日本周遊紀行


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日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」



義侠に生きた清水の次郎長、こと「山本長五郎」とは・・、


清水へ入った、清水港は近代的な築港埠頭が並ぶ。
往時の清水港は、三保の岬が港まで突き出ていて、美観を呈していたという。


この湊に稀代の侠客・・?が現われた・・、その名は『清水の次郎長』である。

♪♪旅ゆけば〜、
駿河の国に茶の香り〜、
名大なり東海道、
名所古跡の多いとこ〜、 
中で知られる”羽衣の松”と
並んでその名を上げし、
海道一の親分は〜、
清水港の次郎長〜〜♪♪

御存知、お馴染みの、(否・・?今の若い人は、あまり御存知でも、お馴染みでもないかもしれないが)初代広沢虎造の「清水次郎長伝」、サワリ(唄い出し)の一節である。

小生家族、子供が未だ小さかった頃(小学以下)、車で旅行などに出掛ける時に、退屈しのぎに『清水次郎長伝・ 石松金比等羅代参,石松三十石船』の長編カセット一式を持って、聞きながら道中を行くのである。 

はじめ子供達は「なんだ、このペンペン・・、つまんないよ・・」と言いつつ、知らずのうちに聞き始まり、うるさかったのが静かになって、やがて聞き始まっていた。 
そのうち覚えて、一緒になって唄いだす始末である。 そして遂に「お父さん、れいのカセット持った・・?」などと催促されるまでになってしまったのである。
特に、子供達の評判が良いのは、やはりこのあたりであった・・、

“ 森の石松が代参すまして・・、行く先々で好きなお酒を飲みながら、無事に讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めるまでは順調であった。勤めをすませて大阪へ戻り、八軒家(今の天満橋あたり)から船に乗って京都伏見までの船旅となる件(くだり)である。当時の川船が,いわゆる三十石船で,この部分が表題になっている。 ”

石松 「呑みねえ,呑みねえ,鮨を食いねえ,鮨を・・・・もっとこっちへ寄んねえ、
     江戸っ子だってねえ」
船客 「神田の生まれよ」
石松 「そうだってね,そんなに何か,次郎長にゃいい子分がいるかい」
船客 「いるかいどころの話じゃないよ,千人近く子分がある.そのなかで代貸元を
     つとめて,他人に親分兄貴と言われるような人が二十八人,これをとなえて
    清水の二十八人衆・・・・・この二十八人衆のなかに,次郎長ぐらい偉いのが,
    まだ五,六人いるからねえ」
石松 「ほう,呑みねえ,呑みねえ」
船客 「神田の生まれよ」

  ・・・・



「浪曲は心の故郷、大人の子守唄」・・、

昭和の良き時代は浪曲(浪花節・・)全盛であった。 
中でも「虎造節」とまでいわれた、「清水次郎長伝・ 石松金比羅代参」は一世を風靡したのである。
ここで浪曲の事を語るつもりは無いが・・、清水次郎長のことである。


清水次郎長は1820年1月1日、静岡県清水市の船頭の家に生をなし、長五郎と名付けた。 
後に山本家に養子にゆく、そして、次郎長と呼ばれるようになった。 
当時、元旦生まれの子は、よほどの偉人か、悪人になるという言い伝えがあったようである。 
確かに、次郎長生涯の前半は、ヤクザの親分として森の石松代参事件や吉良の仁吉の荒神山の争いなど、虚実おりまぜて語られてきた。 
遊侠の徒、裏街道の人性としては「悪人」(悪い人の意味ではない)の部類に入るかもしれないが。


維新に貢献した清水次郎長・・、


幕末動乱期、官軍は東海道を上り、江戸の総攻撃をもくろむ。 
江戸城城代「勝海舟」は、それを阻止すべく側近の「山岡鉄舟」に密書を授け、官軍総督・西郷隆盛の元に派遣する。 
この鉄舟の道中の護衛役を次郎長が果たす、江戸戦争回避に一役かったのである。 
以降、次郎長は、山岡鉄舟によって苗字帯刀を許され、この東海道の取締方に任ぜられてる。

