこのような形に盛り上げた壁のことをいう。
江戸時代の初め、武家屋敷の長屋や長屋門の壁に使われたのが始まりだそうであり菱形、馬形、亀甲、七宝などの型がある。
 
次回は、西伊豆

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日本周遊紀行(10)土肥 「温泉と金」


松崎を過ぎると程なくして「堂ヶ島」である、新緑の松林越しに深青な海の色が対比をなして実にいい。
西伊豆には珍しく、ニュー銀水、堂ケ島温泉ホテル、小松ビューホテル、アクーユ三四郎といった巨大ホテルが自然にマッチして建っている。
堂ヶ島温泉は、化粧の湯(美人の湯)と言われるように良質の温泉がフンダンに湧出している。 

又、「伊豆の松島」と称され、伊豆を代表する景勝地として知られるように断崖絶壁の奇岩・奇勝と富士の夕日は有名である。 
堂ケ島で一際美景なのが三四朗島であろう、 干潮時になると幅30mの石の橋で陸地と結ばれ、歩いて渡ることができる。 

陸繋島(りくけいとう:砂州によって陸地とつながった島)で、この石洲を土地の人は古くから瀬浜と呼び、海静かな春の干潮の時は磯遊びの好適地となっている。 
洞窟の天井に穴の開いた「天窓洞」に入る遊覧船も人気らしい。
この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われている。
昭和10年の早春、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻が堂ヶ島を訪れた際に詠んだ詩。


『 島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて
               孔雀の色を 我が船に投ぐ
 』   鉄幹

『 堂ヶ島 天窓洞の 天窓を
              光りてくだる 春の雨かな
 』    晶子


堂ヶ島からは国道136は山中へ入る。
トンネルも多い、しかし道路は良質ですれ違う車も無く、快適である。 田子、安良里といった海岸へ通ずる道が時々交差する。 ミニ山岳ハイウェイといったところか。

まもなく宇久須川の河口の小さな平野部に出た。
ひなびた漁港にある穴場的な温泉で、こちらも豊富な湯量を誇る。泉質はリュウマチや神経痛などに効能があると言われている硫酸塩泉で、民宿が主の宿泊施設が多いが、ホテルニュー岡部といった大ホテルも在った。

港から山岳地の仁科峠に通ずる山道がある。
伊豆といえば「海」と頭の中でイメージする人も多いと思うが、こちらは今までの伊豆のイメージが変わるという、西伊豆町にある標高700〜800mの場所に広がる牧場で、宇久須牧場という。 
晴れた日は宇久須の港と駿河湾が一望できる、近くに宇久須キャンプ場も在る。

宇久須の海岸から再び国道は、山地へ入り山際をグングン登る、明るく見通しの良い道で、常時、彼方の海岸線が見えてる。
上りきった辺りにかなり大きく、立派な施設のある展望台へ来た。
「恋人岬」とあった。 

さすがに展望抜群で、大海原が眼前に開け、左方角に宇久須の港が見下ろせる。
手形のモニュメントの横に、駅風の案内板があって、

『 ここはこいびとみさき、といおんせんから、つぎはけっこんへ

と掲示してある。 

熟年で一人旅の小生にとっては、いささか苦笑気味であったが・。 


岬の本来の展望台はこの先500m位先にあるようだ、途中に愛の鐘がある。 
若いカップルが、おて手つないで思いに耽り、ゆっくり散策しながら、愛の鐘を鳴らして下さい・・!!


西伊豆・土肥・・、

何年か前だか定かでないが、「上さん」(妻)と土肥周辺を周遊観光した折、泊まった宿屋が「牧水荘・土肥館」であった。 
港よりやや奥まった処の旅館(・・ホテル・・?)で、露天風呂の豪快さに驚いたもんだった。
天然掛け流しの豊富な温泉に、西伊豆随一を誇るといい、数種類の大露天風呂や洞窟風呂に我々はびっくり仰天し、一晩とはいえ大満足したのを覚えている。

牧水荘・・の由来は、大正期、悠遊歌人といわれた「若山牧水」が伊豆周巡の際、この土肥館をこよなく愛し、延百余日に亘って百数十の詩歌を詠み、晩年は常宿としていたことによるという・・。


『 幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
                  はてなむ国ぞ けふも旅ゆく
 』 牧水


