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| 本日・年月日 | 平成17年5月26日 | 延日数 | 第5日 |
| 出発地 | 南紀白浜 | 出発時間 | 7時55分 |
| 到着地 | 明石大橋:淡路S・A | 到着時間 | 21時00分 |
| 天 候 | 晴 | 体 調 | 普通 |
| 走行道路名 | 県33、R42、阪和道、県7、県65、R26、阪和道、大阪市内、 中国・山陽道、明石大橋 |
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| 主移動地名 |
田辺⇒南部⇒和歌山⇒大阪市内⇒尼崎⇒宝塚⇒淡路 | ||
| 現在(宿泊)地 | 明石大橋「淡路S・A」 | ||
| 道の駅(R) | 阪和道・岸和田S・A、 鳴門・淡路S・A | ||
| 温 泉 | 白浜「かんぽの湯」 白浜「崎の湯」 有馬温泉「銀の湯」 | ||
| 名所・旧跡 | 白浜温泉 和歌山城 加太岬 大阪・四天王寺 大阪城 (尼崎西日本鉄道事故現場) 有馬温泉 明石大橋 |
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【写真集T】
| 走行関係(km) | 燃料係(L) | 金銭関係(現金円) | 金銭関係(カード円) | ||||
| 本日表示 | 1653 | 今回入油 | 34.6 | 本日支出 | 2322 | 本日支出 | 14900 |
| 昨日表示 | 1350 | 前回累計 | 110.1 | 前日累計 | 6936 | 前日累計 | 24075 |
| 走行距離 | 303 | 今回累計 | 144.7 | 本日累計 | 9258 | 本日累計 | 38975 |
| 総距離 | 1653 | ||||||
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《 南紀白浜・・U 》 お馴染み「かんぽの宿」の白浜。白を基調とした三階建てで「くの字」に曲がった建物は、チョットしたホテルを連想させる。清楚な館内は、ホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じを受ける。 順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む、著名な温泉場故の当然24時間営業である・・? 良質な温泉の場合、小生、滞在した宿では三回入浴することにしている、先ず、到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに・・。 脱衣所では海がそばであるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる、白浜に来たんだなと実感させられる。浴室はこじんまりとしていて清潔感があり、露天風呂も揃っていた、しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。 眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩と洒落込む、宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあった、徒歩で3分位か・・?。千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう・・。今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。 心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした・・。 先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。白浜でも波打ち際の露天風呂で、特徴があり最も人気があって、どうしても訪れて見たかった外湯である。海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしい・・、午前8時から開場している事は、既に承知していた・・。300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えをくぐって浴場へ向う。木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった、粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあった・・。手前側の石垣の間から出る湯口の周りは析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもだ、温泉成分の濃さがわかるというもの・・。何はともあれ、早速、浸かる・・。ただ残念なことに男性用の露天浴槽に入ると、海が見えなくなってしまう。源泉温度は83℃というが、小生が入ったときは丁度の適温湯だった、開場間もないので調整したのだろう・・?。 聞くところによると、つい最近までは無料であったらしいが2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収している・・とのこと。ちなみにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉である。入口の表示板にも八代将軍吉宗さん(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されている・・。 帰りしな係員のオジサンが小生に寄って来て、「相模 No だけど神奈川からかね・・?」「ハイ、厚木です・・」「私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったですよ・・なつかしですな・・!」しばらく、雑談にふける・・。聞くと、開店間もないのが、毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ・・、待ってる車がズラリと並んで、やっぱり、この湯は有名で人気ナンバー1らしい・・。気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた・・。 《 田辺:闘鶏神社と弁慶 》 崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。 県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。 闘鶏神社とは妙な名称であるが・・・、 鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ(軍鶏)がいる、最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。現在では、動物保護団体、宗教団体の反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で、楽しみの一つに挙げられた。この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったのだろ、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。 闘鶏神社は元々は由緒正しきは「田辺の宮」「新熊野権現宮」と呼ばれていた。熊野権現(現本宮大社)を勧請し、田辺の宮と称したのが、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えると云う、三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負った。熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に鎮座し、はるばる京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからの険しい「中辺路参詣道」「大辺路参詣道」には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・」として、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのこと。熊野三山側が「出張サービス」をした権現宮であって、主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したという。 闘鶏神社境内に「湛増」と「弁慶」の像がある・・。 田辺市は弁慶の生誕地であることは、地元では広く信じられている。熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だと言われるが詳細は不明だという・・が。 若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。その後も乱暴狼藉を繰り返し「京」で刀狩りを始める。五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う、弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の純朴な家来となった。 時代は移って源平の合戦の頃、一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である「熊野別当湛増」の源・平双方の働きかけが激しさを増していた。義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽(源氏)、紅い鶏七羽(平家)を闘わせて“神意”を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。(NHK大河ドラマ“義経”で放映・・) 兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残る・・。 闘鶏の地は「田辺の宮」で、それ以来「闘鶏神社」と異名を付けた・・。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼にゆかりのある史跡が多い。 田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 中辺路は熊野古道でも最も整備され、保存されている古道で歴史国道にも指定されている、川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る。大辺路は海の景観の良い海道、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る・・。 田辺に関しては、南方熊楠(みなかた くまぐす)翁の事を書かねばなるまい・・。 「紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたという・・。 この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである・・。 南方 熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日〜1941年12月29日)は、和歌山が生んだ、博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者としては、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。 幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者である。 東大に入学するが、同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 19才の時に、アメリカに渡り、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながら渡英。 その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表している。 また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構える・・。 それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。 一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。 明治政府の発した、「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には、真っ先に反対し、運動を始める。 神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというのが、運動を始めたきっかけのひとつらしい。 同時に、自然保護運動に傾注し(自然保護運動の先駆者)、明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させる。こうして熊野の森は護られたのである・・。 1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行った。 このとき、キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られている。 後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。 2005年5月1日に日高郡龍神村、西牟婁郡中辺路町・大塔村、東牟婁郡本宮町と合併し、新しい田辺市となった。これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える、近畿地方最大の面積を持つ市となった。 《 南部と梅 》 国道42を一山越えれば南部町である。 「一目百万、香り十里」 と言われる「南部(みなべ)梅林」や「岩代大梅林」といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。そして日本一の、みなべの「南高梅」、梅干の産地であることは周知である・・。 梅は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として、健康食に利用されてきた。 日本では平安期より既に梅干として利用していたという・・。 南部は奈良後期、この地方を支配していた御名部(みなべ)親王が梅を好んで植えたという記録がのこっているという・・。 江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 さらに、紀州藩主の時代「吉宗」は梅干の保存を奨励したことから、更に隆盛になった。 梅を栽培するのに、この地方の自然環境も大いに役だった。 先ずこの地方の温暖で多雨であること。又、地質的にも炭酸カルシウムを多く含んでおる。植物の成長にはカルシウムは欠かせない成分であり、梅は特にカルシウムを好むという。南部の土は梅の生長にうってつけだったのである・・。 梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。 「南高梅」は南部で誕生、定着した梅である・・。 明治期、「大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体」、これらを母樹とした高田梅の基礎が出来上がる。昭和期になって県立南部高等学校による更なる研究、品種改良が行なわれた結果、今の南高梅ができたという。 南部高等学校を、通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅のことから、この梅を「南高梅」と命名したという。 現在、「南高梅」は、梅の条件とされる「皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含む。みなべ町で栽培される梅の7割以上を占め、また梅のトップブランドとして全国に、世界に知られる。今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。 「南部」は、古くは三鍋とも表記されていたとされ、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む。 2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。 