次郎長はその後、咸臨丸事件の収拾や維新後の清水の発展に多々貢献をする。 
三保の新田開発、巴川の改修(次郎長生家のすぐ前)、油田開発、英語学校の設立、又回船を蒸気船にし、海運会社の設立等・・。中でも有名なのは茶畑の開墾事業である。

これには、次郎長自らも鍬をふるい、昔の子分衆たちも次郎長を慕って集まり、一緒に原野を耕してたという。 
全国の家庭に、そのお茶が届けられている。
このように後半生は偉人としてその名を残している。


因みに咸臨丸事件とは・・、

戊辰戦争もほぼ終結し、官軍勝利におわった。 、
品川沖に集結していた幕府艦隊は、これを嫌って脱走してしまう。 
咸臨丸は、途中故障し損傷して脱走不可能と判断され清水港へ入った。 
追手の新政府の討伐隊は清水港の咸臨丸めがけて攻撃し、斬合いが始まり、あっけなく勝負がついた。 

政府軍は、艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。 
討伐隊が去って数日、港は死臭でたえられなくなったという。
討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。 

賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされ、付近住民は誰も恐れて手を下さなかった。 
清水次郎長は、港内各所に流れついた死体を夜になって集め、こっそり無縁墓地に葬ったという。

死体収容にあたり、次郎長は・・  

『 人の世に 処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ、若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや 』

と言ったと言う。

後に、山岡鉄舟がその志に感じ入り「壮士墓」と書いて与えたという。

清水の次郎長が人を引き付けるのは、前半生の侠客としてであろう、義理と人情の世界に生きた人間味溢れるところであり、日本人の原点がここに見出せるからであろう・・? 
ここが講談や浪曲によって語られ、表現されている所以である。


昨今、大衆娯楽芸能で漫才や落語はもてはやされているが、残念ながら、講談や浪曲は下火である。 

誰かが言っていた・・、

浪曲は忘れられている。 かってあれだけ誰もの心をとらえ、鼓舞し、われわれ日本人の中にある「にっぽん」を作り上げてきた、その途方もない力をなぜかみんなきれいさっぱり忘れている。 浪曲に対して、われわれ日本人は恩知らずである」・・と。

明治26年、74才で大往生をとげた次郎長は大政小政たちと一緒に、市内・梅蔭寺に眠ってる。 
境内には、次郎長愛用の品々を展示する記念館もある。 現在、市内には「次郎長通り商店街」があって、年に一度の「次郎長祭り」に、この商店街を次郎長一家28人衆が練り歩くという。 
ごく近くに梅蔭寺がある。


平成15年(2003年)4月1日、清水市は静岡市と合併し、新静岡市として吸収されてしまった。 
清水市としての由緒ある名称が又一つ消えてしまたのであり、御大・清水の次郎長は、妙にも「静岡の次郎長」に成ってしまったのであろうか・・??。

旅姿三人男

清水港の名物は
お茶の香りと 男伊達
見たか聞いたか あの啖呵
粋な小政の 粋な小政の
旅姿
富士の高嶺の 白雪が
溶けて流れる 真清水で
男磨いた 勇み肌
何で大政 何で大政 
国を売る
腕と度胸じゃ 負けないが
人情からめば ついほろり
見えぬ片眼に 出る涙
森の石松 森の石松 
よい男

次回は「三保の景勝」

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日本周遊紀行(15)清水 「三保の松原」




写真: 「三保の松原」は駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地



清水の街から国道149で三保の分岐へ出る、そして羽衣伝説の「三保の松原」へ向かった。
案内に従って進むと「御穂神社」が在った、緑に囲まれた静寂の地に立派な拝殿、本殿が鎮座している