牧水の残した、遺作品や遺品が多数、館内に飾ってあったのを記憶している。
四季温暖な気候に恵まれている土肥温泉では、明治以来多くの旅人が避暑、避寒に来遊しており、その中には著名な文人・墨客が宿泊逗留したという。 
大正の頃には牧水のほかに、島木赤彦、与謝野鉄幹晶子夫妻をはじめ倉田百三、三好達治、川端康成、中島敦、井上靖、堀江史郎などが土肥を訪れ取材し、土肥を背景にした作品を作り出し、文学で見る近代土肥温泉の歴史でもあったという。


もっとも、「土肥」が最も賑やかになったのは、「土肥金山」が発見され、採掘による事業振興があったからだ、ともいわれる。

室町初期に発見された金山は、江戸時代に第一期黄金時代を、明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山である。 
推定産出量は、金40t、銀400tといわれ、 昭和40年に閉山している。 
坑道の総延長は述べ100km、海底180mまで掘り起こしているという。

一般に、金・1g採取するのに金鉱脈の岩石350kgを掘り出す必要があるといわれる。 
金鉱岩石は掘られた後、微細に砕かれ、水洗いし、選別される。
これを何回も繰り返して金の粒子を取り出し、その後、高温の炉で精錬される。 
純金(99.99%、一般にフォーナインと言っている)40t採掘するのに、どの位の金鉱岩石を掘り出したか計算して戴きたい。

今は観光用として利用され、江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしている。 
因みに。現在まで世界各国で掘られた金の全採掘量は、概ね 25mプール一杯分だとか・・?


我が家に1kg(三菱M製)の金のインゴット(純金塊)2個所有しているが(これは内緒・・?)、こちらの黄金館(資料館)には 250kg(三菱マテリアル製)の大金塊が展示してある。 

現在の金相場を1g=1500円として、・・??、世界最大の金塊としてギネスに登録されているとか。 
尚、この資料施設を運営しているのは土肥マリン観光株式会社というが、実質、資本経営(親会社)は三菱M、つまり三菱マテリアル(株)という非鉄金属の製錬、金属加工の会社である。

「土肥・とい」という地名は、その昔伊豆の先住人達が温泉が土中から沸き、金が産出される二毛作・・?に適した肥沃な土地であることから、「土が肥ゆる」で土肥の字があてられたともいわれる。


土肥の山中に中村という在郷がある。 
平安期、相模の国の湯河原は「土肥の郷」といわれ、郷主・土肥 実平は頼朝時代には信頼厚い側近であり、 実平は桓武平氏の中村氏の嫡流と言われる。
その祖先は西伊豆の土肥の庄ではないか・・??と一部いわれるが・・史実としては未だ確認されてはいないという。

現在、土肥は行政上の呼称は土肥町とは呼ばない。
政府指令の平成の大合併において、早々、2004年 4月1日- 静岡県田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町それに土肥町の4町が合併して、「伊豆市」として市制施行している。 
因みに行政名は土肥支所になり、本庁市役所は修善寺(旧町役場)になっている。

次回は「戸田」の造船

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日本周遊紀行(11)戸田 「造船と日露友好」



戸田には、思いがけない歴史の一頁が有った・・、


国道136号線は土肥からは中伊豆の湯ヶ島から伊豆中央道(下田街道)にも通じている。
小生は、土肥からの海岸沿いの県道17号(沼津土肥線)で大瀬崎へ至ることになる。 
この辺りは、本州にも近い伊豆半島の付根付近に在りながら、急峻な山岳地であるため近年まで陸の孤島的存在であった。 
車道陸路が通じるのは近年の昭和に入ってからで、尚、暫らくしてからのことであった。

この日は平日とあって道は交通量は少ないものの、九十九(つづら)折れが多く極端に狭い所もあり、対向車には充分注意しながら舟山の展望駐車帯に着く。
本来、富士の展望が秀麗なところだが、今朝は薄雲がその姿を隠している。  



七曲を繰り返しながら、戸田の小さな港へ着いた・・、
 

波止場に面した処に、程よくコンビニ(ヤマサキ)があって、戸田の美しい港を見ながらの朝食となった。御浜岬の先端部の真っ赤な鳥居が印象的である。

小生個人的には、「戸田村」は西伊豆では最も好きな地域であった。 
東名高速を使うと、比較的短時間で行けるし、港や顎の形をした静かな御浜湾と御浜岬は、美景であり心が和む。 
子供達が未だ幼少の頃、夏の時期に何度も訪れたことがあり、御浜の白い砂浜での海水浴は実に良かった。


