日本周遊紀行



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西日本編   11日目:PartU(伊万里、松浦、平戸)    PartVへ(壱岐、対馬、佐世保)
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日本周遊紀行(113)伊万里 「伊万里焼」



伊万里焼は、朝鮮から連れ帰った陶工から始まったという・・、

国道204号を南下する。
南下といっても湾岸は複雑に入り組んでいて、道路もそれに合わせて振り回されるように西に東に移動しながらの走行である。
地図上で、右手が伊万里湾のはずであるが、なかなかそれらしい姿は見えてこない。

伊万里湾は、東松浦と長崎を含む北松浦の両岸が大きく南へV状に入り込んだ深い浦を成している。 そのV状の上部は大小の島々や、出張った岬で覆っているし、南端の江の部分は、伊万里川、有田川の大きな河川が流れ込んでいる。 
したがって、この浦・湾は風波に影響されることなく静かで、最奥部は汽水状態を呈している。  この条件の中、伊万里湾は日本最大のカブトガニの繁殖地となっていというのも頷ける。 

伊万里市木須町の多々良海岸は、「カブトガニの産卵を見れる」地として有名であり、産卵期の夏の大潮の満潮の頃は砂浜にあがって雌が砂を堀り数100個の卵を生む、雄はそれに砂をかけてやるという。

伊万里湾は、その他にも色々な顔を持つ。 
江戸時代の記録には、冬になるとイルカの群れが押し寄せ、湾に臨む小高い丘には三百頭以上のイルカが揚がったという記念碑も残る。


”黒いダイヤ”と魚雷の積出港・・?、

昭和初期石炭産業が華やかだったころ、伊万里市山代町と東山代町には五つの大きな炭鉱が集中していた。久原駅からは何両も連なる貨車が、伊万里湾沿いの桟橋からは機帆船(発動機・エンジン付き帆船の略)が沖合で待つ大型船へ向かって「黒いダイヤ」を積み出した。 

合わせて、軍国風潮の頃は、軍港は南側の入り江である長崎・佐世保に決まったが、伊万里一帯は昭和15年から軍関係の輸送基地となり、20数棟の施設が並んでいたという。 
施設は、食糧や弾薬の戦地への供給基地であり、鉄道や船で運び込まれた物資は、夕暮れに乗じて輸送船団が静かに湾の沖へ移動、護衛艦を伴い戦地に向かったという。 
浦ノ崎には今も、爆薬を乗せ敵艦に体当たりする「人間魚雷」を造った造船所の廃虚が横たわる。


有田焼と伊万里焼・・?、

しかし何といっても伊万里は焼き物であろう、伊万里の南隣りに有田町があり、日本の伝統工芸品の一つ、有田焼の産地として知られている。(2006年3月1日、西有田町と有田町が対等合併し、新町制による有田町が発足する)。 

有田、伊万里で焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 
現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるという。


有田焼の祖とされる韓国人・李参平(イ・サムピョン、)は、1616年頃に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに焼窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、李参平が日本磁器の祖であるといわれる。
肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まったと言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本本国へと連れ帰ったといわれる。 

日本ではじめて磁器が生まれたのは、江戸時代初頭、現在の佐賀県有田町であった。 
この日本で唯一の磁器生産地を持った鍋島藩は有田の優秀な陶工を集めて藩直営の窯を築き、御用窯として城内の調度品、また献上、贈答用の磁器を焼かせた。 
1675年頃になって、藩窯は山深い伊万里市「大川内山」に移り、技術の流出を防ぐため窯元を厳しい管理下に置いたとされ。
鍋島藩では大川内山の麓に関所まで設けて、人々の出入りをチェックしたという。

当時、大川内山で焼かれたものは「鍋島物」と呼ばれ、日本国内向けに幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた。
特に献上品は格調が高く、風格があるといわれた最高級品であったという。 

有田・伊万里・波佐見周辺で作られた焼きものは、船に乗って有田川・伊万里川を下り、伊万里港から国内外に輸出された。 
現在の鍋島焼と言われるものの殆どは、この大川内山で焼かれたものであり、現在も大川内山には30数軒ほどの窯元がある。
又、周辺には、江戸期の関所跡や朝鮮から陶工が来て焼物をつくっていた証とされる高麗人の墓や無名の陶工たちの無縁塔等がある。 

