日本周遊紀行
東日本編・あとがきV
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日本周遊紀行 【あとがき】(V)


さて、関東地方については・・、

関東地方は、古代より西国・関西である紀伊や四国地方に大きく影響されたらしい。
先ず、「安房」は徳島・阿波に通じ、古代の阿波一族が房総地方から武蔵を拓いたとされている。
「房州」は、房総半島の海側の方から上総、下総と呼ばれている。 その房州は古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。
又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。 銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると先祖の墓参りに戻る人がいるという。
四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し、房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。 
忌部氏は、更に当地に「麻」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「総」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている。 更に、現在の西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔の東京地方は「武蔵」といったのは周知である。 「武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 
現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を総の下、つまり「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。
その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてるのである。 関東進出の第一歩となった阿波忌部氏の記念すべき上陸地は館山周辺とされ、このときを記念して房総一ノ宮である古社・安房神社を創建されたと言う。 古代の縁により館山市は現在でも阿波・徳島との交流が続いているというが・・?。
叉、近世、房総の地へ関西人の移住が盛んになり、江戸中期には紀州から銚子に醤油の醸造を広めたとされる。 銚子の利根川は江戸期、江戸〜銚子間の利根水運が開かれ、東北地方の米・物産などを江戸に運ぶ重要な中継港として発展してきた。 水運利用の隆盛を背景に、醤油醸造と漁業が飛躍的に伸びたとされている。 醤油の起こりは、元は味噌の製法から発明されたといい、紀州・由良町の僧侶・覚心が修行中の中国から我が国に初めて味噌及びその製法を伝えたとされる。
味噌の製造過程で溜醤油(たまりじょうゆ)が発生、これを精製したのが醤油といわれる。 醤油は近隣に広まり、後に房総・銚子へも移ってきて広まったという。 
更に、半世紀たってから利根川水運で上流の野田へ広まり、利根川から江戸川の整備が進むと、野田から江戸・日本橋までは半日で届いたとされ、野田の醤油が今日に隆盛に至っているという。現在のキッコ−マンの始祖である。 因みに、醤油を「むらさき」と呼んでいたのは、江戸時代に紫色を珍重する気風があり、同じく似たような色で貴重品であった「醤油」をそう呼ぶようになったとされているが。

叉、内房の木更津や袖ヶ浦には面白い古代伝承があった。
木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。 日本武尊は幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
日本武尊が東征のため三浦・観音崎の走水より房総に渡るとき海が荒れて沈没しそうになる。  妻のはこの荒海を鎮めるため海に身を投げて穏やかにしたという。  日本武尊は愛する妻を失って悲しみに偲んで詠ったのが・・、

『君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を 見るぞ悲しき』

「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。

もう一つ、「江戸城」のことである・・、
家康が江戸に政経の中心を移してからは、徳川の政権を誇示するためにも大阪城には負けないくらいのお城は必須だった。 家康、秀忠の目論見どおり江戸開府以来30年余りで、あの豪壮無比な江戸城・天守閣が完成している。
五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあった。 当時の江戸城下や町屋は木造建築の平屋建てが殆どで、せいぜいあっても2階建てが大部分であったろう、そんな中、千代田の高台に60mの天主が出現するのである。 
この天主は江戸市中はもちろんのこと遠くは常陸の国、相模の国辺りからも望観できたに違いない。 そしてその後も260年余の徳川政権と江戸城下を見守る筈であったが・・!!、完成から僅か19年後に廃塵と化したのである。
明暦3年(1657)1月の、いわゆる「振袖火事」(明暦の大火)で焼失してしまう。 
天守再建の声も多かったが、保科正之(徳川秀忠の庶子)が異議を唱え、天守はついに再建されなかったという。 つまり、世界に誇る江戸城・大天守閣は、僅か19年という最短の寿命を記録してしまったのである。
振袖火事とは、明暦の大火のことで、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に出火、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災である。 この明暦の大火は、三日間にかけて外堀の内側を殆ど焼き尽くしたと言う。
名古屋にも大坂にも天守閣があるのに、花のお江戸には天下のお城が無いなんて、江戸庶民は結構悔しかったのでは・・?。 「てやんでい、将軍様のお城は天下一に決まってるんでえ、そんなシロモン(城物)はいらねんだよ!」とか強がってたけど、内心は口惜しかったのでは、200年の永きにわたって・・!。
現在、NPO法人によって「江戸城天守閣再建活動」がなされているようであるが、さて・・?。



東日本の特有は、歴史的内容はさることながら、やはり奥深く雄大な太古の自然が、そこ・ここに残されていることであろう。 特に、北海度は強く印象に残った。 一方、西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。
歴史というものは、どの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて、澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 
時代という河を綿々と流れてきた歴史的事項が重なり合い、後世に一つの現象を生み出し、影響を与えていくものであろう。
こんなんが歴史の面白さでもあるのではないだろうか。


そして世界遺産であるが・・、
我等夫婦が北海道旅行をし、「知床」を巡観した直後にその知床が世界遺産に指定されている。 そして、やはり夫婦で南紀地方(熊野一帯)を旅行した直後に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定されたのである。
思えば、京都の寺社群も、全てではないが、そうであった。 そして、これは後編(西日本編)になるが、小生が「日本一周」途上立寄った直後の2007年(平成19年7月1日)に「石見銀山遺跡」が世界遺産に認定されている。 何れも面白き因縁である。

尚、西日本の「旅の印象」は、「西日本編」終了後記載いたします。



旅の要素・・、

旅の要素には、三つの段階が有ると小生は思っている、 事前、事中、事後の三要素である。
何処へ、何時、何の為に、どの様に・・、「事前」つまり思い立った時点、計画、下調べが始まった時から既に旅は始まっているのである。 そして「事中」、実行段階で体感し、感性が刺激され、記憶に留まるのである。「事後」は、記録、整理をしながら、それらの背景を再度調べてみて再確認する・・。これらの事を能動的に行うことによって旅は一層楽しく、記憶に残るものになると思われ、更に、最近は、ネットやホームページで公開することも出来る。
この度の外周旅行において、ただ通過しただけの村や町、地域が多数あったのだが、これらの「ところ」がどの様な特性や特色を有しているのか、歴史的建造物、史跡や寺社、これらの歴史や背景は何なのか、等々が気になるのである。
これらの「事後調べ」を行うのに、書籍本は無論であるが、インターネットという便利で重宝な手段も有り、ネット情報等多いに参考に活用させて戴いた。その為の「整理の時間」に、旅の道中の時間の数倍にも増して期間を費やすことになってしまったのであるが。
本文中、出来るだけ自分なりに考察し、編集し、掲載したが、文中、引用していただいた中には個別の保護や権利等の問題もあるやもしれません、これらの当事者、関係者に、もしも御迷惑をお掛けしたなら改めて御礼と御詫びを申し上げる次第であります。
尚、本編、特に歴史的内容につきましては出来るだけ下調べをして史実に基づいた正確さを記そうとしていますが、中には想像であったり、創作であったり、私観であったりしている箇所も多々有ります。あくまでも本書は旅の参考書、読み物としてご理解いただければ幸いです。
更に、冒頭申し上げたように本編は「投稿ブログ」から転載したものです、文章が横書きであったり、通常文との不釣合いなど読みにくい面が多々有ろうかと思いますが、こちらの方もご了解のほど宜しくお願いいたします。ご協力有難うございました・・!!。

この後引続き、「日本周遊紀行」(西日本編)を記載いたします。


『渇いた心に、オアシスと清風を求めて、明日も旅たつ』  

風人



【追記】

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2009年 著者


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