ところで、「戸田村」は最近までは、伊豆半島、そして静岡県として唯一つの村域だったが、平成の大合併で無理やり・・?、沼津市と吸収合併されたようである。
尚、今般の平成の合併劇で「村」が、隣の町や市と吸収合併されて、どんどん姿を消しているという・・!!。
しかし、中には行政上、何とか遣り繰りして村を存続させる、或いは、「多少の財政上の困難さを覚悟しても、おらがの村はそのまま残すんだ・・!」という声も聞こえる。

更に、地方の何処かの「村」は、合併して本来は、町か或るいわ、市に昇格せれるべきところを、わざと村(むら)として存続させた・・!、という報(しらせ)を聞いた事もある。


その行政の長が曰く・・、


『 今、「村」は貴重な自然豊富な地域なのであり、素朴な人々が住む桃源郷のようなものである。 村は、風土的にも日本の原風景でもあり、貴重な自然遺産でもある。その貴重な「村」という名目が、行政上の損得勘定で無くなってしまうのは、いかにも残念である 』・・と、 
合併相手の町長もしくは村長も、その意を汲んで「村」として新たに発足したという。  

合併しても尚且つ、本来町以上の行政組織に成るところを敢えて「村」とした、その行政の長に改めて敬意を表したい。


尚、「村」としての行政上の立場は、憲法に基づく地方自治法においては「村は地方公共団体の一つで、都道府県と対等の関係にあり市・町と並立する」としている。
「村」の読み方を「そん」「むら」のどちらになるのかは各自治体で規定しており、「そん」で統一されている県、「むら」で統一されている県、「そん」「むら」が混在する県があるという。

因みに、行政単位の「村」がない都道府県は西から長崎県、佐賀県、山口県、広島県、兵庫県、愛媛県、香川県、福井県、石川県、滋賀県、三重県、栃木県そして静岡県である(2008年4月現在、13県)。

その静岡県は2005年4月、「戸田村」が沼津市と合併したことから村としての歴史に閉をじ、村の無い一県になったのである。



この静かな戸田の村に、江戸末期、意外な歴史があった・・!!。

江戸末期、この戸田の港にロシア人が大挙して訪れ、その後、この港でこれらのロシア人を帰国させる為に、日本で初めての洋式船「戸田号」が完成し、無事ロシア人を祖国へ送り届けたという・・!、 ロシア人・47人の命を・・である。

1854年、ロシア使節・プチャーチンが、日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。
(この項は先般「下田」の項で述べた)
だがこの年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲う。 
後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして呑み込み、被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い大惨事になった。

津波によって生じた渦巻きによりディアナ号も大破してしまい、その時に、亡くなった水兵の墓は今も下田・玉泉寺の敷地内に残っている。 
損壊したディアナ号は、船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、取り敢えず修理をする為の港を捜していた。 
当時、ロシア軍艦は海外事情のため下田港に長期間停泊することは出来なかった。
その為近くの、伊豆半島の港を捜していた。 

そんな時に湾が入り江を成して、しかも三方が険しい山に囲まれ、情報が漏れにくい戸田湾を選定したという。 しかもこの戸田村を探し当てたはロシア人という。

そして、ディアナ号が下田から自力で戸田に向けて出航したが、途中、駿河湾で座礁し、さらに曳航中嵐に遭って、現在の富士市の富士川河口付近の三四軒屋(現富士市三四軒屋)沖で遂に沈没してしまう。 

この時、ロシア人達は三四軒屋から、収容施設の整った戸田村に徒歩で一泊二日の行程で整然と並んで戸田村にやって来たという。
(ロシア人達は船は懲りたので、駿河湾岸を歩いたともいう)

因みに、富士市五貫島の「三四軒屋緑道公園」の一角にディアナ号の錨がある。 
全長4メートルの大きな錨と並んでプチャーチンの提督像が立ち、この地がディアナ号ゆかりの地であることを今に伝えている。昭和51年8月に三四軒屋沖の海中から引き揚げられたものであるとか。