日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか・・。 《 広川(広村)と津波 》 みなべ町からは阪和道が開通していて、和歌山、大阪まで高速道で直結している。とりあえず和歌山まで阪和道を利用することにした・・。 広川町の事である・・、ここの海岸地帯は昔は広村と称して、漁業を主に営む寒村だった・・。 阪和道の広川I・Cから国道42を目指して海岸に向けて直進すると、小高い土盛りの堤防らしき物に突き当たる。高さ約5m、延長約600mの堤防(広村堤防)であり、その一角に、「浜口梧陵」の偉業をたたえる「感謝の碑」が建っている。 今からおよそ150年前、安政元年(1854年)、紀州・広村は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う大津波に見舞われる。村民36名の死者を出し、住居は全滅に近い大きな被害を受けた。 浜口梧陵はこの時、道筋にあたる水田の稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの。浜口家の稲むら・・?))に松明で次々に火をつけ、村人を安全な場所に導いた。その後、彼は被災者の救済や村の復興に尽力するとともに、私財を投じて、この堤防を築いたのである。 広村堤防は、昭和21年の南海地震の津波が広村を襲ったとき、村の大部分を津波から守ってという。 この実話は小泉八雲によって、明治29年の三陸沿岸の津波災害の惨状と、浜口梧陵の偉業をヒントに、“A Living God(生き神様)”という短編小説を書いている。 又、小学校教材の「稲むらの火」と題し、国語読本(5年生)にも掲載された。 阪神・淡路大震災から10年、新潟中越大地震から数ヶ月、そして福岡西部沖地震・・。 地震列島日本にあって、昨年のインド洋津波被害(2004年12月26日午前8時(日本時間26日午前10時)インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった)は驚きであったが、あの時の教訓としても「稲むらの火」が注目を集めたという。 「浜口梧陵」(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として紀州広村(現在の和歌山県広川町)に生まれる。少年時代に本家の養子になり三十四歳ごろに七代目儀兵衛を相続している。(後年梧陵を名乗る) 安政元(1854)年、梧陵35歳の時に、紀州広村において安政大地震に遭遇、私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。濱口家(ヤマサ醤油)は、江戸にも店があり千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていた。 開国論を賛じ、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開く。現在の耐久中学、県立耐久高等学校の前身である。 幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、明治政府にも招かれ、和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府で初代駅逓頭(郵政大臣・総務大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設に当たった。 現在、小泉総理の下で、郵政民営化の論議が盛んである・・が、(小泉首相の信条)、やがて、平成の時代には民営化はされよう・・。 明治期、初代の郵政大臣になった浜口梧陵は、既に郵政事業は民間に任すべし、と持論を展開していた・・。 「郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるがよい」・・と。 梧陵は、代々の大事業家として、紀州和歌山藩の藩政改革の責任者として、また、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建設した者として、公益の達成は、国や藩自らが行わなくとも、「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えていたのだろう・・。 一方、当時の逓信改革の先鋒だった「前島 密」は、「今、日本は諸外国に比して弱小で切迫した状況下にある。中央集権の実現と海外圧力に対抗する国家の組織強化は緊急を要する。郵便通信は『国家の神経なり、急ぐことを第一・』として「官営」の名の下での公益達成の追求が必要である」・・とした。 二人の持論は、政略の無い国家的持論で、どちらも正論であったが、当時の世相論理としては前島論が支持されて、官営としての郵便網が完成している。 しかし目を転じて平成の世は如何か・・?、世界の中の日本の状況、経済の安定性、国家財政の窮迫、これらに鑑み、国は三位一体・地方分権を目指し、小さな政府で官から民へと、今にして浜口梧陵の精神が生かされる時では・・と思われるが・・? 梧陵は、国会の研究、開設のため欧米の見学行を企画し、65歳で欧米の制度を視察している。 大いに国家に授益せんとして海外への旅行中、アメリカ・ニューヨークで客死する。享年66歳だった。 生前、広村の村人たちが、梧陵の積年にわたる恩に報いるため、「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。 しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。 広川町役場前に「稲むらの火広場」の銅像が建ち、耐久中学校の校庭に「梧陵翁」の銅像が建つ。 《 有田・蜜柑 》 「 沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船 」 江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。 紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、「有田郡湯浅町別所」あたりが有力とされている。 江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では、蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは、大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。蜜柑はなんと、元手の30倍の金額で売却できたと言われている。 故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなした文左衛門の活躍は有名になり、俗曲、カッポレに歌われるまでになった。 彼が活躍したのは、江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。 彼は、その頃江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保とむすびつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。 こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽とまでよばれた・・。 しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権もうばわれ、商売もふるわなくなり衰退してゆく・・。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。 日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である・・。 紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。 今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。 主文から外れるが、よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり・・、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。 ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる・・。 味の良否、量の多少はともかくとして、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、・・、国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されている・・と聞く。 ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。 では「温州みかん」の温州とは一体何か・・? 中国・浙江省の温州地方から入ってきて、ミカンの産地を称して「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか・・。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる・・。 温州みかんの原木は、中国からであろうとされたが、最近にいたってインドシナ原産(印度支那・アジア大陸の南東部、インドと中国の中間に位置するからいう。普通ベトナム・ラオス・カンボジア3国(旧仏領)を指し、広義にはタイ・ミャンマーをも含む)で、南中国から琉球沖縄を経て、わが国の肥後の国・天草郡西仲島(鹿児島県長島)伝来し、 そこで、突然変異したものが「温州みかん」の原型ともいわれる。 ともあれ、日本の蜜柑の発祥地は、鹿児島県長島といわれる・・。 紀州・有田に、「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃で、有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始める。 明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変美味と評判が立ち高値で取引されるようになった。 東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由をやめ、大阪経由の鉄道便を利用するようになり、天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。 《 由良、印南・日本の味 》 話が些か前後するが・・、小生、関東・相模の人間として由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。 かつて、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって、「紀に興国寺あり」といわしめ、宗風一世を風靡し、「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。 国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。 時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名で「鎌倉の項」でも述べた。 その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を由良の港で行っていた。主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理) を弔うため高野山に入る、その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。 故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え、一寺を建てた、これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。 覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)すがたで帰朝したという・・。 これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院の総本山でもある。 又、覚心は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 覚心は、醤油の製法をもあみだし、隣の湯浅町に伝えたという・・。 その後、湯浅の職人が、黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである・・。 又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 現在も「湯浅醤油」は、昔ながらの製法で造られているという。 関連するが、由良、湯浅より南へ下って印南町(いなみちょう)の事である。 こちらはカツオブシの発祥の地といわれる・・。 暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 印南の漁師たちが、「土佐の宇佐につくっていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれ、「宇佐はカツオブシの発祥地」と言われるが、もともとは宇佐にいた「印南」の播磨屋亀蔵が考案したものである。 因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという・・。 有田の蜜柑はもちろん、隣町・南部町には紀州梅もある。和歌山は、味噌、醤油、カツオブシ、梅干・・と、日本人の味の基本があり、発祥だったのである・・。 《 紀州・和歌山:城と神々 》 阪和道(海南・湯浅道路)から和歌山の和歌山城へ向うことにする。 I・Cから国道24を和歌山市街方面、和歌山駅を右に見ながら程なく和歌山城・天守閣が見渡せた。 入城口を見つけるため、そのままぐるりとお城の回りを走り、駐車場を探すと市役所前のお城側に広い駐車場を見つけた、・・と思ったら観光バス専用である。 観光バスが一度に、こんなに来ることがあるのかね・・?と疑念をもちながら、どうやら、スペースの小さい城内の300円の有料駐車場に入れる事が出来た。 有料にしては余り整備されてない駐車場であるが・・。 石垣に沿って作られた石畳の階段を上り天守閣のすぐ下まであがった、ここで又、入城料350円である・・。金銭をケチるわけでないが、平日の観光客に、いかにも小銭を収受している感じで、何やら気分を損なわせる・・?。 城郭は、三層大天守と二層小天守、二基の隅櫓を多聞櫓で結んだ連立式天守式といい、付属する天守曲輪と、本丸御殿の曲輪の二つの独立した曲輪がある。 又、岡口門が、国の重要文化財に指定されているのをはじめ、石垣、堀、門・・等の遺構が残る。 表側にお堀端を構え、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に、白亜の天守閣がそびえる威容は、さすがに御三家にふさわしい風格を醸し出してる。 残念だったのは、一般の入場口が裏坂や新裏坂といった脇道にあたり、お城の顔とも言うべき「一の橋大手門」から入場、退出が出来ない仕組みに成っていた事である・・。 和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の「豊臣秀長」に築城させたのが始まりである・・。 豊臣秀長というと、戦国時代としては表舞台に出ず、馴染みが薄いように思われるが、秀吉が天下を掌握した第一の功労者で、天下の名補佐役といわれ、生涯ナンバー2を守り抜いた人物である。 戦国期、陽に陰に激しく抵抗した紀州一円を平定したのは、秀長の武力はもちろん才覚と人格によるところが多いという。 彼が果たした功績は非常に大きく、握った権限は著しく強かった。 特に、後半生は、 眩いばかりの栄光に包まれている。 116万石の大封を得、従二位権大納言の高位に至り、天下の政事の中枢に深くかかわり、百戦不敗の武功を誇り得た。そして、生涯の絶頂期において、永い病の末に生涯を終え、自らの大封を養嫡子に譲ることが出来た。つまり、この人は功績を積み、出世を重ね、至福のうちに天寿を全うしたのである。 戦国期、英雄人傑が輩出し、一家一国を築いた数多(あまた)の中で、天下人と呼び、余りに著名な信長、秀吉、家康の三雄に次ぐ英傑であるとも言える・・。 