日本周遊紀行



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西日本編   8日目:PartW(伊予三島、豊浜、観音寺)   PartX(琴平)へ 
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日本周遊紀行(83)伊予三島 「三島神社」



伊予三島と駿河三島の兄弟神・「三島神社」・・、

予讃線・伊予寒川駅あたりで国道11は沿岸部を行く。 

寒川とは・・、懐かしい名前で我が在住の地・神奈川県にも寒川町があり、「さむかわ」と読むが、こちらは「さんがわ」と読むらしい。
もっとも、香川県の東部にも寒川町があるが、こちらも「さんがわ」と称するらしい。

その香川県・寒川町と神奈川県・寒川町は、親戚関係(親子関係)にあるらしい、とは云っても太古の神代の昔のことで、国土とか、川とかに関係ある神社同士(「大蓑彦神社」と「寒川神社」は親子関係にある)の話である。 

伊予三島市の地域である寒川は、両町とは何か因縁・由緒があるのであろうか・・?。
寒川八幡宮が当地に鎮座しているらしいが、由緒は・・?、「八幡宮」というから宇佐神宮の流れを汲み、源氏ゆかりの社のようにおもえるが・・?、小生が些か調べてみたが全く不明であった。


ところで、こちら伊予三島市は、瀬戸内の「しまなみ海道」が走る大島、「大三島」とは親子の関係にあるらしい。
現在の伊予三島市は製紙の町で、大手の製紙メーカーの工場が林立している。 
市内に入ると何となく工場から出る化学性の臭が感じる。 
その市内海岸近く、その名も宮川に沿って「三島神社」が鎮座している。

一方、沖合い「魚島」より西方15kmに瀬戸内海を塞ぐように「しまなみ」の群島があり、その中央に「大三島」がある。
この大三島に、全国で一万を越すと言われる三島神社の総鎮社にあたる「大山祇神社」が鎮座している。 祭神は、わが国建国の大神・天照大神(アマテラス)の兄神に当る大山祇命(オオヤマズミノミコト)を祭っている。

縁起によると養老4年(720)、時の国司・越智玉澄(おちのたまずみ)が、大三島の大山祇神社より当地に勧請し、三島神社(伊予三島市中央と伊予三島市宮川に二社鎮座あり)を創建したといわ、その名に因んで当地を「伊予三島」の地名が付いたという。

越智氏は、伊予国・越智郡に勢力の中心をもっていた氏族であり、奈良時代以降、越智郡の郡司としてこの地方に勢力を張っていた。
越智氏は、大三島に大山祇神社を奉祭してきた氏族でもある。

「三島」という地域名は、明治22年の町村制実施により正式に三島村となり、明治31年に三島町に昇格したらしい。 
昭和29年に6ヶ村が合併し、現、「伊予三島市」が発足した。 
ところが、所謂、「平成の大合併」で2004年4月 、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町・宇摩郡新宮村などが合併し、「四国中央市」という。 何ともミョウチクリンな名前の市が成立、誕生している。 

又、この市名が将来、道州制が導入される場合の道庁所在地の州都に成る事を目指して命名したというから、チト早合点しすぎじゃありませんかと思う次第であります・・?。


ところで小生の知るところ、駿河の国、静岡の三島市にも、その町の中心に「三島大社」が鎮座している。 この神社の祭神は、やはり大三島の大山祇神を祀ってあり、大山祇神社を分祀したものであるとのこと。 
伊予三島と駿河三島は両神社に因んで、さしずめ兄弟都市に当たるのかもしれないが、特に、行政地域としては繋がりはないようである。

尚、明日、広島・尾道側から「しまなみ海道」を渡る予定なので、この時に大三島の「大山祇神社」について若干詳しく述べるつもりであるが・・?。


宇摩地方の製紙業・・、

三島から「川之江」の市街地を通る、市街地といっても産業地、工業地帯であるが。 
やや時代を経た・・?工場群と近代設備を誇る新鋭工場群が混在して立ち並んでいる。
特に目立ったのが、大王製紙、愛媛製紙、伊予段ボール、丸住製紙など紙、製紙に関した産業・企業が多く、盛んなようである。