その後、ロシア人が帰国する為の船の建造が急がれた・・。


戸田号はロシア人が帰国する為の船であり、津波の影響で結局、駿河湾へ沈んでしまった軍艦・ディアナ号の代替として造られた。 
はじめは言葉の障害もあり、大変な難工事だったという。

ロシア人は早く帰りたいと願い、日本の船大工も職人の誇りを掛けて外国へ安心して航海できる丈夫な船をとの思いが通じ、僅か、三ヶ月で出来あがったという。
この時出来上がったのが、日本で初の洋式船舶であったという。 


そして、「戸田号」は戸田村を出航した・・、

太平洋から津軽海峡を渡り、樺太のアムール川をさかのぼり、後は歩いてサンクトペテルブルグまでプチャーチン以下47人は無事に着いたという。


この地の船大工による洋式造船技術を習得したことが、後の日露戦争、太平洋戦争、そして戦後まで続く造船大国の礎となったともいわれる。 
第一号として洋式船・戸田号が完成して以来、その後何と同型艦が11隻も作られ、開国要求のために当時の鎖国体制を破って入港してくる諸外国の艦船に対する守りとして、全国に派遣されていったことは余り知られていないという。 

そして、石川島、三井、三菱などの現在では世界に名を轟かせている造船会社も、発足当時は、この地の船大工職人の獲得に凌ぎを削っていたという。


戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言うところで、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。
そしてその地に、「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」の石碑が立っている。
戸田号を建造した戸田の職人のうちの一人に「上田寅吉」がいる。

洋式船舶の造船技術を会得した彼は後に長崎の海軍伝習所の一期生に入り、平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀を許されたという。 
同期生には勝海舟が居た。
そして咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断している。 

二期生には榎本武楊が居て、後の開陽丸の建造に携わる、間もなく明治維新となり、榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成った。 又、長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。
後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したという。   

「緒明菊三郎」(おあき きくさぶろう)は、戸田号造船時には13才だった。
雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て船舶業て財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造った。 
日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成ったが、お台場の土地を使用出来たのは同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をしといわれる。 
その後、緒明家は静岡銀行を創業しているのである。


プチャーチンは明治天皇から、外国人では始めて最高の勲章を得た・・、


プチャーチンは、明治14年明治天皇から外国人では始めて、日本で最初に最高の勲章・勲一等旭日章を授与している。 
帰国した彼が和親条約の改定や通商条約の締結交渉で、その後、数度来日している。 
その時に、航海中の和船が、時化でカラフトなど北方へ流され、漂流民となった日本人を親切に扱い度々帰国させたといい、その数は何十、何百人とも言われる。 人道上最大の貢献をしたということで、日本で最高の勲章を貰ったのである。


岬の先端、赤い鳥居のある猪口神社の近くに造船郷土資料博物館がある。

安政元年(1854年)に戸田沖に沈没したロシア軍艦・ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船(戸田号)建造の記録が保存展示されている。
又当時、現地で三人のロシア人が死亡したとされ、それらの霊が宝泉寺に眠っている。

戸田町の南外れに、その「宝泉寺」があり、ロシア使節のプチャーチン提督が泊まった寺として知られる。船が完成までの約三カ月間、ロシア船員も滞在し、境内には滞在中に亡くなった乗組員の墓がある。


ところで、今年(2005年)は日露修好150周年記念に当たる。


ロ日友好協会では、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市、国内では下田市、戸田村、富士市の各地で祝典行事が行はれたという。 
戸田村(現沼津市戸田)の海岸に建立されたモニュメントの除幕式、又、下田市の海岸で開かれた政府主催の記念式典には外務省の招待で関係者、山口戸田村代表が出席した。 
この式典には日本側から小泉首相、ロシア側からロシュコフ駐日ロシア連邦大使も出席し、日露両国の恒久的な友好関係の樹立を誓い合った。

「戸田」は日本造船界の礎であり、日露友好関係の原点でもあったのである。
  

「夕映えの丘」の高所から見る、戸田港と御浜岬の景色は抜群であった。

「井田」の村落も美しいところである、額ほどの田んぼの向こうに、ひっそりと集落が並んでいる。
井田地区は「美しい日本の村」景観コンテストで「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したという。

高い位置より大瀬崎を眺めながら駿河湾の内浦を行く。 
今までの山腹道路と違って本来の海岸線を行く、やや入り江になっているため穏やかな海面である。

次回は源氏の故里・「伊豆長岡」  PartU



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