本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月26日 延日数 第5日
出発地 南紀白浜 出発時間 7時55分
到着地 明石大橋:淡路S・A 到着時間 21時00分
天 候 体 調 普通
走行道路名 県33、R42、阪和道、県7、県65、R26、阪和道、大阪市内、
中国・山陽道、明石大橋
主移動地名
田辺⇒南部⇒和歌山⇒大阪市内⇒尼崎⇒宝塚⇒淡路
現在(宿泊)地 明石大橋「淡路S・A」
道の駅(R) 阪和道・岸和田S・A、 鳴門・淡路S・A
温 泉 白浜「かんぽの湯」  白浜「崎の湯」  有馬温泉「銀の湯」
名所・旧跡 白浜温泉  和歌山城  加太岬  大阪・四天王寺 
 大阪城  (尼崎西日本鉄道事故現場)
有馬温泉  明石大橋

写真集T

走行関係(km) 燃料係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 1653 今回入油 34.6 本日支出 2322 本日支出 14900
昨日表示 1350 前回累計 110.1 前日累計 6936 前日累計 24075
走行距離 303 今回累計 144.7 本日累計 9258 本日累計 38975
総距離 1653  

西日本編   5日目:PartT(南紀白浜、田辺、南部)   PartU(有田、印南・由良、広川)
日本周遊紀行:詳細目次
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【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
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石見銀山遺跡とその文化的景観 

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「山行リスト」 
 
立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)


「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」

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写真:白浜の名物露天風呂・「崎の湯」

日本周遊紀行(45)南紀白浜 「崎の湯」



南紀白浜の海辺の「崎の湯」は絶品であった・・、


白浜の「かんぽの宿」は白を基調とした三階建てで、「くの字」に曲がった建物はチョットしたホテルを連想させる。 清楚な館内はホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じでもあった。

順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む。 

著名な温泉場故の当然24時間営業である・・?。
良質な温泉の場合は小生、必ずと言ってもいいほど、滞在した宿では三回入浴することにしている。 先ず到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに。

脱衣所では海が傍であるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる。
白浜に来てるんだなと実感である。浴室はこじんまりとしてはいるが清潔感があり、露天風呂も揃っていた。
しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。


眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩へ出かける。
宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあり、徒歩で3分位であろうか・・?。

千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう。
今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。
 
心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした。先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。



豪華、波打ち際の露天風呂・「崎の湯」・・、

白浜でも波打ち際の露天風呂という特徴があり、白浜の数ある外湯のうち最も人気があって、どうしても訪れて見たかった場所である。 
海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしく、午前8時から開場している事は昨日訪れていて既に承知していた。300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えを潜って浴場へ向う。

木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった、粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあり、手前側の石垣の間から出る湯口の周りは既に析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもである、温泉成分の濃さが判るというものだ。

何はともあれ、早速、湯に浸かる。
露天浴槽に入りながら波立つ大洋を見ることができ、潮騒の音が心地よい。
海辺に近い浴槽などは大きめの波がくるとザザーッと飛沫を被る時もある。
いやはや正しく、風流さもさることながら、豪快そのものでもある。
源泉温度は83℃というが、小生が入ったときは丁度の適温湯だった。


聞くところによると、この湯はつい最近までは無料であったらしいが、2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収しているとのこと。

因みにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉なのである。

入口の表示板にも八代将軍吉宗(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されている。


帰りしな係員のオジサン(小生も完全なるオジンだが・・)が小生に寄って来て・・、

「相模No だけど神奈川からかね・?」
「ハイ、厚木です」
「私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったかですよ・・なつかしですな・・!」
「いやー、そうですか、それにしても結構なところへいらっしゃって、結構な仕事も見つけられて、結構な事ですね」


・・と、しばらく雑談にふける。


聞くと、未だ開店間もないのが、毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ。

気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた。 
やっぱり、この湯は有名どころで人気もナンバー1らしい。


実は私達夫婦は2002年9月に南紀地方の主要部、つまり熊野三山参詣や熊野古道の一部を観光している。 
その後、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのであった。
これらの紀行内容について、ここ南紀白浜が出発地であったことも併せて、別の項「世界遺産と紀伊山地・・、」として記しているのでお楽しみいただきたい。

ただ、今回の「日本周遊」の旅とは、進行方向は異なるので地域によっては記述の内容が、若干重複している箇所があるかもしれない。

世界遺産  『紀伊山地の霊場と参詣道』

次は、田辺・「弁慶と闘鶏神社」

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日本周遊紀行(46)田辺 「闘鶏神社」



田辺は武蔵坊弁慶の出身地、その闘鶏神社との取り合わせは・・、 

崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。 
県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。


闘鶏神社とは妙な名称であるが・・、

鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ(軍鶏)がいる。
最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。 

現在では、動物保護団体、宗教団体などの反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で楽しみの一つに挙げられた事実がある。
この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったようで、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。


闘鶏神社は、由緒正しき熊野参詣の宮であった・・、

闘鶏神社は元々は由緒正しきは「田辺の宮」、「新熊野権現宮」と呼ばれていたらしい。

熊野権現(現本宮大社)を勧請し田辺の宮と称したが、更に、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えたと云う。
いわば三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を担ったとされる。