やはりというか、川之江を中心とする当地域は、製紙、紙加工業において日本屈指の生産量を誇り、その他を含めた製造品出荷額は年間約6000億円にも達し、製紙工業の出荷額は全国一を誇るという。 工業出荷額は、四国では西条市に次いで二位を占める。


宇摩地方(旧宇摩郡のことで、現在の川之江市・伊予三島市・宇摩郡をいう)の製紙業は江戸中期頃、駿河の国(静岡)から伝わり、手で紙を漉く(すく)ようになったのが始まりという。 
宇摩郡の村々は、稲作に適した平地が少ないため、副業としてこうした紙漉きが次第に広まっていき、そこから次第に紙漉きを専業とする業者も増加したという。 
明治維新後,製紙工場は更に増加し,紙の販路拡大や製紙技術の革新への努力により、今日の当地域の製紙産業の隆盛の基礎が築かれたという。

川之江地方の紙製品は、お札と切手と収入印紙・証券類(金札)以外は何でも揃うと言われ、伝統産業の手漉き和紙や水引製品にはじまり、機械抄(きかいすき)製品や各種の紙加工製品・その他、最近の不織布(糸の形態を経ずに、繊維シートを機械的・化学的・熱的に処理し、接着剤や繊維自身の融着力で接合して作る布、裏地・壁材・医療用など)や機能紙に至るまで生活の多様化に伴い新しい製品が生み出されている。


主な紙製品を種目別をあげると・・、

 
水引細工 元々、元結(髪を束ねて縛る糸紙)の生産が盛んであったが、明治初期の断髪令により急減産、生産工程の類似している水引に転換を図り、現在では全国2大産地を占める。
手漉き和紙 小判紙・大判紙・書院紙・障子紙・コピー紙・典具帖紙・奉書紙等々18種類あるが、現在は書道半紙の産地として、需要家に支えられる。
機械抄紙 新聞用紙、印刷用紙などの洋紙で、豊富な良質の水が必要である。銅山川・疎水事業の完遂による工業用水を確保した。
加工紙 日常生活に深く係わった紙製品、家庭用から趣味工芸の分野、衛生・医療用製品から産業用に至るまで。
不織布 「織らない布」の様な感じで、合成繊維の出現によって、天然繊維や化学繊維等を科学的、物理的な方法によって結合させたもの。 現在、あらゆる産業分野に進出している。
機能紙 ハイテク紙のことで、従来の紙には無い新たな機能を持った紙である。 テレホンカードからリモコン機器・液晶電算機からテレビ画像まで、数えれば枚挙に暇がないほど日常生活に深く係わっている。


次回は、名物・「讃岐うどん」について・・、

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日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」


 
全国区になった「讃岐うどん」には、仕掛人がいた・・、

伊予の「川之江」を過ぎると、国道11号は間もなく讃岐の香川県である。 
土佐とか、伊予とか、讃岐とか、四国四県は何れも古来から藩政時代までの呼称が良く似合う。
今でも、各地域や施設には、旧名称が好んで付されているのである。


県境の「道の駅・とよはま」で一息いれる。 
昼時でもあり、讃岐に到ったからには早速、讃岐名物の讃岐うどんを食する。 
かなり広めの「浜っ子茶屋」という和風レストランがあったが、先ずメニュウを見てビックリ、300円代からと「讃岐うどん」が安いのである。

先ずは、440円の山かけウドンを食する。
ズルズルとほうばると柔らかさの中に芯があり歯ごたえがある、その汁(つゆ)も関西風の薄色、薄味で何とも美味なのである。
値段のことを言うのも何だけど、これだけの品質、旨さだと首都圏では倍額はするだろう・・?。


ところで、遍路さんが弘法大師に親しむ香川県では「うどん」は、大師さまが唐から伝えたと語られているともいわれている。
これは伝承に過ぎないが、うどんは、遍路が道々、簡単な食事を摂るのに適している食物であることは確かである。