御穂神社は大国主命が姫(三穂津姫命)と羽車に乗り、東方へ新婚旅行に来た際、景勝の地で海陸の要衛でもある三保の浦に降臨して、我が国土の隆昌と皇室の繁栄とを守るため、三保の森に鎮座されたのが起こりという。

三保(清水市)は、歴史的には、『白村江の戦い』(はくすきのえのたたかい・663年、北九州の項で詳細記述))に古代清水から出兵した「庵原の君」の根拠地としての伝承もある。
日本書紀には663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
当地は、昔は「庵原郡」(いはらぐん)と称し、律令制が確立する前は廬原国造の本拠地で、ほぼ現在の静岡県中部地域を支配下に置いていた。
現在も、富士川、由比町は庵原郡に所属している。

又、戦国時代からは武将の戦略の拠点として今川氏や武田信玄、徳川家康も海上交通の拠点としていた地である。

そして古代より「御穂神社」は海の守り神、海の神として尊崇されていたという。
一般民衆よりも三保大明神として親しまれ、両神(三穂津彦命・大国主命)は国土開発の神様であり、又、二神は夫婦和合の縁結び、航海安全、農漁業、文学や歌舞・音曲の神としても仰がれている。
神社正面より海岸へ向かって、松樹の道が整然と延びている。 この道は「神の道」と称している。 
きっと、両神がお渡りになった道なのだろう。 



三保の松原と羽衣の松・・、

「羽衣の松はこちらでよろしいのですか・・?」
「はい・・、車を置いた、すぐ先にありますよ・・」 

整備された緩やかな階段を行くと、品のいい松の林が広がっていた。 
気が付くと、処所で中年の女性たちが、熱心にキャンパスに筆を入れていた。
そして「羽衣の松」は、海岸近くに柵に囲まれて堂々と貫禄充分で有った・・が、 650年という歳月を背負ってか、幾分、老衰気味であったのがやや気掛かりである。
ベテランの樹医の下で、充分な生気を取り戻して欲しいものである。

大正時代に選定された新日本三景には、大沼国定公園の「大沼と駒ヶ岳」、耶馬・日田・英彦山国定公園の「耶馬渓」、そしてもう一箇所が冨士を背景にした「三保の松原」が選ばれている。


因みに他の三景について・・、


「大沼と駒ヶ岳」は、北海道南西部の渡島半島東側、亀田郡七飯町にある湖で、大沼湖畔と駒ケ岳が大沼国定公園に指定されている。 
湖は、駒ヶ岳の噴火時に発生した山体崩壊によって川の流れが止められてできた堰止湖で、湖内には大小126の島々が、また周辺には蓴菜沼、長沼、円沼などの湖沼が点在する。
北海道では比較的早い時期に開かれた観光地で、1855年の箱館開港に伴い大沼一帯が外国人の遊歩地区とされ、1905年には北海道庁の庁立公園となった。

「耶馬渓」は九州北東部にある国定公園で、大分県、福岡県、熊本県にまたがり、耶馬渓、及び英彦山が指定区域となっている。耶馬渓は頼山陽によって天下の奇勝とされ名を轟かせた景勝地であり、「競秀峰」などを見所とする国内有数の渓谷が連続する。
上流には異なる景観を誇る深耶馬渓、裏耶馬渓、奥耶馬渓などがあり、古来耶馬十渓が知られてきた。
英彦山は北九州の最高峰であり、古くから霊験あらたかな山として修験道の聖地である。
現在も手付かずの自然林が残されており、また山頂には英彦山神宮が鎮座するほか、周辺は神仏習合の名残を残す古刹や三千を越すと言われた修行僧の「」(僧の住まい、宿坊)の跡が点在している。