こんな、豊臣秀長により築城された和歌山城ではあるが、本人は中央中枢で多忙を極めていたため、城代として桑山重晴(秀長家老から秀吉直参)が勤めていた。 徳川初期、加藤清正の息女を正室とする、家康十男・「徳川 頼宣」が、紀伊国・和歌山55万5千石に転封され、紀州徳川家の家祖となり、徳川御三家が成立する。 第五代紀州藩主「吉宗」の時、徳川将軍家の血筋が途絶えたことが因で、江戸幕府八代将軍へと抜擢、就任している。 紀州・和歌山は徳川御三家の一つで、吉宗の出所として知られているように城下町である。 和歌山城を中心にして、町は放射状に発展してきた。 温暖な気候で海は万葉にも詠われた「和歌の浦」と川は「紀ノ川」と・・。 そして、和歌山市内及びその隣接地域には、数多くの神社が存在する。 数多くというが、ただの数ではない。市域の地図を広げる、と数えるだけで60〜70位にもなり、小さめの地図だと名称を記載するだけで、その面が埋まってしまう程である。 市内を数分歩くと、何れかの神社・仏閣に行き当たる・・、こんな具合であろう。 市域のほぼ中央を南海電鉄・貴志川線が走る。路線の長さが僅か10キロ少々のところに、駅の数が12を数える。 この鉄道の敷設は、日前国懸神宮、竈山神社(かまやまじんじゃ:祭神・彦五瀬命で神武天皇の兄君)、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の三社詣でや、他の神社の参詣が目的の一つになっているといわれる。 この沿線には岩橋(いわせ)、千塚古墳群、大池遊園近くには先史土器や縄文土器をはじめ、おびただしい古代遺跡が発掘されている。 貴志川八幡宮や大国主神社のある、終点の「貴志」は、紀州の飛鳥と呼ばれるほど多くの遺跡が残されてる。 和歌山駅の東南、秋月地区に和歌山三社の一つ、「日前国懸神宮」(ひのくま・くにかかすじんぐう)がある。呼び名が少々ややこしいが、元来、古代における国造(くにずくり)の神宮(かみみや)の呼称は難解なものであるという・・。 形式的に伊勢神宮は、内宮、下宮が一対になっているが、こちらも日前・国懸の各宮が対になっていて、地元の人は、この呼び名が煩わしいのか「にちせんぐう」と呼び、付近を通る貴志川線の駅名も日前宮駅(にちせんぐうえき)と呼んでいる。 この神宮は、天の岩戸神話で天照大神を導き出すために作られた神鏡が祀られているという・・、天照大神の別名ともいわれ。又、日前大神は、「紀」の國造りの祖として、伊勢神宮に次ぐ大神として崇められている。 そして宮司は代々「紀家」である。 紀氏の家系の祖は、はるかに遠く、日本で最も古い家系の一つとされて、天皇家と出雲大社の千家氏と、それと日前宮の紀氏であるとされる。それに、紀氏の遠祖は、神武天皇東征の時期ともいわれる・・。したがって、紀の国(紀伊の国、紀州、俗名・木の国とも書き読む))は、神武・古代の時期から興ったものとされてる。 日本の古代国家の誕生を語り継ぐ記紀神話(古事記、日本書紀)の中にも、和歌山の地名が数多く見えといい、和歌山は古代から伝説・伝承の時代を経て今日まで、営々と築いてきた精神や生活の文化の歴史の跡が色濃く残る地域である・・。 《 紀州・和歌山:雑賀党 》 中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれ、農業生産や鍛冶といった技術が秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。 種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると 共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する・・、雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる。 彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれるが・・。 戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域であった。 紀ノ川を、20kmほど遡った辺りの岩出町に、「根来寺」がある・・。高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていた。 戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を止め聳え立っている。 秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っている。(5箇所) ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方とに分かれるという。学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり、僧兵武装集団での根来衆は、この根来寺行人方のことである。 彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになるが・・・。 鉄砲伝来は、「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。 鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。 数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。 時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有したのである。 信長いまだ九歳だった時分である・・。 こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成したのである。 《 紀州・紀ノ川 》 和歌山は、神話の舞台としてよく登場することは先に述べたが・・。 その理由には、大和盆地(奈良・・)に発生した古代の政権が、全国を統一し、その後、海外にまで進出する過程で、大量の兵員・物資を輸送する際に、大和盆地の南に位置する「紀ノ川」の水運を利用したといわれる。 見知らぬ国から国へ、異国からの不思議な話など、古代の和歌山は、日本の窓口、世界への窓口の中心だったとも想像できるのである。 和歌山城を少し西へ行くと、紀の国の名河「紀ノ川」が広大に、 滔滔(とうとう:水の盛んに流れるさま)と流れる。 水源は、奈良県と三重県の県境をなす台高山脈の南部、大台ケ原にあり、標高1500m から1700mほどの高山地帯で、吉野熊野国立公園に属している。この地域は、わが国屈指の多雨地帯で、一日の降水量300mmを数えることもあり、この多量の水は大自然を育み、文化の交流を支え、現実に日本有数の淡水魚群を生み出しながら和歌山湾に流れ込んでいる。 和歌山出身の代表的作家、有吉佐和子の作に『紀ノ川』がある。この物語は“家と女という、日本の伝統の流れに身を任せる母、激しく抵抗する娘、そしてその二人を止揚(高めること、矛盾する諸契機の統合的発展をさす)したかのような新世代の孫娘。この三代の血の流れを、紀ノ川の流れに喩えて重ね合わせ、その情景の中で、日本の女の物語が静かに編みこまれている。 小説「紀ノ川」は、花(はな)と呼ばれる主人公が、紀ノ川上流の九度山(紀の川中流域九度山町)から下流の六十谷(むそた:和歌山市北部の紀ノ川沿い・六十谷橋)に嫁ぐ朝の情景から始まる。九度山にある慈尊院で、花嫁と祖母は故郷の川をしみじみ眺めながら、その美しさを讃えている。 物語はその後、花が明治の嫁として伝統に生きる姿、その母に反発する娘、花の思いを受けとめる外国育ちの孫娘などが絡む・・。 和歌山の激しく、華やかな時の流れを、紀ノ川と代々連なる女性の営みに喩えたのかも知れない・・?。又、川筋の風土とか人情が巧みに織り込まれている。 有吉佐和子は、和歌山には幼少の時分と疎開時と合わせても6,7年くらいしか居なかったらしい。しかし、地名の使い方、土地にまつわる話や言葉使いは実にうまいと、地元の人も文句の付けようがないと言う・・、というより地元の人も教えられることが多いと・・。小説「紀ノ川」は、昭和34年(1959年)に28才の若さで書いた出世作で、作家・有吉氏は53歳の若さで急死している。 和歌山県の最北部、既に高野山の北側の登り口でもあり、大阪との府県境にもなっている地域に「橋本町」が在る。 