本日の記録・データ



本日・年月日 平成17年5月26日 延日数 第5日
出発地 南紀白浜 出発時間 7時55分
到着地 明石大橋:淡路S・A 到着時間 21時00分
天 候 体 調 普通
走行道路名 県33、R42、阪和道、県7、県65、R26、阪和道、大阪市内、
中国・山陽道、明石大橋
主移動地名
田辺⇒南部⇒和歌山⇒大阪市内⇒尼崎⇒宝塚⇒淡路
現在(宿泊)地 明石大橋「淡路S・A」
道の駅(R) 阪和道・岸和田S・A、 鳴門・淡路S・A
温 泉 白浜「かんぽの湯」  白浜「崎の湯」  有馬温泉「銀の湯」
名所・旧跡 白浜温泉  和歌山城  加太岬  大阪・四天王寺 
 大阪城  (尼崎西日本鉄道事故現場)
有馬温泉  明石大橋

写真集T

走行関係(km) 燃料係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 1653 今回入油 34.6 本日支出 2322 本日支出 14900
昨日表示 1350 前回累計 110.1 前日累計 6936 前日累計 24075
走行距離 303 今回累計 144.7 本日累計 9258 本日累計 38975
総距離 1653  




 

     《 南紀白浜・・U 》
  お馴染み「かんぽの宿」の白浜。白を基調とした三階建てで「くの字」に曲がった建物は、チョットしたホテルを連想させる。清楚な館内は、ホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じを受ける。
 順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む、著名な温泉場故の当然24時間営業である・・?
 良質な温泉の場合、小生、滞在した宿では三回入浴することにしている、先ず、到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに・・。
 脱衣所では海がそばであるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる、白浜に来たんだなと実感させられる。浴室はこじんまりとしていて清潔感があり、露天風呂も揃っていた、しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。
 眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩と洒落込む、宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあった、徒歩で3分位か・・?。千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう・・。今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。
 
  心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした・・。
 先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。白浜でも波打ち際の露天風呂で、特徴があり最も人気があって、どうしても訪れて見たかった外湯である。海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしい・・、午前8時から開場している事は、既に承知していた・・。300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えをくぐって浴場へ向う。木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった、粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあった・・。手前側の石垣の間から出る湯口の周りは析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもだ、温泉成分の濃さがわかるというもの・・。何はともあれ、早速、浸かる・・。ただ残念なことに男性用の露天浴槽に入ると、海が見えなくなってしまう。源泉温度は83℃というが、小生が入ったときは丁度の適温湯だった、開場間もないので調整したのだろう・・?。
 聞くところによると、つい最近までは無料であったらしいが2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収している・・とのこと。ちなみにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉である。入口の表示板にも八代将軍吉宗さん(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されている・・。
 帰りしな係員のオジサンが小生に寄って来て、「相模 No だけど神奈川からかね・・?」「ハイ、厚木です・・」「私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったですよ・・なつかしですな・・!」しばらく、雑談にふける・・。聞くと、開店間もないのが、毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ・・、待ってる車がズラリと並んで、やっぱり、この湯は有名で人気ナンバー1らしい・・。気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた・・。



     《 田辺:闘鶏神社と弁慶 》
  崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。
 県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。
 闘鶏神社とは妙な名称であるが・・・、
 鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ(軍鶏)がいる、最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。現在では、動物保護団体、宗教団体の反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で、楽しみの一つに挙げられた。この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったのだろ、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。
 闘鶏神社は元々は由緒正しきは「田辺の宮」「新熊野権現宮」と呼ばれていた。熊野権現(現本宮大社)を勧請し、田辺の宮と称したのが、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えると云う、三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負った。熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に鎮座し、はるばる京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからの険しい「中辺路参詣道」「大辺路参詣道」には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・」として、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのこと。熊野三山側が「出張サービス」をした権現宮であって、主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したという。
 闘鶏神社境内に「湛増」と「弁慶」の像がある・・。 
 田辺市は弁慶の生誕地であることは、地元では広く信じられている。熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だと言われるが詳細は不明だという・・が。 若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。その後も乱暴狼藉を繰り返し「京」で刀狩りを始める。五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う、弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の純朴な家来となった。
 時代は移って源平の合戦の頃、一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である「熊野別当湛増」の源・平双方の働きかけが激しさを増していた。義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽(源氏)、紅い鶏七羽(平家)を闘わせて“神意”を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。(NHK大河ドラマ“義経”で放映・・)
 兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残る・・。
 闘鶏の地は「田辺の宮」で、それ以来「闘鶏神社」と異名を付けた・・。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼にゆかりのある史跡が多い。
 田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 中辺路は熊野古道でも最も整備され、保存されている古道で歴史国道にも指定されている、川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る。大辺路は海の景観の良い海道、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る・・。

  田辺に関しては、南方熊楠(みなかた くまぐす)翁の事を書かねばなるまい・・。
 「紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたという・・。 この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである・・。
 南方 熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日〜1941年12月29日)は、和歌山が生んだ、博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者としては、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。
 幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者である。 東大に入学するが、同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 19才の時に、アメリカに渡り、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながら渡英。 その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表している。 また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構える・・。
 それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。   一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。
 明治政府の発した、「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には、真っ先に反対し、運動を始める。 神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというのが、運動を始めたきっかけのひとつらしい。 同時に、自然保護運動に傾注し(自然保護運動の先駆者)、明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させる。こうして熊野の森は護られたのである・・。

  1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行った。 このとき、キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られている。
 1941年(昭和16年)、75歳にて死去。 田辺市中屋敷に南方熊楠旧居があり、白浜半島先端に南方熊楠記念館(博物館)が在る。 南紀の海を望む、館の前には、昭和天皇御歌碑が建つ。

  後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。

    「 雨にけふる 神島を見て 紀伊の国 生みし南方 熊楠を思ふ 」

  と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる 。


  2005年5月1日に日高郡龍神村、西牟婁郡中辺路町・大塔村、東牟婁郡本宮町と合併し、新しい田辺市となった。これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える、近畿地方最大の面積を持つ市となった。



     《 南部と梅 》
  国道42を一山越えれば南部町である。  「一目百万、香り十里」
 と言われる「南部(みなべ)梅林」や「岩代大梅林」といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。そして日本一の、みなべの「南高梅」、梅干の産地であることは周知である・・。
 梅は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として、健康食に利用されてきた。 日本では平安期より既に梅干として利用していたという・・。
 南部は奈良後期、この地方を支配していた御名部(みなべ)親王が梅を好んで植えたという記録がのこっているという・・。 江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 さらに、紀州藩主の時代「吉宗」は梅干の保存を奨励したことから、更に隆盛になった。
 梅を栽培するのに、この地方の自然環境も大いに役だった。 先ずこの地方の温暖で多雨であること。又、地質的にも炭酸カルシウムを多く含んでおる。植物の成長にはカルシウムは欠かせない成分であり、梅は特にカルシウムを好むという。南部の土は梅の生長にうってつけだったのである・・。
 梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。 「南高梅」は南部で誕生、定着した梅である・・。
 明治期、「大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体」、これらを母樹とした高田梅の基礎が出来上がる。昭和期になって県立南部高等学校による更なる研究、品種改良が行なわれた結果、今の南高梅ができたという。 南部高等学校を、通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅のことから、この梅を「南高梅」と命名したという。
 現在、「南高梅」は、梅の条件とされる「皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含む。みなべ町で栽培される梅の7割以上を占め、また梅のトップブランドとして全国に、世界に知られる。今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。
 「南部」は、古くは三鍋とも表記されていたとされ、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む。
 2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。
 日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか・・。



     《 広川(広村)と津波 》
  みなべ町からは阪和道が開通していて、和歌山、大阪まで高速道で直結している。とりあえず和歌山まで阪和道を利用することにした・・。
 広川町の事である・・、ここの海岸地帯は昔は広村と称して、漁業を主に営む寒村だった・・。
 阪和道の広川I・Cから国道42を目指して海岸に向けて直進すると、小高い土盛りの堤防らしき物に突き当たる。高さ約5m、延長約600mの堤防(広村堤防)であり、その一角に、「浜口梧陵」の偉業をたたえる「感謝の碑」が建っている。