天の羽衣伝説・・、


それと「三保の松原」は福井県敦賀市の景勝地・「気比松原」 (けひのまつばら)そして「虹の松原」(佐賀県唐津市の唐津湾)と共に日本三大松原の一つでもある。

又、「天の羽衣伝説」は三保の松原以外の各所にも残っている。 
余呉湖(よごこ:滋賀県北部、伊香郡余呉町および木之本町にある湖で、「よごのうみ」とも読む。
日本最古とされる羽衣伝説の地として知られる)や京都峰山(近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる)、千葉・佐倉等でもあるようだ。 

佐倉の天女伝説 は・・、
平将門が佐倉の「おもが池」に赴いたとき、一人の天女が羽衣を脱いで遊んでいた。将門は羽衣を奪い取り、天女を連れ帰って契りを結んで三人の子を生ませた。その後、天女は羽衣を取り戻して天に帰っていった。しかし、さすがに子を思う情は尽きず、三通の便りを送ってきた。それは月に星の備わった石(千葉石という伝承がある)に便りを結びつけて、天から降らしたという・・』

駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地、其れに羽衣伝説も加わっての「三保の松原」は古今、名勝の地である。

次回は駿府(静岡)と家康

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日本周遊紀行(16)静岡 「駿府と家康」



駿府・久能山と家康・・、


再び国道150を行くことになる。
久能は石垣いちごの名産地であり、この街道、通称「いちご街道・いちごライン」と呼んでいる。 
今年(2006年)の早春、孫の家族と一緒に当地へ来てイチゴ狩りを行なっていて、「ストロベリーフィールド」という農園を訪れている。 

後で知ったのだが、この農園は、昭和初期より皇室御用立てであり、けっこう文化人らが来園していたらしい、特にヘレンケラー女史(米国の世界的な教育家・社会福祉事業家)が来園していたことはビックリであった。
入園料を払って、指定されたイチゴ畑へ行くと、そこははかなりの急傾斜地で、ビニールハウスが階段状に並んでいて中へ入ると、ほんのり暖く、イチゴの甘酸っぱい香りが鼻に響く。 
石垣にぶるさがった青い葉の間に、大粒の真赤に熟れたイチゴ実が食欲をそそる。 
摘んで頬ばると本当に甘い、実に旨い、この味はスーパーでのイチゴでは味わえない美味であった。


当時を思いながら、久能山へ向かう。
海岸線の真近をR150は行く、太平洋・駿河湾の青蒼が目に沁みる。 

やがて「久能山東照宮」の大きな案内板に従って、右方角へ行くと立派な鳥居に突き当たった。 
東照宮の海側の参道入口で、久能山東照宮は山の上に在る、と聞いていたので、これより階段の上りとなる。
手前に、階段の説明があり、覚悟の数字が記してあった、1159段(いっぽいっぽごくろうさん)。 

先ずは、歩を進める、 それこそジグザグの”つずら折り”の登りで、下界の視界が徐々に広がってくる。急ぎ足で15分くらいか、宮の入口へ到達した。 

受付が有って、参拝料が必要らしく、小銭の用意が無く、無文の小生は仕方なく受付で案内書を戴き、周辺を見物して、元来た道を引き返した。
 

徳川家康は1616年、73歳で駿府城で死去している・・、


遺言によりこの地、久能山東照宮に遺骸が埋葬された。
久能山は、「あたかも桶を伏せたるが如く」といわれるような、断崖に囲まれた天然の要害の地である。

奈良期(世紀600年頃)、久能忠仁によって開かれ一寺を設けたといわれる。
久能忠仁(くのうただひと)は、秦(はた・・はだ)久能忠仁とも言われ、秦氏の直系一族である。

