日本周遊紀行



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日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」



名古屋城に金鯱が無い・・!!・・??、



写真:これは珍しい、天主に「金鯱」が無い・・!!(理由は下記へ・)


写真:通常の「名古屋城」



「セントレア」の構内施設、出発口、到着口等を車で巡って、そのままセントレア連絡高速路、知多半島高速路で一気に名古屋市内へ。 
市内へ入って都市環状線を名古屋駅付近より丸の内のランプで一般道へ降りる。
あとはナビに従って名古屋城へ向かった。

官庁街のビルの谷間を一刻走ると、名古屋城前から二の丸の信号があり左折すると、緑に囲まれた園地の一角に路駐スペースがあった。



城の守衛らしき人がいた・・、


「お城の入口はどちらですか・・、30分位、車は大丈夫ですかね・・?」
「ああ、いいよ・・、150mくらい行った所に正門があるよ」

勇んでカメラ片手に出かける。 しかし、入城は有料だった。
無一文の小生、又しても駿河・東照宮の轍を踏んでしまったのである。

外部より天守閣を望める場所を聞いて御堀端の方へ進む。
確かに西側のお堀端から城内の森に囲まれながら城郭・天守閣の上半分が鮮明に見渡せた。 
白漆喰の壁に、やや緑がかった瓦屋根が各階層に優美な姿を見せている。


気がつくと、やはりというか天守閣の屋根には本城の象徴的名物である、燦然と輝く「金の鯱(しゃちほこ)」は見ることは出来なかった。 

金鯱は、平成17年(2005年)3月24日に開会した日本国際博覧会・名古屋(愛称=愛・地球博)の開会式典で展示されるためと、愛・地球博に併せて開催された名城公園内の「新世紀・名古屋城博」のために降されていたのであった。
金鯱を天守閣から取り外して公園外の外部施設での展示は、名古屋城が1959年に再建されて以来、初めてのことだったという。


黄金のもつ不変的価値は古今東西変わることはない・・、

400年前の江戸開府時における徳川家康は、豊富な「金」を蓄えていた。
秀吉も広く天下の金鉱を求め、採掘を奨励してた。
いわゆる当時は日本のゴールドラッシュ期であった。

名古屋城の小天守閣は、尾張・徳川家の「金蔵」であったともいわれる、これらの黄金を材料にして金鯱は鋳造されたといえる。 

ところで大阪城は、名古屋城に先立つこと20余年前に築城されたが、太閤秀吉の豪奢な派手好みにもかかわらず、金鯱を飾る事はなかった。 
江戸城にしても、家康は金鯱を飾る思い付きはなかったらしい・・?。

しかるに家康は名古屋城にのみ思い切った大金鯱を飾りつけた。 
この時期になって家康の天下統一が不動のものとなり、日本の中央に位置する尾張にて天下の名城を築城し、尚且つ頂部に大金鯱を飾りつけることによって、徳川家の大いなる威勢を示したものといえる。結果として家康晩年の最高傑作でもあり、日本築城芸術の頂点といえるものを造りだしたのである。
因みに金鯱にも雌雄があって、雄が北側で雌が南側であり若干、大きさや形が異なっているという。


『 天下様でも、かなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし 』
(東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌)

『 宮の浜には 魚が寄らぬ 金のしゃちほこ 陽に光る 』
(宮の浜とは熱田のことで、北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌)


金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもあり、名古屋城は「尾張・名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城である。

そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われた。



下衆ながら・・、金鯱の価値ってどのぐらい・・?、


ところで、俗人の思惑で、金鯱に使われている金の価値は一体どの程度のものか・・?。
文献によると、江戸初期の「慶長大判」を1940枚使用したとされている。 
大判は本来、恩賞用、献上用として使用された特殊な金貨で、小判のように通貨としては流通してはいない。 
その慶長大判は、小判10枚分(10両)に相当するという。(等価ではない) 
10両は重さの単位で44匁・モンメで、グラムにすると165g(安土桃山時代頃には、ほぼ全国で1両は4匁4分 ≒金16.5グラムで統一された。

実際、慶長小判では小判1枚に1両分の金が使用された、小判の額面も1両とされた。)を意味する。 
慶長大判の金位は68%であるから、1枚に金が112g(165×0.68)使われている。 
これが1940枚で、金鯱全体で217.3kgの金が使われた計算になる。

