日本周遊紀行



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西日本編   10日目:PartV(福岡、大宰府)   PartW(大宰府、 能古島)へ
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日本周遊紀行(106)福岡 「海の中道」



海の中道で発見された「漢委奴国王印」とは・・・?、

これから、その「大宰府」へ向かおう。 
待てよ!、その前に「海の中道」に寄る事にしよう。

九州道を、福岡市方面へ暫く走る。
古賀I・Cから一旦国道3号線へ下りて、「海ノ中道」の標識に従って進むことになる。 
「和白」という交差点を左折すると、中道半島へ進むはずであるが一向にそれらしい気配は無い、普通の住居地域なのである。 
JR香椎線がすぐ横を走っていて、雁の巣という所を過ぎたあたりから漸く、それらしい雰囲気になってきたようだ。
右手に大きく砂丘が広がり玄界灘の波頭が洗っていて、なかなかの風景である。左側は防砂林の松の青が目に心地よい。

間もなく緑の絨毯が敷き詰めた様な巨大な公園が出現した、「海ノ中道海浜公園」である。 
約200万uと言われる広い公園には、四季折々綺麗な花が楽しめるフラワー園やチョッとした動物園、観覧車、ジェットコースター、サイクリング等、なんでも有りのようである、マリンワールドやサンシャインプールは夏の時期は楽しみだろう。 

また、大芝生広場をはじめ、園内には様々なスポーツを楽しめる場所も一杯である。
家族で1日中遊んでも、まだまだ遊びきれないほどの広大で多種な施設が揃っている。
近辺の人々が羨ましいほどである。ここは国営の公園であり、「海ノ中道海浜公園」は九州で唯一の多機能公園で、かって米軍が占領していた地域を解放して、その後、国営公園として整備したところであるらしい。

この10kmにも及ぶ細い半島の先端は、「志賀島」という有人、生活のある島である。 
島までは砂州により本土とは陸続きになっている。この現象を陸繋島(りくけいとう)といい全国的にも珍しい現況だという。 陸繋島とは、沿海流が砂を運んできて長い砂浜の岬ができた状態をいう。干潮時に海の中に陸を作ってしまうのを「砂嘴(さし)」ともいい、天橋立のように砂嘴が発達して、対岸まで到達したのを「砂州(さす)」という。 

これら「砂州」や「砂嘴」が、元々島だった所にくっついてしまって陸続きに成ったのを「陸繋島」と言うわけである。 
この砂州部分、つまり「海ノ中道」は「「陸繋砂州」と言いい大変珍しい地形で、志賀島のほかには和歌山の潮岬、秋田県の男鹿半島、北海道の函館山などがそうらしい。

志賀島には三つの集落がある。 
海の中道から志賀島に入る道のある南東部にあるのが「志賀地区」、西部にあるのが「弘地区」、北部にあるのが「勝馬地区」であり、志賀と弘には小さな漁港もある。


「漢委奴国王印」とは・・、

この志賀島で江戸期、福岡藩領内の志賀の農民によって、「漢委奴国王印」という刻印のある金印(きんいん=実印)が発見され、極めて珍しいものとして藩庁に届けられたという。

金印とは金でつくられた印章のことで、発見された「金印」は日本の弥生期(西暦57年頃)に中国・後漢で製作されたものといわれる。 
この印章、「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおうのいん:23mm×23mm×厚さ8mm 〔注〕23mmは後漢尺で1寸で、現在の約3.33cmに当たる)は「国主の印章」とも位置ずけられ、後漢の光武帝が、当時の日本にあった小国家の君主に与えたものと見られている。 
かって私印説・偽造説もあったようだが、中国の他の地域からも同様の物が見つかったために、この説は覆されたという。


当時の日本は未だ国家としての体制が無く、九州北部に「筑紫の国」、九州南部は「日向の国」、中国地方に「出雲の国」、「吉備の国」といった地域組織体であった。 
九州地方では、圧倒的に日向の国が最大で、勢力も有ったといわれ、ここに、ある種の「王」とか「統治者」が存在していて、その王(君主)に授けたものと言われる説が有力ある。 「漢委奴国王」は、「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができる。

