日本周遊紀行



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西日本編   11日目:PartV(壱岐、対馬、佐世保)   PartW(長崎) へ
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日本周遊紀行(116)壱岐・対馬 「大陸文明中継地」



壱岐、対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった・・、

平戸は平戸島で、架橋で渡れる九州本土とは接近している島であり、近代日本の先駆けの島であった。
一方、同じ長崎県に属するが本土から20kmも離れた「壱岐」が在り、更に130kmも離れて対馬列島が浮かぶ。 
何れの島も歴史的には「古事記」にも記載されるような興味深い所などで、序ながら両島のことについて少々述べたい。

壱岐、対馬は日本海・玄界灘に浮かぶ島で、今は壱岐市、対馬市となり長崎県の行政区分である。
古事記の冒頭に国生みの話が出てくるが、「次に壱岐を生み、次に対馬を生みき・・」とあり、神代の時代から認識されていたらしい。


日本の農耕稲作文化を弥生式文化といい、この時期に日本の国、国名である「倭国」が出来ている。
倭国という国名は、中国(三国時代・魏、蜀、呉の時代)が付けたのか、日本人が付けたのか詳細は不明であるが、中国人が日本人を呼ぶときに「倭人」と呼んでいて、倭人の国だから倭国と称していたことは当時の「魏志倭人伝」にも記されている。

日本では、その後「倭」は「和」に通じ、やがて「大和の国」を成立させている。 
この時期に朝鮮半島から鉄器が到来して、鉄器時代を迎え、国土が出来上がる。 
以前の土・石の時代を「縄文文化時代」と称したのに対し、鉄器の来入、鉄器の時代を一般に「弥生式文化」と呼んでいる。 
「魏志倭人伝」の中には、鉄が日本に伝わる状況が詳しく記されているという。
この時期の鉄というのは、鉄の原材料である砂鉄、もしくは鉄を荒加工したものと言われる。


壱岐、対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった・・、 

ただ、壱岐と対馬は地形的に全く異なるという、壱岐は平地多くして水が豊富であるが、一方、対馬は「土地は山険しく、深い森が多く、良田無し」とまで魏志倭人伝にも記されている。 
壱岐からは、往時の鉄器と思われる多数の遺跡が発掘されている、対馬にはそれが無い。 

地理的に見ると対馬のほうが朝鮮に極めて近く、尚且つ、国土も広いが、地形がそれを拒んだと見るべきであろう。 

壱岐の農耕文化に対し、対馬は「良田無く、海物を食って自活せり・・」とも魏志倭人伝が言っている通り海洋漁民文化であり、長崎沖の日本海に浮かぶ同じ島国でありながら、全く異なる相違性を示しているのは面白い。 


因みに、長崎県自体丘陵、山域の地で平野が少ない。
同様に長崎市にいたっても三方を山に囲まれ、市街自体も坂の町である。
干拓で有名な諫早地域が最も広い平地を持つともいう。壱岐は島としては珍らしく、島全体が諫早に次ぐ平地を抱えて農地化されているという。


中国では6〜7世紀、三国時代から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。新興国・唐は領土拡大・覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。
朝鮮半島にも進出しようとしたが、高句麗や百済が抵抗して簡単には行かず、そのため唐は新羅と同盟した。その連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされたのである。

百済は当時親交のあった倭国(日本)へ救済を求め、倭国・日本は同意して朝鮮へ上陸し、連合して戦った。(白村江・はくすきにえの戦い)
しかし、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。
そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり)と烽(のろし)を置いた。


対馬は元より「自給自足」の出来ない国であり、古来、歴史を通して本土や朝鮮から食料を仰ぐことが重要な要素になっていた(今の日本に似ている・・?)。 
下って8世紀頃、九州統括の「大宰府」は対馬に食料を送る官船を出していた。
これは、防人という余人が多数やって来たので、当然食糧難になり「対馬、食料船」を用意したのである。
鎌倉期になって元寇の博多攻めの時、蒙古の一部船団が対馬へ寄港した。 

