日本周遊紀行

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紀行(93)八戸 「南部・八戸」

更に、「八戸」について・・、

寛文4年(1664年)、盛岡藩が主藩となった中、八戸はその内の2万石を与えられ支藩となって新たに八戸城を築城している、藩主は「南部直房」であった。 
しかし、江戸期の大名の格式からいうと城主ではなく「陣屋大名」であった。 
このため、八戸城は陣屋ということで、地元では「御屋敷」とも呼ばれていた。 

だが、幕末の天保9年(1838)八代藩主・信真の時、北方の沿岸警備の功により城主格に昇格し、八戸陣屋は晴れて「城」と呼ばれるようになったという。
八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、広く久慈市あたりまでが八戸藩であったという。

この八戸藩が、現在の八戸市の近代化発展の礎になり、八戸城は、現在の市の中心地となっている三八城公園(みやぎ・・)にあり、本八戸駅前、市役所、公会堂や城下町には三日町、十三日町など「市」の立つ日を名前とした街が並んでいる。


八戸市は東北・八戸自動車道をはじめ、2002年12月に東北新幹線が八戸駅まで延伸開業し、東京駅まで最短3時間で結ばれている。 

八戸市は南部地方の中心都市であり、八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。 
商圏は隣接する岩手県北東部にも及び、東北地方でも有数の約60万人の商圏人口を誇っている。
東北新幹線の駅名は「八戸駅」で、「青い森鉄道」といわれる駅と共用としている。

青い森鉄道・・?
かっての東北本線であるが、東北新幹線・盛岡〜八戸間開業に伴い並行在来線としてJR東日本から経営移管され、東北本線・盛岡〜八戸間のうち、青森県内の部分を運営する第三セクターの鉄道会社である。
因みに、岩手県内の部分は「IGRいわて銀河鉄道」が運営する。

県道19号より八戸臨海道路を行くと、左にウミネコの繁殖地で有名な「蕪島」(かぶしま)を見ながら種差海岸に出た、生憎、小雨が降ってきていた。

先頃、息子が車で北海道へ行く途中、この種差海岸へ立ち寄って、「親父、種差海岸は良い所だよ・・!心が洗われたヨ・・、のんびりスナック菓子を食べてたら、カモメが寄ってきて、手の平で食べてたよ・・それにしてもカモメて以外と大きいな・・」 などと言っていたのを思い出す。

天然の芝生が広大に広がっていて、そこに青松が処どころに生い茂っている、その向こうに青紺の大海原が広がっていた。 確かに絵のように美しいところだ、気持ちが安らぎ、癒してくれる、カモメはいなかったが・・。    


だが、この地は種差海岸の美の一つのポイントに過ぎなかったようだ・・、
 
この一帯は新日本観光地100選、白砂青松100選、日本の渚100選になっていて、今、通ってきた鮫町の蕪島から南東の大久喜までの約12キロ区間の海岸は美的景観地に選ばれているのである。 
大須賀、白浜、種差には実に美しい砂浜がある。

又、ここから葦毛崎展望台まで、海岸沿いに約5キロの遊歩道があり、奇岩怪石、ハマナス、ニッコウキスゲ、スカシユリなど、多くの山野草で楽しめるという。
種差は、広大な天然芝生なので、レジャーマットや、遊び道具でも持っていくと楽しいだろうな・・と想像してしまう。    


 「八戸小唄  三橋美智也 大西玉子
唄に夜明けた かもめの港
船は出てゆく 南へ北へ (ハァ ヨーイヤサ)
鮫のみさきは 潮けむり (チョイサー チョイサ)
煙る波止場に 船着く頃は
白い翼を夕日に染めて(繰り返し)
島の海猫 誰を待つ(繰り返し)

大西玉子が唄い、県を代表する民謡となったが、男声では、オーケストラの伴奏で爽快に唄う三橋美智也がよい。 
八戸小唄を唄うとき、むかしは、後の掛け声は「鶴さん、亀さん」の繰り返しだとおもったが・・、これは亜流ですかな・・?