  今からおよそ150年前、安政元年(1854年)、紀州・広村は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う大津波に見舞われる。村民36名の死者を出し、住居は全滅に近い大きな被害を受けた。
 浜口梧陵はこの時、道筋にあたる水田の稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの。浜口家の稲むら・・?))に松明で次々に火をつけ、村人を安全な場所に導いた。その後、彼は被災者の救済や村の復興に尽力するとともに、私財を投じて、この堤防を築いたのである。 広村堤防は、昭和21年の南海地震の津波が広村を襲ったとき、村の大部分を津波から守ってという。
 この実話は小泉八雲によって、明治29年の三陸沿岸の津波災害の惨状と、浜口梧陵の偉業をヒントに、“A Living God(生き神様)”という短編小説を書いている。 又、小学校教材の「稲むらの火」と題し、国語読本(5年生)にも掲載された。
  阪神・淡路大震災から10年、新潟中越大地震から数ヶ月、そして福岡西部沖地震・・。 地震列島日本にあって、昨年のインド洋津波被害(2004年12月26日午前8時(日本時間26日午前10時)インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった)は驚きであったが、あの時の教訓としても「稲むらの火」が注目を集めたという。

  「浜口梧陵」(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として紀州広村(現在の和歌山県広川町)に生まれる。少年時代に本家の養子になり三十四歳ごろに七代目儀兵衛を相続している。(後年梧陵を名乗る)
 安政元(1854)年、梧陵35歳の時に、紀州広村において安政大地震に遭遇、私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。濱口家(ヤマサ醤油)は、江戸にも店があり千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていた。 開国論を賛じ、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開く。現在の耐久中学、県立耐久高等学校の前身である。
 幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、明治政府にも招かれ、和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府で初代駅逓頭(郵政大臣・総務大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設に当たった。
 現在、小泉総理の下で、郵政民営化の論議が盛んである・・が、(小泉首相の信条)、やがて、平成の時代には民営化はされよう・・。
 明治期、初代の郵政大臣になった浜口梧陵は、既に郵政事業は民間に任すべし、と持論を展開していた・・。
 「郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるがよい」・・と。 梧陵は、代々の大事業家として、紀州和歌山藩の藩政改革の責任者として、また、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建設した者として、公益の達成は、国や藩自らが行わなくとも、「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えていたのだろう・・。
 一方、当時の逓信改革の先鋒だった「前島 密」は、「今、日本は諸外国に比して弱小で切迫した状況下にある。中央集権の実現と海外圧力に対抗する国家の組織強化は緊急を要する。郵便通信は『国家の神経なり、急ぐことを第一・』として「官営」の名の下での公益達成の追求が必要である」・・とした。
 二人の持論は、政略の無い国家的持論で、どちらも正論であったが、当時の世相論理としては前島論が支持されて、官営としての郵便網が完成している。 しかし目を転じて平成の世は如何か・・?、世界の中の日本の状況、経済の安定性、国家財政の窮迫、これらに鑑み、国は三位一体・地方分権を目指し、小さな政府で官から民へと、今にして浜口梧陵の精神が生かされる時では・・と思われるが・・?
 梧陵は、国会の研究、開設のため欧米の見学行を企画し、65歳で欧米の制度を視察している。 大いに国家に授益せんとして海外への旅行中、アメリカ・ニューヨークで客死する。享年66歳だった。
 生前、広村の村人たちが、梧陵の積年にわたる恩に報いるため、「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。 しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。
 広川町役場前に「稲むらの火広場」の銅像が建ち、耐久中学校の校庭に「梧陵翁」の銅像が建つ。



     《 有田・蜜柑 》
  
       沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船 」

  江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。
 紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、「有田郡湯浅町別所」あたりが有力とされている。
 江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では、蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは、大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。蜜柑はなんと、元手の30倍の金額で売却できたと言われている。 故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなした文左衛門の活躍は有名になり、俗曲、カッポレに歌われるまでになった。
 彼が活躍したのは、江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。
 彼は、その頃江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保とむすびつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。 こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽とまでよばれた・・。
 しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権もうばわれ、商売もふるわなくなり衰退してゆく・・。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。

  日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である・・。 紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。
 今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。
 主文から外れるが、よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり・・、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。 ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる・・。 味の良否、量の多少はともかくとして、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、・・、国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されている・・と聞く。
 ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。
 では「温州みかん」の温州とは一体何か・・? 中国・浙江省の温州地方から入ってきて、ミカンの産地を称して「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか・・。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる・・。 温州みかんの原木は、中国からであろうとされたが、最近にいたってインドシナ原産(印度支那・アジア大陸の南東部、インドと中国の中間に位置するからいう。普通ベトナム・ラオス・カンボジア3国(旧仏領)を指し、広義にはタイ・ミャンマーをも含む)で、南中国から琉球沖縄を経て、わが国の肥後の国・天草郡西仲島(鹿児島県長島)伝来し、 そこで、突然変異したものが「温州みかん」の原型ともいわれる。
 ともあれ、日本の蜜柑の発祥地は、鹿児島県長島といわれる・・。
 紀州・有田に、「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃で、有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始める。 
 明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変美味と評判が立ち高値で取引されるようになった。 東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由をやめ、大阪経由の鉄道便を利用するようになり、天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。



     《 由良、印南・日本の味 》
  話が些か前後するが・・、小生、関東・相模の人間として由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。
 かつて、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって、「紀に興国寺あり」といわしめ、宗風一世を風靡し、「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。
 国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。
 時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名で「鎌倉の項」でも述べた。 その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を由良の港で行っていた。主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理) を弔うため高野山に入る、その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。
 故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え、一寺を建てた、これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。
 覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)すがたで帰朝したという・・。 これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院の総本山でもある。
 又、覚心は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 覚心は、醤油の製法をもあみだし、隣の湯浅町に伝えたという・・。
 その後、湯浅の職人が、黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである・・。
 又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 現在も「湯浅醤油」は、昔ながらの製法で造られているという。

  関連するが、由良、湯浅より南へ下って印南町(いなみちょう)の事である。 こちらはカツオブシの発祥の地といわれる・・。
 暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 印南の漁師たちが、「土佐の宇佐につくっていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれ、「宇佐はカツオブシの発祥地」と言われるが、もともとは宇佐にいた「印南」の播磨屋亀蔵が考案したものである。
 因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという・・。
 有田の蜜柑はもちろん、隣町・南部町には紀州梅もある。和歌山は、味噌、醤油、カツオブシ、梅干・・と、日本人の味の基本があり、発祥だったのである・・。



     《 紀州・和歌山:城と神々 》
  阪和道(海南・湯浅道路)から和歌山の和歌山城へ向うことにする。
 I・Cから国道24を和歌山市街方面、和歌山駅を右に見ながら程なく和歌山城・天守閣が見渡せた。 入城口を見つけるため、そのままぐるりとお城の回りを走り、駐車場を探すと市役所前のお城側に広い駐車場を見つけた、・・と思ったら観光バス専用である。 観光バスが一度に、こんなに来ることがあるのかね・・?と疑念をもちながら、どうやら、スペースの小さい城内の300円の有料駐車場に入れる事が出来た。 有料にしては余り整備されてない駐車場であるが・・。 石垣に沿って作られた石畳の階段を上り天守閣のすぐ下まであがった、ここで又、入城料350円である・・。金銭をケチるわけでないが、平日の観光客に、いかにも小銭を収受している感じで、何やら気分を損なわせる・・?。
 城郭は、三層大天守と二層小天守、二基の隅櫓を多聞櫓で結んだ連立式天守式といい、付属する天守曲輪と、本丸御殿の曲輪の二つの独立した曲輪がある。 又、岡口門が、国の重要文化財に指定されているのをはじめ、石垣、堀、門・・等の遺構が残る。 表側にお堀端を構え、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に、白亜の天守閣がそびえる威容は、さすがに御三家にふさわしい風格を醸し出してる。 残念だったのは、一般の入場口が裏坂や新裏坂といった脇道にあたり、お城の顔とも言うべき「一の橋大手門」から入場、退出が出来ない仕組みに成っていた事である・・。