前もって幕府より蒙古襲来の危機の通報を受けていた対馬では、地頭職・守備団を結成し、僅か100名足らずで待機していたが、千人余の蒙古将兵によって瞬時に壊滅された。 
元より蒙古軍は一時停泊で、休息後は博多へ向かうはずだったらしいが、武士団は当時の世の習いに従って、少数ながら敵陣に突っ込み、武士の一分を果たしたまでであったというが・・。


江戸期、「対馬」は華やいだ・・、

江戸時代になって、幕府が対馬に藩を置き城下を造り、この地に朝鮮外交の事務局を置いたのである。 将軍が交代するたびに鎖国下においても、朝鮮通信士(数百人にものぼる朝鮮外交団)がこの対馬を経由して、はるばる江戸を往来したという。
この時期、沿道、諸国、日本はある種の朝鮮ブームだったと言われる。

明治期の近代においては、ロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府は、軍を配置し国境最前線である対馬島の要塞化を図った。 
国境線に近い海岸線の各地域に砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。 
特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、又、竜ノ崎砲台には戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。


終戦後の昭和23年頃のある時期、韓国・李承晩大統領が「対馬は韓国の領土だ・・!」と言い放った・・!!、
 

当時の日本は米国の占領下にあったから、日本の領土に関することは米国・国務省に持ち込むのが筋であった。 しかも、日本に辛苦を嘗めさせられた代償に、対馬をよこせ・・、と言うならまだしも我が領土だ・・!と言い放ったのは拙かった。 

昨今公開された国務省機密文書によると、大統領の意を組んだ韓国の駐米大使がダレス長官に会い、対馬の領有を主張した・・とある。
(日本が敗戦で苦悩している最中の、ドサクサまぎれに・・!) 

古来、朝鮮・韓国が領土の件で、外交問題化したのは稀有だという。 
この申し入れに対してダレス長官は「対馬は極めて長期間にわたり日本の領土である」とキッパリ言って、この件を一蹴させている。

続きは、次回へ・・、

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日本周遊紀行(117)対馬 「李承晩ライン」



「李承晩ライン」・・・!!、若い人はご存知であろうか・・?、

しかし、李承晩は「対馬、竹島は韓国のもの」と、更に主張を通すため実力行使に出た。

李承晩ライン(りしょうばんライン)は、昭和27年(1952年)1月18日、韓国初代大統領の李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 

海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。
これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象となり、実際に銃撃される事件まで起こった。 
国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。

協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。


今現在、韓国は李承晩ラインによって「竹島」を実効支配しているが・・?、

壱岐、対馬の歴史的価値は、日本の稲作文明、鉄器文明の海上経由の地であり、中国、朝鮮の中継基地であった。 

日本が開いた根源の地であったが、「通商多くして、尚、人民馴染めず」で、過去から現在まで大方そのようで、昨今も中国、韓国とは領土的にもお互い一線をかし、政治的にも相容れないものがある。

近隣の国同士とは、このようなものであろうか・・?、ここには国威意識があるようだが、日本は果たして・・??。


再び、朱色の平戸大橋を渡り返して国道204を南下する。
山間部を少々走ると道の駅「昆虫の里・たびら」(田平町)があった、こちらで小服をとる。 

それにしても、敷地内入口にカブトムシの大きなモニュメントが、目立つように建っている。 季節になると多種な昆虫が生息し、あるいわ採取できるのであろうか・・?。
確かに、周辺は低山地帯に囲まれた田園、里山の風情があり、日本の田舎原風景を呈している。
豊かな緑に囲まれた環境には、多くの甲殻昆虫が生息し、淡水の魚類も多そうではある。 
赤い屋根のログハウス風の建物の情報によると、この近くにはやはりというか・・「たびら昆虫館」とやらがあって、館といっても自然のままの畑や小川、池、雑木林、草原を再現し、そこに集まる昆虫などの生物を観察する施設であるという。 
子供達に人気のカブト虫やクワガタ、蝶やトンボなどの昆虫が沢山生息しており、案内の係員が丁寧に説明してくれるので楽しく学べるという。