次回は、再び「松浦」について・・、

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日本周遊紀行(114)松浦 「渡辺綱」



再び「松浦、松浦党」について・・、

瀬戸町から伊万里大橋を渡って対岸の鳴石地区へ渡る。 
鋭いV状の湾が途中で対岸と最も接近している場所では指呼の間である。
しかし、V先端の河口市街までは未だ相当の距離を残している。 従って、松浦市方面や平戸方面に行くには伊万里市街地を通り、かなりの大回りコースを余儀なくされた。

だが、幸いに平成15年、山代町と黒川町を繋ぐ延長約3kmの伊万里港臨港道路、つまり伊万里大橋が完成した。この大橋の完成により15キロ約40分ほどの時間短縮になるという。

先ほどまで松浦半島の西を走行していた時は、入り組んだ道路で余り展望は望めなかったが、こちら湾の西側来て伊万里湾の深い入江に面した穏やかな海が望め、湾内には大小の島々が浮かぶ風光が垣間見える。

すぐ横を松浦鉄道が走る。 
国鉄時代、炭鉱があった頃は急行が走るほどの大盛況だったそうだが、その後の合理化のあおりで第三セクター鉄道「松浦鉄道」になり再スタートを切ったようである。 

赤と青の線を施した白の車体の汽動車(ジーゼルカー・・?)が海岸沿いを、ゆったりと走る姿はいい眺めである。 
最近は、列車本数も大幅に増やし、新しく作られた駅は、国鉄時代より2倍にも増え、利便性は大幅にアップした。 その結果利用客も増え、最近では黒字経営になっているという。
全国的にも珍しい成功例であろう。


やがて伊万里湾が離れる辺り、長崎県に到ったようである、松浦市である。 
今福」の港を過ぎ、平尾の岬あたりへ来ると一段と伊万里湾・外浦のパノラマ絶景、入り組んだ島々の明媚な風光が、目に眩いほどの鮮やかさで飛び込んでくる。
風評だが、弘法大師があまりの美しさに筆を投げたと伝えられているのも大いに納得である。
そして、ここは正真の「松浦」である。 
古来、この湾に海人・水軍、松浦党が発祥し発展したのも頷ける。 
この松浦の海岸を抜けてR204の唐津街道(平戸街道)は、平戸へ向っている。

松浦海岸の大火力発電所を見送ると、すぐ「御厨」という小さな港があった。
この鄙びた田舎に「御厨」(みくりや)という地名、地域名は以外だった。 

御厨とは、狭義には神饌(しんせん・神えのお供え物を調進する屋舎、御台所)、広義には古代・中世、皇室の供御や神社の神饌の料を献納した皇室・神社所属の領地のことで、古代末には、その荘園の一種とされていた。 

当地の「御厨」は、古代・平安期の頃は宇野御厨と称して伊勢・皇大神宮の官領であったらしく、伊勢神宮に海産類などを御供していたとされる。
「和名抄」(平安中期に編纂された百科事典に相当)には荘園として、先に述べた「東松浦」は松浦荘、西南北松浦は「宇野御厨荘」と記され、この宇野御厨は神社、朝廷に魚貝類を献上していたと記されている。
平安末期、御厨の住民は源平合戦で平家に味方した者が多かったが、当地が皇大神宮に属し、敬虔な生業(なりわい)をしていたということで、領地没収にはならなかったといわれる。


松浦党と渡辺綱・・、

松浦党の発祥については先に記したが・・、
平安中期の990年頃、摂津・渡辺の庄(現在の大阪)にあった源頼光が肥前守に任ぜられ、渡辺綱(わたなべのつな:平安中期の武将、源氏の一族で本名は源綱。 坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで源頼光の四天王と称された:大江山の酒呑童子退治で有名)を同伴して松浦郡に下向したからと云われる。

任期を終えて帰洛したが、はこの間に男子・子供をもうける。
又、後に渡辺綱の孫に当る松浦 久が「宇野御厨」の検校(けんぎょう:荘、社寺の総務を監督する役)となって「今福」に着任している。 
これらが松浦市の北部沿岸に松浦家・松浦党が発祥した直接的な事由であり、祖先が肥前国と関係をもった最初でもあるという。


渡辺氏は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)を本拠地とする渡辺党と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨(摂津の御厨)をも統轄していた。 