因みに、現在の日本の国璽(こくじ)、御璽(ぎょじ・天皇の印章:方3寸)は金印で、京都の印章職人によって作成されたという。 

国璽とは、国家の印章として押す官印で、日本では1868年(明治元年)初めて使用されたという。 
現行のものは、1974年に改刻された「方3寸」の金印で、「大日本国璽」の5字を刻す。 
克っては国書・親書・勲記(叙勲者に勲章とともに与えられる証書)などに用い、御璽とともに内大臣が保管していたが、今は勲記にのみ用い、侍従職が保管しているという。
 
次回は、「黒田武士」

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日本周遊紀行(107)福岡 「黒田武士」



酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を・・、

「海の中道」に足跡を残して次に参ろう。
香椎線に沿って先ず戻る、香椎は古社「香椎宮」(応神天皇:宇佐神宮祭神の両親である仲哀天皇、神功皇后を御祭神とする)でも有名である。
福岡市内の渋滞を予想して、市内を縦断する高速1号線の香椎から乗ることにする。 

福岡市と言っても「天神」などを抱える「博多」が中心で、博多という呼称が地元をはじめ世間一般そのようである。市街地には近代的な超高層ビル群も首都圏並みに目立つ。

「福岡」といえば黒田節、黒田武士といえば黒田官兵衛(孝高、如水)、長男の黒田長政であろう。
黒田官兵衛孝高は晩年、福岡城の建設中、太宰府に移り住み、己を水に喩えて「如水」と号した。


『 水五訓 』  黒田如水

一、自ら活動して他を動かしむるは水なり、
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり、
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり、
一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり、
一、洋々として大洋を充たし発しては、蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し、凝っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり。


黒田如水は、豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師である。もともとは播磨の豪族、小寺氏の家老であった。  
この当時、播州の多くの豪族は毛利氏に加担していたが、官兵衛は地方豪族の一家老に過ぎない身ながら織田信長に近づいている。

周囲を敵に回しながらも織田に気脈を通じたのは来るべき織田、毛利の合戦に織田の勝利を確信したもので、先見的慧眼があったともいわれる。
この官兵衛の英知を、既に秀吉は見抜いていたのである。

信長は本能寺の変に倒れ、ほぼ官兵衛の読みどうりに時代は推移した。 官兵衛の情報分析能力は群を抜いていたのである。 
織田軍の中国方面軍司令官と言うべき人物が羽柴筑前守秀吉であった、後の豊臣秀吉である。

官兵衛は秀吉の部下として仕え、中国攻略に活躍する。本能寺の変にて信長が光秀に討たれた頃、秀吉は備中高松城(毛利側)を水攻めの真っ最中であった。 
知らせが届くと秀吉は慟哭して悲しんだ、しかし、そんな秀吉へ官兵衛は言い放つ、「ご運の開かせ給う時なり」・・と。

これは謀反人・光秀を討った者が天下を取る事を指し、同時に秀吉の本心をつく一言であった。


山崎の合戦で秀吉は光秀を討ち天下を取るが、併せて、秀吉は如水の頭脳的先見性に油断ならないものを感じ取り、人物として警戒していた。 
官兵衛の智謀才略を恐れたのである。 
後に、「おれが死んだあと天下を取るのは黒田の“かん”じゃ・・」と秀吉に言わしめた。

黒田官兵衛はこの時の功で、豊前中津藩12万石を有している。
又、嫡子・長政は初陣では毛利攻めで、その後も賤ヶ岳、九州征伐でも功を立て父、孝高(如水)の家督を相続しといる。 
秀吉死後、長政の活躍は父親ゆずりで主に関ヶ原における智謀、調略は有名である。

秀吉亡き後の豊臣家は、武力派と文治派の対立が表面化する。
その武力派の後押しをして豊臣家を分裂させるのが天下とりを画策した徳川家康であり、その家康の後押しをしたのが黒田長政であった。 
長政は加藤嘉明、福島正則ら武力派を家康のもとに結束させ、それが後の関ケ原の合戦の東軍の主力となるのである。 

