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西日本編   8日目:PartX(琴平)   PartY(善通寺、讃岐・寒川、赤穂) へ  
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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」



「金毘羅さん」は、小生、幼少の頃より現在に至るまで縁の有る神社である・・!!、


琴平町・金刀比羅宮のことであるが、その前に・・、

金毘羅神社といえば全国各地に、その分社、支社が存在し、金毘羅さん(こんぴらさん)の名で全国の民衆に親しまれている社宮である。 
そして、小生の生涯の中で金毘羅宮とは幼少の頃より現在に至るまで縁がある神社でもある。 


小生の田舎、故郷である福島県いわき市湯本には、由緒ある神社が2ヶ所ある。 
日本でも古湯とされる湯本温泉の象徴的守護神である「温泉神社」と我が青年時代までの在住地である関船町に鎮座している「金毘羅神社」である。 
この金毘羅宮は幼少の頃、歩いても数分の処にあり、この鎮守様の森でチャンバラごっこや度胸だめし(肝試し)をしたもんである。 
縁日の1月10日(旧暦)は近郷近在の人々がご利益参拝のため、大勢訪れ、参道、側道には縁起物や駄菓子屋のテント、見世物小屋が立ち並び、押すな押すなの大盛況である。我が家でも「ご接待」と称して親類、縁者、知人を招いて馳走を振舞い、大賑わいで小生ら子供たちは訪問者から「おこずかい」をもらって縁日へと出かけたものであった。

当地の「金毘羅神社」は500年の歴史を持つという。
江戸時代に入ると近海で海難事故が多数発生し、その為村人が讃岐の金毘羅神社に出向き安全祈願をした所、たちまち事故が起こらなくなったという、その為、新たに金毘羅権現を当地に勧請し社殿を造営したといわれる。
金毘羅大権現宮例大祭の1月10日は、いわき市一円、県内、宮古、気仙沼、房総、新潟県など各地から十数万人という大勢の参拝者で賑わう。神社境内をはじめ沿道には約500店舗の露店が並ぶ。


次に、現在在住の神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250〜300mの丘陵地の山頂に「金毘羅宮」がある。 
こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在にも成り果てている。
小生は今でも毎日のように鳶尾山系へのトレーニング・ウオークを行っているが、この際には必ずこの社を通り、参拝をするようにしている。 

江戸期往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近在の氏子で大賑わいであったと言う。 
特に、鳶尾地区(中荻野地区)は矢名街道(相模原−大磯線と甲州街道に通ずる津久井街道、現、国道412号線)と大山道(現、の八王子や相模原方面)の交差地域に属し、「大山参り」の通行客と合わせて鳶尾山の金毘羅宮を参拝したともいわれ、大勢で始終賑わってたという。 
今は見る影もなく、小生実家の宮の賑わいを思うと残念でならない。 

歴史的遺産やそれにまつわる祭礼や行事を存続させることの、いかに大事か、そして難事であるかを象徴するようでもある。

蛇足ながら大山は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。
中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。現在でも四季を通じて参詣者が耐えないが、特に、江戸落語に「大山参り」という話しもあり、当時の大山参詣と賑わいぶりは有名である。


現在、鳶尾山の金毘羅宮の古びた社殿の正面上部には縁起・由緒が以下のように書かれてある。

   「金毘羅子世羅天由来記」

 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。
 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
 一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
 翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。

  享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
  文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
 大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺 世話人・・』
 


続いて、琴平の金刀比羅宮・本宮

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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」


写真:参道鳥居と金毘羅さん・本殿


本宮地元では、「しあわせさん・・こんぴらさん・・」として親しまれている・・、

さてさて、本社、琴平町の金刀比羅宮である。

代表的な門前町・琴平の中心に金刀比羅宮の石畳参道がすぐ目に付いた。
主要道路の角の大きな駐車場へ車を寄せて、「お参りの帰りに2千円ほど買い物すれば無料でいいよ・・、」と年配の係員が曰く。 
見れば、奥のほうに立派な店構えの土産屋があった。先ずは、カメラと賽銭を持って早速出かける。

