日本周遊紀行



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日本周遊紀行(44)すさみ 「枯木灘」



「枯木灘残照」・・、


左に串本の人気スポット「串本海中公園」を見ながら、「すさみ」へ到る。
すさみ」とは、ひらがなの妙な名前だなと思ったが、元々は「周参見」であり、周参見村が前身であった。 
読み難いので安直に「すさみ」にしたのだろうか・・? 


こちらにも大辺路街道の熊野古道が残る地域である。
JR周参見駅の国道42号沿いから、途中山間に分け入って、熊野灘を望む屈指の景観と往時の佇まいを残す、「長井坂」を抜けて見老津駅(みろつ)にかけてのコースである。
周参見の街外れ、周参見川辺りには熊野古道所縁(ゆかり)の「周参見王子神社」が残る。

古くから紀州の海、周参見の沖合いを航海する船乗りの間では、この地方を「枯木灘」と呼んでいた。

明治43年(1910年)発行の「周参見村郷土誌」には、『 周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯を枯木灘と称し、古来東牟婁郡大島港出港の上り船は、周参見港湾に寄港して風を避くるの外他に良港無きを以て、其海上を枯木と称し船人警戒するところなり・・、』とあって、古くから呼称されていたことが伺える。

和歌山県が昭和29年、県立公園として「枯木灘海岸」の名称で制定し、周参見町と江住村の境界から、串本町有田の錆浦までの地域を指していた。


この枯木灘の参見駅湾に浮かぶ「稲積島」がいかにもいい。
神武天皇ゆかりの島というが、神武東征の折、食糧の稲をこの島に積み上げたという伝説からきた島名であるといわれる。 
青の海面に半円状のホッコリして浮かぶ緑濃い島で、色彩コントラストが良くここから望む夕景もまた絶品という。

地元紀州・新宮出身の作家・中上健次が長編小説『枯木灘』を描いている。
中上健次は1975年(昭和50年)、『岬』で第74回芥川賞を受賞している作家で、所謂、「紀州サーガ」と呼ばれる紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、独特の土着的な作品の世界を作り上げた。

又、最近では歌手・都はるみが『枯木灘残照』を歌っていた、残照とは日が沈んでも、なお空に残っている光や夕焼けをいう。


枯木灘残照』  詞 道浦母都子

両手(もろて)にて君が冷えたる頤(おとがい)を
包みていしは冬の夕駅
君に妻われに夫(つま)ある現世(うつしよ)は
姫浜木綿(ひめはまゆう)の戦(そよ)ぐ明かるさ
歳月(とき)はながれて 歳月はながれて いまひとり
あゝ残照の枯木灘

・・・・  

歌の文句はチョッと判りにくいが、歌人・道浦母都子(みちうら もとこ)の文語調の歌詞が良い。




紀伊は、紀伊山地と言われるほど、重畳たる山脈でその殆どは覆われている。 
しかもこの地域は日本一雨量の多いところである。 

折り重なるような山稜の間を、屈曲しながら多くの河川が急流を成して、太平洋、熊雄灘に落ち込んでいる。
これらの河川は上流、中流をとわず多種多様に造形されて自然の景勝を見せている。

日置川は紀伊山地のほぼ中央部に水源を発し、中辺路や大塔村を経て日置川町、熊野灘、枯木灘に注ぐ、途中、日置川峡谷をはじめ多くの景勝地が見れる。 
水量も年間通じて多く、アユ釣りの本場であり、カヌー族のポイントでもある。

日置川町は古座川同様、河川名を地域名にしていて、河口付近は巨大な中洲を形成している、このあたりも古座川に類似している。 

国道42は新道、旧道が折り重なるように、日置川の中洲を渡る。

日置の町はそんな河口のデルタ(三角州)地帯に、正に川と海の狭間の三角地帯に形成されているユニークな街である。
町のキャッチフレーズにも「山と川と海の街」と、真にズバリである。 
町の西側海岸は「志原海岸」といって、日置川が運んできたのだろう小さな玉砂利の明るい開けた浜辺が続く。

近くに「道の駅・志原海岸」が在ったので、小休止して、後は今夜の目的地「白浜」へ向った。


次回は「白浜」に着きます・・、

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日本周遊紀行(45)南紀白浜 「温泉と都人」



平安期・都人の保養地・「牟婁の温湯」・・、


峠のトンネルを抜けると白浜町である。
下りきったところが「椿温泉」で白浜温泉の隠れた温泉地だといわれる。 
海岸の岩間から湧出している冷泉で、その泉質はきわめて良質、湯治には最適といわれている。 
江戸時代から紀州藩の武士や近郷の農家の湯治場で、奥白浜温泉との名称でも親しまれているという。 
国道沿いに数件のホテルや旅館が海に面して点在している。 
明るい砂浜の海岸は海水浴場のようだ。


紀伊の名湯・「白浜温泉」・・、

国道42号は富田川岸から富田橋を渡り、更に白浜温泉方面への県道34号に分かれる。 
白浜空港下のトンネルを抜け、名勝の三段壁や千畳敷(別項記載)を通過して温泉中心街の湯崎へ向かう。 
海岸に出たあたりで、外湯で磯浜にある「崎の湯」を覗いたが、あいにく本日は定休日とのこと・・残念無念!!。


この辺りはすでに硫黄の香りが感じられる、気が付くと崎の湯の入口付近には源泉タワーがモウモウと白煙を噴出している、さすがに温泉地・白浜である。 
近くにオッサンらしい(小生もオッサンだが・)人が居たので・・、

「崎の湯は休みなんすね・・、他に外湯というか、共同湯てのはございやすかね・・?」、
「温泉かね・・、ホレ、あすこに見えるんが ムレの湯ちゅう、共同浴場だがね・・、」 

確かに白っぽい二階建の建物が防波堤越しに見えていた。 


海沿いからY字路になっている間に在り、浴場の前は小さな園地と駐車場になっていて、何やら石碑がデンと座っていた。 
玄関上に大きな看板で「牟婁の湯」(ムレでなく、ムロと読む)とある。おもムロ(シャレたつもり・・)に引き戸を開けて中に入る。
復古調のフロントがあり、なかなかいい雰囲気である。浴室は両窓がついて明るく、二つの浴槽が有って、それぞれ違った源泉の湯が注がれている、聞くと其々源泉種が異なると言う。 


牟婁の湯に早速、浸かる・・熱い!!、でも気分爽快・・!