江戸時代には金刀比羅宮への参拝客を相手にした旅籠が増え、その一階がうどん屋となる例が多かったという。
店頭に茹で釜が置かれ、鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた器に、つけて食べる形式が一般的となった。(今で言う“つけうどん”で、地元讃岐では「湯だめ」ともいうらしい)
又、参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、名所図会などにもその記録が残っている。
だが、往時の一般庶民や農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の祭り事に振舞われる特別な存在だったともいう。 

近代の明治になって一般庶民も食するようになるが、その頃は、所謂、「夜なきうどん」という行商が高松市内に増え、天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部にランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていたともいう。
以降、香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が食べられるようになり、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉まであったという。

最近では健康食も相まって、空前の「讃岐うどん」のブームだそうである。 
そこにはやはり仕掛け人がいたようで・・、全国最小県のタウン情報誌「TJ・Kagawa」初代編集長が、食文化・讃岐うどんを連載企画したところ、圧倒的人気を得、一気に全国区に押し上げたという。 
お陰でTVのグルメ番組でも、讃岐うどんは度々取り上げられるようになったようである。


讃岐うどんの、その特徴は安さにあるという。

香川県外の人には、讃岐うどんの値段の安さがにわかに信じられないというが、1杯100円や200円はざらで、それも極めて人気店がそうであるという。 
県下で讃岐うどんの時間帯別動向を調べると、午前11時から午後2時の間に全店の95%以上が開いていて、売上げもこの時間帯で大部分を占めるという。
その後の夕方から夜にかけては、どんどん店閉いをするため、讃岐のうどん店は圧倒的に、「昼型仕様」なのである。 
しかも、昼時にうどん店に入ると、これまた圧倒的にサラリーマンの客で溢れているという。


つい最近、『UDON』と言うTV映画を見た、「うどん」である・・、

主人公・香助(名前が思わせぶりでいい:ユースケ・サンタマリア)が挫折して、海外から故郷の田舎町に戻ってきた。借金を背負い人生のどん底にいた香助の前に、地元の雑誌社で働く美人の編集者・恭子(小西真奈美)が現れる。
香助は恭子や地元の人々と触れ合ううちに地元の名産品である「うどん」の魅力に目覚め始める。

「うどん」という日本独自の食文化を通し、日本の魅力が存分に表現されているのである。
共演者にはトータス松本、小日向文世、鈴木京香ら個性豊かな面々が出演している。

ああ、うどん食いテー・・!、今夜は「うどん」にしよう。

次回は、昭和の宰相・「大平正芳」

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日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」




写真:拝むとお金に不自由しないという、琴弾山の「寛永通宝」と観音寺

 
田舎町の豊浜に、昭和の宰相・「大平正芳」出現・・、

国道11号の沿線の町役場の前に銅像が建っていた。
この小さな田舎町の「豊浜」に、歴代の総理大臣が出現していたのだ、「大平正芳」氏である。 

昭和50年代の第68・69代の総理大臣で、ずんぐり、むっくりした体型で口ごもって物をいい、演説や答弁の際に「あー」とか「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取り、またその風貌から「鈍牛」ともいわれた。 
自民党幹事長、官房長官、外相、通産相、蔵相などを歴任し、派閥領袖だった三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の所謂、「三角大福」の四人での総裁選には敗れるが、その後も今太閤と言われた田中角栄と盟友関係が続くことになる。 
田中内閣の発足で外務大臣に就任し、日中国交を成立させた。1978年に福田赳夫首相に挑戦する形で総裁選に出馬、予備選挙で福田氏を破り、直後に第68代内閣総理大臣に就任している。

朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」との評判が示すとおり、政治における知性や言葉に重きを置く政治家であったという。
その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は、今日でも多いに顧みられることが少なくないといわれる。読書家としても知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。

首相が、靖国神社にA級戦犯が合祀(昭和53年合祀)される前に参拝したことがあり、それに関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁している。

又、「政治とは・・?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。
1980年には、社会党が提出した内閣不信任案が反主流派の欠席によって可決、ハプニング解散となり、憲政史上初めて衆参同日選挙が行われる事態を招来した。
同日選の第一声を挙げた翌日に体調を崩して入院、心筋梗塞で急死した。 
この大平首相の死が国内政治の空気を一変させたという。 
かねて抗争終結の落としどころを模索していた自民党の主流派(田中派)と反主流派(福田派)は、「弔い合戦」を名分として一挙に結束に向かい、また追悼ムードは有権者にも大きく作用したため、同日選では自由民主党が大勝した。