幅の広い石畳参道の両側にはギッシリト土産やが並ぶ。やがて名物の石段の始まりである、名物「讃岐うどん」の老舗らしいのが二軒ならんでいる、「とらや」という最初の石段のすぐ脇にある店が、実に歴史的な深さを感じる。

石段横に、「本宮まで785段、奥宮まで1368段、海抜421m」とあった。
石段を登り始める、両側には、これまた立派な石燈籠や玉垣などが無数に建ちならび、額に汗して上り下りする参拝客に無言の激励をおくっている。 
参拝客が長年行き来した石段は、表面がすり減って磨かれたようになっている。 
それでも最近になって手直しをしたのだろうか、部分的に石の表面を削って滑らないようにしてある、参拝客への心遣いだろう。 石段の両脇には、軒を接するように土産物屋が並んでいる。 時折、乗合籠が目に付く、年配者や身障者には有難いだろう。

ここを抜けると、やがて大門が見えてくる、威風堂々たる構えの山門である。 
1650年、初代高松藩主の松平頼重侯の寄贈によるものといい、楼上に掲げられた「琴平山」の名札は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう・明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒であった)の筆によるという。 
山門のそばには、「五人百姓」の名前を持つ、鼈甲飴(べっこうあめ)を売る店がシンボルらしく、大きな番傘を広げ、古風な姿でお客さんを待っている。本来は境内では商売禁止だが、昔からの神事への功労により特別に境内で営業を許された五店の商家が「五人百姓」といわれるそうである。

所々に「しあわせさん・・こんぴらさん・・」の大きな暖簾が気持ちをほぐしてくれる。 
無限かと思えるほどの石段を登り越して、ようように山頂境内に立った。

本殿境内には、「書院」や「旭社」といった由緒ある建物が並ぶ。特に左手に在る「旭社」は絢爛豪華な社殿で、屋根裏、柱、扉など至る所に彫刻が施され、完成まで約40年の歳月を要したといわれている、あたかも日光陽明門をみるようである。 
本殿の南に建つ、南北2つの「絵馬堂」も吹き抜けの堂々たる造りである、海難除けのお礼や祈願成就の絵馬をはじめ、大小様々、色とりどりの絵馬が掲げられている。

さて、本殿である。
中央拝殿に額ずき、神妙に参拝する「旅の無事安全と一家身内親戚一同、無事安泰、交通事故の無いよう、宜しく見守って下さい」・・と。

本殿は象頭山(ぞずさん)の中腹に鎮座する大社関棟造(たいしゃかんとうつくり)と言われる荘厳な社殿で、大物主大神と崇徳天皇を祀り、海上安全をはじめ、国の繁栄や農漁業、医療など、さまざまな願いを叶えてくれるといわれる。 「讃岐の金毘羅さん」と昔から親しまれ、江戸時代には「お伊勢参り」と並ぶ程の人気であったという。
 

金刀比羅宮は、古くから海、航海の守り神として信仰されていることは衆知である。
瀬戸内海は、古来より海上交通の要衝であり、しかも海流が激しい海難の地域であった。
 讃岐の琴平山はこの瀬戸内海を見下ろし、見守る絶好の地であったため自然発生的に海の祭神が祀られるようになったと思われる。 

金刀比羅宮は大物主神(オオモノヌシノミコト・蛇神であり水神または雷神としての性格を持つ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り醸造、国の守護神)を祀り、古時は琴平神社と称した。 
現在の琴平町名はこの社名から起こったとされる。 又、後に保元の乱(1156)で都を追われ讃岐に流され、この地でで生涯を終えた崇徳上皇を合祀相殿するようになったという。

因みに、金刀比羅宮の主祭神は「大物主神」で「和魂」とされ、元々は大国主神のことであった。 
和魂とは「ニギミタマ」と称され、 柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂のことである。 反対語に荒魂があり、一般に神霊には両方の性格が有するとされる。(人間もいっしょだね・・!)