  和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の「豊臣秀長」に築城させたのが始まりである・・。
 豊臣秀長というと、戦国時代としては表舞台に出ず、馴染みが薄いように思われるが、秀吉が天下を掌握した第一の功労者で、天下の名補佐役といわれ、生涯ナンバー2を守り抜いた人物である。
 戦国期、陽に陰に激しく抵抗した紀州一円を平定したのは、秀長の武力はもちろん才覚と人格によるところが多いという。 彼が果たした功績は非常に大きく、握った権限は著しく強かった。 特に、後半生は、 眩いばかりの栄光に包まれている。 116万石の大封を得、従二位権大納言の高位に至り、天下の政事の中枢に深くかかわり、百戦不敗の武功を誇り得た。そして、生涯の絶頂期において、永い病の末に生涯を終え、自らの大封を養嫡子に譲ることが出来た。つまり、この人は功績を積み、出世を重ね、至福のうちに天寿を全うしたのである。
 戦国期、英雄人傑が輩出し、一家一国を築いた数多(あまた)の中で、天下人と呼び、余りに著名な信長、秀吉、家康の三雄に次ぐ英傑であるとも言える・・。
 こんな、豊臣秀長により築城された和歌山城ではあるが、本人は中央中枢で多忙を極めていたため、城代として桑山重晴(秀長家老から秀吉直参)が勤めていた。
 徳川初期、加藤清正の息女を正室とする、家康十男・「徳川 頼宣」が、紀伊国・和歌山55万5千石に転封され、紀州徳川家の家祖となり、徳川御三家が成立する。 第五代紀州藩主「吉宗」の時、徳川将軍家の血筋が途絶えたことが因で、江戸幕府八代将軍へと抜擢、就任している。

  紀州・和歌山は徳川御三家の一つで、吉宗の出所として知られているように城下町である。 和歌山城を中心にして、町は放射状に発展してきた。 温暖な気候で海は万葉にも詠われた「和歌の浦」と川は「紀ノ川」と・・。 そして、和歌山市内及びその隣接地域には、数多くの神社が存在する。 数多くというが、ただの数ではない。市域の地図を広げる、と数えるだけで60〜70位にもなり、小さめの地図だと名称を記載するだけで、その面が埋まってしまう程である。 市内を数分歩くと、何れかの神社・仏閣に行き当たる・・、こんな具合であろう。
 市域のほぼ中央を南海電鉄・貴志川線が走る。路線の長さが僅か10キロ少々のところに、駅の数が12を数える。 この鉄道の敷設は、日前国懸神宮、竈山神社(かまやまじんじゃ:祭神・彦五瀬命で神武天皇の兄君)、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の三社詣でや、他の神社の参詣が目的の一つになっているといわれる。
 この沿線には岩橋(いわせ)、千塚古墳群、大池遊園近くには先史土器や縄文土器をはじめ、おびただしい古代遺跡が発掘されている。 貴志川八幡宮や大国主神社のある、終点の「貴志」は、紀州の飛鳥と呼ばれるほど多くの遺跡が残されてる。
 和歌山駅の東南、秋月地区に和歌山三社の一つ、「日前国懸神宮」(ひのくま・くにかかすじんぐう)がある。呼び名が少々ややこしいが、元来、古代における国造(くにずくり)の神宮(かみみや)の呼称は難解なものであるという・・。 形式的に伊勢神宮は、内宮、下宮が一対になっているが、こちらも日前・国懸の各宮が対になっていて、地元の人は、この呼び名が煩わしいのか「にちせんぐう」と呼び、付近を通る貴志川線の駅名も日前宮駅(にちせんぐうえき)と呼んでいる。
 この神宮は、天の岩戸神話で天照大神を導き出すために作られた神鏡が祀られているという・・、天照大神の別名ともいわれ。又、日前大神は、「紀」の國造りの祖として、伊勢神宮に次ぐ大神として崇められている。
 そして宮司は代々「紀家」である。 紀氏の家系の祖は、はるかに遠く、日本で最も古い家系の一つとされて、天皇家と出雲大社の千家氏と、それと日前宮の紀氏であるとされる。それに、紀氏の遠祖は、神武天皇東征の時期ともいわれる・・。したがって、紀の国(紀伊の国、紀州、俗名・木の国とも書き読む))は、神武・古代の時期から興ったものとされてる。
 日本の古代国家の誕生を語り継ぐ記紀神話(古事記、日本書紀)の中にも、和歌山の地名が数多く見えといい、和歌山は古代から伝説・伝承の時代を経て今日まで、営々と築いてきた精神や生活の文化の歴史の跡が色濃く残る地域である・・。



     《 紀州・和歌山:雑賀党 》
  中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれ、農業生産や鍛冶といった技術が秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。
 種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると 共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する・・、雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる。 彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれるが・・。
 戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域であった。 紀ノ川を、20kmほど遡った辺りの岩出町に、「根来寺」がある・・。高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていた。 戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を止め聳え立っている。 秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っている。(5箇所)
 ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方とに分かれるという。学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり、僧兵武装集団での根来衆は、この根来寺行人方のことである。 彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになるが・・・。
 鉄砲伝来は、「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。 鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。
 数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。 時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有したのである。 信長いまだ九歳だった時分である・・。
 こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成したのである。



     《 紀州・紀ノ川 》
  和歌山は、神話の舞台としてよく登場することは先に述べたが・・。 その理由には、大和盆地(奈良・・)に発生した古代の政権が、全国を統一し、その後、海外にまで進出する過程で、大量の兵員・物資を輸送する際に、大和盆地の南に位置する「紀ノ川」の水運を利用したといわれる。 見知らぬ国から国へ、異国からの不思議な話など、古代の和歌山は、日本の窓口、世界への窓口の中心だったとも想像できるのである。

  和歌山城を少し西へ行くと、紀の国の名河「紀ノ川」が広大に、 滔滔(とうとう:水の盛んに流れるさま)と流れる。
 水源は、奈良県と三重県の県境をなす台高山脈の南部、大台ケ原にあり、標高1500m から1700mほどの高山地帯で、吉野熊野国立公園に属している。この地域は、わが国屈指の多雨地帯で、一日の降水量300mmを数えることもあり、この多量の水は大自然を育み、文化の交流を支え、現実に日本有数の淡水魚群を生み出しながら和歌山湾に流れ込んでいる。
 和歌山出身の代表的作家、有吉佐和子の作に『紀ノ川』がある。この物語は“家と女という、日本の伝統の流れに身を任せる母、激しく抵抗する娘、そしてその二人を止揚(高めること、矛盾する諸契機の統合的発展をさす)したかのような新世代の孫娘。この三代の血の流れを、紀ノ川の流れに喩えて重ね合わせ、その情景の中で、日本の女の物語が静かに編みこまれている。
 小説「紀ノ川」は、花(はな)と呼ばれる主人公が、紀ノ川上流の九度山(紀の川中流域九度山町)から下流の六十谷(むそた:和歌山市北部の紀ノ川沿い・六十谷橋)に嫁ぐ朝の情景から始まる。九度山にある慈尊院で、花嫁と祖母は故郷の川をしみじみ眺めながら、その美しさを讃えている。 物語はその後、花が明治の嫁として伝統に生きる姿、その母に反発する娘、花の思いを受けとめる外国育ちの孫娘などが絡む・・。 和歌山の激しく、華やかな時の流れを、紀ノ川と代々連なる女性の営みに喩えたのかも知れない・・?。又、川筋の風土とか人情が巧みに織り込まれている。
 有吉佐和子は、和歌山には幼少の時分と疎開時と合わせても6,7年くらいしか居なかったらしい。しかし、地名の使い方、土地にまつわる話や言葉使いは実にうまいと、地元の人も文句の付けようがないと言う・・、というより地元の人も教えられることが多いと・・。小説「紀ノ川」は、昭和34年(1959年)に28才の若さで書いた出世作で、作家・有吉氏は53歳の若さで急死している。
 
  和歌山県の最北部、既に高野山の北側の登り口でもあり、大阪との府県境にもなっている地域に「橋本町」が在る。 ここに、中流域といえる「紀ノ川」が南北に分けて流れる・・。
 この地は、日本女性として、初の金メダリストになった人物の出生地であり、紀ノ川は天然プールで、その練習場でもあった。

