日本一周・海道を往く
歴史や自然を探る・・,「日本」という国の形や姿が見えてくる旅

 

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日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山





【西 日本編】

第1日】
厚木⇒横須賀⇒浦賀⇒鎌倉江ノ島⇒小田原熱海⇒伊東⇒熱川⇒下田⇒石廊崎⇒松崎・大沢温泉


【付記】 鎌倉、湘南、小田原 編

【第2日】
松崎⇒土肥⇒戸田⇒大瀬崎⇒伊豆長岡⇒原⇒三保の松原⇒久能山⇒焼津⇒御前崎⇒浜岡⇒浜松⇒伊良湖⇒田原

【第3日】
豊橋⇒蒲郡⇒吉良⇒南知多⇒名古屋⇒亀山⇒津⇒伊勢⇒鳥羽


【第4日】
浜島温泉⇒紀伊長島⇒熊野⇒御浜⇒新宮⇒那智勝浦⇒串本⇒白浜温泉

【付記】 南紀白浜、勝浦、熊野 編

【第5日】
田辺⇒南部⇒和歌山⇒大阪市内⇒尼崎⇒宝塚⇒有馬⇒淡路


【第6日】
東浦⇒洲本市⇒福良⇒鳴門⇒徳島⇒日和佐⇒海南市⇒宍喰温泉⇒室戸⇒田野⇒南国市


【第7日】
高知市⇒宇佐⇒窪川⇒四万十市(中村市)⇒足摺(土佐清水)⇒宿毛⇒宇和島⇒松山⇒道後温泉


【第8日】
松山⇒北条⇒東伊予⇒西城⇒新居浜⇒川之江⇒豊浜⇒琴平⇒善通寺⇒倉敷⇒赤穂⇒相生

【第9日】
相生⇒姫路⇒備前⇒牛窓⇒西大寺⇒玉野(宇野)⇒瀬戸内(因島、生口島、大三島)往復、三原⇒広島⇒宮島

【第10日】

岩国⇒徳山⇒小郡⇒小野田⇒下関⇒門司⇒大宰府⇒佐賀・唐津

【第11日】
唐津⇒伊万里⇒平戸⇒長崎⇒佐世保⇒諫早⇒小浜温泉

【第12日】
小浜温泉⇒雲仙温泉⇒島原⇒熊本⇒阿蘇

【第13日】
阿蘇市(中部九州)⇒一の宮⇒黒川⇒九重⇒湯布院⇒別府・鉄輪温泉


【第14日】
別府・鉄輪温泉・・滞在


【第15日】
別府・鉄輪⇒湯布院⇒九重町⇒久住(長者原・・・坊がつる・雨ヶ池登山)⇒直入⇒庄内⇒別府・鉄輪

【第16日】
湯布院・由布院温泉⇒湯平温泉⇒別府・鉄輪

【第17日】
別府⇒大分⇒竹田⇒一の宮⇒大津⇒熊本⇒八代⇒球磨(南部九州)⇒水俣⇒出水⇒阿久根 

【第18日】
串木野⇒霧島高原⇒隼人⇒鹿児島⇒知覧⇒指宿温泉


【第19日】
指宿⇒根占⇒佐多⇒垂水⇒鹿屋⇒南根戸⇒日南⇒青島

【第20日】
日南⇒南郷⇒志布志⇒鹿屋⇒垂水⇒櫻島⇒鹿児島⇒指宿温泉

【第21日】
知覧⇒鹿児島⇒隼人⇒国分⇒都城(東部九州)⇒宮崎


【第22日】
日向⇒延岡⇒北川⇒佐伯⇒津久見⇒大分⇒宇佐⇒苅田⇒小倉⇒下関


【第23日】
豊浦⇒油谷⇒長門⇒萩⇒益田⇒浜田⇒仁摩⇒大田⇒湖陵

【第24日】
出雲⇒松江⇒美保関⇒米子⇒北条⇒鳥取⇒浜坂⇒香住⇒竹野⇒城崎温泉

【第25日】
城崎⇒豊岡⇒峰山⇒宮津⇒伊根⇒舞鶴⇒小浜⇒三方⇒敦賀(北陸道)⇒越前⇒三国⇒芦原温泉

【第26日】
金沢⇒志賀⇒輪島⇒珠洲⇒内浦⇒能都⇒穴水⇒能登島⇒和倉

【第27日】
七尾⇒氷見⇒富山⇒魚津⇒黒部⇒朝日⇒糸魚川⇒白馬




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日本周遊紀行:東日本編 【はじめに】  


日本周遊紀行 「序文」

『旅・旅・旅』・旅について・・、
「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。 更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 
何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。  何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われている。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。


