日本周遊紀行



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日本周遊紀行(93)和気 「和気清麻呂」

和気出身の「和気清麻呂」は「天皇継承」に関して多大な貢献をした・・、 

この西大寺に沿う「吉井川」の上流地域に「和気町」がある。
和気は、古代より官道に沿う要衝の地であり、一帯は、「吉備の国」と称して(山陽地方の古代国名、大化改新後備前、備中、備後、美作に分かれる)筑紫、出雲、飛鳥の四大古代日本文化の発祥地ともいわれている。
そして名称の如く和気氏の祖、古代史上馴染みの和気清麻呂(わけのきよまろ・733〜799)の出生地と伝えられている。 当地の豪族・和気氏と大和王朝との係わりが深く、その後の奈良・平安の両時期にわたり大いに栄えたという。 
中でも和気清麻呂は奈良期から平安期の転換期、朝廷にて桓武天皇の信任厚く活躍した人物で、この時期「道鏡事件」という天皇継承事件が発生し、これを取り纏めた人物として後世にその名を留めた。 更に清麻呂は、「平安遷都」の立案者であったことも史上有名である。

道鏡事件とは・・・、
淳仁天皇が即位したのは奈良後期(758年頃)であった。この時、平城京(奈良)を改造する間、仮の宿として保良宮(ほらのみや:滋賀県大津)を造営し、推進したのは天皇の後見人といわれる藤原仲麻呂だった。近江出身だった仲麻呂は、保良宮をいずれは本格的な都にするはずだった。

【追記】
現在、近江大津に保良宮の痕跡なるものは残ってないが、2006年に京をつなぐ幅18mもの「田原道」という古道が発見されたというニュースがあった。

天皇の位を譲った孝謙女帝は早速、保良宮に移り住む。
ここで法僧・道鏡(弓削道鏡・ゆげのどうきょう)と知り合うことになる、奈良期は仏教を中心とした政治が行われていたため、法僧の地位は比較的高く、道鏡は女帝の看病役として寵愛を受け、その後太政大臣にまで出世する。女帝は奈良の都に戻って淳仁天皇を廃し、自らが称徳天皇と名乗って、再び即位する。(道鏡の意もあったとされる)この時、あわてた仲麻呂は、これを阻止しようと反乱を企てるが、途中で発覚し女帝軍に捕らえられ斬首されてしまう。女帝の下で権力を欲しいままにした道鏡は、遂に、天皇の位まで狙うことになる。 ここで登場するのが「和気清麻呂」である。

こんな時期、豊前国の宇佐八幡宮の宮司が朝廷に、「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたという(これは道鏡の工作による)。 天皇は驚き、神意を確かめるために勅使として清麻呂が選ばれた。 九州に下った清麻呂は豊後の宇佐八幡宮に篭り、正規のご神託を得ることになる。「皇位は、神武天皇からその皇孫(皇男子)が受け継ぐべきものである。 皇孫でないものが皇位が継ぐことはならない。」とした。 この万世一系の思想は(継承権は永遠に同一の系統が続くこと、多くは皇統について言われる)、和気清麻呂が起こしたものと思われ、現代にまで受け継がれている。 昭和憲法下でも「皇位継承は世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。皇室典範第1条では皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と記され、清麻呂の思想以上に具体的になっている。

このことに天皇から反感をかい大隅国に遠島されていた清麻呂は、桓武天皇即位と同時に赦免され京に戻る。後に、天皇の側近として各種、事業を行い、如いては平安京遷都に尽力する。京都・神護寺は平安京遷都を祝って清麻呂が建立したものという。
明治期に、清麻呂は「皇位を守った」として護王神社に祀られる。 前日の項にも記したが、京都・護王神社(京都市上京区烏丸通・さざれ石・君が代で有名)の主祭神でもある。又、東京の皇居に「銅像」が建てられている。

序いでながら先にも記したが・・、
平安遷都を進言した官人・和気清麻呂を祭る護王神社(京都市上京区)は京都御所の西側、蛤御門の向かいに鎮座し、併せて清麻呂公の像も立つ。 又、像のすぐ後ろには、「君が代」に象徴される・通称「さざれ石」というのが座置されている。 この石は、小粒な石が堆積して自然に大きくなった巌とされ、国内でも最大級(高さ2.3m幅3m重さ約7トン)で、まさに大きな巌で静かに時代の推移を見守ってきた。この「さざれ石」は、国歌「君が代」に詠まれた由緒ある石だという。