   「 がんばれ、がんばれ、・・・、前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・あと5m、あと5m、あと5m、・・・。 
     勝った、勝った、勝った・・・前畑、勝った!勝った、勝った、前畑勝った!!・・・・」


  その時、NHK・河西三省アナウンサーがデッドヒートの模様を、何度も何度も連呼した実況中継が日本中を沸かせた。なんと、このとき「頑張れ」を、38回も言ったといわれている。 当時は、今の時代とは異なり、音声だけの「ラジオ」での実況だから、聞いている人達は、テレビのように、戦いの様子を眼で見ている訳ではない、何か、よく状況は分からないが、ただ「頑張れ、頑張れ」とだけ・連呼する声を聞いて、兎に角、前畑が大したことをやってんだと想像したもんである。そして、勝負が決まった後に、「勝った」 を15回も言ったそうだ。
 第11回ベルリン・オリンピック(1936年8月11日)での競泳女子200m平泳の前畑秀子の優勝の瞬間であった。  時代は、日本が国際連盟を脱退し、やがてドイツ・イタリアと手を結び第二次世界大戦へ突入する前夜でもあった。前畑秀子の金メダルには、そのまま日本という国の勝敗がかかっているような勢いであったともいう・・。前畑は、ベルリンオリンピックの想像を絶するプレッシャーの中で、自分の力のすべてを出しきり、プレッシャーをバネにするという強い精神力が、金メダルをもたらしたのだろう。日本女子初の金メダリスト・前畑秀子、その後、日本女子水泳競技に金メダルをもたらすのは、昭和27年のヘルシンキオリンピックの青木まゆみ選手で、実に36年間待つことになる。
 1990年、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。

    【 前畑優勝熱闘譜 】

  「ベルリンオリンピック女子二百平水泳決勝実況放送」    NHK・河西三省アナウンス

……切らないで下さい、スヰツチを切らないで下さい、もう予定時間ですが、切らないで待つて下さい、そのまゝ待つて下さい……
強敵はスタートのよいドイツのゲネンゲルです。はじめ抜かせて、あとでぐんぐんつめるのがわが作戦です。大日章旗を揚げるか揚げないかの境目です。そのまゝ切らずに待つて下さい、スヰツチを切らないで下さい……ホイツスルが鳴りました、各選手は一斉にスタート台に並びました。たゞ今ピストルが鳴ります……跳びこみました、跳びこみました一斉に跳びこみました。これは我が前畑とゲネンゲルの競泳でございます、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、跳びこんだときは我が前畑嬢と同じ、我が前畑嬢と同じ、第二コース、第三コース、オランダのワールベルグは割合に出ましたが、前畑嬢僅かにリード、前畑嬢僅かにリード、オランダのワールベルグが大分出まして前畑嬢と列んで居ります、我が前畑嬢三五、三五米、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、第一コースのイギリスのストレー、イギリスのストレーも出て居ります、イギリスのストレーも出て居ります、大部分各選手は列んで居ります、非常に心配であります、非常に心配であります、イギリス、イギリスの、イギリスのストレーが先づ最初のターンをしました、我が前畑嬢つゞいて第二位、しかし我が前畑嬢悠々たるペースをもつてつゞいて居ります、ぐんぐんと、我が前畑嬢折返し四〇米、折返し四五、折返し四五、列んで居ります、前畑、ゲネンゲル二人が出ました、イギリスはおくれました、イギリスはおくれました、僅かに一と掻き、一と掻き我が前畑嬢はリードして居ります、ゲネンゲルよりは僅かに一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルと前畑嬢の接戦となりました、他は大分おくれました、他の選手は大分おくれました、前畑嬢一と掻きリード、前畑嬢一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルよりは一と掻きリードして居ります、一と掻きリード、あと五米で一〇〇のターン、あと五米で一〇〇のターン、あと二米、あと二米、たゞ今前畑ターン、前畑ターン、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、我が前畑一と掻きリード、一と掻きリード、まさに大接戦、火の出るやうな大接戦、まことに心配でございます、心配でございます、ゲネンゲルも強豪、つゞいて居ります、我が前畑僅かにリード、僅かにリード、一二五、一二五、一二五、僅かにリード、僅かにリード、ゲネンゲル、強豪ゲネンゲルがつゞいて居ります、地元ドイツの応援は旺んにゲネンゲルに声援をおくつて居ります、他の選手は大分おくれました、ゲネンゲルと前畑二人だけの競争でございます、他の選手は大分おくれました、前畑あと一〇米で一五〇、あと一〇米で一五〇、僅かに一と掻きリード、前畑かんばれ!前畑かんばれ!あと二米でターン、あと二米でターン、ターンしました、ターンしました、たゞ今ターンしました、一と掻き僅かにリード、前畑がんばれ!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!あと四〇、あと四〇、あと四〇、あと四〇、前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出て居ります、ほんの僅か、ほんの僅かにリード、前畑僅かにリード、かんばれ!前畑がんばれ!かんばれ!かんばれ!あと二五、あと二五、あと二五、僅かにリード、僅かにリード、僅かにリード、前畑!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!ゲネンゲルも出て居ります、がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードして居ります、前畑リード、前畑がんばれ!前畑がんばれ、リード、リード、あと五米、あと五米、あと四米、三米、二米、あッ、前畑リード、勝つた!勝つた!勝つた、勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑の優勝です、前畑の優勝です、ほんの僅か、ほんの僅かでありましたが、前畑優勝、前畑日章旗を揚げました、前畑さんありがたう!ありがたう!優勝しました、女子競泳で初めて大日章旗が揚がるのです。
 今、前畑さんはプールで二着になつたゲネンゲル嬢とニツコリ笑つて握手して居ります、笑つて喜んで居ます‥ 』

  この橋本町には、もう一人のオリンピック金メダリストがいた。
 前畑氏から20年後の昭和31年(1956)、豪州のメルボルンで同じく200m平泳ぎで金をとった「古川 勝」選手である。彼の異名は“人間潜水艦”といわれ、戦後初の水泳の金メダルをもたらした。
 世間は、丁度テレビがお茶の間に普及しだした時代であり、小生にもあの時の感動の映像が、頭に残っている・・。 スタート直後から45メートル潜り続け、ターンするとまた潜る。五輪前から驚異の世界新を連発した古川は、決勝でも潜水泳法で挑み、見事2分34秒7のタイムで圧勝した。
 彼は、ベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで、前畑秀子が女子初の金メダリストとなった、その橋本市古佐田地区にある前畑家の近所で誕生している。前畑氏同様、紀ノ川で鍛えた体には平泳ぎの天才の血が受け継がれていたのであろう・・。
 彼の潜水泳法は、短期間で身につけ、息継ぎなしで75メートルはもぐれたという。五輪後、国際水連は、潜水泳法を禁止にし、古川のあまりの強さが禁止を早めたという。「紀ノ川」近くにある橋本市役所に前畑選手優勝70周年、古川選手優勝50周年の顕彰碑が建つ。

  本流は、和歌山県内では紀ノ川、奈良県に遡ると吉野川と呼ばれる一級河川で全長136km。 その源流域は、その名も「川上村」である。 最初の一滴が生まれる源流の村で、吉野杉という有名な木材を産出する中心地として栄えた。 この水源の村に「森と水の源流館」があり、更に「源流学」というのがあるそうだ。 
 水源地の森を含めた山々を守り、源流部の森を造り、下流には森の腐葉から出る富養の水、清い水を流す。そのためには、流域一体となった取り組みが必要であり、それも上流から叫ぶだけでなく下流域が積極的に取り組んでくれることが大事で、和歌山市もこれらに応えてくれていると・・。
 自然や環境、そこに棲む生き物たちと、人々が一帯となった取組学が「源流学」というそうである。
 尤も、紀ノ川、吉野川の源流は、あの「大台ケ原」では、一年360日が雨といわれる。日本最多の雨地帯であるが、日本の秘境と言われる原生林を育み、300種というコケ類を密生させ、天然のダムの役目も果たしている・・。



