日本周遊紀行

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紀行(92)三沢 「基地の街」



わが街・厚木もそうであるが、こちら三沢も、やはり基地の街か・・?、


国道338を南下する・・、三沢に至って六川目という所でのんびり昼食を摂る。
この時(平成16年10月2日AM)、ラジオニュースが大リーグ・マリナーズの鈴木イチローが257本の「安打世界記録」を達成した、・・と報じていた。 

ウレシイネ・・!
イチローといい、ヤンキースの松井といい、日本人大リーガーが活躍してくれることは。


この国道は別名、「東部上北広域農道」というらしい。
南下するに従って、五川目、四川目・・・一川目まで順に地名が付いていた。 
川筋を境に付けたのであろうか・・?まあどうでもいい事だけど、なにか曰く(いわく)は有りそうだ。

前項の東通村でもそうであったが、青森県は縄文文化の宝庫である。
三沢市周辺でも二万年前から人類が住み着き、縄文期の遺跡も数多く発見、出土されているという。
小川原湖周辺の野口貝塚早稲田貝塚は特に有名であるという。


この縄文文化が華やいだ三沢の土地は、藩政時代には盛岡南部藩最大の牧場になっていた。 
ここは南部駒の産地として知られて、今でも郊外ではゆっくりと草をはむ馬や牛の情景を見ることができる。 

しかし、三沢を著名ならしめているのは、やはり「基地」であろう。 
基地といえば、小生の住む「厚木市」の隣町にも、終戦直後マッカーサーが降り立った基地として知られる「厚木基地」が在るが・・、(実際の所在は綾瀬市)このことは東日本の最終日、地元・厚木の項で述べるとして・・、

太平洋戦争後、広大な牧草地域に米軍三沢基地が建設され、飛行場も開設されている。 
現在、米軍三沢基地を離陸するF16C戦闘機など防空網制圧の特殊部隊として、アジア北東部から中東までの広い範囲をカバーしているといわれる。
小川原湖と三沢市街の間に三沢基地はある。

昭和13年に旧日本海軍が建設に着手し、昭和17年2月に三沢海軍飛行隊の飛行場として開設している。
終戦後、米陸軍施設工兵隊に接収され、飛行場等施設の建設改修が行われ、米空軍戦闘航空群が駐留した。 
朝鮮動乱により、三沢基地は前線支援基地として重要性が一段と増し、滑走路等の整備拡張が急速に行われた。 
その後は、在日米軍の縮小計画が発表され、飛行部隊が韓国や米本土へ移駐し、三沢基地から飛行部隊が撤去され、西太平洋艦隊航空隊(厚木海軍航空基地)の傘下に属することとなった。

一方、航空自衛隊は北部航空方面隊司令部として、在日米軍三沢基地との共同使用を開始している。三沢航空基地は、民間・三沢空港も併設され、日本で唯一民間、航空自衛隊、アメリカ空軍の三者が共用する飛行場でもある。

三沢は、縄文遺跡埋蔵の地、広大な牧場の跡地、そして空港のある街と、多彩な顔、多様な歴史と異国情緒あふれる国際都市としての性格を持っているのである。


五川目から・・
二川目、一川目を過ぎて、すでに「百石町」に来ていた。
百石はヒャッコクではなくモモイシと呼ぶ。 モモイシとは、アイヌの意味で「流れが豊かな甚だ曲がりくねった川」と称すらしい。

これが地名の由来となったという、あの有名な十和田湖を源流とする「奥入瀬川」は、この地を現在も豊かに流れている。 
百石の街はこの奥入瀬にへばり付くように発展したのだろう。

街の近くに架かる橋を「幸運橋」、川下に架かる橋を「開運橋」と言い、実に響きの良い名称である。
町の北に在る「いちょう公園」の中に、町のシンボル「自由の女神像」が建っているともいう。 
ニューヨークと同緯度で結ばれていることから、北緯40度40分の「4」の数字にこだわり、本家の4分の1の大きさで健立したという、実にユニークである。

橋の名前といい、自由の女神像といい、この街には幸運を呼ぶ何かがありそうだ・・。

  「奥入瀬」   山本 譲二
奥入瀬 雪どけ 阿修羅の流れ
君をさがして鳴く鳥 水面に浮かぶさだめ
時はめぐり また春がきて
あの日とおなじ 花は忘れな草
こころの中で今も やさしくささやく
愛しい君に また逢いたい
白樺 せせらぎ 木もれ陽あびて
君と歩いたこの道 はるかな愛のわだち
空よ風よ なぜこんなにも
遠くて近い みんな過去なのに
心の中で今も 苦しくなるほど
愛しい君に また逢いたい

次回は「八戸」をチョット詳しく・・、

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紀行(93)八戸 「戸(へ)とは・・?」



「八戸」周辺には「戸」という行政地域が多い。その戸(へ)とは・・?
 