 
さて、「熟年」になった今日・・、
  今、団塊の時代と言われて久しいが、60歳の定年期を迎えて第2の人生を歩もうとする時、これほど最大のキッカケはないのである。
 例えば旅のことである。
 「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。

  「たび(旅)」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 英語でいう「トラベル」とは旅行のことで、普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 ラテン語の語源では、なんと「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。
 又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって「旅」とは何らかの苦行から切り離せない意味合いが含まれているということも感じ取れる。 旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

  近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、新たな自分の居場所を探し出すことや、もしくは自己の存在を再確認するためのものでもあるともいう。
 メディアによる影響力が膨大である今日、旅は観光と同義語のように扱われ、単なる憧憬や追体験によって好奇心を満たすだけの手段と位置付けられているようにも解釈できそうであるが、それだけではない。本来は、喜びを伴うものであり、それと同時に苦しみを伴うものでもあるはずであろう。


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 さて、通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり旅や旅行であろう。
 何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 旅をしようとするにもそれなりのキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。
 日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。
 旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ一人旅はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである・・。

  ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?
 よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね・その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
 又、「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである・・。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・。 しかし、小生の場合は単純である、「好奇心」である、別世界を覗き見たい願望である、その単的な例が「山」であったのだが・・。

  私事であるが、還暦定年の後、何年か臨時雇いで他の会社に勤めたが、その間、大病を(大腸ガン)患ってしまい、切腹手術でなんとか元の体に戻ったようで、その後なんとなくブラブラしていたが、体調は良くなったからといって今更勤めに出よう・・とゆう気にもならない。 そんな訳で時間と余裕はたっぷり有るし、無いのはお金・・コレホント。例によって「何処へ・・」の虫が騒ぎ出すのである。
 元々、出歩くのがスキで若い時分は「山」や「スキー」を主体に処々方々、アチコチ出掛けていた。 歳端を重ねてからは山の方はすっかり少なくなったが、今度は子供をダシに、「お出掛け」、「小旅行」は年中で、子供がソコソコになってきたら世に言う「夫婦旅行」などを小なり大なりで展開してきた・・。
 こんなことで、「出る」のには一向に厭わないし、好きなほうで逆に、家にジッとしていると、イライラが昂じてくるのである。 拙宅は経済的には並みの家庭か、それ以下である。それも金がなければ無いように、あれば有ったように出来るだけ算段、工面して実行してきたつもりである。


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       日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」


  さて、話はチョット反れて・・。

  文中でも紹介、記載しているが、江戸末期、攘夷論者で有名な「吉田松陰」は、自国・長州萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 その時の旅の様子を表したのが見聞記・「東北遊日記」である。
 旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)。
 江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月5日であった。 学者・松蔭の旅の目的は種々あったろうが、その旅は苦労の連続であったらしい。 無論、安らぎの一時もあり、特に、十三潟(津軽半島・十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという下りもあり、そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの景観が、知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
 松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

  御存じ「松尾芭蕉」は江戸初中期、伊賀の国上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の芭蕉庵を旅立ち、日光 、白河の関、松島、平泉、山形領 立石寺、 新庄、象潟、越後、 出雲崎、市振の関、 山中温泉、敦賀、大垣とほぼ本州中央部を歩いている。
 芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩き俳句をたしなむためであるが、私的な道中の他に、公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
 これにはこんなエピソードもある・・、越後の能生町、糸魚川から親不知(おやしらず)の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
 この時の一句に

    「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 」

  を詠んでいる。 この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿していて、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て“同行”を頼むのである。
 この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、じつに500〜600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
 普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 これは余計な推測だが、やはり公的な仕事が有ったればと想像してしまうのである・・。
 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。


  松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。だが、気楽な気持ちの長道中もあったようで・・、「正岡子規」のことである。
 芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に

   「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて」

  と軽く一句ひねっている。
 四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで「はて知らずの記」を残している。 又、紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもある。

  昔日は、今日のように一般庶民に移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
 日本では、伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパでは、キリストの聖杯、聖遺物、やその使徒のだれかれの遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