     《 加太半島 》
  「紀ノ川」の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
 途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。加太の港町から左手の海岸線を辿ってみた、「淡島神社」である。
 朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。
 この神社は、由緒ある神社ではあるが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。 建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさん・・と、一面に夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。 そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これまたびっくり・・!!。
 この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されている。女性の信仰と漂泊神の信仰であると言われ、現在は雛流しの神事が有名である。
 お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。 神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が、男びな、女びなの始まりという。
 余りに稀有な神社で目を白黒させながら、こんどは北上する・・。

  加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から友が島群が勇壮に望まれる。 実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」「神島」の小さな島があり、この4島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。 霧の向こうに、かすかに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を友ヶ島水道。 島々の海峡「加太の瀬戸」「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。
 太平洋の大海が、瀬戸内海へ向って動き出すとき、ここで強力な海流を引き起こす。 淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られる。
 因みに“瀬戸”とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。
 この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。 紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされる。 みかん船の帆柱が、淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながら、この帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている・・。
 嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。
 明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。 現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。



     《 岸和田・ダンジリ 》
 
 加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る・・。
 大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へのる。 岸和田P・Aで一服しながら昼食をとる。
 休憩舎の建物の壁に、「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。 岸和田は、有名な勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の行なわれる処である。
 「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。
 岸和田では、特に「地車」と書き、「だんじり」と称している。地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く4輪で重い物をひく車のことで・・。
 元禄14(1701)年、岸和田城主・岡部 長泰(おかべ ながやす)により行われたのが、稲荷祭が始まりと伝えられる。 稲荷祭は、京都の伏見稲荷を城内に勧請し、祭礼を施したものものである。
 その後、城内の岸城神社を、岸和田村の産土神(氏神、鎮守)として、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 江戸期発祥以来約300年続いている。現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。
 “だんじり”は欅の白木造りで重さ約4トン・・、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。周囲には、欄干をめぐらし、太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。 辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。「遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。 遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。
 この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある岸城神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる・・、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる・・・・。
 氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる・・。
  

  東に金剛山・葛城山の山稜が天空を走っている・・、北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。
 浪速・大阪の人に言わせれば、夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。 その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。 飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった・・。
 では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうか・・?、浪速の彼らは考えた、そして東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか・・。 彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祭りする「伊勢神宮」を開いたという。

  金剛山の麓に「千早」という地名があり・・、更に「千早赤坂村」がある。 ご存知、大楠公・楠木正成の発生の地である・・。
 正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。 河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。
 鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。 反幕のかどで、後醍醐が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。
 1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。 その後、尊氏は新政を離反し、尊氏追討の命を受けた新田義貞が、箱根・竹ノ下の戦いに敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠氏らと連携して足利方を京より駆逐する。 足利尊氏は、翌年に九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが、この献策は後醍醐に容れられず・・、逆に1336年、義貞の旗下での出陣を命じられ、湊川の戦い(神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて戦死する。
 正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って、差し違え亡くなった。 彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。
 正成は、南北朝時代幕開けの武将である・・。
 南北朝時代とは、日本史の時代区分の一つ。 1336年、新田義貞、楠木正成が敗れた後は、後醍醐天皇は、吉野に遷幸する(南朝)。 一方、勝利した足利尊氏は、光明天皇を践祚(せんそ・天皇の位を承け継ぐこと)する。(北朝) 以降、両朝が合体するまでの1392年までの57年間をいう。 広義には、建武新政期を含めて,鎌倉幕府滅亡の1333年(元弘3)よりの60年間をいう。 室町時代という時代区分名との関係では、これを室町時代に含めるのが通常である。

  金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である・・、大阪側、大和側(奈良)と両方のコースがあって楽しめる。 又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという・・。



     《 大阪・浪速 》
  阪和道の松原JCTから大阪市内への環状線に移る。 
 古来、譬え(たとえ・引き合いに出す)として、大江戸八百八町、京都八百八寺、浪速八百八橋といわれる・・。江戸は町屋が多く、京はお寺が多い、そして、大阪は橋が多いという意味である・・。 大阪は古くから都へ通ずる水上交通の要地で、江戸期には、幕府直轄地として庶民、商人の町として繁栄し、出船千艘、入船千艘と謡われたれた。
 大阪、むかしは「なにわ・浪速」といわれ、古代の日本書記には、たくさんの川があって、いずれも流れが急であったので「浪速・なみはやの国」と名付けられた・・のが始まりという。 又、大阪の古い呼称で「浪花・難波」ともいって、共に水に縁があるのが面白い・・、大阪は、やはり「水の都」といってもよい・・。
 現に、中ノ島などは川の中洲にある官庁・オフィス街である。
 又、この地域は、やはり水運に関連した「船場」があり、往時の周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが軒を並べ、政治、経済、流通の中心地となっていた。 江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心ともなっている。 現在は、東西南北の船場が有り、大大阪の中心地として、、繊維問屋や商社、証券会社、銀行等が集中しており、大阪より発生した大商社・伊藤忠商事や丸紅などは、この船場を出発点とする企業だと言う。
 中ノ島の北側を流れる堂島川は、江戸期には水上交通の要衝であり、米市場があって相場をなしていた。いわゆる相場の発祥地でもある・・。ここで大阪商人により江戸をはじめ全国各地へ送られていった・・。
 難波は、「なんば」ともいって、道頓堀以南、浪速区の北部にわたる一帯を指し、私鉄・地下鉄の難波駅がある。 大阪の広域的な通称で、“キタ・北”や “ミナミ・南”と云ったりする、北は、大阪駅を中心とした北区辺りを指し、南は、通天閣のある天王寺、難波を中心とした地域を指しているようである。 所謂「ミナミは」、難波、道頓堀、心斎橋、法善寺横町、天王寺といったエリアで、食い倒れ、難波花月、ひっかけ橋(戎橋)といった、いわばコテコテの大阪的なものは全てここに集まっている・・。さしずめ、難波は、南場といったところか・・?。
 小生、20代後半の頃、仕事で国鉄・大阪駅(現、JR大阪・・乗り入れてる私鉄の駅名は何故か梅田駅という・・?)から難波の南海電鉄で堺東へ何回となく行き来し、ついでにミナミでよく遊んだのが懐かしい・・。 
 序に、大阪駅、梅田駅については・・、大阪駅は、北区・梅田にあっても、国鉄、JRの駅であって、所謂広域的全国区である。梅田駅は、同地域でも私鉄や地域鉄道が主で、地域的名称であり、地元っ子に言わせても「梅田」が適っている。逆にいえば、JR東京駅が、丸の内にあるから丸の内駅、なんて名前だったらやはり可笑しい・・、東京駅は、やはり全国区である。



     《 大阪・四天王寺 》 
  この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって、大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。瀬戸内海の終点にあって、海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
 古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「隋」「唐」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷ける・・。その四天王寺へ向う・・。
 環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない・・。でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。
  そこには「大日本仏法最初四天王寺」と名盤石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。 「鳥居」とは、普通神社の参道入口に立てて在って、神域を示す一種の門である・・、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
 近代になって神仏分離で、お寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は、神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。  それでも四天王寺の鳥居は、違和感を覚えるが・・?。
 本来、鳥居は、神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので、一種の「門」である。したがって、神社に限ったものではなく、御陵や寺院に建てられていることもあるという・・。 が、一般的には神社を象徴するものとして捉えている・・、一応、納得でもある。 四天王寺の石の大鳥居は珍しく、しかも、日本三大鳥居の一つで鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあった。やはり由緒ある大寺院であることを、どこか誇っているようにも見える・・、国の重要文化財にもなっている。 
 因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。 気がつけば、金峯山寺も寺院であった。
 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。そこをくぐって四天王寺の寺舎が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である・・・。
 四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院というが、しかし、残念な事に、それらしい荘厳な雰囲気は全く感じられない・・。 又、古刹寺院のもつ格式の中で信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素の参拝による人々の賑わい等も全く無く、ただ閑散としていたが・・。これも、今では大阪という大都会の真ん中に鎮護しているからか・・・。
   
  四天王寺は推古天皇の時代、西暦539年に造営され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたという。
 四天王とは、仏教における 4 人の守護神のことで、源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指している。この四神には、仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて、持国天は蘇我馬子、広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子、多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。 4人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという、いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。
 渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。 この時期は未だ正式には仏教は日本には伝来してないが、渡来人によって、それなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。