ここに、中流域といえる「紀ノ川」が南北に分けて流れる・・。 この地は、日本女性として、初の金メダリストになった人物の出生地であり、紀ノ川は天然プールで、その練習場でもあった。 「 がんばれ、がんばれ、・・・、前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・あと5m、あと5m、あと5m、・・・。 勝った、勝った、勝った・・・前畑、勝った!勝った、勝った、前畑勝った!!・・・・」 その時、NHK・河西三省アナウンサーがデッドヒートの模様を、何度も何度も連呼した実況中継が日本中を沸かせた。なんと、このとき「頑張れ」を、38回も言ったといわれている。 当時は、今の時代とは異なり、音声だけの「ラジオ」での実況だから、聞いている人達は、テレビのように、戦いの様子を眼で見ている訳ではない、何か、よく状況は分からないが、ただ「頑張れ、頑張れ」とだけ・連呼する声を聞いて、兎に角、前畑が大したことをやってんだと想像したもんである。そして、勝負が決まった後に、「勝った」 を15回も言ったそうだ。 第11回ベルリン・オリンピック(1936年8月11日)での競泳女子200m平泳の前畑秀子の優勝の瞬間であった。 時代は、日本が国際連盟を脱退し、やがてドイツ・イタリアと手を結び第二次世界大戦へ突入する前夜でもあった。前畑秀子の金メダルには、そのまま日本という国の勝敗がかかっているような勢いであったともいう・・。前畑は、ベルリンオリンピックの想像を絶するプレッシャーの中で、自分の力のすべてを出しきり、プレッシャーをバネにするという強い精神力が、金メダルをもたらしたのだろう。日本女子初の金メダリスト・前畑秀子、その後、日本女子水泳競技に金メダルをもたらすのは、昭和27年のヘルシンキオリンピックの青木まゆみ選手で、実に36年間待つことになる。 1990年、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。 【 前畑優勝熱闘譜 】 「ベルリンオリンピック女子二百平水泳決勝実況放送」 NHK・河西三省アナウンス 『……切らないで下さい、スヰツチを切らないで下さい、もう予定時間ですが、切らないで待つて下さい、そのまゝ待つて下さい……
前畑氏から20年後の昭和31年(1956)、豪州のメルボルンで同じく200m平泳ぎで金をとった「古川 勝」選手である。彼の異名は“人間潜水艦”といわれ、戦後初の水泳の金メダルをもたらした。 世間は、丁度テレビがお茶の間に普及しだした時代であり、小生にもあの時の感動の映像が、頭に残っている・・。 スタート直後から45メートル潜り続け、ターンするとまた潜る。五輪前から驚異の世界新を連発した古川は、決勝でも潜水泳法で挑み、見事2分34秒7のタイムで圧勝した。 彼は、ベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで、前畑秀子が女子初の金メダリストとなった、その橋本市古佐田地区にある前畑家の近所で誕生している。前畑氏同様、紀ノ川で鍛えた体には平泳ぎの天才の血が受け継がれていたのであろう・・。 彼の潜水泳法は、短期間で身につけ、息継ぎなしで75メートルはもぐれたという。五輪後、国際水連は、潜水泳法を禁止にし、古川のあまりの強さが禁止を早めたという。「紀ノ川」近くにある橋本市役所に前畑選手優勝70周年、古川選手優勝50周年の顕彰碑が建つ。 本流は、和歌山県内では紀ノ川、奈良県に遡ると吉野川と呼ばれる一級河川で全長136km。 その源流域は、その名も「川上村」である。 最初の一滴が生まれる源流の村で、吉野杉という有名な木材を産出する中心地として栄えた。 この水源の村に「森と水の源流館」があり、更に「源流学」というのがあるそうだ。 水源地の森を含めた山々を守り、源流部の森を造り、下流には森の腐葉から出る富養の水、清い水を流す。そのためには、流域一体となった取り組みが必要であり、それも上流から叫ぶだけでなく下流域が積極的に取り組んでくれることが大事で、和歌山市もこれらに応えてくれていると・・。 自然や環境、そこに棲む生き物たちと、人々が一帯となった取組学が「源流学」というそうである。 尤も、紀ノ川、吉野川の源流は、あの「大台ケ原」では、一年360日が雨といわれる。日本最多の雨地帯であるが、日本の秘境と言われる原生林を育み、300種というコケ類を密生させ、天然のダムの役目も果たしている・・。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。
《 尼崎の悲劇、惨劇 》 大阪城のすぐ北を国道1号線が走っている。 この国道1は、JR大阪駅(私鉄・梅田駅)の駅前の主要十字路でR2(国道2号線)に引き継いでいる。国道1号線は、東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田新道までおよそ570km、途中横浜・静岡・名古屋・京都と主要な都市を結び、都市圏の産業道路であったり、名所の箱根や浜名湖畔沿いなど変化にとんでいる。 もちろん現在の東海道の主役は新幹線や東名・名神高速道路であるのはいうまでもないが、地域の生活や産業にしっかり密着している国道のスーパースターである。 そのR1からR2に乗り継いで・・?、兵庫の六甲山麓の有馬温泉へと向う・・。 途中、邪心とは承知のうえで、「尼崎」に寄ることにした。 邪心としたのは、その付近で最近(四月)大きな鉄道事故が発生していて、その現場を参見するつもりであるから・・。 大幹線道路、大型貨物車がゴーゴーと走る阪神工業地帯の真っ只中の尼崎駅前付近から、右方向の地方道へ入ってようやく開放された。 工業地らしく大小の会社工場が乱立していて、近くをJR福知山線が走る、この線が東海道本線と合流する地点駅が尼崎駅である。 そのすぐ北側を名神高速道が走り、福知山線と交差する辺りが、悲しい事故現場のはずである。 車をグルグル走らせて、どうやら目的の地へ着いたようである・・。 報道記者が数人カメラを持ち、高さのある脚立を構えて立っている。 ガードマンも直立不動で事に当たっている・・。 車を「日本スピンドル・・」という会社工場の正門横に置いて、小生もカメラ片手に神妙に出かけた・・。すぐ福知山線の踏み切りに来た・・、開かずの踏み切りでなく開けっ放しの踏み切りで、人も車も常時往来自由である。右方のレール上はバリケードがしてあり、すぐ横にTV映像で何回も見せられた白の幕で囲われた仮祭壇らしきものがあった・・、こちらは裏側にあたるのだろう中の様子は覗い知れない。 鉄路にそって、あの高層のマンションが立つ・・、このマンションの地下駐車場に、事故列車の1両目の車両が殆ど突っ込み、死者およそ30人を出している。2両目は、この建物の前方に激突し、くの字にへしゃげて大破、死者およそ70人、3、4両目は脱線した衝撃で180度前後が入れ替わり大破した、死者4〜5人出している・・!!。 この電車の乗客は約540人というから、死亡率18%、負傷率79%にもなる・・。 現場に居る鉄道関係者は基より、報道、ガードマン、それらの人々はいずれの顔も強張って、堅そうで、緊張感のなかで脱力している。 見れば、行き交う人々も表情は重く、何か悲しげである、この地上に居る人達は皆、そのようだ・・! 時折、子供のカン高い声が響き、車の行き交う無味は騒音が耳に届くが・・。否、この場に在る空気や人々の雰囲気が重いばかりでなく、周辺地域に住む人達も、本来の笑い声は暫くは聞けないだろう・・、家族の対話も、近所の茶飲み話しも・・。 あれから1ヶ月少々、こらから蒸すような暑い夏がやって来て、悲しみの熱風が辺りを支配し、威圧し、人々は更に無口になってゆくだろう・・。 死に到る悲しげなウメキの声が、途絶えるのは一体何時になるのか・・?苦悶の霊が漂い浮揚している、怨念を負っている107の霊は、そう単純には仏となり得ず昇天は出来ないだろう・・。 それらの霊を救済する天女が現れて、元の晴れ間に戻るのは何時になるのか・・?、やがてやって来る秋の涼風が吹く頃か・・?天女が涼風に乗ってやって来て、これらの霊を慰め、静かに抱えて天界に同伴してくれれば良いが・・。 その頃になって、やっと人々の本来の笑い声、歓声が聞こえて来るかも知れない・・。それらが少しでも早からんことを本当に願い祈りたい・・。 小生も、邪心ながらも現場に立っていて悲惨で、遣り切れなくて、胸が詰まり、切なくなって、何か込み上げるものを感じたものである・・、ご冥福を祈るばかりである。 