現在の金の価値で1g=1500円とすれば、時価約3億2600万円の金が使われたことになる。
現在の金鯱は大阪造幣局で復元された物で、88.08kgの金が使われているとという、同様の計算で時価1億3200万円の金が使われていることになる。 

初代のものに比べると大分価値が劣るが、それでもやはり凄い・・!!。


名古屋城は大阪城、熊本城と並ぶ日本三大名城の1つで、伊勢音頭にも・・、


『 伊勢は津(港)で持つ、津は伊勢で持つ、
                  尾張名古屋は城で持つ
 


と歌われた名城でもある。


戦国期、駿河の今川氏親が尾張進出のために築いたのが最初といわれ、現在の名古屋城二の丸一帯にあったとれる。 
織田信長が勢力を得ると清須城として改築している。 
江戸時代、清洲城の地形の悪さ(水害に弱い等)から那古野の台地に、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として城を築くことを指令する。 

普請奉行(室町・江戸幕府の職名。基礎、石垣や上水などの土木関係を管掌)は加藤清正作事奉行(鎌倉・室町・江戸幕府の職名。
幕府関係の建物の造営・修繕などを統轄した)は小堀政一縄張(縄を張って境界を定めること。
建築の敷地に縄を張って建物の位置を定めること、実際には軍事的意味合いを含めて、地勢や地形を計り、城郭の基本形を決める主要な業務)は藤堂高虎によるとされる。 



慶長17年(1612年)には大天守が完成する・・、


築城成った新装の名古屋城へ清洲から移る時は、名古屋城下の地割・町割を徳川義直が直接実施したといわれる。
この移住は「清洲越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺3社、城下の町並み、清洲城小天守も移るという徹底したものであったという。

明治維新後、14代藩主の徳川慶勝が新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出る。 
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定し、天守閣は本丸御殿とともに保存された。 

この名古屋城は戦国期より昭和初期まで、戦乱による直接的、破壊的攻防は無かったが、昭和20年5月の太平洋戦火の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、金鯱などに焼夷弾が被弾して焼失してしまった。

現在の天守閣は昭和34年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。

又、この尾張地方は、戦国期の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地で、お互い群雄割拠し覇権を争った地柄であることは周知で、名古屋は、関東、関西の中央地であるが、この地から日本の代表的人物達が輩出したことは良く知られている。


名古屋・「地球博」・・、

名古屋市街の東方に長久手町がある。
長久手町は家康、秀吉の両雄が戦った「小牧・長久手の戦い」の舞台となった場所で、日本三大古戦場の一つとされる。

1584(天正12)年、尾張の小牧・長久手で戦われた豊臣秀吉と徳川家康の戦いは織田信長の死後、秀吉の勢力増大に対抗し、家康が信長の子、織田信雄(信長の次男)を味方にして起こした戦いである。家康は小牧山に本陣を構え秀吉軍と対峙、三河への侵入をはかった羽柴秀次(豊臣秀吉の甥(姉日秀の子))軍を長久手にて破る。

又、秀吉方の部将池田信輝(勝入)・森長可らが長久手で討死にするなどしたが、大勢は動かず膠着状態となる。
翌年、信雄と秀吉が和睦、家康はお義丸(結城秀康・家康次男)を秀吉のもとに人質として送り講和を計った。
この戦いは、戦術的(実戦)には家康の勝利であったが、戦略的(政治、政略)には秀吉の勝利といわれる。


「小牧・長久手古戦場」の東側が、本年行われている愛知万博会場・・、


2005年日本国際博覧会、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」と称している。

人と自然が如何に共存していくか、というテーマを掲げたうえで、「環境万博」を目指しているという。 2005年3月25日から同年9月25日までの半年間、愛知瀬戸市(瀬戸会場)および同県愛知郡長久手町(長久手会場)2会場で開催されている。

入場者は当初は主催者側の各種規制があったりして、暫くは伸び悩んだようだが、これらの規制も緩和され、5月のG・Wあたりからは相当盛り返し、8月には博覧会協会の当初の目標総入場者数である1500万人を突破、想定より1ヶ月以上も早い達成となったらしい。
その後も客数は順調で9月のの閉会時点では200万人突破も夢ではないかも・・?と嬉しい予想もしているとか。


会場ではリニアモターカーが大人の人気とすれば、子供達には(大人も・・?)宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」に登場する。
昭和30年代の家を忠実に再現した、あの真っ黒クロスケが出てくる「サツキとメイの家」が超人気だとか。 

又、地元のトヨタグループ館、日立館、三菱未来館、三井東芝館とお馴染み企業グループ、地球市民村、アフリカ共同館、長久手日本館等人気があるらしい。

小生も折あらば訪ねてみたいと思っているが果たして・・?