『 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 
                     巌となりて 苔のむすまで
 』  (古今和歌集 よみ人しらず)
(あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となって、苔が生える、さきざしまでも)  新潮日本古典集

「わが君」が「君が代に」に、「千代にましませ」は「千代に八千代に」に変わったのは、平安期の藤原公任(きんとう・966〜1041)が編纂した「和漢朗詠集」の流布本(るふぼん:広く世に知られている本)によるといわれる。

明治憲法は「万世一系の天皇はこれを統治す」として、「君が代」は天皇自身を指すとされていたが近年の国文学者などによると、古来の歌詞の意味で、『「わがきみは」の「わが」は親しみをこめて添えた接頭語、「きみ・君」は天皇を指すのではなく、本心から敬う人物を対象に広い意味の人民として使われる。 親しい相手の長寿を祝うこの歌は、古い民謡の面影を伝え、思いやりに溢れている』と解説している。
明治期には、歌の解釈が当時の「富国強兵」に解釈利用され翻弄された一方で、護王神社の宮司は「国民が、末永く平和で繁栄を願う精神を表している」というふうに、天皇賛美を超えてこの歌が親しまれていることには間違いないという。 


「日本国国歌」

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで

(読み)
きみがよは
ちよにやちよに
さざれいしの
いわおとなりて
こけのむすまで

(現代語訳)
君が代は
千年も八千年も(末永く・・)
細石が
大きな岩になって
それに



尚、戦後(特に1980年代以降)国内では、各方面から国家「君が代」に対する肯定的或いは批判的意見が主張されるようになり、アジア地域等を含めて物議をかもした。そして、様々な思惑が交叉する中の平成8年(1996年)、当時の文部省の指導で、教育現場においては「日章旗」(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化されることになった。

次回、瀬戸内・直島・・、

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日本周遊紀行(94)宇野  「直島」


宇野港の正面に位置する「直島」は、我が青春の1ページに残る・・、

さて、国道2号線より「児島湾大橋」を渡り、湾岸をかすめて宇野港へ向かっている。
大橋から児島湾沿いに県道45号(岡山―玉野線)を行くと、微かに望める対岸より一直線にこちらに向って伸びる大橋が目に付いた・・?が、左右に工作物らしいのが広がっていて橋ではなさそうなのである。 どうも此れは堰堤らしい・・、ここを境に海面の色や岸辺の状況が異なるようにも感じを受けたのはそのせいであった。そう、ここはすでに「児島湖」で淡水湖らしい。

これだけ陸に入り組んで接している湾海は、常識的には汽水湖のはずであるが、この堤を境に半ば強制的に淡水化されてしまったらしい。しかも、現在の児島湖は岡山市西部を流れる笹ヶ瀬川、倉敷市から流れる倉敷川などの水が生活雑水も混じって放流され、相当汚れた水になっているらしい。 すでに感覚的にも許容限度を越えており、負のイメージが湖周地域を覆っていて、日本でも最も水質汚染の激しい湖沼の一つとなっているらしい。 
現在、湖沼水質保全特別措置法指定湖沼にもなっているという。 
元々、この灘崎町(現岡山市)は倉敷南部の所謂、岡山平野といわれる南部地域は瀬戸内海の浅瀬が広がる海であって、その隔てられた向かいの大島が「吉備児島」(現玉野市、倉敷南部)といわれた。 海域が浅瀬だったため容易に干拓が行はれ、既に室町時代のころには埋め立てによる新田開発が始まったともいう。 そして江戸期には、吉備児島は陸続きの半島となり、更に戦後の昭和期には国家事業として干拓が進められ、児島湾の一部を干拓堤防で閉め切って灌漑用水とし児島湖が完成したという。
しかし、この干拓地は低湿地のため排水が完全にはされず水質汚濁の要因にもなり、又、現在は減反の時代でもあって、干拓農地は重荷になっているのが実状といわれる。
堰堤には完成記念碑があり、昭和天皇の歌碑もある。