  そもそも、この旅という概念から我々が受け取る印象は、今と昔でだいぶ様子が異なる。
 現代ではインフラの発達により、土地を離れるということに労力を要しなくなった。 飛行機や新幹線など、その他選択肢は数多く存在する。 旅の目的は移動して何をするかということに重点が置かれている。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、すなわち苦しいことに違いなかったのかも知れない。
 文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。 その事を示す例として、日本の初期の鉄道敷設の目的は、関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように、多くが社寺参拝のために造られた事が挙げられる。

  さて、前置きが長くなったが・・、
 小生は、旅には三つの”楽しみ”が有ると思っている。それは実に単純で、計画段階の楽しみ、旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)、そして、帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめてみる楽しみがある。 松蔭の言葉を借りれば、小生の場合も、三番目のアレコレ調べ、確かめて知識を得るのに重点をおくのだが・・。 実は、その結果がこの本文を表すのに繋がったのであるが・・。
 いずれにしても、旅行とは、一般に効率的に行うものであろうが、旅は非効率であり、それがまた良いのである・・。

    ―――――

  さて、例によって、「何処かへ」の虫が疼き出している。
 ただ、今までの旅や旅行は、殆どが短期間でスポット的な小規模の「お出掛け」であり、確か、定年前の休暇で、お上さんと北海道の10日間というのが最長であった。 そして、今回は長丁場の旅を考慮し計画しようと考えている。
 ところで、我が家のお上さんは昔っから一応、会社勤めの正規の社員で、今でも元気に頑張って勤めている。そのため余りの長期の休暇は無理であり、長道中のお付合いは出来ない事になってしまっている。つまり「何処へ」の虫は単独行動に、限定されてしまっているのである。

  何処かの海外旅行・・? 何れかの観光旅行・・? ハタマタ道府県巡り・・などと多々目的はあろうが、肝心なのは漠然とではなく、目的、目標をしっかり絞って決行する事である。
 ところで、小生は日本(実は満州・・?)に生まれた日本人である(当たり前であるが・・)・・、従って日本の事をもっと知るべきである・・という好奇心が頭をもたげるのである・・。
 日本列島は細長い島国であり、海を眺めながら「海道を巡る!!」、道行きに地域の歴史や文化、自然を訪ねる・・・コレはいいと思った次第である。言い換えれば”外国の事に関して”などには、一切興味がなかったのである。
 愛読書である司馬遼太郎の「街道を往く」シリーズを模じった訳ではないが・・、「海道を往く」である。 実は何年か前、仲間に暇(ひま)に成ったら、日本一周でもしようかな・・などと、ペロッと口に出したことも有り、又、若い頃よりボンヤリと夢に描いていた事も確かであった。 そして、何時の日か実行することを心に決めていた・・。 その夢が大きく膨らんで、いよいよ現実のハコビと相成ったのである。

  さて’現実のものとして実行のハコビ’まではよかったが、本当の意味であらゆる事を想定し具体的な運びをどうするか・・を思案しなければならない。
 若い時分なら、無計画で明日にでも飛び出して行けばいいものをと思うが・・、事実、情報等によるとヤングマン達は自転車や徒歩で日本一周、日本各地を何日も、何十日も巡り、苦労や危険を覚悟しながら体験している人達も中にはいられるようである。 しかし、熟年の小生はこれは無理・・、年甲斐も無く・・ではなく、年甲斐を考えて、趣旨・目的・目標を明確にし、尚且つ短期間で効率よく実行しなければならないのである。
 これらを条件を加味して以下の実行項目を考察してみたのである・・。

1 日本列島を2分割し、2回に分けて実行  
2  分割は静岡ー糸魚川構造線(フォッサマグナ)を基準に東日本と西日本
3  現在、住居は神奈川で、別宅が構造線上の白馬村に在る
4  先ずは、「東日本」の海道沿いを巡る
5  新潟・糸魚川を基点に日本海側を北上する
6 東北、本州北端より北海道へ、そして、その最北部の稚内へ
7  次にオホーツク海、太平洋を南下する
8 千葉房総より自宅へ帰還
9 手段はつまり脚(車)はワンボックスのマイカー
10 ネグラは車内か現地の安宿(前日又は当日予約)のカタツムリ・ヤドカリ旅行
11  安宿とはY・H、民宿、公営の宿、他・・・
12 途上、出来得る限り「道の駅」を利用する
13  一日の走行目標は200〜300Kmの、陽の有る内
14 趣旨として最寄りの観光地、景勝地、名所旧跡等を巡る
15  地域の歴史や文化に興味を持つ
16 その町の個性、特徴、特色、主旨、趣向を知る
17  又、名の有る「温泉地」を訪ねる(NHK・「ふだん着温泉」等)
18  データシートを作成し、その日の内にデータ、日誌等を記録する
19 持ち物・・装備品、持参品を事前にチェックし準備する
20  衣類、特に下着類は出来るたけ現地で洗濯処置
21 食、嗜好品・・好みに応じて持参、調理する、その他現地にて摂食
22 車への積載は能率、効率よく美的に、ケースの使用が良い
23  要所、要点は事前チェックし地図上に書き込む(地図は最新版)
24 カーナビは絶対必要、そしてフル活用(ナビソフトは最新版)
25 季節の良い時期を選ぶ(春期・5,6月頃 、秋期・9,10月頃)