戦後は筑前、福岡52万石の太守となり、家康の養女を娶って外様でありながらも厚遇を受けている。 長政は父親・如水の智謀を受け、武力をも備えた名将であり、生涯30幾戦で負け知らずを誇ったともいう。

博多湾に望む博多の近隣地である福崎(現、福岡市)の台地に縄張りを決め、1601年から6年の歳月をかけて完成したのが「福岡城」である。 
現在は城跡になっていて、大濠公園のほうが有名であるが。


「福岡」と言えば福岡県、福岡市であるが、黒田氏発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市長船町にある地名で、かつては備前国で中世には吉井川の水運と山陽道の宿場町・市場町として栄えた。
又、長船は、備前おさふね 刀剣の里でも有名)に因んで、長政の命で九州の地に出身地の「福岡」という地名を付したという。 

福岡城は藩祖・黒田長政から城主がかわることなく明治維新を迎えている。
これは、江戸期の改易、廃領が盛んな時期にあっては極めて珍しいことであると・・。


 『 酒はのめのめ のむならば、 日の本いちの この槍を・・、』 


JR博多駅の前に、母里太兵衛(ぼり たへえ)の銅像がある。
母里太兵衛と言えば、後藤又兵衛をはじめ「黒田八虎」と言われる内の一人に数えられ、勇将で槍術にすぐれた武将である。 
黒田長政が秀吉に従って伏見城にいた頃、親友である戦国大名の福島正則のところに太兵衛を使いにやった。
よく来た、さぁ一献つかわそう・・」と早速、酒を勧めてくる、正則も飲み、酔いにまかせ「さあもう一献、この杯の酒が呑めたら、お主の望む品をとらそう」と、五合ほどの酒がなみなみと注がれた大杯をさしだした。
酒豪で知られる黒田氏の武士に正則が酒を勧め、これを見事飲み干したため、褒美に殿様自慢の槍を貰うという逸話である。

この槍は日本号という名槍で、元は正親町(おうぎまち)天皇の所有されていたもので、信長、秀吉の手を経たのち正則が所有していた正則自慢の天下の名槍である。
太兵衛はこの槍をかつぎ、黒田藩歌の「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰っていったという。 

これが後に替え歌となり、現在謡われている「黒田節」に至るという。

この槍は、一時期、後藤又兵衛などの手に渡ったが、その後黒田家へ戻り、現在は百地浜の福岡タワー近く、福岡市博物館の中の黒田記念室で常設展示されているという。

尚、前記の「漢委奴国王印」も国宝に指定され、同様に福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)として常時展示されている。

司馬遼太郎が「播磨灘物語」で、黒田如水の事を書いている。

 黒田節 (福岡民謡)

酒は飲め飲め 飲むならば
日の本一の この槍を
飲み取るほどに 飲むならば
これぞまことの黒田武士

峰の嵐か 松風か
訪ぬる人の 琴の音か
駒ひきとめて 聞くほどに
爪音頻き(しるき) 想夫恋

すめら御国の もののふは
いかなることをか つとむべき
ただ身にもてる 真心を
君と親とに つくすまで



花より明るく 三芳野の
春のあけぼの 見わたせば
唐人(もろこしびと)も 高麗人も
大和心に なりぬべし


古き都に 来てみれば
浅茅が原とぞ なりにける
月の光は くまなきて
秋風のみぞ 身にはしむ


次回は大宰府の「大宰府」

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日本周遊紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」






大宰府は、「天下之一都会也」と称された・・、

福岡高速2号線をそのまま南下すると、間もなく九州道に合流する。
ここは既に「大宰府市」である。

市の西側に大野城市があり、南側には筑紫野市がある。 
市内には、また水城や国分といった地名が残っていて、いずれも古代に名を連ねた地域名称である。 

昨今、由緒ある史的名称が無くなりつつあって、さみしい気になっていただけに嬉しくなる思いである。
大宰府市と云うと、すぐ「大宰府天満宮」を思い起こすが、どっこい、「大宰府」そのものが大いなる歴史の拠点であったことは先にも記した。  