『 海原を せきし堤に たちて見れば  
               しほならぬうみに かはりつつあり
 』  

長い、尾坂トンネルを抜けると県道22号線となり、やがてJR宇野線と真近に並行しながら南下すると行き着くところが宇野の街である。 あまり往来する人もないアーケードの商店街を更に進むと、洒落た赤い三角屋根の宇野駅であった。当然ながら40数年前の昔の駅舎とは大部違っていることだろう。 駅舎を横目に見ながら、更にゆっくり前進させると、やがて大きな埠頭にでて、ここで行き止まりである。 むろん岸壁には全く線路の面影は無い。

かっては宇野駅から線路が岸壁端まで在って、接岸された連絡船内まで延びていた。 そう、ここは北の青森駅の「青函連絡鉄道」同様、西国唯一の四国・高松を結ぶ国道フェリー「宇高連絡鉄道」の埠頭ターミナルであった。 当時の国鉄時代の鉄道車両を積載した岸壁は今は瀬戸大橋の開通とともに廃止され、普通の埠頭に改修された。そして、目の前に大きく横たわる「直島」、「高松」へのフェリー埠頭になっている。
現在、直島に向かう船はこの宇野港と更に、直島から香川・高松港へ連絡している。この便は今も昔も変わらないようである。
小生とって、宇野港、直島そして高松は、青春の一ページを飾った懐かしい土地柄である。

20代後半(昭和43年)、品川白煉瓦(製鉄、精錬に要する耐火炉材もメーカー)の東京本社に勤務していた。 業務上、香川県・直島の三菱金属精錬へ銅溶解炉建設のため、凡そ1年間の出張勤務を命ぜられた。東京から直島までの行程は東海道本線、山陽本線の「寝台専用列車・瀬戸」か、新幹線で新大阪(当時は新幹線は東京⇔新大阪のみ)を乗り換え山陽本線にて岡山、宇野に達するかの何れかで、宇野からは乗合船(フェリー)で島へ渡ったものである。 
殆どは、全室個室の「走るホテル」と言われた寝台専用列車・「瀬戸」を利用し、東京駅を22時前後発で、終着宇野へは翌朝の7〜8時頃の到着であった。
宇野は、列車や乗合船を待つ間や休日には遊興、買い物等でブラブラした街であった。直島までの乗合船は、「宮之浦」という港を出入りしていて、勤務する為の宿屋がこの港の上部、見晴らしの良いところに在った。
記憶に残るのは、朝6時頃の一番船が出る頃、船長が好きだったのかどうか定かではないが、船から当時、流行(はやり)の「長崎ブルース」(青江 ミナ)や「ブルーライト・ヨコハマ」(いしだ あゆみ)の曲を時折、結構大きな音量で流していたことであり、それがハッキリ宿屋の部屋まで達していたことである。 
朝の目覚めの時間帯であったので、さして苦にはならなかったけど、早朝の頃に夜のムーディーな曲を流す不思議さと、連日、聞かされたため知らぬ間に歌詞を覚えてしまった事であった。
給料日の後は、チョット贅沢に高松まで繰り出して遊興を楽しんだものであった。

今の宇野港は、昔の面影は全く無いのは当然ながら、記憶の方も彼方へ消し去っていたようである。
又、3億円強奪事件が発生したのもこの頃であった・・、

昭和43年12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場のボーナス3億円(実際には2億9434万1500円)を積んだ日本信託銀行・国分寺支店の現金輸送車が、ニセ白バイの警官に現金輸送車ごと盗まれた。 日本史上はじまって以来の巨額強奪事件で、3億円は今の貨幣価値でいっても30億円近い金額であり、昭和63年同日、民事上の時効が発生、今も未解決である。


「直島」は、岡山県・玉野市(宇野)の目の前に在り、当然、経済、文化、社会の面では岡山県との結びつきが強い、しかしながら行政上は讃岐・香川県に属している。 江戸期、直島諸島と「小豆島」は、その海上交通上の重要性から徳川氏の直轄領となって讃岐国に移し替えられ、明治維新後は香川県に属したまま今日に至っているという。

また、保元の乱(平安期1156年)で敗れた崇徳上皇(すとくじょうこう:讃岐・金毘羅宮に大物主神:おおものぬしのかみと共に同祀)が讃岐へ流される際に、一時、四国上陸を拒否され、三年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされてる。 島内各地に上皇ゆかりの地名や名所があり、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。