 『四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある・・。
 四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古い・・。
 飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいう。
 仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという・・。 伝来以来一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)、物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。蘇我氏と対立して敗れる)、の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで、仏教を世に知らしめ、布教するために、四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという・・。 隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいた。 これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる・・。
 しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中で、その殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた・・。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう・・。
 今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった・・。 今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが・・。 尚、、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである・・。

  境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
 1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺、手がけたのは578年に聖徳太子が百済から招いた3人の工匠たちであった。 その1人の名を「金剛重光」といった、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという・・。
 この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。 現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆は、現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、四天王の一角を占めていることは先に記した・・。
 ところで、四天王寺は過去に7回、焼失や倒壊の憂き目にあっている。信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲なで、その都度再建してきてのは金剛組であった。状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった、この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺している。
 室戸台風で損壊、再建した直後、直後の言っていい昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。金剛組は、同じ轍を踏むまいとして、やむなく戦後は鉄筋コンクリート造りになったのである・・。 四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは確かな宮大工の技術だった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という御堂を寄進した、聖徳太子が道具の曲尺を持つ像とともに・・。 以来、全国から参拝する大工方がたえないという・・。 「老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。

 妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。
 

  大阪城を目指して、ミナミの中心とも云える上本町、千日前の繁華街道路を北上する。
 さすがに車も人も多い、疲れ気味の小生の運転では余程神経を集中しないといけないようだ・・、要注意、要注意!!・・。
 そういえば、大阪人は人も車も、交通マナーの悪さは日本一だと言われる・・とか?。
 大阪人の気質をあらわすのに、「いらち」(苛ち)という言葉がある・・。 意味は、いらいらする、せっかちである・・で、単にせっかちな人ではなく、現時の、その人の状態、人々の様子をいっている。例えて「あんた、ほんまに“いらち”やなぁ、」といい「あなたは、本当に、せっかちで、すぐイライラする人ですね、・・」という意味であるとか。 よく・・「赤信号、皆で渡れば怖くない・・」この言葉遊びも大阪から発信されたもの・・?。又、違法駐車なども多いという・・。
 とかく大阪人は、「マナーが悪い」「自分勝手」といわれるが・・、こういった気質の裏返しには「権威」や「お上」の対する、ある種の反骨精神もあるという・・。江戸の権威に対して、こちらは「上方」と言っている、お上をあてにせず、権威に媚びず、笑いのネタにして、笑い飛ばす気質があるのかもしれない・・。 大阪人の挨拶に「もうかりまっか・・!」「ぼちぼちでんな・・!」という、所謂、曖昧表現がある。だが、その裏にはしっかりと計算された胸三寸もあると・・。 このことは特に、日本人独特の表現の仕方でもあり、外国人には意味不明で理解できないらしい・・、日本人の曖昧さは、存外、この大阪あたりが発祥なのかもしれない・・。
 しかし、大阪人は、大阪の「橋」をはじめ、国公立大、病院、大阪城・天守閣等、私財を投入した大阪商人をはじめ、民間人によって建てられたという。これらを見ても大阪人は、自分で出来る事は自分でする、といった独立自尊の哲学、精神があり、これらから、単に自分勝手で意味不明とは云えない様でもある。
 さて、その橋である・・。 東京は「大江戸・八百八町」、京都は「八百八寺」、そして大阪は「八百八橋」と言われるほど川筋、掘割、橋が多いことでも知られる。
 この道の一本西側は心斎橋、道頓堀、御堂筋といった、いわば大阪の顔とも言える、主要な筋、道(一般に大阪は道のことを筋といって、○○筋というのが多数ある)が走る。 道頓堀の東西には道頓堀川が流れて、両川筋は「法善寺横町」「宗右衛門横町」といった、唄でも御馴染みの歓楽街が並ぶ。又、この川を跨いで「戎橋」「相合橋」が両横町を交んでいる。
 御馴染みの「戎橋」は、2003年の阪神タイガース優勝時、又、2002年のワールドカップ(コリア・ジャパン)での日本勝利・決勝トーナメント進出時には、この橋から道頓堀に飛び込む若者が相次いだ(この飛込みで死者も出した)。 又、この橋は、客引きやナンパも多く、通称「ひっかけ橋」「ナンパ橋」とも呼ばれるらしい・・。“難波のナンパ橋で軟派した”・・、など洒落にもならぬが・・、天下に知れた名物の橋である。

  追記−−2005年の阪神優勝時には、大阪市がフェンスをめぐらして警察官を配置するなど対応をしたが、その目を掻い潜って道頓堀に飛び込む若者が少数ながら存在した。

 

         「大阪ラプソディー」

作詞 山上路夫  作曲 猪俣公章

 あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
 どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道
 映画を見ましょうか それともこのまま
 道頓堀まで 歩きましょうか 
 七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
 宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
 昨日よりまた今日は 別れ辛くなりそうよ
 戎橘、法善寺 どこも好きよ二人なら
 嬉しい筈でも あなたといる時
 なぜだかこの胸  痛んでくるの
 店灯り懐かしく 甘い夜を呼んでいる
 宵闇の大阪は 二人づれ恋の

 


     《 大阪城 》
  道は、谷町四丁目に至り、既に大阪城の一角で天主が見えてきている。
 ところで、谷町四丁目を「谷四」、天神橋筋六丁目を「天六」、といったように、○町△丁目を「○△」と頭で略す独特の習慣が大阪にはある。東京の人は、銀座四丁目を「銀四」と言ったり、新宿三丁目を「新三」と言ったりはしない。これらも、大阪人の「いらち」の特性なのであろうか・・、ともあれ大阪は地域に土着し、それらを愛称で呼んでいるのである・・。
 早速、近くの大手門前の広場にヒョイと車を置いて、カメラ片手に出かけた。大手門は大阪城の正門で、良く整備された広い上り坂の頂にどっしりと構えている、別名で追手門ともゆう。 続いての多門櫓も迫力あり・・、城郭に近ずくにしたがって、巨大な造り、文字通り天を突くような天守閣の迫力がせまる・・。城郭は、白を基調としたもので、各層の壁に切妻風の屋根型を嵌め込んだ様で、独特の偉容と豪壮感を形造っている。破風部分の飾りもいいが、切妻の壁の上部と左右部に金色で施した装飾が光輝いて、華美を誇っている・・。

  大阪城は、大阪の象徴であり、誇りである。築城者は、大阪で最も親しまれている「太閤はん」である。
 歴史は遡る・・、室町時代の僧、本願寺第8世の蓮如(れんにょ)に始まるのである。他宗派に押されていた浄土真宗は、本願寺(京・西本願寺)を中興し、現在の礎を、石山の上町台地の北端にある小高い丘に本願寺別院として「石山本願寺」を造営した。寺院とともに町屋も出来、周辺を寺内町と称した。ここが台地にそった坂の上にあることから「小坂」と言っていてが、後に「大坂」と呼ばれるようになったという。 これが大阪城の起こりであり、地名も大阪に成っていった・・。
 戦国期には、城郭に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。 織田信長との石山合戦は良く知られているが、この時は、重荷、篭城戦で戦ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に顕如は敗北する。 信長が、本能寺で逝った後、石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始した・・、大阪城である。 完成に1年半を要したが、本丸は石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。 城のすぐ北部には大淀川が流れ、堀溝を築いて水を引き入れ、天然の濠としている。 
 しかし、当の秀吉は京都の聚楽第や伏見城に住んでいて、大阪城を居城とはしなかった。 秀吉死後は、遺児の豊臣秀頼が母(淀君)とともに大坂城に移り、徳川幕府の成立後も秀頼は大坂城に留まり摂津(大阪)を支配していた。 1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」で徳川家康の率いる大軍に、さしもの大坂城も落城、豊臣氏は滅亡とともに、大阪城は落城とともに灰燼に帰した。
 江戸期は幕府直轄領(天領)として、徳川秀忠によって再建が始められる。 大坂城をより豪壮な城郭として、豊臣時代の城を圧殺するかごとく全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を、全国に示したと言える。 現在の天守閣は概ね、この時代のものである・・。
 幕末、鳥羽・伏見の戦いで、城内の建造物はほとんど焼失し、昭和の太平洋戦争では、1トン爆弾が多数投下され、猛烈に破壊された。 そして、昭和期、平成期、天守閣の大規模な改修工事が行われ、現在の城郭・天守閣が完成する。