彼らは摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)を拠点に、海運、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。
肥前国の松浦氏もその庶氏の一人で、松浦党をはじめ山代氏に連なる松浦氏族を輩出している。

尚、綱は「源満仲」(清和源氏の祖、源氏の祖)の子・頼光に仕えて四天王の一人と称せられたが、この綱の子が摂津・渡辺党となってこの地に展開した。 
渡辺氏は元々は嵯峨源氏(嵯峨天皇の一族、嵯峨源氏)の一党で、その一人源綱(みなもとの・つな)が、清和源氏の源満仲の娘婿の養子となり、母方の里の摂津国渡辺(現・大阪市中央区)に住み、同地を本拠地として渡辺綱(渡辺源氏)と名のり渡辺氏の祖となったと云われている。 

その兄弟達は、名乗りが一字であることが特徴的で、綱の子達から多くの諸流渡辺氏が生まれた。九州の水軍・松浦党の祖の松浦久(渡辺久、源久、渡辺綱の孫)もまた渡辺氏の出である。

源 満仲(みなもと の みつなか、清和源氏3代目)は平安中期の武将で、清和源氏・六孫王経基(清和源氏2代目、清和天皇の第6皇子の子、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされる)の子で、「多田」を号したことから多田 満仲(ただ の みつなか)とも呼ばれる。

その子達が各地へ散って、その地の源氏の名を起こす。
長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となっている。 

又、清和天皇を祖とする清和源氏は、主に源 満仲から武家源氏の道を歩んだとされ、その代表に河内源氏の源頼朝がいる。

次回は「平戸」へ渡ります。

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日本周遊紀行(115)平戸 「開国の島」


写真:平戸湾に浮かぶ・・?「平戸城」(下部正面に無粋な建物が無ければ・・、)


平戸は、近世日本の先駆けであった・・、

並行していた松浦鉄道も平戸に渡ることはなく、Uターン気味に佐世保方面に向かっている。
ここには鄙びた「田平平戸口駅」があり、ここは日本最西端の駅(現在は本土最西端、2003年に沖縄都市モノレール線が開業し那覇空港駅が日本最西端である)としても知られるようで、駅前には記念碑も立っている。


平戸市内へ向う・・、 

平戸瀬戸と呼ばれる海峡に架かる「平戸大橋」を渡る。鮮やかな朱色のつり橋で通行料は片道100円とあるが、高いのか安いのか、必要ないのか・・?、地元の人の往来にその都度200円はやはり負担だろうな、などと変に気を回したりして。 

橋から見る景色は実にいい、ゆっくり走って景色を楽しむ。
橋を渡りきってすぐに、平戸側の左手に広い駐車場の公園があり、一息入れながら大橋の展望を楽しむ、天気も良く、遠くの島々もよく見える。 
九州本島とつながっているのはここ平戸大橋だけで、平戸自体は島であることが何となく実感できる。

平戸市街はここより少々北に行った地点にあった。 
海へ迫り出した小高い丘の上に「平戸城」の勇姿が見えた。車を寄せて本丸入り口を覗いたが、入場料500円もさることながら、中学生の騒々しい団体に遭遇したため、記念写真を撮ってそのまま引き返した。

平戸市街、港は平戸の瀬戸から更に深い入り江をなしていて、この入り江の南側から平戸湾越しに見る「平戸城」が実にいい、初めて見る者にとっては足を止め、車を止めて暫し見上げ、見惚れるのは必定であろう。 
湾と入江に浮かび上がる緑に囲まれた城郭は一見、唐津城に周辺様相が似ているが、本丸はこちらがやや小ぶりであろうか。 
それでも、三重の本丸天守閣に鯱(しゃちほこ)が対で載ってる姿がいい、左へ離れて二の丸が控え、二つの城郭の対比が素晴しい。左端海上には真っ赤な「平戸大橋」も小さく望める。

しかしである・・、
この素晴らしい情景の麓に、巨大なコンクリートの建物が大きく横たわっている。
県の施設らしいがこの美景を台無しにしているのである。 お役人というのは無粋な事、アホなことを平気でするもんだと、つくずく思った。


平戸城は松浦党の子孫、松浦鎮信(しげのぶ)が朝鮮出兵から帰還し、慶長4年(1599年)に築城するのだが嫡子・久信の急死のせいか、幕府への政治的な配慮か、完成を待たず自ら焼き捨てるという異行を行ってしまう。 