26 次年、「西日本」へ・・、先ず三浦、伊豆から東海道、近畿
27 そして四国、山陽道から九州北部、西九州、鹿児島へ

28 次に、東九州から北上して山陰、近畿(日本海)を巡り
29 北陸、能登に至って糸魚川から姫川、別宅白馬へ

 
 (但し、沖縄県については余りに諸島、群島が多いため熟慮した結果、後日の訪問となってしまった。因みに、沖縄は本島ほか49の有人島と多数の無人島からなるらしい)



【東 日本編】

【第1日】
厚木・自宅⇒大月⇒甲府⇒白州 ⇒ 諏訪⇒松本⇒大町⇒白馬

【第2日】

白馬⇒糸魚川⇒能生⇒上越⇒出雲崎⇒新潟駅⇒山北⇒温海温泉

【第3日】
温海温泉⇒酒田⇒道・鳥海⇒道・象潟⇒道・岩城⇒亀田⇒秋田⇒天王⇒道・天王⇒男鹿・鵜の崎⇒男鹿水族館⇒男鹿温泉

【第4日】
男鹿⇒能代⇒十二湖⇒不老不死温泉⇒深浦:⇒鯵ヶ沢⇒十三湖大橋⇒小泊⇒R・小泊⇒竜飛崎⇒三厩⇒蟹田⇒三内円山遺跡⇒浅虫温泉

【第5日】
浅虫温泉⇒野辺地⇒横浜⇒大湊⇒川内 
⇒脇野沢⇒仏が浦⇒佐井⇒大間⇒大間崎
⇒函館⇒湯の川温泉

【第6日】
湯の川温泉⇒木古内⇒知内⇒福島・吉岡⇒白神⇒松前城⇒上の国⇒江差⇒天和台⇒北桧山⇒宮内温泉⇒島牧

【第7日】
島牧⇒岩内⇒神恵内⇒当丸峠⇒古平⇒積丹岬⇒小樽⇒銭函⇒厚田⇒増毛⇒留萌⇒小平

【第8日】
小平⇒羽幌⇒遠別⇒天塩⇒浜湧別(サロベツ原野)⇒ノシャップ岬⇒稚内⇒宗谷岬⇒浜頓別⇒紋別

【第9日】
紋別⇒サロマ⇒ワッカ原生花園⇒能取湖⇒網走⇒小清水原生花園⇒⇒オシンコシンの滝⇒ウトロ⇒カムイワッカ⇒知床五湖⇒知床峠⇒羅臼温泉

【第10日】
知床⇒野付半島⇒根室⇒納沙布岬⇒幌戸沼 ⇒霧多布⇒厚岸⇒釧路湿原展望台⇒白糠

【第11日】
白糠⇒広尾⇒襟裳岬⇒三石⇒静内⇒新冠⇒駒大苫小牧高⇒登別温泉

【第12日】
登別温泉⇒地球岬⇒洞爺湖 ⇒豊浦⇒森⇒鹿部⇒恵山岬⇒函館⇒大間⇒下風呂温泉

【第13日】
大畑⇒薬研温泉⇒恐山⇒むつ市⇒三沢市・六川目⇒八戸⇒久慈市⇒野田⇒小本温泉⇒田老

【第14日】
田老⇒宮古、山田、釜石⇒三陸⇒大船渡⇒陸前高田⇒気仙沼⇒北上町、石巻、松島 ⇒湯の原温泉

【第15日】
松島⇒塩釜⇒岩沼⇒相馬⇒富岡⇒いわき湯本⇒大洗⇒潮来

【第16日】
潮来⇒銚子⇒鴨川⇒白浜・野島崎⇒館山⇒袖ヶ浦⇒海ほたる⇒川ア⇒横浜⇒厚木

日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山