名古屋は東京、大阪の中間に在り、地理的にも日本の中心に近い。 
世界に誇るトヨタ(小生はニッサン系の地域にいる)を筆頭に製造的な業種は日本一らしい、もっとも製造業は世界に誇る日本であるから、その中心はやはり名古屋と言える。 

近頃のニュースで「トヨタ」が、自動車製造世界一、製造産業世界一になる日も近いのでは・・といわれているが・・?。

名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介しよう・・!!

キーワード 「名古屋はええよ!やっとかめ」

http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/
 

 

いずれにしても「セントレア」といい、「愛知万博」といい、近年は尾張中京地区が日本の景気のリーダー的役割を果たしている事は疑いもない。

次回は、長島河川の治水工事

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日本周遊紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」

薩摩藩による、壮絶な「治水工事」の歴史的事実・・、


弥富を過ぎると「木曽川」の長い橋梁を渡り、中州の・・?の長島地区から今度は長良川、揖斐川の大河を過ぎる。
長良川、揖斐川は一体のようであるが、実際は中州の仕切りがしてあり、この中州は、この辺りから上流へ向って「千本松原」が緑豊かに延びている。

昨日通って来た駿河の原海岸に在る「千本松原」もそれなりの歴史があったが、こちらはそれのも増して過酷な重い歴史を背負っていた・・!!。


木曾三川と言われる大河川は、洪水のメッカであった・・、

木曽川は、木曾山地を水源に飛騨川と合流し、犬山市付近から濃尾平野に出る。
下流域では揖斐川、長良川と合流・分流を繰り返し、所謂、輪中(水災を防ぐため一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、水防協同体を形成したもの。
岐阜県南部の木曾・長良・揖斐の三川の下流平野に形成されたものは有名)と呼ばれる集落も発達した。 
河川は、江戸期以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離・分流されて伊勢湾に注いでいる。

この木曾三川と言われる大河川は、下流部においては網目状に流れていて洪水が絶えなかったため、江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われた。
「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」の改修工事であるが、特に「宝暦治水」というのは、歴史にその名を残した壮絶な工事であった。

木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。 
この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。 
そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。


幕府及び尾張藩は、この河川工事を薩摩藩一藩で行いよう命じた・・!!、


1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。

この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。 
尚且つ、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。


薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。

幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生した。
工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。 

この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。 平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねたといい、平田は自らの死を担保にしたのでる。


工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。 
工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。


世紀の治水工事、遂に完成したが・・!、

そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成を看るに至った。
この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく・・、」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。 
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、


『 住みなれし 里も今更 名残にて 
                 立ちぞわずろう 美濃の大牧
 』


の時世の歌を残し自刃している。

平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。
現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。 


遂に、治水神社創建・・、


昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。
治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。

岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。 
輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもある。


治水工事の頭領・平田靱負が町の名前になった・・!、

ところで平成17年に合併して成立した海津市は海津町と南濃町、そして平田町が合併してできた市である。 
平田町は昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して成立した新しい町だが、その平田の名は当然ながら平田靱負正輔に由来している。 
地名をとって名字にする例はよく聞くが、功績のあった人物の名をとって地名とする例もないわけではないが珍しいという。

ここからも長きにわたってこの人物が地元の人々から慕われていた事を窺い知ることができるだろう。
しかし、平成の大合併で又しても歴史に名を残した由緒ある地名が消えてしまったのは残念である、せめて、平田海津市くらいにはして欲しかったが・・??。



木曽川、揖斐川を渡ると桑名である、平成16年12月、海岸温泉の長島町と歴史の町・多度町が桑名市と合併し、新桑名市に成っている。
この辺りから右手に鈴鹿の山並が遠く望める、あの頂きは御在所岳であろうか・・?、麓に湯ノ山温泉があるはだが。 
左は四日市の石油コンビナートが目に入る、中京工業地帯有数の工業地域で、名古屋港にならぶ貿易港でもある。