神社は熊野街道の分岐点(大辺路・中辺路)である要衝地としての田辺に鎮座している。
遥々、京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからが本来の険しい「中辺路参詣道」、「大辺路参詣道」である。
これら先の急峻な道には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・!!」ということにして、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのことである。 
熊野三山側が「出張サービス」をして、この地に鎮座した権現宮なのである。

主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したといわれる。


闘鶏神社と湛増、弁慶の因縁・・、

JR紀伊田辺の南方400mのところに、その熊野別宮・闘鶏神社が鎮座して、境内には「湛増」と「弁慶」の像がある。 
田辺市は「弁慶」の生誕地であることは地元では広く信じられていて、熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だとも言われるが詳細は不明だという。 

弁慶が若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。 
その後も乱暴狼藉を繰り返し、「京」では千本の太刀を奪おうと道行く人を襲い、既に999本まで集めてあと一本ということろで五条大橋で義経と出会う。
大橋で笛を吹きつつ静かに通りすがる義経めがけて弁慶は挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経に適わず返り討ちに遭ってしまう。弁慶は降参して、それ以来義経の純朴な家来となった。 

時代は移って源平の合戦の頃、「一の谷」の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになった。 
熊野水軍の統率者である熊野別当・湛増への働きかけが戦の勝敗のポイントとなり、源・平双方共「湛増」を味方に引き入れようと激しさを増していた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に戻り、父・湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽を源氏、紅い鶏七羽を平家に見立てて(紅白の運動会などの対抗戦は、源平合戦が由来)闘わせ、「神意」を確かめた。

結果、白い鶏が圧倒したことで弁慶の「源氏」側についた。
湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たしたのである。(NHK大河ドラマ「義経」で放映・・)

後には兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。 
平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 
怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残るのである。

この時の闘鶏の地が「田辺の熊野別宮」で、それ以来この宮を「闘鶏神社」と異名を付けたと言われる。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼に所縁のある史跡も多いというが・・。


田辺は辺路の分岐点でもあり、口熊野とも称した・・、

田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 
中辺路は、熊野古道でも最も良く整備保存されている古道で、歴史国道にも指定されていて川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る古道である。
大辺路は海の景観の良い海道で、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る道である。


田辺の、「南方熊楠」(みなかた くまぐす)翁の事・・、

「紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたといわれる。 
この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである。

南方 熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日〜1941年12月29日)は、和歌山が生んだ博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。
幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者でもある。 

東大に入学するが同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 
19才の時にアメリカに渡り、粘菌の魅力に採りつかれて研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながらもその後には渡英する。 

その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表しているという。 
また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構えている。
それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。
一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞(がんしゅう:はにかむ、てれる)の人でもあり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。


昭和天皇に拝謁し、標本進献した熊楠・・、

明治政府の発した「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には真っ先に反対し、運動を始める。 
神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというが、同時に自然保護運動に傾注し、(自然保護運動の先駆者)明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させるのである。こうして熊野の森は護られたのである。

1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行っている。 

この時キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られているという。

1941年(昭和16年)、75歳にて死去。田辺市中屋敷に南方熊楠旧居があり、白浜半島先端に南方熊楠記念館(博物館)が在る。
南紀の海を望む館の前には、昭和天皇御歌碑が建つ。

後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。


『 雨にけふる 神島を見て 紀伊の国 
                     生みし南方 熊楠を思ふ
 』

と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる 。


闘鶏神社の社殿背後に仮庵山(かりほやま)という、鬱蒼とした自然林が在る。 

南方熊楠は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいたようで、熊楠は「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べている。 
クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議し、そのお陰でそれ以上の伐採は免れたという。 
熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」としていたともいう。

田辺は2005年5月に龍神村、中辺路町・大塔村、本宮町と合併し、新しい田辺市となった。
これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える近畿地方最大の面積を持つ市となっている。

次回は、南部(みなべ)の「南高梅」

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日本周遊紀行(47)南部 「南高梅」



南部地方の「南高梅」とは・・、


国道42を一山越えれば南部町である。  
『一目百万、香り十里』と言われ、南部(みなべ)梅林や岩代大梅林といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。
そして日本一の、みなべの南高梅・梅干の産地であることは周知である。

梅は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として健康食に利用されてきた。 
日本では平安期より既に梅干として利用していたという。

南部は奈良後期、この地方を支配していた御名部(みなべ)親王が梅を好んで植えたという記録が残っているという。 
江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 
さらに、紀州藩主の時代「吉宗」は梅干の保存を奨励したことから、更に隆盛になったという。


梅を栽培するのにも、この地方の自然環境も大いに役だった。 

先ずこの地方が温暖で多雨であること。又、地質的にも植物の成長には欠かせない炭酸カルシウムの成分が多く含んでおり、梅は特にカルシウムを好むという。南部の土は梅の生長にうってつけだったのである。

梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。
その内の一つ「南高梅」は、南部で誕生、定着した梅である。

明治期、「大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体」、これらを母樹とした高田梅という品種が更なる品種改良が行なわれ、昭和期になって県立南部高等学校の研究によって今の南高梅ができたという。 
南部高等学校を通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅の新品種であることからこの梅を「南高梅」と命名したという。


現在、「南高梅」は梅の条件とされる「皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含み、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占める梅のトップブランドとして全国に、世界に知られるようになった。
今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。

「南部」は、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む、2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。

日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか・・。

次回、有田の蜜柑・・、   PartU

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