東京地区でいうなれば、品川駅近くで京浜東北線が事故を起こした様なものだろうか・・、 本年(2005年)4月25日の午前の事である・・、この事故を一般に「JR福知山線脱線事故」と称している。 2005年4月25日午前9時18分頃に、JR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口〜尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。 事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の右カーブ区間、塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。 事故列車は宝塚発、片町線(学研都市線)の同志社前行き上り快速電車である。列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。 同時刻には並行する下り線に、新大阪発、城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であったが、事故を目撃した近隣住民の機転により、近くの踏切の非常ボタンが押され運転士が異常を察知し、およそ100m手前で緊急停車したという、そのために、二重事故が回避されている。 曲線区間の制限速度は70km/hであるが、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。この時の列車の運行時間は定刻より1分30秒程遅れていたとか・・。 救助作業は、昼夜を問わず24時間続けられ、3日後の4月28日に終了した。 事故の犠牲者は、運転士を含む死者107名、負傷者は555名。 犠牲者の多くは1両目か2両目で、ほとんどが多発性外傷や窒息で亡くなっていて、クラッシュ症候群(挫滅症候群・ざめつしょうこうぐんともいい、身体の一部が長時間挟まれるなどして圧迫され、その解放後に起こる様々な症候をいう)も確認されている。事故の規模は、死亡者の数に限定するならば戦後の旧国鉄時代を含めると1962年の三河島事故(2重事故・死者160人)に次ぐ大惨事となり、JR発足以降に限定すると1991年の信楽高原鐵道(正面衝突・42名が死亡し、614名が重軽傷)での衝突事故を抜き、史上最悪の鉄道事故となった。 107人もの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故において、此の程、人命救助に尽力した人に紅綬褒章が授与された。 その中の一人に浜崎節美さんがいる、事故の時、近くを通りかかり、とっさに踏み切りの非常ボタンを押して対向の特急電車が突っ込む二重事故を防いだのである。 又、事故直後、近くの機械メーカー「日本スピンドル製造」では、斉藤社長号令の下に、操業を中止し、社員全員工場から毛布、医薬品、工具を持ち出し救助に当たった。 トラック等も全車出して怪我人を乗せ、現場と病院をピストン輸送した。 褒章を受けた両名は、「光栄に思う、と同時に戸惑いも感じる。ご遺族と負傷者の皆さんを思うと心が痛む。」とコメントしている。 たまたま、この会社の正門横に車を止めていて、小生自ら撮った写真に社名が写っていた、確かに事故現場はすぐ前であった・・。 《 「千の風になって・・」 》 今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという・・。 小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう・・。 その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。 この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌であり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌である・・、といわれる。 人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。 この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 又、美しい曲を聞いていると“それ”を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・。 この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。 ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、甚だ、興味津々である。
《 女の城・宝塚に日本の紳士 》 鎮痛な気分を切り替えて、地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。 阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。 西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 宝塚、西宮郊外、芦屋は、六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 だが、ここでは女性の事でなく、実は男性の事なのである・・。 先の大戦での終戦の結果、占領軍が上陸し、大臣、閣僚のお偉方が平身低頭し、右往左往する中・・、ただ一人、占領軍・司令長官「マッカーサー」に"NO“といった男・「白州次郎」のことである・・。 白洲は1902年(明治35年)、この芦屋に生まれている。 英国留学、英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得る。終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。 先ずエピソードとして、彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとしたら、マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。その瞬間、白洲は 怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事か!」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意し、鄭重に贈り物を置いたという。 これらの振る舞いにGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。 GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・」と称している・・。 サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されるが・・。この時予定としては、GHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。吉田首相に独立国の面子として、日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら演説していたのである。 白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである・・。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。 吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ。 その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど、白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。 幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。 ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも撤回されている。 