不安定な日本の国を安定させるために大国主神が中心となり、粗野であった大地の国造りを行われて来たので、このような状態を大国主の「荒魂」ともいわれた。 
平定した国をよりよく治めるために大物主神の和魂をもって五穀豊穣や平安を祈る力とした。 
はじめ荒ぶる魂であったが後に、和やかな魂になったとされ、二つの精神を持った一つの神のことで、日本の国は大国主神の国造りを終えられたところで、大物主神の力に委ねられることになる。
大国主神と大物主神は同一神とされ、記紀(古事記、日本書紀)などの表記によっては幾つかの神名を持つ。


さて、琴平山(象頭山)には、はじめ松尾寺(本尊・釈迦如来、薬師如来)が建立されていた。
その御本尊の守護神として金毘羅が祀られて、これが金毘羅大権現(※)になったという。

この金比羅さんというのは、元々は薬師如来の守神である十二神将の筆頭・宮比羅(インドではクンピーラ)のことで、クンピーラはガンジス川に棲む鰐の神格化されたもので海神や竜神といわれる。 
因みに、薬師如来は、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、東方浄土(浄瑠璃界ともいう)の教主で、その 名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を 与える仏とされる。 

薬師如来は大陸には存在せず、所謂、東方の日本に主に存在し、飛鳥の時代より信仰されているといわれる。 
脇侍(きょうじ)には御存知の左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩で、十二神将に取り囲まれている。 
この十二神将は言い伝えによれば、時を表す十二支に対応していて、一日を約2時間ずつ交替で守護しているのだといわれる。
この十二神将の筆頭の宮毘羅大将が、日本では金毘羅(コンピラ)に訳され海上安全の神となり、大衆には「金比羅(こんぴら)さん」の名前で親しまれるようになったとされる。

(※)権現(ごんげん)とは、仏が化身して日本の神として現れることで、日本の神の神号の一つでお馴染みである。日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ・平安期に起こった神仏思想)の考え方に基づいた神号である。 「権」という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。


又、琴平山が象頭山と言われるのは、お釈迦様が修行した地に似ていたのと、琴平山が象の頭に似ていたので、その名が付けられたとも言われる。 
象頭山金比羅大権現」は、神仏習合によって金毘羅自体に神名が与えられたことを意味する。

ところが明治の初期、国家神道を成立させるべく、明治政府が神仏分離を発令され、後に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた)と呼ばれるものが実施された。
その為松尾寺は、寺自体を廃絶させた上で祭神を金刀比羅宮として生き残り、そして現在はこの祭神が踏襲されているという。

日本は海の国、海洋国家である。海の神様である「金刀比羅宮」が全国各地に分社、分支され多くの国民に愛され祀られているのは当然の事と言えるかもしれない。

次回は、金比羅宮の「さざれ石」について・・、

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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」


写真:さざれ石と“君が代”由来の銘版


国歌・「君が代」の由来・・、

大門からの参道の突き当たり、円山応挙(江戸時代中期の絵師、「足のない幽霊」を描いた元祖ともいう)でも有名な御書院のそばに「さざれ石」が鎮座している。

「さざれ石」というのは「細かい石」のことで、鉱物的には長い時間をかけてこれらが集まり堆積して、粘土や砂などと混ざって礫(れき)岩となり、やがて巌(大きな岩)になったもの。
古来、小粒のものが大きく育つ意味合いで、目出度い「石」とされている。勿論、我が国歌「君が代」の題材になっていることは承知である。

この、さざれ石は他の主要な神社にも鎮座されている所があり、特に京都の護王神社(京都市上京区:京・平安遷都に功績のあった和気清麻呂を祀っている)のものは和歌に詠まれた「君が代」の原点になったものといわれるが・・?。 
「さざれ石」は、その他の主要な神社である出雲大社(島根県)、鶴岡八幡宮(鎌倉)、霧島神宮(九州)、又、「君が代」を尊愛する関係先では千鳥が淵戦没者霊園(東京都)、さざれ石公園(岐阜県)というのも在るらしい。


