本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月30日 延日数 第9日
出発地 道の駅・あいおい 出発時間 5時20分
到着地 宮島口・ユースホステル 到着時間 18時20分
天 候 晴、27度暑い 体 調
走行道路名 R2、山陽道、岡山ブルーライン、県39、R2、県45、県22
R430、山陽道、しまなみ海道(福山西IC〜大三島:往復)
主移動地名
相生⇒姫路⇒備前⇒牛窓⇒西大寺⇒玉野(宇野)⇒瀬戸内(因島、生口島、大三島)往復、三原、山陽道、広島、宮島(厳島)
現在(宿泊)地 安芸・宮島口Y・H
道の駅・PASA あいおい  黒井山  一本松展望園  大三島休憩地 
温 泉
名所・旧跡
姫路城  牛窓  西大寺  宇野港  鷲羽山
しまなみ海道  安芸の宮島(厳島神社)

写真集 U

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 3146 今回入油 36.2 本日支出 8968 本日支出 4751
昨日表示 2736 前回累計 169.7 前日累計 17778 前日累計 49473
走行距離 410 今回累計 205.9 本日累計 26746 本日累計 54224
総距離 4136  . . . . .

西日本編 9日目:PartT(相生、姫路、岡山) PartU(和気、宇野、児島)へ  第10日目へ  日本周遊ブログ
日本周遊紀行:詳細目次
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「山行リスト」 
 
立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)


「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」
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日本周遊紀行(90)相生 「ペーロン」



相生湾では例年、賑やかな「相生ペーロン祭」で盛り上がる・・、

純中華風の真っ赤な建物は白龍城、ペーロン城といい、1階がその名のとおり中華料理店で2階が温泉になっていてペーロン温泉という。 
650円の入浴券で、黒御影石の浴槽にドップリと身体を漬かる、浴室は落ち着いた雰囲気で朱色が目立つ建物の外観からするとかなり落ち着いて見える。 
温泉は、無色透明で海岸のせいか薄い塩味がする、他は特に変わった浴感はないが、湯上り肌がサッパりすべすべになったようである。 
露天風呂は、表のベランダらしきところに浴槽があった。この露天からは、運河のような湾を挟んで、IHI ・石川島播磨重工業(株)の巨大工場が見えている。


この運河のような湾で、日本でも数少なく有名な「相生ペーロン祭・相生ペーロン競漕」が行われるのである、そう、この露天風呂から見物できちゃうかも知れない。
ペーロン」は、西暦の紀元前300年頃の中国の戦国時代、湖南地方で「楚」(春秋戦国時代の国)の宰相・屈原が身を投げ、鎮魂のために龍船(白龍・パイロン)を浮べて競漕したのが始まりであると伝えられてる。 
日本へは、1655年に長崎港へ伝えられたとされ、ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンが訛ったものといわれている。日本国内でのペーロン祭は、相生、長崎、沖縄で行われている。

相生のペーロンはやはり長崎から伝わったようで、1922年(大正11年)に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられ、相生港祭りとして始まってという。 
相生湾で開催されるペーロンは艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅鑼(ドラ)1名、漕手28名の計32名が乗り組み、4隻のペーロン船が競漕する競技で、1レースは片道300mのコースを往復し、600mでタイムを競うという。

相生湾に沿って、ペーロン祭の見物用にもなる相生ボート公園があり、コーナーにはペーロン艇のモニュメントが建立されている。


白龍城・ペーロン温泉のフロント奥には軽食コーナーと休憩用のお座敷があり、軽めの夕食と一日のまとめを記録した。 車内で、何となくムッ・とした暑さで目が覚めた。
早朝のやわらかい陽光が車内に射し込む、潮の香りが鼻を撫でる、相生の朝は清々しかった。未だ朝の5時半であるが、頭をスッキリさせて先ずは待望の姫路へ向かうことにする。


瀬戸内海特有の穏やかな気候風土に恵まれている「相生」は、西播磨テクノポリスの副都市として、産業・経済の発展途上の都市でもある。 

又、交通の要衝で、山陽自動車道、国道2号線、国道250(はりまシーサイドロード)、それに国道373(上方往来道)、鉄道では山陽新幹線、山陽本線、赤穂線が其々合流か、近辺を往来している。

天下の国道2号線は関西主要部を結ぶ幹線で、大阪の梅田新道から北九州の門司までの国道である。門司では、九州を縦断し鹿児島方面の国道3号線に連絡する。
むろん梅田新道では、東京日本橋からの国道1号線が2号線を引き継ぐ。
沿道には、神戸・姫路・岡山・福山・広島・下関などの関西の主要都市を通貫する。東京日本橋から九州・鹿児島まで1,2,3号線の各線が結んでいる。