1960年代にかけて発生した大気汚染による公害・「四日市喘息」は世間の注目をあびた。
硫黄酸化物による集団喘息障害であり、日本の四大公害病(水俣病=熊本・有明湾の有機水銀による生体異変、第二水俣病=新潟・阿賀野川の有機水銀中毒、イタイイタイ病=富山・神通川下流域でのカドミウム汚染・骨の異変、)の一つとされて、現在における大気汚染防止法等、日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えたといえる。

四日市の南に日永という地区がある、ここは京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあたり「日永の追分」といわれる処である。 

追分とは道が二またに分かれるところで、伊勢神宮への桑名の一の鳥居に対して、この地に、二の鳥居が建てられている。 市名は四のつく日に市がたったことに由来すると言われる。 
御在所山麓の湯ノ山温泉は四日市の奥座敷といったところか。

次回からは近畿道になります、先ず「関の鈴鹿峠」
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   【 近畿道 】


日本周遊紀行(31)関 「鈴鹿峠」


亀山、関は古今東西、交通の要衝・・、


亀山は、この道路の関JCT(ジャンクション)が示すとおり、今も昔も交通の要衝として知られる。

南下すると国道23号、伊勢自動車道の津から伊勢へ、西方へは国道25と名阪国道が奈良から大阪へ向かう。 
又、国道1号線・東海道(旧東海道も同じ)は滋賀・大津から京、大阪へと。 
鉄道も名古屋、大阪を結ぶ関西本線が、ここ亀山で紀勢本線が分岐している。
そして古代、7世紀以前には既にここの地に「鈴鹿の関」が置かれていた。 

越前の「愛発の関」(あらち・敦賀の南、疋田付近に部落や学校名で僅かにその名が残る=若狭・近江・越前のちょうど結節点にあたり、日本海の海産物等を京へ運ぶための要衝でもあった)、美濃の「不破の関」(岐阜県不破郡関ヶ原町・関が原の合戦より以前のもう一つの天下分け目の戦い、7世紀に起った「壬申の乱」の合戦地)とともに日本三古関と呼ばれ、いずれも、都と東国を結ぶ交通の要衝として栄えた。 

関町(平成17年1月亀山市と合併、新亀山市となる)は、この関所の町が地名の由来となっている。


古代天皇家のお家騒動・「壬申の乱」・・、


因みに、この時代古代史に残る「壬申の乱」が勃発している。

壬申年(672年)、天智天皇の子・大友皇子と同天皇の実弟・大海人皇子との間で起こった皇位継承をめぐるクーデターである。


その原因として幾つかの説が挙げられているが・・、


天智天皇(当時は中大兄皇子)は、即位以前の天智2年(663年)に百済の救援と復興を意図して、倭国は(日本)朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。
この戦いを「白村江(はくすきのえ)の戦い」と言われる海戦だが、結果は大敗を喫し百済復興救援は大失敗に終わった。 
このため、天智天皇はその後の唐などの侵攻を恐れて、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民(渡来人)を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移したとされる。

だが、新羅・唐による日本侵攻の恐れが無くなった時期、併せるように国内の政治改革を急進的に行ったた。 
しかし、これらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、遷都に対する豪族・民衆の不満も続出し、更に、飛鳥時代より多発していた皇位継承の紛争という問題も生じていた。

天智天皇は旧来の皇位継承の慣例に代わって、唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子・弘文天皇への継承)の導入を目指しており、それに抗した大海人皇子は不満を高めていった。

大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとされている。


近江京(大津京)にあった大友皇子(天智天皇の第一皇子、後の弘文天皇といわれるが天皇に数えられていないともされる) と吉野京の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇・初めて天皇と号し、日本の初代天皇になった人物=有力な説)の内戦で、大海人皇子は吉野から鈴鹿の関を超え、不破の関で両者が激突した。



古代、畿内周辺の三関・・、


大海人軍に近江軍はしだいに押されていき瀬田川(琵琶湖)の決戦で壊滅状態となり、大津京は陥落、大友皇子は自害した。

壬申の乱の翌年、天武天皇は天下の変乱に備えると共に通行人たちの中で謀反を起こす者や狼藉物を監視、調べるために美濃の不破、越前の愛発、伊勢の鈴鹿に三関を置き、関使を遣し固めさせたという。 
このことは天武天皇の子息である舎人親王(とねりしんのう)が編纂した「日本書紀」にも記されている。