直島村は大正期、三菱鉱業の打診した銅製錬所を受け入れ(現、三菱マテリアル)、煙害、公害問題を発生させながらも、三菱の企業城下町として一気に発展し、人口増加と豊かな税源等で香川県内でも有数の豊かな生活が手に入ったという。
思い出の地「直島」へ渡って、当時の小生の足跡を辿ってみたいのだがが・・んん・・!!。

次回は、倉敷・鷲羽山へ・・、

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日本周遊紀行(95)児島 「鷲羽山」

瀬戸内海、眺望絶佳の地・「鷲羽山」・・、 

国道30から国道430をそのまま南下する。 
所々にトンネルのある山間地から「渋川」というところで、いきなり海岸に出た。 美しい海岸線がどこまでも続く砂浜で、「渚」、「白砂青松」の100選にも選ばれた名所「渋川海岸」である。 海水浴場としても中国地方では有名で、日本の海水浴場五十五選にも選ばれ、夏季には県下でも約50万人の海水浴客が訪れるという。
ところが陸側は、海岸とは対照的に低山ではあるが新割山、王子ヶ岳といった山塊が連なる。それに山頂付近は低山には珍しく、奇岩怪岩が連なる岩峰である。 この辺りの岩石は瀬戸内地方でも代表的な花崗岩質が多く、きわめて雨や風にて風化されやすい。そのために山頂では、このようなゴツゴツしたい岩山が出来上がったという。風化された花崗岩質は石英、長石、雲母(地質鉱物の元となるもの)が多く含み、流れ出た砂礫は海岸に堆積し、渋川海岸のような白く美しい砂質の海浜線を形成したという。
海上は、青く浮かぶ正三角錐(円錐形が正しい・・)の大槌島をはじめとする瀬戸内海独特の島々の海洋景観を呈し、はるか沖合に打ち並ぶ香川県の岬の裾は、細く鈍い銀灰色の線となって浮いているようである。 右手に、あの「瀬戸大橋」の人工的美景が何の違和感もなく遠望され、絵の様な、というより絵にしたい様な風景が広がっている。

児島の街並みから間もなく鷲羽山である・・、 
今は瀬戸大橋の基点での名所であるが、元々、瀬戸内海国立公園随一の景勝地であり、国の名勝にも指定されている。 「直島」勤務時代、岡山の友人とこの地を訪れた記憶はあるが、様相は既に忘却に帰している。 山頂へ達すると、視界は360度に展開し、のどかな瀬戸内海に点在する島々が、そして「下津井」の島が呼指の間に見渡せる。 真下に下津井の港が望まれ、眼前に島伝いに架かる瀬戸大橋の全景を見ることもできる。 絶佳の風景とはこの事であろうか・・!!。
鷲羽山の名称は、文豪・徳富蘇峰が、「秀でた風景をこの岬に集める」と賞賛し、両翼を広げた「鷲」に似ているところから付けられたといわれる。

「下津井節」  岡山県民謡
1.下津井港はョー 入りよて出よてョー
  まともまきよてョー まぎりてョー
  トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ・・
     (繰り返し・・)
2.下津井港にョー 碇を入れりゃョー
  街の行燈のョー 灯が招くョー
3.船が着く着くョー 下津井港ョー
  三十五丁艫のョー 御座船がョー
       ・・・・間奏・・・・
4.追風吹こうとョー 下津井入れョー
  ままよ浮名がョー 辰巳風ョー
5.下津井港はョー 碇か綱かョー
  今朝も船出をョー また留めたョー
6.船頭面舵ョー 下津井見えたョー
  ここは久須美のョー 渦の中ョー


国道430をそのまま進む。
水島コンビナートの中核、川崎製鉄・水島製鉄所(2003年、日本鋼管福山製鉄所〔福山市〕と川崎製鉄水島製鉄所〔倉敷市〕が統合し、JFEスチール〔Japan、Fe=鉄の元素記号、Engineeringと、Japan Future Enterpriseとをかけたものである。世界3位の事業規模〕西日本製鉄所が誕生している。)の巨大工場を左に見ながら、山陽道・玉島I・Cへ向かう。

次回は、「しまなみ海道」   PartVへ



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