因みに、国道1号線の所謂、「旧東海道」は大江戸・日本橋から京都の三条大橋までであるが、いずれも、この大幹線道路の基点は、東京都中央区日本橋の「日本橋」である。 
又、主要地方へ向かう幹線道の基点も、この日本橋である。


ここで東京近郊に住む小生でもあるので、チョッと「お江戸日本橋」について・・、

「お江戸日本橋七つ立ち」の歌で知られるこの橋は、江戸時代から現在に至るまで文字通り日本を代表する橋として、わが国の歴史とともに歳月を重ねてきた。 
その最初の架橋は1603年、関ヶ原で徳川方が勝利した3年後であった。江戸幕府(家康)は、江戸に到る五街道を定め、この橋を起点として整備を進めた。
更に明治になってからは日本の道路元標をこの橋の中央に据え、各地の道標との距離を測定する基点とした。

現在使われている橋は、明治建築界の三大巨匠の一人、妻木頼黄(つまき・よりなか)のデザインで、構造設計は当時の東京市主任技師だった米元晋一が担当し、1911年(明治44年)に完成したものという。

ルネッサンス様式を取り入れた二連アーチ式であり、欄干の前面には東京の繁栄を願って麒麟の像が、また中央には、その守護を願って獅子の像が据え付けられている。なお、この橋の門柱に彫り込まれた「日本橋」という文字は、最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫(きごう:毛筆で文字や絵をかくこと)によるものという。

往時の初代橋は当然、木造の橋だった。
この辺りは江戸の中でも最も賑わっていた所で、浮世絵による名所絵(風景画)に描かれる日本橋には背後に富士山が描かれることが多く、江戸の象徴とも言えた。
この橋の袂には橋と川の織り成す景観を楽しむために水面近くまで階段で下りることができ、橋と流れの調和や上り下りの行き交う渡し船をみることができるスペースが設けられていたという。 
その一つは「瀧の広場」と称し、ナイアガラ瀑布のように壁面を水が流れ夏には涼しさを誘い、目を楽しませてくれたというる。
 この豪勢で美しい橋は、これまでの歴史から見ても、またその美観から言っても、日本における第一級の橋としての威容と、親しみやすさを兼ね備えていた。 

このような経歴とその風格から1999年には、橋の米寿を祝って国の重要文化財にも指定された。

現在の「日本橋」は、花崗岩製の第十九代のものであり、承知の如く上部に首都高速道路が被さっていて、圧倒的悪観を呈している。 

昨今、この高速道路の移設が話題になっているという。 以前から東京の景観破壊の元凶として首都高はしばしば槍玉にあげられていたが、それを、除くことはあくまでも理想論でしかなかった。
しかし、環境時代と言われる今日(こんにち)、小泉純一郎首相が日本橋の首都高を移設する一大事業に号令を出し、私的な有識者懇談会が発足している。 
当の石原都知事は、慎重姿勢を見せているらしいが・・果たして・・?。

次回は、待望の「姫路城」へ・・、

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日本周遊紀行(91)姫路 「姫路城」


写真:天下の名城・「姫路城」


日本で最も美しいと言われる「姫路城」は別名「白鷺城」ともいう・・、

この大幹線道・国道2号線は早朝というのに、交通量が多く神戸、大阪方面へ向かう流通大型トラックが目に付く。 30分程して姫路市街に入り、国道2号線をそのまま東へ進むと、やがて姫路城の天守閣が遠望できるようになる。 
大手前通りからお城の方角へ向かうと、お堀端に沿って幅広い道路が東西に走っている。その中央に大手門があり、ここから入園(入城ではない)する、まず、広大な三の丸公園が目の前に広がる。 
早朝のせいか観光客は少ないが、中年の夫婦や各グループがウォーキング、ジョギングを楽しんでいる。


正面中央に丸く囲まれた園地の中心に、巨大石で「世界遺産・姫路城」の刻印が刻まれている。そしてその背後に遠く、高く姫路城・天守閣が聳えていた。 城郭へは、正面管理棟の「菱の門」辺りから入城するのであるが、現今は、時間外で入ることはできない、入城は600円とか・・。

通りすがりの人と、チョッと話をする機会があった。 
和歌山の人で「全国の名城」を見物旅行しているという。
小生自身のことも若干話し、多いに納得されたようである。
また、一週間ほど前に小生の地元「小田原城」を訪門されたといい、旅行の目的とは色々あるものだと、小生も大いに感心させられた。


園内より東の方角へ行き、出来るだけ本丸・天守閣に近ずくと、朝日に照らされて白く輝く五層の大天守閣が天に突き上げ、その威容を誇っていた。 
この大天守は、三つの小天守を白壁の渡櫓が結んでいる。 空に向かって建ち並ぶ天守群と白く美しい白壁の広がの様は、天を舞う白鷺のように譬えられ、姫路城は別名「白鷺城」(しらさぎじょう・はくろじょう)ともいわれる。