秦氏は古代、中国からの百済を経て日本に渡ってきた渡来族であり、秦始皇帝の後裔とされる・・が、確実性は疑問ともされているという。 

百済から渡来帰化した数多い渡来系氏族の中でも多くの人員を擁した集団で、全国規模に分布したとされる。 
秦集団は養蚕・機織製品の貢納から、土木・建築を含め活動を拡大し、様々な国の事業に加わり、朝廷内の諸宮司にも進出したとされる。
6世紀後半から7世紀にかけ山背(山城=京都)の太秦(うずまさ・京都太秦撮影所付近で、隣地・広隆寺)に本拠地を置き、氏の族長的人物は「秦河勝」であった。
静岡県では、大井川右岸榛原郡初倉村(現、島田市初倉)に秦一族が居住繁栄したともいう。


秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。


彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られる。 
久能忠仁は、その秦河勝の子、又は孫とされている。

寺名を補陀落山・久能寺と称し、久能山の名称もこれから起こったといわれる。
その後、僧・行基を始め、多くの名僧が訪れ住み建物寺院の数も一時は330坊も建ち並び、隆盛を極めたという。

永禄11年(1568年)武田信玄が山上に城砦を設けて久能山城と称し、東の北条氏、西に徳川氏への備えとしていた。 
武田氏が滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有することになるが、家康は死の真際に望んで、西の諸大名が異心を抱き、謀反など発起させぬよう、睨みを効かす為に険峻高地の久能山に菩提寺を選び、亡骸を西側に向かせて葬るように・・、と遺言したという。


家康の権号、「東照神君・東照権現」・・、


二代将軍秀忠により、権現造の極彩色で造営された社殿は、荘厳な雰囲気で見る者を圧倒するという。
本殿、拝殿等の社殿は権現造、総漆塗り、極彩色に彫刻、模様、組物は桃山風の技法を施し、江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されている。

又、楼門、神厩[うまや]、神楽殿等、重要文化財が立ち並ぶ。
家康公は後に「東照神君・東照権現」となり、平和、開運、学問、厄除の神として崇められ、全国東照宮の根本大社として幅広い崇敬を受けている。
祭神は「正一位 徳川家康公」、相殿に「正一位 豊臣秀吉公」「正一位 織田信長公」を祀る。正一位とは平安期、律令制における官位のことで、いずれも天皇から授かる。一から五位まで正と従があり、正一位は最高官位である。

20年の後に、三代将軍家光によって、御霊[みたま]は日光東照宮へ移された。
 
ご存知、三者を現した句に・・、


『 啼かぬなら 殺してしまえ 不如帰 』  信長
『 啼かぬなら 啼かせてみよう ホトトギス 』  秀吉
『 啼かぬなら 啼くまで待とう ほととぎす 』   家康

天下統一を果たし、270年にも及んだ江戸幕府を開いた家康は1542年、当時、松平氏として岡崎で生誕している。 幼少時分は苦労の連続で今川氏の駿府城下、家康は今川家の人質として19歳までの12年間を過ごしている。
不自由な生活に耐えることで忍耐強い性格がここで形成される。

織田信長の台頭により岡崎城主として復活している。 
後に浜松に城を移し、城主となった1572年、上洛中の信玄に「三方ヶ原の戦い」で大敗を喫する、家康初の敗戦である。 
その後、織田信長、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と手を結び次第に勢力を伸ばしていった。

両氏亡き後、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の合戦」で、徳川東軍を勝利に導き、更に、豊臣遺子(秀頼)を「大阪の陣」で滅亡させる。
1603年、江戸に幕府を開き徳川政権下、征夷大将軍になったが、わずか2年で秀忠に将軍職を譲り、駿府に戻って大御所と呼ばれるようになった。
晩年になって、天下統一を果たした家康は、忍従と波乱に満ちたの一生であったといえる。


家康公の遺訓として・・、


『 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。 堪忍は無事長久に基、怒りは敵と思え。 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る、己をせめて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまされ 』