源泉湯船には、各々名前が付いていて「行幸の湯」という、何とも意味深な名である。 
こちらは含重曹食塩泉といい、入るとツルツルし泉温はかなり高い。 
飲泉も可能で味は、さすがに海辺のせいか塩っ辛い。他方は「砿湯(マブユ)」といい、こちらは食塩泉でもっと塩っ辛い味がする。 
熱くて(源泉70〜80度)当然水で薄めてはいるが、元々温泉成分が濃いためか、温泉臭が充満していて満足である。 
一つの施設で二種類の湯が味わえる、さすがに名湯・白浜である。

外の石碑には「湯崎七湯」としてあって


『 ふる国の 磯のいで湯に たずさわり 
                   夏の日の海に 落ちゆくを見つ
 』


茂吉(斉藤茂吉)とある。 


湯崎温泉は奈良朝以前より「牟婁の温湯」と呼ばれ、明治初期から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯の七湯を「湯崎七湯」と称し、来泉客に親しまれた。 
併せて、明治初期 鉛山村の図と記されていて、下に当時の温泉の略図が描いてある。

白浜は鉛山村・・?
白浜は先ず奈良朝の日本書紀や万葉集などに「牟婁の温湯」、「紀の温湯」という名で登場してくる。 
戦国後期に鉛鉱山が発見され、江戸期には紀州徳川藩の直轄領となっていて、その頃から鉛山村と称していたようだ。 
鉛が採れなくなった頃から鉛山温泉、湯崎温泉と名前が変わって湯治場として発展し、昭和15年、町制の施行によって「白浜町」となっている。


白浜は往時、貴人の保養地として有名であり、しかも、ある種の事件の背景にも成っていた。 
奈良朝期、大化の乱(大化の改新)に関係した有間皇子(ありまのみこ)、斉明天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじが・後の天智天皇)らが湯崎の仮御所として保養に来られた。
又、斉明天皇の他にも持統天皇、文武天皇等が行幸し、白浜温泉は都人にとっては、この上もない保養地であったという。

「日本書紀」によると、この白浜の地で有間皇子(孝徳天皇の子、中大兄皇子等が行なった「大化の改新」によって大化元年・645年、父の孝徳天皇が即位している)は謀反のかどで中大兄皇子に裁かれ絞首されている。 大化の改新から13年の後であった。


中大兄皇子、藤原鎌足等が行なった「大化の改新」とは・・、

飛鳥時代に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革であり、天皇中心、中央集権の政治への転換した一大政治改革である。
6〜7世紀にかけて、聖徳太子の上宮王家(上宮:聖徳太子の別称)を滅ぼし、大和の朝廷で権勢を振るう大豪族・蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子入鹿(いるか)は専横を極め、天皇家を凌ぐ力をもった。 

しかし、中大兄皇子らのクーデターで宮中での蘇我入鹿は暗殺、蘇我蝦夷は自殺した。 
この蘇我宗家の滅亡事件をこの年の干支に因んで乙巳の変 (いっしのへん) という。 
その後の中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らによる一連の改革を、年号「大化」としたため大化の改新と呼ぶに到った。


追記・・、

以前から奈良の明日香村ではキトラ古墳や高松塚古墳といった、飛鳥時代の古跡が発見されていて、周辺には石舞台や大型建物跡の遺跡も見つかっていた。 

又、本年(2005年)、今度は蘇我一族の館、特に、理想と野望の独裁者と言われる「蘇我入鹿」の邸宅の一部とみられる建物跡が明日香村の甘樫丘(あまかしのおか・天皇の宮殿のあった飛鳥盆地を見下ろす超一等地)で見つかったという、事実であれば世紀の大発見とも言われる。

これらの事柄は、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱(じんしんのらん)といった事件の中で日本書紀に記載されている事項と一致する部分もあるとか。 

元来、古事記や日本書紀は伝説、伝承部分が多く、事実、真実は少ないとされてきたが、昨今の遺跡の発掘等によって、これらの史書の信憑性が高まるのではともいわれている。
 

白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)にして、また三大温泉地に数えられる湯処である。


さっぱり湯から更に車を進めると、「白良浜」の海岸が南国情緒たっぷりに広がっている。 
間もなく海水浴シーズンで、この温泉場も一段と賑やかになることだろう。 
白良浜沿いの浜通りから入ってすぐ、銀座通りに「足湯横町」なるものが真新しく出来上がっていて、足湯に浸かりながら飲み物や軽食を食することが出来るという。全国初の試みとか・・??、何ともユニークでご満悦なことだろう。

白浜の湯とメインタウンをぶらついて、今夜の宿、千畳敷の真近くにある「かんぽの宿・白浜」に入った。

尚、「熊野地方」については、「世界遺産・紀伊山地・・・、」に記載しています。

世界遺産  『紀伊山地の霊場と参詣道』
 

更に、「白浜」   第5日目(南紀白浜、田辺、南部)へ

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