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日本周遊紀行 【あとがき】(U)


日本周遊紀行・東日本編:「あとがき」、前回に続きます・・、


肝を抜かれるような「大自然」、重なり合って積み上がってきて現在が有る「歴史」の奥深さ、これらの「旅の印象」は・・??。
東日本、西日本を二度に分けての慌しい旅であったが、それでも延日数で43日間(東16日、西27日)、総距離:12535km(東5403、西7132km)を要している。 
その「東日本」について、印象的、特徴的なところを掻い摘んで述べてみよう。

まず、東北の西部地方では・・、
夕景、日の入りを謳う日本海、それとは逆に朝日や日の出を愛でる太平洋岸であった。
確かに両海は”陰と陽”とよく言われるが、それを実感したのが、日本海側の秋田から青森にかけての、延々と続く「松枯れ」の様子であった。 それに対して太平洋側の岩手三陸から宮城の沿岸は赤松や黒松の緑が映えていた。
今は、裏日本とか、表日本という言葉は無くなっているらしいが、あまりの対照的なのが気になったしだいである。
 
日本海側の同じ沿岸でも、山形県と秋田県とは土地感、生活感に差異が感じられたのは何故か・・??、
県勢からして秋田は米どころ、美人どころで「食い倒れ、着倒れ」と楽天的イメージが有り、更に、ゆったりと大きい家に住んでいるようで、それだけに預貯金は下位レベルであるというデータがある。 
山形はその点、米沢藩の質素・倹約を旨として、狭い屋敷でも堅実な生活を営んでいるようである。
 
秋田・出羽は関東の雄、雅(みやび)の「佐竹氏」が拓いたとされ、佐竹氏は戦国末期、徳川、上杉、前田、毛利、島津そして佐竹氏の六大大名の一つであるとされ、源氏の時代より常陸の国を治めた関東の由緒正しき名家なのである。 
佐竹氏は清和源氏の本流で、平安期、あの東北の乱で活躍した源頼義、八幡太郎義家、そして新羅三郎源義光を祖先とするということで、清和天皇に遡ることが出来るのである。 戦国期以降、常陸の国(54万石)から減封されたとはいえ秋田でも20万石という大大名であった。 
転封の折、選りすぐりの常陸美人(京美人に通ず)を同行させたため、秋田は美人が多いという噂も有り、中でも戦国期以降これといった戦乱がなかったことも特徴的であろう。
 
一方、庄内・米沢は始終戦乱(最上氏の時代から)に翻弄され、越後の上杉氏や徳川譜代の酒井氏などが統治し、質素倹約、質実剛健が伝統なのである。 これは、地元の藤沢周平の小説、海坂藩(庄内藩)での下級武士の生活振りでも判る。 山形と秋田は、これら人柄の違いが土地感、生活感の違いに現れているのかもしれない。
 
出羽の国(現秋田県)といえば、芭蕉が予定外の地といわれる「象潟」(きさかた)を行脚している。 「奥の細道」に、「俤(おもかげ)松島に通いて」とあるように、象潟は松島の景観を思わせるものがあったらしい。 

芭蕉が訪ねたのは元禄2年(1689)だが、その100年余り後の文化元年(1804)に大地震が起こっている。 
その時、水に覆われていた「潟」は、地震の変動で陸地に様変わりしてしまい、往年のあの美しい面影は失われているのである。
ただ、美景であった往年の象潟は失われたが、自然の干拓が行われ、今では稲穂が実る美しい田園に変身している。 それに、水を張った田んぼには、かっての島々が浮かび上がり、往時の象潟を彷彿させるともいう。


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東北北部は・・、

青森の「三内丸山遺跡」には先ず驚かされた。 縄文時代前期の凡そ5000年も前もの大規模集落跡だそうである。 尤も、東北北部から北海道南部にかけては同様の遺跡が点在していた。
「北緯41度でつながる文明地、文明都市」という発想があるらしい・・!。
北緯41度は青森・三内円山から東方にニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。 
もしかしたら、往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、勿論、日本の中枢都市でもあったとも想われるのである。
近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実で、蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだ。 
しかし、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降ほんのチョット南・西にズレたにすぎないとも思われるのである。 小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!!、と言いたいところである。
縄文期の東北は弥生文明に翻弄されてきて事実がある。 はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、その象徴が会津戦争だった。 その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国・下北へ流されているのである。
テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。


更に、東北・北東部は面白い・・!!

平安初期、「坂上田村麻呂」が稲作キャンペーン武装集団が東北の蝦夷(エミシ)を討伐した。 その痕跡が日本三景の「松島」(五大堂)や多賀城(現在の宮城県多賀城市)に観ることができる。 松島は余りの美景に芭蕉が句を詠むのも忘れたとも云われるところだが・・?  