『 人はただ 身のほどを知れ 草の葉の
                    露も重きは 落つるものか
な 』  家康


1541〜1616年、75歳の生涯を駿府(静岡)で、その幕を閉じている。


静岡駅前の中心地に駿府城・史跡公園が在る。
駿府城は、中世(南北朝期)清和源氏・足利一族の名門である今川氏によって、この地に今川館が築かれたが始まりという。 
織田信長、武田信玄、徳川家康の侵攻で今川氏滅亡と共に、一旦失われたが、その後、駿河を支配した家康によって築城されている。

戦国末期、秀吉が天下統一の総仕上げに小田原・北条攻めを実行する時、この駿府城で家康と談義し・・、北条亡き後、家康は江戸に封じられることを知らされる。 
駿府城は秀吉傘下の中村氏(秀吉の譜代家臣、一氏、一忠)が入城する。
秀吉没して、関ヶ原の合戦の後、再び徳川家が領する。

江戸初期には、大御所となって駿府に隠居した家康によって大修築が行われる。
城の構築は、家康自ら名だたる諸大名に普請手伝いを命じた。 
御殿の設計は、小堀遠江政一(建築、造園の大家・小堀遠州)、設計者も大工も共に、名古屋城と同じ人であり、出来栄えも名古屋城と同じだったという。
城郭・五重七層の大天守閣が慶長12年(1607年)に完成している。この大御所政治時代、城下町・駿府は、政治・経済の中心地として大いに繁栄した。
 

国道150から静岡市内への途中、東名高速を過ぎた所に有名な「登呂遺跡」がある。 
戦中の昭和18年発見され、終戦後昭和22年から大規模な発掘調査が行われた。
この遺跡は弥生式文化の後期集落遺跡であり(2000年前)、古代日本の地方農村の状態を知ることができる貴重な遺跡であるという。

その後、昭和41年、東名高速道路の工事のため再発掘調査も行われた。
「特別史跡」に指定、現在「登呂遺跡公園」として保存されている。 
尚、この遺構発掘は、青森・三内円山遺跡 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡:我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代・ 600 年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっている)、発見のさきがけにもなったとされる。


静岡の西に「安倍川」が流れる・・。 


普段の安倍川は、広い河川敷には不似合いの極わずかなの表流水が縞状に土砂の間を流れている。本来、安倍川は国内でも有数の急流河川であり、おまけに、日本三大崩れ(富山・常願寺川、長野・新潟の姫川=後立山連峰・白馬連峰の東面源流)の一つの「大谷崩れ」をかかえる川で、源流部は大谷崩と呼ばれる大崩壊地となっている。 

おびただしい量の土砂を流出しているといい清水の三保半島は、この安倍川の大土砂流出によって形成されたと言われる。 
もっとも、現在では安倍川の河川改修が進み、尚且つ土砂・砂利の採取で海への流出が抑えられ、逆に三保海岸・羽衣の松周辺の砂浜海岸の侵食が進んでいるという。そのため沖合いに波浪防止・波消しブロックが投入され、美観と自然防災の、はざ間にたっている、という笑えぬ状況も起きているという。 

又、山麓部の扇状地、即ち静岡平野を作り上げた。 
安倍川の流れが、高い瀬を残して、西へ移って行って、大水の心配の無くなったところに集落・部落が出来、田畑が広がり、人口も増えていった。
それらは弥生期における登呂の遺構に見られ、静岡市発展の大礎になったとも思われる。


2003年4月、静岡市と清水市は対等合併により新静岡市が誕生している。
2005年、静岡市が政令指定都市(人口50万以上の指定都市、現在では12市ある。
府県並みの行財政権をもつとともに、行政手続き上、府県を経由しないで国と直接コンタクトをもてる地位にある)に移行し、清水市域に清水区、静岡市域は葵区、駿河区と区政が設置された。 

尚、来年蒲原町と合併する手はずであるが、飛地の市区域になるのだろうか・・? 間に由比町があり、ここは静岡市との合併は白紙撤回している模様。

次回は「大井川」   PartW(焼津、相良・牧の原、御前崎)へ

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