九州を縦断する主要国道3号線が走っているが、すぐ横の旧道を行くと「大宰府政庁跡」が左側に現れた。
今は草生した土面が広く空き地の様になっていて、天気の良い日曜日なんかは家族で野球したり、お昼寝したり、犬を遊ばせたりしている広々とした空間である。 
所々に建物の礎石、基礎石らしいものがぽつぽつと並んでいる。
入口正面には三柱の石碑が建ち、中央には「都督府古址」(ととくふこし)と記されて往時の面影を示している。 

実は「都督府」というのは、日本の役所ではないという。
「都督」という称号は、中国(当時は唐)の皇帝が、周辺民族等の王者に自分たちの領地を治めるための政府を開くことを許す位階だそうである。
中国皇帝の許可を得て自分の幕府を開くようなもので、言い換えると、唐が占領した地に占領後に置かれる統治府を意味する。 つまり、都督府は大宰府の唐名でもあるという。 有名なものに、百済の「熊津都督府」がある
尚、日本(倭国・大宰府)における「都督府」の因果については後述する。

地元の人達は「都府楼跡」(とふろうあと)の呼び名で親しんでいるそうで、無論、一帯は最重要の保存地区である。

古代の大宰府は政庁を中心に、その周辺には官衙域(官庁)、そして東側に学校院、観世音寺を配し、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制を敷いていたと考えられている。 

条坊制とは、中国(唐)・朝鮮半島の王城都市に見られる都市形態で、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路を「」と東西の大路を「」とし、碁盤の目状に組み合わせて左右対称による四方形に都市のプランを形成するものをいう。

大宰府は、八世紀の「続日本紀」にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されている。 
実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されているという。

それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35〜36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右方に位置するいくつかの南北の道路は八世紀頃に成立しているという。 
大宰府の条坊制については未だ全容が確認されていないが、かなり大規模な遺跡であることには確かな様である。
政庁としては、既に、七世紀後半頃から置かれたと想像されていて、奈良期から平安期の凡そ500年に亘って御殿が建っていたらしい。 詳細な全容については、今後の調査に委ねられている。(大宰府展示館や歴史資料館に復元模型あり)

当時の時代背景としては、漸く奈良に平城京を置き、国主が決まり、日本という国の形が出来上がりつつある時期であった。
北部九州の地は日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史上重要な役割を担ってきた。
又、中国の後漢の皇帝・光武帝より、「漢委奴(かんのわのな)国王」の金印が与えられた倭国の時代より、大和朝廷統一後も変りなく、中国、朝鮮半島の情勢を色濃く影響され、その重要さも増してきていた。


「白村江の戦い」の敗戦・・、

その頃の大陸中国は、南北朝時代(5〜6世紀の宋、斉、梁など)、から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。 
建国された「唐」は、国内を統一すると更に領土拡大、覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。
朝鮮半島にも進出しようとし、唐は新羅と同盟し、その連合軍の攻撃によって「百済」は攻め滅ぼされた。

七世紀の663年、百済は当時親交のあった倭国へ救済を求め、倭国・日本はこれに同意して朝鮮へ出兵上陸し、連合して戦ったが(日本では白村江・はくそんこうの戦いといい、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることも多い。)、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。

そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり:古代、筑紫・壱岐・対馬など北九州の防備に当たった兵士、初め諸国の兵士の中から三年交代で選ばれ、のちには東国の兵士が最も強いということで、東国出身者に限られるようになった)と烽(とぶひ・狼煙:古代、外敵襲来などの異変を知らせるために、火を燃やし、煙を立てた施設)を置き、筑紫には大堤を築き「水城」を造る。 又、百済の亡命貴族の受け入れと防衛の為、大野城、椽城(きじょう)などを築くのである。

このような防衛施設の大土木工事が次々と着手される中、これらに守られた地、北部の沿岸より内陸に入ったこの地に「大宰府」が設置されたのであった。 
大宰府は、九州総督府のようなものである。