  歴史の大波に、もまれにもまれた五層の大天主・大阪城も今は平和日本の象徴として、浪速の空に聳え、大阪の民の安穏を祈り見下ろしている。 因みに、豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になっていて、国の登録文化財である。 登録文化財 (登録有形文化財)とは、文化財登録制度(文化庁'96〜)により、文化財登録原簿に登録(リスティング)された建造物などを指す。 名古屋城、熊本城と共に日本三大名城の一つ。
 大阪城の天守閣、櫓、門の各種建物の見所は多い。又、その周辺も桜や梅の名園・公園、各施設、神社、お城に関する七不思議等、多数の名所がある・・。しかし、何といっても大阪城の特徴的な一つに、周囲を取り囲む「石垣」であろう・・、この石垣は主に江戸初期のものであるという。
 天下の徳川幕府は、主に西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせた。 この時の石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれ、工事を請け負った大名達は、自分の「紋」をその石に刻み込んだ・・、その石のことを「定紋石」と呼んでいる。 長州の毛利家、日向・薩摩の島津家、岡山の池田家、松江の堀尾家など諸大名の家紋が刻まれておる。
 徳川「大阪城」の石垣用石材は約百万個と推定されるが、これらの採石場所は加茂(京都府)のほか、六甲(兵庫県)や小豆島(香川県)など、瀬戸内一円から切り出されたことが知られている。
 巨石のビック5は、一に桜門の蛸石(59.43m2・備前犬島・岡山池田家)、二に京橋門の肥後石(54.17m2・讃岐小豆島・岡山池田家)、三に桜門の振袖石(53.85m2・備前犬島・岡山池田家)、四に大手門の見付石(47.98m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)、五に大手門の二番石(37.90m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)等など・・である。各々、設置位置と石名、面積(一畳は1.62m2)、採石場所、設置大名を表す・・。 小生は、大手門よりの入退出であったため大手・見付石(4位)と大手二番石(5位)を拝見、その圧倒的な大きさに驚愕しながらカメラに収めた。
 因みに両石は、巨石と巨石の隙間に、笑い積みというユニークな石積みが施されているという。石の隙間が、笑った口の格好に、なんとなく見えることから笑積みという。 徳川大阪城建設の際の、担当大名 加藤忠広(秀吉の重臣・加藤清正の次男)の遊び心が冴える石垣であるという。



     《 尼崎の悲劇、惨劇 》
  大阪城のすぐ北を国道1号線が走っている。
 この国道1は、JR大阪駅(私鉄・梅田駅)の駅前の主要十字路でR2(国道2号線)に引き継いでいる。国道1号線は、東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田新道までおよそ570km、途中横浜・静岡・名古屋・京都と主要な都市を結び、都市圏の産業道路であったり、名所の箱根や浜名湖畔沿いなど変化にとんでいる。 もちろん現在の東海道の主役は新幹線や東名・名神高速道路であるのはいうまでもないが、地域の生活や産業にしっかり密着している国道のスーパースターである。
 そのR1からR2に乗り継いで・・?、兵庫の六甲山麓の有馬温泉へと向う・・。 途中、邪心とは承知のうえで、「尼崎」に寄ることにした。 邪心としたのは、その付近で最近(四月)大きな鉄道事故が発生していて、その現場を参見するつもりであるから・・。

  大幹線道路、大型貨物車がゴーゴーと走る阪神工業地帯の真っ只中の尼崎駅前付近から、右方向の地方道へ入ってようやく開放された。 工業地らしく大小の会社工場が乱立していて、近くをJR福知山線が走る、この線が東海道本線と合流する地点駅が尼崎駅である。 そのすぐ北側を名神高速道が走り、福知山線と交差する辺りが、悲しい事故現場のはずである。 車をグルグル走らせて、どうやら目的の地へ着いたようである・・。
 報道記者が数人カメラを持ち、高さのある脚立を構えて立っている。 ガードマンも直立不動で事に当たっている・・。 車を「日本スピンドル・・」という会社工場の正門横に置いて、小生もカメラ片手に神妙に出かけた・・。すぐ福知山線の踏み切りに来た・・、開かずの踏み切りでなく開けっ放しの踏み切りで、人も車も常時往来自由である。右方のレール上はバリケードがしてあり、すぐ横にTV映像で何回も見せられた白の幕で囲われた仮祭壇らしきものがあった・・、こちらは裏側にあたるのだろう中の様子は覗い知れない。
 鉄路にそって、あの高層のマンションが立つ・・、このマンションの地下駐車場に、事故列車の1両目の車両が殆ど突っ込み、死者およそ30人を出している。2両目は、この建物の前方に激突し、くの字にへしゃげて大破、死者およそ70人、3、4両目は脱線した衝撃で180度前後が入れ替わり大破した、死者4〜5人出している・・!!。
 この電車の乗客は約540人というから、死亡率18%、負傷率79%にもなる・・。
 現場に居る鉄道関係者は基より、報道、ガードマン、それらの人々はいずれの顔も強張って、堅そうで、緊張感のなかで脱力している。 見れば、行き交う人々も表情は重く、何か悲しげである、この地上に居る人達は皆、そのようだ・・! 時折、子供のカン高い声が響き、車の行き交う無味は騒音が耳に届くが・・。否、この場に在る空気や人々の雰囲気が重いばかりでなく、周辺地域に住む人達も、本来の笑い声は暫くは聞けないだろう・・、家族の対話も、近所の茶飲み話しも・・。 
 あれから1ヶ月少々、こらから蒸すような暑い夏がやって来て、悲しみの熱風が辺りを支配し、威圧し、人々は更に無口になってゆくだろう・・。 死に到る悲しげなウメキの声が、途絶えるのは一体何時になるのか・・?苦悶の霊が漂い浮揚している、怨念を負っている107の霊は、そう単純には仏となり得ず昇天は出来ないだろう・・。
 それらの霊を救済する天女が現れて、元の晴れ間に戻るのは何時になるのか・・?、やがてやって来る秋の涼風が吹く頃か・・?天女が涼風に乗ってやって来て、これらの霊を慰め、静かに抱えて天界に同伴してくれれば良いが・・。 その頃になって、やっと人々の本来の笑い声、歓声が聞こえて来るかも知れない・・。それらが少しでも早からんことを本当に願い祈りたい・・。
 小生も、邪心ながらも現場に立っていて悲惨で、遣り切れなくて、胸が詰まり、切なくなって、何か込み上げるものを感じたものである・・、ご冥福を祈るばかりである。
 
  東京地区でいうなれば、品川駅近くで京浜東北線が事故を起こした様なものだろうか・・、
 本年(2005年)4月25日の午前の事である・・、この事故を一般に「JR福知山線脱線事故」と称している。 
 2005年4月25日午前9時18分頃に、JR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口〜尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。
 事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の右カーブ区間、塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。 事故列車は宝塚発、片町線(学研都市線)の同志社前行き上り快速電車である。列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。
 同時刻には並行する下り線に、新大阪発、城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であったが、事故を目撃した近隣住民の機転により、近くの踏切の非常ボタンが押され運転士が異常を察知し、およそ100m手前で緊急停車したという、そのために、二重事故が回避されている。
 曲線区間の制限速度は70km/hであるが、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。この時の列車の運行時間は定刻より1分30秒程遅れていたとか・・。
 救助作業は、昼夜を問わず24時間続けられ、3日後の4月28日に終了した。
 事故の犠牲者は、運転士を含む死者107名、負傷者は555名。 犠牲者の多くは1両目か2両目で、ほとんどが多発性外傷や窒息で亡くなっていて、クラッシュ症候群(挫滅症候群・ざめつしょうこうぐんともいい、身体の一部が長時間挟まれるなどして圧迫され、その解放後に起こる様々な症候をいう)も確認されている。事故の規模は、死亡者の数に限定するならば戦後の旧国鉄時代を含めると1962年の三河島事故(2重事故・死者160人)に次ぐ大惨事となり、JR発足以降に限定すると1991年の信楽高原鐵道(正面衝突・42名が死亡し、614名が重軽傷)での衝突事故を抜き、史上最悪の鉄道事故となった。