余録であるが・・、

大津京・天智天皇の時代「日本書紀」によると、天皇が大津宮に遷都した後、水時計を宮に備えて時刻を計ったと記されている。 
この時、「時」を初めて鐘と太鼓で民衆に知らせたといい、西暦671年6月10日のことである。 


だがこれは単なる「時の事始」ではなかった・・、


天智天皇は大化の改新を起こし、中央集権に向けた大政治改革に乗り出していた矢先でもあり、白村江の戦いの後、大陸や半島から攻撃される脅威もあった。 
こうした難題を乗り切る為には秩序ある強力な政治や軍が必要であり、そのため統一した時刻を定め、国民に共有させようとしたのであった。 

日本人が時刻を気にし、よく時を守る民族とされるのも、その大昔からのDNAが伝わっているのかもしれない。 

この日、6月10日が「時の記念日」に制定され、日本で初めて人々に時刻を知らせた日として1920(大正9)年,東京天文台が定めたという。
時の記念日は単に時間の記念ではなく、古代から国造りの為の記念であり、古代の息吹きが感じなければならない日なのである。



江戸期に入ると亀山宿、関宿、坂下宿は東海道の宿場町として賑わった。 
中でも関宿は西の追分とも言われ、鈴鹿峠越えの東海道と加太越えの大和・伊賀街道が、それぞれ分岐していたため参勤交代や伊勢参りなど、多くの人や物が行き交い賑わった。

明治時代の中頃には、関西鉄道(現関西本線)と参宮鉄道(現紀勢本線)が相次いで開通し国有化されたことから、亀山は両線が分岐する鉄道の街としても発展した。
 

東名阪道の亀山I・Cにほぼ隣接して、旧東海道の「関宿」がある・・、


慶長6年(1601)、徳川幕府が宿駅の制度を定めて以来、東海道五十三次第47番目の屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わった。 
天保年間の記録には屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣(大名の供人が多くて本陣のみに宿泊しかねる時、予備にあてる宿舎)2軒、旅籠42軒、酒食店99軒があったと記されている。

明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていたというが、明治中期の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受ける。 
町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためである。 

その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至っているようである。


関宿は、旧東海道の宿場の殆どが旧態をとどめない中にあって、唯一往時の町並み(江戸末期から明治初期の建物が多い)が残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その保存とともに歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んでいるという。

建物群を鳥瞰(高い所から広範囲に見おろすこと)すると、道路に面した間口は狭く(小さく)、奥行きが長い建物が多く目立つ。
これは江戸期独特の建築手法で、道路に面した間口に応じて税金が決められたからといわれる。


国道1号線は、この旧町並みの300m南側のJR関駅前を通っている。
車社会の現代、旧街道からはずれた位置を通ったことが旧町並みを温存することになり、幸いする結果になったといえる。 
街並みの外れた辺りから旧・新道(東海道)が合流し、R25の名阪道が分岐する。 
1号線(東海道)は、ここから鈴鹿峠(東海道、西の最難所といわれる)の登りにかかる。

峠の手前に鈴鹿馬子唄会館がある。

  「鈴鹿馬子唄」 三重県民謡

○坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ)  あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)
     ※以下、掛け声同様
○馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上掾iおさん女郎)なら エー乗しょと言うた
○坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に
○手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 エー通り雨
○与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨
○関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足
○関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく
○馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら
○昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする
○お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は エー月参り


江戸中期、小万の父は、元久留米藩の剣道指南役であったが同僚の恨みを買い殺されてしまった。
身重の妻は、仇を追って関宿まで来たが、ここで子供を産んで、間もなく亡くなる。
この時、子供の行く末と仇討のことを旅篭の主人に託したのである。
子供5歳になった時、宿の主人から両親の悲劇を聞かされた・・、この子が小万である。
それからの小万は、雨の日も雪の日も亀山に剣術修業に通い始めた。
列女小万が18才の時、仇の男と亀山城大手門前の辻で出会い、晴れて父の仇を討ち果たした。
列女小万の墓碑は関の街並みの福蔵寺に眠る


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