2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会で、「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、六十年近くを経て現実にそぐわないものとなっているので、二十一世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。 宝塚は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名である。 関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。 夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 左前方に大きく特異な建物が見えている、赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている「宝塚大劇場」である。 宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地においている。 花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校であるが・・。各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・・!これは余計・・。 大阪、尼崎、宝塚と巡って思い出した事がある・・、今年は、阪神大震災から丁度10年目に当たる。道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない・・。巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?又は完全復興したのであろうか・・? しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという・・。この震災は、記憶、記録には留めておきたい・・。 1995年(平成7)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。死者 : 6,433名 負傷者 : 43,792名 避難人数 : 30万名以上 被害総額 : 10兆円規模 ・・、大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった・・。 《 有馬温泉 》 国道176号を、宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 道端には古い道標が残っている・・、太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道しるべだという。すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。 蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。 寒天といえば・・、拙宅(神奈川)から別宅の白馬村へ行く途中、長野県中部に「諏訪」がある。諏訪地方が全国一寒天の生産地であるる。 寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようである・・。 テングサは、心太草と書くが、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。このトコロテンを寒晒したものが寒天で、トコロテンは俗字で本当は「凝海藻(ころもは)」と書くと平安時代の書物に記されているとか・・、食用化されたのはもっと以前の奈良時代で、僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。 西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。 清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた・・。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ・・。左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。伺うと「銀の湯」は開業しているらしい・・。 有馬温泉の由来は神代に遡る、三古泉・三名泉の一つである。太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、近年秀吉の湯殿跡も発見されたという。大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。 車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう・・、それにしても満月城のひと際巨大なホテルが目立っている。西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ地で、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。丁度ここに「太閤の湯殿館」というのが在った、秀吉の湯殿跡といわれるところである。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で壊れた有馬温泉・極楽寺(ごくらくじ)の庫裏 (くり・お寺の食事を作ったりするところ)の下から、安土・桃山時代の遺跡が発掘された。これらの遺跡を保存・公開するとともに、 秀吉がこよなく愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介している。館内には秀吉が造らせ、入浴したといわれる「蒸し風呂」や「岩風呂」の遺構をそのまま取り込んで展示してある。 念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。 温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った。 金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。 暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ・・。 中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった・・、せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂もほしいところであるが・・。 先ずは有馬の湯に浸かる、金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。 情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという・・。さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである・・? 昨日から今朝にかけて訪れた南紀白浜とはチト・・、状況は異なるようである・・。 銀の湯の裏手高台に温泉神社がある。南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているという、草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されている。 温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で断念し有馬を後にした・・。 一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにした。 夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる・・。 対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた・・。 |
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