その後、百年余りにわたって城が築かれることはなかったが、江戸中期の元禄15年、沿岸警備の必要性もあって幕府に築城を願い出、特別に許可され再度この地に城を築いたという。 
築城縄張りは山鹿素行によるものといい、素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、忠臣蔵で大石内蔵助が討ち入りの際に打った「一打ち、二打ち、三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓!」は有名である。 

素行は、陸奥国・会津若松で生れ、林羅山の門人となり朱子学を学び、甲州流軍学を修得、赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。 忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。


大航海時代の平戸・・、


東シナ海の風に吹かれ、潮に流されて行き着く所、ここが日本本土に一番近い平戸であり、海風に乗って色んな物がこの地へ流れ着いた。

平戸は、戦国初期から江戸初期までの凡そ100年間、海外と接触していたとされる。

城を築いた松浦鎮信の父・隆信(たかのぶ:1529〜1599年)は大名でありながら、交易家としての誉れが高い。 
海人・松浦氏は倭寇と呼ばれ、元来、海賊行為をしていたが、やがては中国、朝鮮と事実上の交易を始める。 
隆信はこれに飽き足らず、当時、欧州では「大航海時代」に入りつつ有ったのもきっかけにして、欧州・ポルトガルを招き寄せる。 
その後、オランダ、スペインといった国とも通商をはじめるのである。

所謂、南蛮貿易を開始して、鉄砲や大砲といった飛び道具を日本で初めて購入し、欧州特有の異国文化をも導入するきっかけを創った。
しかも、平戸城下に彼等を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げ、その財力を背景にして松浦半島を制圧したとも云われる。 

松浦隆信は戦国大名への躍進と近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。 
平戸市・松浦史料博物館前には彼の銅像も建つ。


舶来品の元祖・平戸・・、

平戸は海外貿易をきっかけに、長崎をはじめ天草、五島などと共にキリシタンの島としても知られる。
当時、日本唯一の国際貿易港として繁栄を極め、日本でいちはやくフランシスコ・ザビエルによりキリスト教の布教が始まったのも平戸からであった。

島内には、長い歴史を誇る当時の史跡が数多く残り、歴史的建造物や異国情緒を漂わせた町並みが残っている。
中でも紐差教会(ひもさし きょうかい:国内で2番目大きい教会、最大は長崎・浦上天主堂)、宝亀教会(ほうききょうかい:ユネスコの世界遺産暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つ、県有形重文)、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(平戸教会)、田平天主堂(「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定リスト、国指定重要文化財)等、平戸市内各所には多くの美しい教会・天主堂が存在する。

又、平戸オランダ商館は、オランダ東インド会社が平戸の崎方地区に設置した日本で最初の外国商館である。(後に、長崎・出島へ移転)
この商館を通じて日本で初めて、いろんな物が移入してきた。 


その主なものは・・、


タバコ 1601年、タバコの種子が初めて平戸に上陸し、このとき藩主・松浦鎮信に贈られ、
種子などを徳川家康に献上している。
ペンキ 1609年、オランダ商館が建てられた時、その外観を彩ったのが、
日本で最初に使われたペンキであり、住民は一種のカルチャーショックを受けた。
甘藷(さつまいも) 1615年、ウィリアム・アダムズ(※)が琉球から伝える、初めて甘藷の栽培を行う。
ビール 1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航した時、日本へ初のビールが伝来と言われている。
西洋医学 航海船が西洋医学を日本にもたらされた。その医学を学んだ嵐山甫庵(あらしやまほあん)は、
平戸判田(はんだ)家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知らる。
日本禅宗と
お茶
臨済宗の祖・栄西(えいさい)は、渡「宋」の帰途、平戸に数カ月滞在し、禅宗を広め、
また、中国で入手したお茶の種子を蒔き、製茶や喫茶の方法を日本に伝える。


等々、平戸は日本の先駆けであった。

(※)ウィリアム・アダムズはオランダの貿易会社東洋派遣隊の航海士で、後に徳川家康に召し抱えられ、幕府の外交顧問となる。和名「三浦按針(みうらあんじん)」は余りにも有名で、平戸オランダ商館の設置と通商における中心人物の一人であった。 三浦の姓は家康が三浦半島の一部を与えたことから、その名が付いた。

次回は、壱岐、対馬    PartVへ

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