三カ所の霊場を抱える、名勝・「琴弾公園」・・、

豊浜のすぐ隣が「観音寺市」であり、市名が寺院名と同じなのは珍しい。
四国八十八箇所観音霊場で讃岐の霊場は「涅槃の道場」といわれる。 
弘法大師が仏門へ入門され、巡礼の終期の入定(にゅうじょう・精神を統一して煩悩を去り、無我の境地にはいること)に至るといわれるところである。 
涅槃(ねはん)とは、煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態で、仏教における理想の境地をいう。 

第69番霊場・観音寺は、地元の人に「おかんおんさん」と親 しく呼ばれている代表的なお寺であり、そのためか市名も観音寺の名がそのまま付いているのである。 
海岸に面して観音寺市民の憩いの場所、自然美と人工美が融和したといわれる名勝・琴弾(ことひき)公園がある。 
瀬戸内海国立公園にも含まれ、白砂青松の有明浜や松林の続く公園は「さくら名所100選」に選ばれており、美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっている。 
園内には、珍しく砂で絵が描かれた「寛永通宝」というのがある。
東西122m、南北90m、周囲345mもある巨大な大砂絵の銭形(ぜにがた)で、描かれた理由は定かでないが山頂より拝んだ人は健康でお金に不自由なく暮らせるという。 
ここに琴弾八幡宮や神恵院(じんねいん)、観音寺等の名所旧跡が点在している。

琴弾八幡宮」は、縁起によると創建は703年、名僧・日証上人が山頂に草庵を結んで修行していたとき、海のかなたに神船が浮んで琴の音が聞こえた。
これは宇佐八幡(大分・宇佐の神宮で全国八幡宮の総本社)のお告げであり、その神船と琴をひきあげて山頂に祀ったという由緒ある神社とのこと。
屋島の合戦に勝利を得た源義経が、次の壇ノ浦の合戦の勝利を祈願したといわれる。 
この琴弾山は、義経が屋島合戦で勝利した要因の地の一つとされている。
義経が伊勢三郎義盛に命じ、伊予の国から田口佐衛門教能(伊予大洲城主)の一千騎が平家援軍に向かう途中、説得により食い止め、源氏側に味方した所だといわれる。 屋島の合戦で最悪の場合、平家に挟み討ちされ、形成は逆転していたかもしれないとも言われるところである。
八幡社は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭ってあるといい、技芸の神の他に海の安全、戰の神、豊穣の神として奉っている。 神社では技芸の神にあやかって、近年、全国奉納絵馬コンクールなども行っているとか・・。

第69番霊場・観音寺は寺伝によれば、大師は神功皇后を尊崇し観世音の生まれ代わりであるとして、聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置した事から始まるという。併せて七つの宝を埋めたことにより七宝山と号し、第69番の霊場に定 められた。  
本坊の庭園は巍々園(ぎぎえん)」と呼ばれる名園で、様々な形をした巨岩を背景に造られた枯山水の石組みは素晴らしく雄大な眺めてあるという。  
朝廷では桓武天皇以来、歴代の勅願所と定められて信仰も厚く、各武将からも厚い信仰を受け、寺運は永く栄えて現在に至っている。

第68番・神恵院は、行基が722年に訪れた後、弘法大師(空海)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山・神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。
神恵院は明治初期までは、神宮寺として琴弾八幡宮に付属して同一境内にあった。
ところが明治政府による神仏分離令により、琴弾八幡は神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来像も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移され現在に至っているという。
つまり、其々が独立しながら神恵院は観音寺と同居した形となり、一つの山に、二つの霊場があるという不思議な現象が生まれた。 
神恵院境内の隅に納経所があるが、観音寺の納経所も兼ねているので、お遍路さんにとっては琴弾山界隈の風光明媚な地と相まって、二札所の納経が一緒にできるという有難い札所でもある。

次は琴平の「金刀比羅宮」   PartXへ


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