  107人もの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故において、此の程、人命救助に尽力した人に紅綬褒章が授与された。 その中の一人に浜崎節美さんがいる、事故の時、近くを通りかかり、とっさに踏み切りの非常ボタンを押して対向の特急電車が突っ込む二重事故を防いだのである。
 又、事故直後、近くの機械メーカー「日本スピンドル製造」では、斉藤社長号令の下に、操業を中止し、社員全員工場から毛布、医薬品、工具を持ち出し救助に当たった。 トラック等も全車出して怪我人を乗せ、現場と病院をピストン輸送した。 褒章を受けた両名は、「光栄に思う、と同時に戸惑いも感じる。ご遺族と負傷者の皆さんを思うと心が痛む。」とコメントしている。
 たまたま、この会社の正門横に車を止めていて、小生自ら撮った写真に社名が写っていた、確かに事故現場はすぐ前であった・・。



    《 「千の風になって・・」 》
  今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという・・。
 小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう・・。 その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。
 この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌であり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌である・・、といわれる。 人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。
 この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 又、美しい曲を聞いていると“それ”を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・。

  この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。
 震災の回忌・追悼式や慰霊祭は元より、教会や各地各所、各人が寄り添って、この「千の風になって」を演奏し、唄われるという。
 過ぎ去った時間を墓の前で悔いる人達を、彼らは「空や木々の間を吹き渡っていて、死んでなんかいません」と言う。慰霊や鎮魂は 、死んだものたちではなく 残された者達の為にあり、過去を悔いながらも 墓の前にひざまずく足が、又、希望へと前に進めるようにと・・。
 2005年には、地元・宝塚歌劇団が阪神大震災から10年のチャリティーコンサートとして歌はれ、又、劇映画も製作され、本も出版された。 2004年には、前述の盲目の沖縄のテノール歌手「新垣勉」が唄った。 この頃はまだ世間には知られていない流行以前の曲であったが、やはり全盲の歌手として活躍している「塩谷靖子」の優しい歌声と深い表現力が話題になり、あの、聖路加国際病院・名誉院長「日野原重明」の推薦するCDが新聞などの報道により話題を呼んだ。
 その後、やはりテノール歌手の「秋川雅史」や「中島啓江」などによって唄われている。 特に、この詩を新井満が日本語に訳し、曲をつけたものを、NHK紅白歌合戦(2006年)では秋川雅史がこの歌を熱唱し、多くの人々に感動を与えた。 その後、問い合わせが殺到、翌年1月のオリコン総合チャートで1位を獲得している。
 これらの歌詞は、新井満や塩谷靖子氏らによって翻訳詩、作曲されている。
 また、海外では米国での「アメリカ同時多発テロ事件」(2001年9月11日)で亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。米紙によるとすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で、俳優のジョン・ウェインが朗読したといい、1987年には女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。

  ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、甚だ、興味津々である。
 以前、朝日新聞の「天声人語」(新聞の一面コラム・囲み記事、短評欄)に、「誰が創ったのか判らない一編の短い詩が、欧米や日本で静かに広がっている。 愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である・・・」とある。
  この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)という、アメリカ人女性が書いたのが最初の詩とする説が有力であるという。
 メアリーが同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなる。 しかし、当時のドイツは、反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかった、そのことが原因で落ち込んでいた、そこで彼女のために一片の詩を書くのである・・。 
 メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に一息に、込み上げる詩を書き付け、紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの、私の思う《人の生と死のあり方》なの、あなたのためになるかどうか分からないけど・・」
 マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。 「私この詩を一生大切にするわ」
 暫くして、彼女の家族の友達が、詩をはがきに印刷して人々に送り、これが人々に「人伝いで」広まった、これが最初のだといわれる。
 そして、明らかになった事実は、メアリー・フライが友の癒し・追悼の為にこの詩を書き、この詩になんら「著作権」が設定されていない事実であった。 そのため、人々は自分の文体や言葉で自由に表現でき、その人の共有財産になったという。ということで原作者の彼女は、一銭の報酬も受けていないのである。
 この件についてメアリー本人は次のように話している、「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ、今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・多分」

      「千の風になって」 作詞 (アメリカ メアリー・フライ) 訳詞・作曲 新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています

  「A THOUSAND WINDS 」

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.



     《 女の城・宝塚に日本の紳士 》
  鎮痛な気分を切り替えて、地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。
 阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。
 西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 
 宝塚、西宮郊外、芦屋は、六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 だが、ここでは女性の事でなく、実は男性の事なのである・・。

  先の大戦での終戦の結果、占領軍が上陸し、大臣、閣僚のお偉方が平身低頭し、右往左往する中・・、ただ一人、占領軍・司令長官「マッカーサー」に"NO“といった男・「白州次郎」のことである・・。
 白洲は1902年(明治35年)、この芦屋に生まれている。 英国留学、英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得る。終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。
 先ずエピソードとして、彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとしたら、マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。その瞬間、白洲は 怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事か!」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意し、鄭重に贈り物を置いたという。 これらの振る舞いにGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。
 GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・」と称している・・。 
 サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されるが・・。この時予定としては、GHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。吉田首相に独立国の面子として、日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら演説していたのである。 白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである・・。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。  吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ。
 その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど、白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。
 幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。

  ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも撤回されている。
 2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会で、「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、六十年近くを経て現実にそぐわないものとなっているので、二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。


  宝塚は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名である。
 関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。 夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 左前方に大きく特異な建物が見えている、赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている「宝塚大劇場」である。
 宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地においている。 花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校であるが・・。各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・・!これは余計・・。

  大阪、尼崎、宝塚と巡って思い出した事がある・・、今年は、阪神大震災から丁度10年目に当たる。道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない・・。巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?又は完全復興したのであろうか・・?
 しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという・・。この震災は、記憶、記録には留めておきたい・・。
 1995年(平成7)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。死者 : 6,433名 負傷者 : 43,792名 避難人数 : 30万名以上 被害総額 : 10兆円規模 ・・、大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった・・。 



     《 有馬温泉 》
  国道176号を、宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 道端には古い道標が残っている・・、太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道しるべだという。すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。
 蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。
 寒天といえば・・、拙宅(神奈川)から別宅の白馬村へ行く途中、長野県中部に「諏訪」がある。諏訪地方が全国一寒天の生産地であるる。
 寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようである・・。 テングサは、心太草と書くが、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。このトコロテンを寒晒したものが寒天で、トコロテンは俗字で本当は「凝海藻(ころもは)」と書くと平安時代の書物に記されているとか・・、食用化されたのはもっと以前の奈良時代で、僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。
 西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。
 清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた・・。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ・・。左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。伺うと「銀の湯」は開業しているらしい・・。

  有馬温泉の由来は神代に遡る、三古泉・三名泉の一つである。太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、近年秀吉の湯殿跡も発見されたという。大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。
 車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう・・、それにしても満月城のひと際巨大なホテルが目立っている。西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ地で、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。丁度ここに「太閤の湯殿館」というのが在った、秀吉の湯殿跡といわれるところである。
 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で壊れた有馬温泉・極楽寺(ごくらくじ)の庫裏 (くり・お寺の食事を作ったりするところ)の下から、安土・桃山時代の遺跡が発掘された。これらの遺跡を保存・公開するとともに、 秀吉がこよなく愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介している。館内には秀吉が造らせ、入浴したといわれる「蒸し風呂」や「岩風呂」の遺構をそのまま取り込んで展示してある。
 念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。

  温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った。
 金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。 暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ・・。 中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった・・、せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂もほしいところであるが・・。 先ずは有馬の湯に浸かる、金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。
 情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという・・。さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである・・? 昨日から今朝にかけて訪れた南紀白浜とはチト・・、状況は異なるようである・・。
 銀の湯の裏手高台に温泉神社がある。南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているという、草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されている。
 温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で断念し有馬を後にした・・。

 一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにした。
 夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる・・。 対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた・・。

 
もくじ     6日目(⇒高知南国市)へ