姫路城は、鎌倉末期の元弘三年(1333:鎌倉時代終焉)に、播磨の守護職・赤松則村(南北朝時代、湊川の合戦で楠木正成を破った)がこの場所に砦を築いたのが始まりと言われる。
「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もあるが。

山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や戦国期・天正八年(1580)羽柴秀吉が西国支配の根拠地として入城し、翌年三層の天守閣を築いているる。
関ヶ原の合戦後、徳川家康の女婿・池田輝政(秀吉の仲介によって家康の次女督姫・とくひめを娶る)がその戦功により姫路城主となり、戦国末期から江戸初期の慶長年間から八年の歳月をかけ大規模に城域を拡張し、姫山に五層七階の天守を築いたのが今の城郭である。

輝政およびその子・孫以降は、親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたりもした。
本多忠政が嫡子・忠刻とその妻千姫(徳川秀忠の長女)のために西の丸に化粧櫓を築き、1618年頃、今日の名城としての全容を完成させている。

その後、榊原氏や酒井氏などのを経て明治維新後陸軍省に引き継がれ、明治末期に荒れた城の修復をし、昭和30年代から八年の歳月を費やして天守閣群を解体修理し今日に到っている。 

現在、大天守と三つの小天守およびこれらを結ぶ渡櫓(以上は国宝) をはじめとし、化粧櫓などの櫓27棟、門15棟、土塀およそ1km(以上重要文化財)と内濠、外濠の大部分は当時のまま残っているという。
中濠より内は、特別史跡に指定され、また1993年(平成5年)、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

尚、上記の「昭和の大修理」により「50年は保つ」といわれていたが、今日、大修理から45年が経過し漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の白漆喰の塗り替え、瓦の葺き替え、耐震補強を重点とした補修工事が予定されているという。

2009年(平成21年)度着工、2014年(平成26年)度竣工予定としている。

事業費は30億円弱と見積もられ、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部の公開は続け、大天守を覆うように素屋根を設置するため天守からの展望や外観の展望は望めないが、修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討されているという。


ところで江戸時代の初期には全国に大小180ほどの城があったとされるが、その殆どが、明治維新の際の取り壊しや、戦災によって滅失し、名城・名古屋城や熊本城も例外ではなかった。
その中で、姫路城は幾多の危機を乗り越え、奇跡的にも往時の姿をよく残しているという。
そして現在、その建築物のほとんどが、国宝や重要文化財に指定されいる。

日本三大国宝城の一つ(他に松本城、彦根城)に数えられ、築城以来の姿をよく残していることもあって時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」とも言われる。 現在、国宝に指定されている城は、松本城、彦根城、犬山城と、そしてこの姫路城の4つのみである。


姫路城の勇姿を何枚かカメラに収めて姫路を後にした。

今度は山陽道を西に向かう。備前I・Cより岡山ブルーラインへ、瀬戸内海が深く入り込む片上湾の入江を跨ぐ片上大橋を渡る。 
青空の下、紺碧の海が光る。 周囲は、たくさんの小島が海に浮かび、湾では無数の筏が浮かぶ素晴らしい景観である、牡蠣の養殖が盛んなようである。 
「道の駅・黒井山グリーンパーク」で小服を入れる、ここは、子供たちのための楽しい施設が盛りだくさんで、家族連れで一日中遊べそうである。

ブルーラインを邑久(おく)インターチェンジから、県道39号を南下して「牛窓」に向かう。
牛窓は、海沿いのリゾート地として知られる。 
オリーブが生い茂った小高い丘から見える瀬戸内の小島や、ヨットハーバーなどがかもし出す雰囲気から、「日本のエーゲ海」とも呼ばれているが、実際、目にしたのは、きらめく海に長く延びる防波堤があるわりには、船の姿も見あたらない不思議な港の風景であった。 

謳い文句とは裏腹に、普通の港のようで特に観光地らしい景観は見られなかったようであるが・・?、場所を間違えているのか、名に言う美風の景観地は他にあるのかもしれない。

次回は、裸祭りの「西大寺」

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日本周遊紀行(92)岡山  「西大寺」


写真:吉井川の河口にある「西大寺」


日本の奇祭・裸祭りの「西大寺」・・、 
  
途中に吉井川のたもと、あの「裸祭り」で有名な「西大寺」があった。
いきなり大甍(おおいらか)を配した本堂前に出たようである。 
一隅に、のんびりと母子がじゃれあって遊ぶ姿が長閑で良い。広い境内の隅に祭り用の観覧席であろう、雛壇様(ひなだんよう)に並んでいる。

西大寺創建の歴史は古く、奈良時代の天平に遡るという。 
創建当初の境内域は広大で、約48ヘクタール(1ha=1万平方米)にも及んで、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など実に百十数宇の堂舎が並んでいたという。 