次回は八戸に関し、「南部と津軽」のこと・・、

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紀行(93)八戸 「南部と津軽」


更に、「八戸」関連が続きますが・・、


それにしても青森というのは数が好きな県なのであろうか・・??。
一戸、二戸(四戸は地名は無いが苗字はあるという)から九戸まで、 海岸線にかけて一川目、二川目・・・六川目、他にも三沢市、百石町なども在る。 

「川目」というのは奥入瀬川から北上し次の川までの間を一川目、次の次の川までの間を二川目などと名前がつけられているという。 
間の距離がかなり違うが目印が無かった時代、川を目印にしたのでその名が付いたとも云われる。


序ながら、この地方を「南部地方」というのは周知だが、別名、「県南地方」とも呼ばれている。 
確かに、県南イコール南部とも思われるがそうではない。
先にも記したが「南部地方」という名の由来は、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった南部氏が支配したことから付けられている。 
又、「上北地方」ともいわれる、むつ市や下北郡の半島という地理的にも文化的にも下北地方と対比して扱われる場合である。 

一方、「三八地方」とも言う、三は、三沢市のことであると思うが実は三戸町の三であり、八は当然ながら八戸市である。

「八戸地方」は、その時の事象によって色んな呼び方が有るようだ。


この青森のもう一つの地方は言うまでも無く「津軽」である・・、
 

「津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。

つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 

こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」・・と。 


其の経緯として・・、


江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。

現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが・・果たして・・??。

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紀行(94)階上、種市 「瑞祥地名・洋野町」


「洋野町」は瑞祥地名・・?
 

県道1号は、海岸に沿って八戸線と並行して走っている。
八戸線は、八戸市の八戸駅から久慈市の久慈駅を結ぶJR東日本であり、「うみねこレール」という愛称が付けられているとか。 

間もなくその踏切を横切って、国道45号へと合流した。
途中、用を感じたので案内に従って「道の駅 はしかみ」へ寄った。気がつい付いて、「はしかみ」は当地「階上町」のことであった、「かいじょう」では無いらしい、妙な名である。

「かい」は音読みであることは判るが、「はし」と訓読みであろうことは気ずかなかった。 
因みに、漢字は中国の文字でるが、日本に伝えられて、そのまま使われているわけではなく、例えば、「山(サン)」、「川(セン)」のような中国読みを「音読み」として、そのほかに、「山(やま)」、「川(かわ)」というような日本読みを「訓読み」というらしい。 

「階上」は音読み、つまり中国式読み方で「はしがみ」となる。 いやはや、日本語は難しい。

町によれば、「はしかみ」の語源については定かでないが、往時、糠部五郡の中に階上郡があり、当時の郡役所の仕事をしていてた役人たちが「階上岳」という山の北麓にある八つの村を統合する名称として「階上・はしかみ」 と命名されたのではないかといわれている。

明治の大合併で、旧八カ村を合併して「階上村」となり、昭和55年には、町制施行により「階上町」となっている



既に、「岩手県」に入っていたようで・・、


種市町について、またまた合併の話であるが・・、
種市町は内陸部の隣村、大野村と合併協議が進み、新町名「洋野町」(ひろのちょう)として発足するらしいが・・、事実、2006年(平成18年)1月1日同町村がが正式合併し、九戸郡「洋野町」が誕生したという。
この地域は八戸市の生活圏、経済圏に属していることから、八戸市との将来的な越境合併も視野に入れて、広域圏の中心である久慈市との合併を拒否していた経緯があったらしい。 
結局、八戸、久慈市の両市とも合併せず、九戸郡種市町と同郡大野村の2町村だけの合併を選択したようである。

町名は一般公募により「洋野町」と決められた。 
だが「洋野町」という名称は、一種の「瑞祥地名」ではないか、という批判もあるという。 洋野の「野」と大野村の「野」は直接な関係はないというが。 