それは兎も角、中世・陸奥国は以降、安倍氏が勢力を伸ばし2世紀にわたって実効支配していたとされた。
ところが、11世紀半ばの平安後期「前九年の役」、更に、「後三年の役」が勃発し、安倍氏は滅亡した。 その後100年に渡る「奥州藤原家」が誕生する事になる。  
北上流域文化」ともいわれ、地方豪族が築いた文化としては最高のものといわれる華麗な黄金文化を築いた。 その北上川は社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。
因みに、その河口が伊達・石巻である。 

江戸期には伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え江戸へと向かったという。 伊達政宗は北上川に長大な「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。


「八戸」周辺には、「戸」という行政地域が多い。 その戸(へ)とは・・? 
地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。
平安末期の12世紀、さしもの栄華を誇った藤原家は「源頼朝」によって滅ぼされているのは周知である。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部氏に、広大な領土(糠部・ぬかのぶ五郡)を預けている。 
糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。

この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。 所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。 頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。
南部氏は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。 
この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして「八戸市」がある。
そう、「南部」というのは方位の北部、南部ではなく、人の名前だったのである。

津軽半島の北部、“うらぶれた“地域に「十三湖」が光っている。
この十三湖、つまり「十三湊」は鎌倉期の12世紀後半から凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。
当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。
安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 
今は遺跡となっている十三湊であるが、特筆すべきは室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は普通、木製品が中心だったが、この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。
当時の十三湊は、当国日本を代表する「三津七湊」の一つであるといわれた。 三津は近畿、九州であるが、七湊は全て日本海よりで、しかも東北、北陸地方というのが当時の文明、文化が偲ばれて面白い。


そして、歴史の中から忽然と消えた「十三湊」・・、

室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 
その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。 

その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。
十三湊は今でも砂礫の中に埋まっているそうで、まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である。


東北地方をエリアとする盛岡出身の作家・「高橋克彦」氏は・・、

 古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか・・  』・・とも述べている。


北海道へ渡ると函館戦争と江差開陽丸との関連が・・、

日本海側のニシン漁の盛衰と松前藩、稚内と樺太の関係などなど、歴史も興味深い。 
だが、サロベツ原野と直線道路、北海道・道東地区を1時間走っても対向車の無い国道。 世界遺産・「知床」、等等、やはり北海道の原始原生の大自然には、圧倒的に心を打たれるのである。
 

因みに「知床」であるが・・、

知床半島全体が殆どの地域が人跡未踏の自然の宝庫である。 中でも「カムイワッカ湯の滝」は超見所であろう。 
知床半島の中央にある活火山の硫黄山から流れる出る温泉の川で、海岸までの連続した温泉の沢、滝になっている。 林道から目的地入り口までダートの道を車で数十分、ここより温泉の沢、大きな滝壺、ナメ滝が続いていて当然危険な箇所も有り、ここを歩くこと20分余りでようやく到達する。 温泉の混じったカムイワッカ沢は直接、オホーツク海に落下している。

カムイワッカの滝とは、滝自体が温泉という、野趣溢れる豪快な天然の露天風呂の「野湯」であり、そのため、カムイワッカ湯の滝とも呼ばれる。 多段式の滝壺毎にそれぞれ天然の湯船があり、日本国中探しても、これだけ密林の中の野生の温泉場はないであろう。 
水浴びならぬ湯浴びに際して、女性は水着姿や全裸でもタオルを巻いた姿で入浴することが多い。 男性でも若者などは海水パンツ姿で入浴する姿が目立つが、小生は当然スッポンポンであった。

それはともかく近年、特に世界遺産指定後の知床は、観光客の急増に伴い厳しい立入規制が行われるようになっている。 当然上流の滝壺に行くほど湯温は熱くなり、お目当ての滝壺は、湯温といい、大きさといい、深さといい申し分なかったが、途中、何箇所か難しい岩場などによる危険度が高かったことも事実である。
2005年に知床が世界遺産に登録されたことにより観光客が激増し、転落や落石の危険がより増したため、翌2006年には、車道から100メートルほどのところで立ち入り禁止の処置がとられたのである。
従って、お目当ての滝壺での入浴はできない状態になってしまい、今日では人の目のとどかないカムイワッカ・「神の水」として、野生の森へ戻ったのである。 
小生は過去二度にわたってこの野生の温泉に入浴し、その雰囲気を味わっているので真にラッキーだったといえる。


尚且つ、北海道は歴史の奥深さにも驚嘆するのである・・、。 

アイヌ文化やオホーツク文化、当時の人々は現代に繋がる稲作文明の人々より、かなり裕福な生活を営んでいたのかも知れない。オホーツク海の流氷、各河川の魚類の遡上など、なにせ季節ともなると「食料」が向こうからやって来るのである・・と想像するだけで面白い。 各地の縄文遺跡、それに青森の「三内円山遺跡」などがそれらを物語っているのである。
 

それと、文字を持たなかったアイヌ人の悲劇的事象も忘れられない・・、
 

静内や根室はアイヌと邦人達の激しい騒乱もあった。 だが北海道の開発は、邦人の入植、移民なしには考えられないのである。 北海道を巡回する処々方々で、これらの痕跡が残されている。 静内の入植者は四国の淡路島の人々であり、この因果については、つい先ごろ「北の零年」という映画にもなった。
私事であるが、北海道を訪れる度に銘菓「マルセイバターサンド」という御菓子を土産にする。 このお菓子も元はといえば、伊豆・松崎の入植者に因(ゆかり)のある物なのである。


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