奥入瀬川の海運橋を渡ると「八戸市」である。
地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。


ここで『戸』について・・、


平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 

糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。

この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。
南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。


この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる・・、


「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。

だが、四戸がありませんね・・、 
四戸の地名が消えた理由は、四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないか・・という説が有力だといわれる・・?。

尚、「四戸」の所領は、現在の馬渕川沿いの「剣吉」から「櫛引」に懸けての地域といわれる。 古文書によると今の「櫛引八幡宮」は、かっては「四戸八幡宮」と書かれてあったとも云われる。

八戸市八幡に鎮座する「櫛引八幡宮」は、南部氏代々が崇拝した南部藩の総鎮守で、南部一の宮とも呼ばれる。 
八幡宮は、奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を建久3年(1192年:鎌倉幕府創立))に六戸瀧ノ沢村に仮宮として移したのが始まりで、後に櫛引村に神殿を構え櫛引八幡宮と称したと伝えられている。


八戸市とその周辺には「えんぶり」という行事がある・・、


元々は、旧正月に行われていた 田楽・「田植え踊り」の一種で、「八戸えんぶり」ともいわれ、2月17日から20日まで行われる。
「エブリ」(柄振・穀物の実などを掻き寄せ、また水田の土をならすのに用いる)という農機具をを持って踊ったのが始まりとされ、「えんぶり」は、この「エブリ」が訛ったものといわれる。

古くから農作業に活躍した馬の頭をかたどったとされる大きい烏帽子を被った3〜5人の太夫が舞い踊る。 舞は二種有って古式にのっとった、ゆったりとした「ながえんぶり」と、新しい形で動きの活発な「どうさいえんぶり」があるという。

えんぶり組は、太夫とその他の舞手、太鼓・笛・手平鉦の囃子方、唄い手など総勢20〜30人から成り、少年少女の舞手(稚児)はたっぷり厚化粧して実に可愛らしいという。 

起源、伝説は様々な説があるようだが、南部氏の開祖・南部光行公が奥州下向した頃に始まったというのが通説で、鎌倉時代の始めといわれる。 
 

八戸藩主・南部光行は、頼朝から奥州糠部郡を拝領し、甲州(今の山梨県)から当国へ下ってきたことは既に述べたが・・、 
光行が赴任した奥州で迎える初めての正月に、光行は自分の家来達に武装させ、有力者たちの家を訪問させて酒を酌み交わしたが、酒の勢い余って家来達は抜刀乱舞したため、家人たちは恐れ慄いた。 

このとき、その場に居合わせた農民・藤九郎という機転の利く男が、賑やかに田植歌を歌い、農具を手に持って踊ったところ家来達は刀を納めてその様子を見物し、丸く治まったという。

この藤九郎の機転の利いた様態が、後に上北地方で行われる「八戸えんぶり」に継承されたといわれる。

「えんぶり」の起りもユニークで・・、
「吾妻鏡」(鎌倉後期成立の史書で、全52巻という長大な書。鎌倉幕府の事跡を日記体風に編述すたもので、源頼政の挙兵から凡そ87年間記載された重要資料)によれば、初代光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談に言ったところ光行曰く「ならば南部の正月は12日だ」と鶴の一声で正月を延期したという。 

以後、南部家の正月は12日となり、正月の伝統行事とされた「八戸えんぶり」は、以降、延々と引き継がれ、継承されたといわれる。
このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重であるともいわれる。 


後の南部氏といえば・・、


藩政当時は今の盛岡であり盛岡藩が主藩、主城であり、現在の岩手県中北部から青森県東部にかけての地域を治めた藩で、「南部藩」とも呼ばれるのが通称である。
石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。

次回は、南部の「八戸地方」、逆も可、八戸の「南部地方」、

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紀行(93)八戸 「南部地方」



南部地方の「南部」とは方角ではない・・!!
 

八戸市の東に「南部町」がある。 

甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。


八戸市街地の西方に「根城」(ねじょう)という地域があり、馬渕川沿いに根城城址がある。

八戸の町の始まりは、南部師行 が陸奥の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ:南北朝時代の公家・「神皇正統記」で知られる北畠親房の長男。
後に村上師清と名乗り、村上水軍の祖となる。
北畠家は村上源氏の庶流)に従って甲州からやってきて、根城 に城を築いたときからとされる。

南部氏の祖といわれる「南部光行」とその一族が、奥州に下向するにあたり出身地の甲州には、まだ光行の子息が残されていた。 
その子から数えて四代目の子孫が根城南部氏を築いた「南部師行」であり、彼の子孫が八戸氏と称し、これが「八戸南部氏」の始まりといわれる。


これに対し、三戸(さんのへ)に根拠を置いた系統も存在した。 これを「三戸南部氏」という。 
三戸南部氏の出自については光行の二男・実光の系譜であるとされ、室町期の14世紀半ば頃に奥州に下向したが、南部氏が宗家としての地位をどの様に築いたかははっきりしないという。

八戸南部氏も、三戸南部氏とほぼ同格の存在としてみなされる。 

又、室町時代後期には九戸氏も有力者として幕府(室町幕府)に認知されており、少なくとも室町期から戦国期にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固とした権力を所持する家はなく、何れも地域に根を置く豪族といわれる同族連合の状況であったらしい。

しかし、八戸南部氏はその後衰退してゆくことになり、逆に三戸南部氏が伸張してゆくことになる。
この三戸南部氏が、後の江戸期の南部・盛岡藩に繋がるのである。


南北朝時代以来、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。 

更に、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。


戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。 
浅野長吉(ながよし:長政・ながまさ)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。 
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。

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