瑞祥地名(ずいしょうちめい)とは、目出度い意味の言葉をそのまま地名にしたり、良い意味合いの言葉から地名を創作したりするものである。
故郷、「ふるさと」が人間のアイデンティティ(精神的同一性、自己の存在証明、同一性)を形成するのだとしたら、合併などにより新しい自治体が誕生する度に、ツルンとした瑞祥地名をつけるのは住民を「精神的根無し草」にする可能性を秘めていろと、ある専門家はいう。 
「それは故郷を失ったに等しい」とする見方でもあると・・。 

そして合併の際にどちらの地域も自分の地名を残したい一心で、双方から一文字づつ取って作る「合成地名」も結果は同じであろうと・・。

瑞祥地名であるが・・、
平成の大合併においては市町村名にまで「商品名」のような瑞祥地名が用いられるようになり、和や美、清、栄といった文字を使った地名など、その土地の歴史を反映していないものが多くなっているという。 
地名研究家などからは「安易である」、「個性が無く、日本全国どこでもその地名をつける事ができる」などといった批判も多い。
反面、特に対等合併の場合などどちらの地名を付けるか、お互いが主張しあって難儀である。 
又、個々の地名はある程度限られた地点の名称であるため、合併により広域となった地域を総称するに相応しい名称が無い場合もあり、これらを考慮して理解を示す向きもあるというが。


私事であるが・・、


小生若い頃、東京の「大手町」(東京都千代田区大手町)という地名の、とある会社に勤めていた。 
大手町は当然江戸城、現在の皇居の大手門に位置する事から名付けられたのは周知で、城下町なら何処にでもある町名である。 

大手町の反対側つまり皇居の反対に位置する赤坂に(赤坂、赤坂見附は江戸城外堀の名称)「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
この地は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」と、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていたという。
その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」としたのである。

無論これは近年の合併で生まれた地名ではないし、合成地名の様ではあるが江戸期の昔から界隈の人々が紀尾井様の居られる処ということで、自然とこの名が付いたという。 
まことに一語で歴史や当時の様子が窺える由緒ある地名だと、カネガネ思っていたのである。


地域の合併、特に近年では「明治の大合併」(1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年では71314から15859に減少)と「昭和の大合併」(1953年の町村合併法施行から1956年を経て1961年までに9868の基礎自治体が3472に減少)の大規模な市町村合併があった。

現在は「平成の大合併」が進行中であるが、この町村合併では、一貫して市町村数は減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。 
又、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もある。 

もし、ここで種市町と八戸市が合併して新八戸市が誕生していれば、間に階上町が存在していて、種市地区は八戸市の「飛地」になるわけである。 
因みに階上町は、今時の合併話はないらしい・・?。


種市町であるが・・、


種市町のユニークさの一つに、「南部もぐり」というのが有るらしい。
一般にもぐり・潜水というと、素潜り、素潜り漁を連想するが、南部もぐりは古くからの伝統を生かし、技術的に高め、これを確立したことにある。

今から約100年前の明治期、種市沖で貨客船が座礁し、その解体引き揚げ工事のために、房州(千葉)から潜水夫がやってきた。 
この房州潜りの組頭が住民のひとりに ヘルメット式の潜水技術を伝授したのが始まりだといわれている。 
素潜りしか知らなかった彼らが、この技術を広範に広めていき、 そして、この地方に豊富な魚介類を採る沿岸養殖漁業に潜水を利用することを考え、今日の三陸沿岸の養殖漁業の基礎を築いたという。   
戦後の昭和期、潜水士を養成するために、当時としては極めて珍しい岩手県の高等学校で「潜水科」が開設された、種市高である。 

今、現在の種市高等学校の海洋開発科は、学習と実習を通して土木と潜水の基礎知識を学ぶことが出来る全国唯一の学科だそうだ。
生徒たちは海洋開発に必要な基本的な知識と技術を習得し、海洋工事全般に携わる高度な技術者を養成するための、 資格や免許も取得できるようになった。

卒業生は港湾土木や橋りょう建設、海底調査など国内外で活躍しているという。
次回、「久慈」    PARTWへ

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