国歌・「君が代」について・・、

『 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 
                   巌となりて 苔のむすまで
 』  (古今和歌集 よみ人しらず)

(あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となり、苔が生える先ざきまでも) 新潮日本古典集より


この歌句が、「君が代」の大元になったとされている・・、
明治憲法では、「万世一系の天皇はこれを統治す」と、「君が代」は天皇自身を指していたが、これは歌の解釈が当時の「富国強兵」に解釈利用された、戦後は国民にある種の思惑で翻弄された。
現在は天皇を超えて、国民を讃美、讃歌する歌として親しまれていることには間違いないとしている。


途中、参道石段の土産屋にユニークな、かなり大きめの「石松っつぁん」の人形が置かれていた。
ご存知、広沢虎造の口演「森の石松・金毘羅様代参」の石松っつぁんを模作したものである。 

石松は次郎長の名代で金毘羅様さんへ行くことを頼まれ、大政、小政にも金毘羅様代参に行ってくれるよう説き伏せられる。 

その場の一節・・・、

『 文久二年の三月半ば、何処も同じ花見時 
次朗長が石松に、讃岐の金毘羅さんまで使いを頼む
悪(わる)の代官と久六を斬った汚れた刀をお山(金毘羅さん)に納めに行くためである 
すぐに行ってきますという石松に・・、
「待て待て、発つのは明日でいい。それから次朗長が頭を下げてのお願いは、お前という人は酒癖が悪いから、旅の間は一滴の酒も飲んでくれるな、いいか・・」
「わかりました、つとまらねえから断ります」
「俺がこんなに頼んでもいやか?」
「いやです・・」
「よせ・・!次朗長には六百何十人子分がいるが、俺の言うことをいやだと言うのはお前一人だ、生かしておいちゃためにならねえ、命はもらった、覚悟しろ」
「有りがてーな、わっしゃあ、あんたに惚れて子分になったんだ、惚れたあんたに斬られて死ねりゃ本望だ、さっ、斬っておくんねえ」 
強情っぱり同士が喧嘩している 
となりの部屋で聞いていた大政、小政が石松を呼びつけて
「石・・、嘘も方便て言葉を知らねえか、判らないようにこっそり飲んでいいから・・」
と説教し、判った石松は、翌朝、金毘羅さんへ向けて出発する、四国・金毘羅さんに刀を納め、讃岐の国を後にして、大阪へ戻る石松は、大阪・八軒屋から伏見へ渡す三十石船に乗り込み、船中でのやりとりで・・、
「飲みネー、食いネー、もっとこっちへよんネエー、江戸っ子だってネー」
「神田の生まれヨー」の、やりとりは余りにも有名である・・、 
だが、その後の石松の運命やいかに・・・??。 』
  

と言う次第である。
現代の若い人は・・?、無理かな。

帰路、駐車場の御土産屋で、2000円の七福神の置物を購入し金毘羅宮を後にした。


 「金毘羅船々」  (四国 讃岐民謡) 

金毘羅船々
追風に帆かけて
シュラシュシュシュ
まわれば四国は
讃州・那珂郡
象頭山
金毘羅大権現
一度まわれば

金毘羅み山の
青葉のかげから
キララララ
金の御幣の 
光がチョイさしゃ
海山雲霧 
晴れわたる
一度まわれば

金毘羅石段
桜の真盛り
キララララ
振袖島田が 
サッと上る
裾には降りくる 
花の雲
一度まわれば

お宮は金毘羅
船神さまだよ
キララララ
時化でも無事だよ 
雪洞ゃ明るい
錨を下して 
遊ばんせ
一度まわれば

 

昔の女の子は、よく次のような数え歌を歌いながら、お手玉で遊んでいた。
  一番はじめが一宮
  二また日光東照宮
  三また讃岐の金毘羅さん
  四また信濃の善光寺
  五つ出雲の大社

  六つ村々鎮守様
  七つ成田の不動様
  八つ八幡の八幡宮
  九つ高野の弘法様
  十で東京浅草寺


次回は、七十五番霊場・善通寺    PartYへ


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