寺地は、備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあった。
そのため門前町が発達して座商人が各地から集まり、西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えたという。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。

現在は、本堂をはじめ仁王門、三重ノ塔、大師堂、経蔵、鎮守堂等が配せられている。 
鎮守堂には一山の守護神である牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん:本尊・千手観音の守護神)が祀られているほか、金毘羅大権現(金刀比羅宮)が合祀されている。 


世に有名な「裸祭り」は、牛玉所大権現の信仰が特異な行事に発展したものと言われ、毎年、2月の第3土曜日の寒中に行われる日本三大奇祭と言われる祭りである。 
深夜、西大寺観音院本堂大床(おおゆか)に参集した、ふんどし一丁の男たち約9千人が、12時(0時)に投下される2本の宝木(しんぎ・牛玉所大権現の札木)をめぐって、裸男たちがすさましい争奪戦を繰り広げる、会陽は近年、死者を出したほどに荒っぽい。

宝木を拾う福男になるには、よほどの運の良さと体力が勝負であることはTVの映像などでも判る。
宝木には地元のスポンサーにより賞金がついているそうで、争奪戦にも一層熱が入る。 
規模といい、内容といい、知名度といい、これはどう見ても天下の奇祭である。 


「裸祭り」の根源とは・・?、

裸祭りは全国各地、北海道から九州までの各地神社で行われているようである。
一般には、その年の豊作と繁栄を願う祭で、農機具などが近代化される前は、強い働き手となる男性の存在が最も求められており、併せて、成人男女の出会いの場、強く逞しい裸体を披露することで婚姻相手を探していたともいわれる。

家督の維持、子孫の繁栄には強く逞しい男性の存在が欠かせず、裸祭を通じて男性は村の長老や女性に披露することで、結婚相手となる嫁や自家への入婿を探す男女の出会いの場として、村の行事のうち最重要の位置付けとされていた。 
裸祭に神木の取り合い等の闘争が多いのも、闘争能力の高さが男性の強さや生殖能力を象徴し、農家でより強い働き手であることを示すものでもあるだけに、伝統的に裸祭の参加は成人男性に限定されていた。

裸祭は禊(みそぎ・水で身体を清める)の後、お堂の内外で神木、玉など、その祭の「象徴」を奪い合う場合が多い。
その時期は、休耕となる真冬を中心に開催されるものが多く、これは冬場の娯楽の少ない農耕社会で鬱積した気分を解消させることを目的としていたともいわれる。
又、男性の闘争本能を呼び起こさせることで、地域社会の若者層の暴走を抑えることや、厳しい冬の寒さの中を裸で立ち向かわせることで、逞しい男らしさを演出させることでもあった。
一方、真夏に漁師を主体とした神輿を担ぐ祭、春から秋に掛けて神輿や山車を担いだり曳いたりする祭りもある。


この「裸祭り」ついて、昨今の世相を反映してか、本年(2008年)ある問題が提起された・・、

岩手県奥州市の黒石寺で1000年以上の歴史がある「蘇民祭」(岩手県を中心に伝わる裸祭り)の観光ポスター掲示をめぐって、JR側が「ポスターは客に不快感を与えるかもしれない」として断ったという。 

ポスターは写真3枚を組み合わせたもので、「ひげ面に胸毛がある男性が大きく掲載され、奥に下帯姿の男性らがいる」絵を表示したものである。 
「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」としたものであった。

ポスターなどは、万人に全てに対して好意的だとはとは考えにくい媒体だけに、主観の入るセクハラ道義にはどうかと思うが・・、セクハラとは、セクハラだと思ったらセクハラだという定義を聞いたことがある。
このポスター提示に関しては意見が様々なようでもある。

私見だが・・、
この祭りは「奇祭」なのである。 世に言う歴史と伝統のある「天下の奇祭」なのである。
たかがポスター一枚に関して、一言、二言苦言があったからといって、直に反応するのは如何なものか・・、過敏に反応しすぎるのは昨今の特殊な人間や世相に似ている。
その内、「裸祭り」そのものも問題になる時期が近いのでは・・?。


西大寺は、中国三十三観音霊場の第一番札所でもある・・、

お参りした後、先程から母子で睦まじく戯れているのを垣間見ながら、偶然その傍を通り退出しようとした。 
小っちゃな女の子に何気なく「バイバイ」と挨拶したら、予期せぬような返事で「ばいばい」と、にこやかに手を振り、そして、若くて美しい母親もニッコリ笑顔で会釈してくれた。 

こんな胡散臭い「おじん」に、母子観音のような素直な笑顔で挨拶を返せる親子が羨ましく、微笑ましく、心が和み、得したような気持ちになった。 

これも、西大寺・観音菩薩の思し召しか・・!。



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