日本周遊紀行



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日本周遊紀行(108)太宰府 「天満宮と菅原道真」


写真:道真公祭神の「天満宮本殿と飛梅」


「心字池」に架かる三つの赤い橋は、一つ目が過去で、二つ目が今、 そして三つ目の橋は・・、

さて、である・・、
さだ まさし」の「飛梅」という歌は、太宰府天満宮を唄った詩である。
飛梅というのも実際に存在し、天満宮本殿の正面右側に木の柵に囲まれ、小枝を大きく広げて価値充分の「御神木」である。 
大宰府に左遷された「菅原道真」のことを想って、「京の都の梅が一夜にして大宰府まで飛んできたと・・」、という逸話のある年期の入った梅の大木である。


 「 飛梅 」
  さだ まさし


心字池にかかる 三つの赤い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
三つ目の橋で君が 転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指
手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出る迄と も一度引き直したね
登り詰めたらあとは 下るしかないと
下るしかないと 気づかなかった
天神様の細道

・・・・・・・・・・・


或の日と同じ様に 今 鳩が舞う
東風吹けば 東風吹かば君は
何処かで想いおこしてくれるだろうか
太宰府は春 いずれにしても春



『 東風吹か ば匂い遺せよ 梅の花 
                       主なしとて 春な忘れそ 』  菅原道真

(春になり東風が吹いたら、その風に乗せて、花の春を私が流されてゆく西の太宰府まで 送ってほしい。梅の花よ、主がいないからと言って春を忘れてはならぬぞ)


道真が九州の大宰府に流され、その悲しみを庭の梅に寄せて詠んだ歌である。
菅原道真、道真といえば天神様、天神様といえば「梅の木」である。 

江戸・東京、「湯島の白梅」で知られる「湯島天神」は太田道灌が、ここ大宰府より勧進し、天正18年(1595)徳川家康公が江戸城に入るに及んで、特に当社を崇敬すること厚かったという。 
祭祀によって泰平永き世が続き、文教大いに賑わい、学者・文人の参拝も絶えることなく「菅公」の遺風を仰ぎ奉ったという。

「梅」は、その生命力の強さから昔より霊性を持って人を守る花として、大宮人(宮中に仕える都人)に好まれた花であり、中国から伝えられた頃は「白梅」で、奈良期にあっては花と言えば梅を指したようである。

菅原道真は天神様と呼ばれて学問、受験合格の神さまとして親しまれている神であることは周知であり、受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。
若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神を於いて他にはない。


道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人、それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。 
幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文書(モンジョ)博士となる。 
以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で、最高官位である「右大臣」にまで上り詰めた。 

ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。

道真の異例の出世が、権力者・藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言(ざんげん:人をおとしいれるため、事実をまげ、目上の人に、その人を悪く言うこと)によって失脚し、北九州の太宰府へと転勤(左遷)されてしまったのである。 

都を去るとき、道真が詠ったのが、「東風吹かば・・」である。
道真の愛した梅と一緒に、門弟によってその墓所として建てられたのが「太宰府天満宮」なのである。


天才・道真が、怨霊の道真に・・!、

学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、一方、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになる。 
知られているように“神としてのデビュー”してからは、日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊神でもあった。

道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 
京の周辺は疫病や日照りが続き、数年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子もすぐに亡くなり、人々はすべて「菅公」の怨霊の祟りとして恐れた。
極めつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになる。

元々京都の北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神(じしゅじん)が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものと云われる。 
そこで怨霊の怒りを鎮めるため天暦元年(947)、京の地に「北野天満宮」が創祀されたのであった。


元より日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあったという。 
道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるように成ったといわれる。


海の神とか山の神などとは違って天神様にはなんとなく親しみがある。 
やはり人が神になったという事実が一番の要因であろうが、特定の人間が神になった例は、たとえば豊臣秀吉や徳川家康(東照権現)などの政治的実力者をはじめ数多いが、ドラマ性や霊的パワーにおいて道真が代表格でこれに勝るものは無いともいう。
道真の怨霊は、生前の業績がプラスされて更に強力な霊的パワーを発揮し、都の人々が認めたことによって神、天神となったのであった。


社殿、境内は一見豪華といえる楼門と本殿と、それを繋ぐ回廊のみで極めてシンプルである。 
楼門の手前に「心字池」があり、この池に三つの赤い橋が架かり、それぞれ過去、現在、未来を表しているという。
己の心を三つの橋で確かめ、心字池の鏡に映し、清真なる気持ちで御参りすれば天神様の霊力を多いに授かることが出来るかもしれない。


参拝前、個人宅の駐車場に車を預けたが、帰路、運転席の窓ガラスにガムが2個貼り付け置かれてあり、「気を付けて、お帰りを・・」とメモがシタタメてあった。

清々しい気持ちで、天満宮を後にした。

次回は、「元寇」

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日本周遊紀行(109)能古島 「元寇」


日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・・?、

太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 

遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 
能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。

往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。
言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。

能古島は古代から中世、刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば蹂躙され、更に以前の7世紀には、白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。現在の群山付近とされる)において日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところでもある。

能古島の「磯辺公園」の中には「三界万霊」と記した小さな石碑があり、傍に「蒙古塚」と書いた標注がある。  明治年間にこの辺り一帯から多数の人骨が掘り出されたが、人骨は畑のあちらこちらに散在し、放置された状態であるので、元軍(蒙古軍)のものである可能性も高いとされ、無縁仏として祀られたという。


今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。
この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。

元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである。 否、有ったのではなく、今でも有る。 
防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。


さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である・・、

そのころ、元(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 
広大な領土を支配した元のフビライ−ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。

1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。
元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 
浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。
死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。
幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。 
これを「文永の役」という。

この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。

そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 
元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。

一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 
元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 

その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 
遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。 
これを「弘安の役」と称した。


 「元 寇」   作詩・作曲  永井建子 (明治25年)

1 四百余州を挙る 十万余騎の敵
  国難ここに見る 弘安四年夏の頃
  なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
  正義武断の名 一喝して世に示す
2 多々良浜辺の戎夷(えみし)そは何蒙古勢い 
  傲慢無礼もの 倶(とも)に天を戴かず
  いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
  ここぞ国のため 日本刀を試し見ん

3 こころ筑紫の海に 浪おし分けて行く
  ますら猛夫(たけお)の身 仇を討ち還らずば
  死して護国の鬼と 誓し箱崎の
  神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし


4 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
  国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
  底の藻屑と消えて 残るは唯三人(みたり)
  いつしか雲はれて 玄海灘月清し



今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。

糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 
低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。
そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 
この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。


秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 
この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。
これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。


この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った・・、

寛ぐ前に宿の主人が・・、
「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」
と案内してくれた。

願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。「鏡山温泉茶屋・ 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。

広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。
やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 

戻った後のお待たせ料理も七色、虹色に配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  

実に満足、満足・・!!。

次回は、唐津・「唐津城」   PartTへ

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