大野城」(おおのき)は、白村江の戦いで日本が大敗した後、665年(天智4年)、天智天皇の命令により、現在の市域内にあたる大野山(現在の四王寺山)に百済人の設計による朝鮮式山城を築城し、大宰府防衛を図った。 
因みに、市制施行前は「大野」という地名であったが、1972年の市制施行にあたり、すでに福井県に大野市存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城市」という市名にしたという。

水城」も、現在の大野城市から太宰府市にかけて、大野城と同様の目的で古代の防御施設として造られた。  博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために築いたとされ、同様に朝鮮式山城が築かれたとされる。 
用途について単なる城壁ではなく、名前の如く「いざという時に御笠川をせき止めて、外側に掘ってある空堀に敵兵が入ってきた所へ急激にせき止めておいた水を放流して、一気に敵兵を押し流すものであった」とする説がある。 
国指定特別史跡で、いずれも実際に戦いの場となることはなかったが、現在どちらも地名として残っている。

やがて戦禍が収まり、緊迫した中で置かれた大宰府も、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織っも整備され、当初の対外防衛的色彩の濃いものから、外交そして九州全体を治める律令制下の最大の地方官衙(かんが・地方の主要政庁、役所)へと変っていく。

大宰府は、平城京に倣い中心の建物は礎石を使い、瓦を葺いた大陸風の立派なものに変わる。
そこに働く官人は、令に規定されている者だけでも50名に及び、その他雑務に携わる者などを入れるとその数は1000名を超えたといわれる。 
歴史的には、七世紀初めの日本書記に「筑紫大宰府」の名で登場している。

尚、百済と親交のあった時期は、仏教をはじめ様々な文化が百済を経由して日本に流入した。
このような良好な関係から百済と古代日本(倭)は元々同種民族であったとする見方もある。 
いずれにしても、百済滅亡によって百済王と王族、貴族を含む数万の「百済人」が倭国に亡命し、王族、貴族をはじめ技能を持った民達が大勢上陸し、それらの人々は多方面に登用され、朝廷にも仕えたという。
日本は、後に仏教様式の文化が大きく華開くが、渡来人・百済の民の影響力が大きかったことは確かで、九州はその着地点であり発信地でもあった。


「都督府」としての因果・・、

尚、白村江の戦いで「大敗を喫した」倭国は、この時、「筑紫都督府」を置き、唐と百済、倭国の交渉の場とした。 唐との戦後交渉の状況については様々な見解があるが、軍事介入による占領的意味合いは無かったとされる。 
また、唐の侵攻を受けて九州地域が占領されたという史実はなく、記紀にも記されてはいない。 
結果として倭国は唐との講和条件を受け入れたとされる。

しかし、この時、既に唐との関係は従属的な関係になり、唐一辺倒となって唐方式の「律令制度」を始め、何事も中国(唐)を模倣することになったとする。 そして、ついには律令国家を完成させ、見事復興を果たしたとする。
これは、近代戦後の占領下の日本の姿に、ある意味でマッチしているとする史家の見方もあるようだ。


政庁の南側には「榎社」(えのきしゃ)というのが在る。
かの菅原道真(右大臣)が大宰権帥(だざいごんのそち・府政を総監する役で、納言以上の者が多く任ぜられる)として大宰府へ着任、(1種の左遷とされる、)、亡くなるまでの期間(901年〜903年)を過ごした「府の南館」跡である。


ところで、“だざいふ”は「大宰府」と「太宰府」の両用の書き方がある、何故異なるのか・・?、
この地には奈良時代の昔、「大宰ノ府」(おおいみこともち の つかさ)というのが置かれ、大宰とは、官職名として「大宰(おおみこともち)」、つまり天皇大君の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務を司った官人のことをいう。
府は役所のことで、朝廷の出先機関が置かれ、天皇の詔(みことのり:天皇の命令を直接伝える文書、詔書)で動く役所の意味であった。


現在、太宰府市では史跡や当時の役所を意味する歴史的なものには「大宰府」とし、現在の地名など太宰府天満宮や固有名詞の時には、「太宰府」を使用しているようである。 

尚、ワープロで文字検索をすると、二文字が出てくる。

次回は、お待たせ「太宰府天満宮」   PartWへ


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