今、休憩しながら、今夜の宿を確保するために地図を広げている。 

長崎県というのは複雑な地形をしているのに、今更ながら驚いた。中心に大村湾という大きな海域を有していて、沿岸にそって一筆書きのような行程を進めると、どうも具合が悪いようである。 
沿岸地方の地域を周回気味に進行して小生ではあるが、ここ長崎に到っては要地、要所を選択しながら行くしかないようである。 
ともあれ、今夜の宿は雲仙の温泉地・小浜温泉にどうやら決められたので一安心である、そこを目標に進むとする。


国道204は相変わらず山中をひた走る、同じように鉄道が並んでいる。 
江迎町、佐々町と丘陵地に囲まれた田園地帯を行く、田舎とはいえ道は良く整備され、山中ではあるが上下動、左右の屈曲は殆ど無く、目に優しい青葉の緑を満喫しながらの快適なドライブである。

丘陵地の山肌には、濃い緑色の葉をもつ「枇杷」の木が目立つ、 西九州は枇杷の産地か・・?、果実に害虫除けであろう白い袋が被せてあるのも有る。
今が成熟期であろうか、細長い葉の間に橙色の枇杷の実が点々と繁っていて、山肌全体に濃い緑と橙色と白色の配色が実に奇麗である。

枇杷の木は中国が原産で、江戸期に長崎に入ってきたらしい。
樹木は 10メートルぐらいになるそうだが、栽培用としては、他の果物と同様に、収穫しやすい高さに手入れをされている。 
国内の主な生産地は長崎の「茂木枇杷」(長崎市の南地区)だそうで、やはりこの辺りが移入原産になるのかもしれない・・?。 他に、千葉県以南の「富浦町の枇杷」、四国「伊予市の唐川」などが主要産地らしい。
枇杷の実は種が大きいのが、やや難点だが、熟したものは皮がスルスルと剥け、実はチュルチュルと甘く美味しい、小生の好みの果実の一品である。 
又、枇杷の葉は「茶」として「枇杷葉湯」と呼ばれ、サポニン、アミグダリン、ビタミンB17、タンニン等を含み、美容、健康によいと言われている。

次回は、佐世保

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日本周遊紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」



佐世保軍港で米軍兵士の“黒ちゃん”に捕まった・・!、

間もなく佐世保市へ入った模様である。 
佐世保は、2005年4月、吉井町、世知原町を編入し、新「佐世保市」になっているが、更に、来年、2006年3月31日を以って小佐々町、宇久町を佐世保市に編入する予定らしい。 
宇久町を地図上で佐世保周辺を見回したが、見つからず、はて、何処にあるもんか・・?と更に探し出すと在りまして、平戸島の西方の島(宇久島)の領域であった。


佐世保市街に到り、著名な軍港でもあるので港へ出て軍艦の一隻でも見物しようと車を進めると、突然、米軍基地の正門へ達してしまった。
 「シマッタ・・!」と思ったが遅かった、米軍の“黒ちゃん”に捕まってしまったのである。 

直ちに二人の日本人守衛に引き渡されて、免許証の提示や車内検査をやられ、軽い身体検査までさせられた。 
事情を丁寧に話すと、どうやら納得したようで、終いには「此れからどちらへ・・」とか「厚木の基地はどうですか・・」とか世間話にまで及んでしまった。 

相手は、中年相当の人で、盛んに“ばってん”とか・・“よかばって”・・と地方訛、長崎弁をまくし立てられたが、最後に気持ち良く見送ってくれた。
どうやら軍艦は、一般の人は市中からは望めないらしい、それもそうだな・・、と変に納得した。 
いやはやとんだ目に合いました、出発初日、横須賀軍港で同じ事をやらかしたのを思い出した。


現在の市中心部にある佐世保港は江戸時代までは一農漁村であったが、赤崎の山地をはじめ三方を高い山に囲まれ、水深が概ね10m以上あるため、天然の良港といわれた。

ここに目をつけた旧帝国海軍は明治22年頃から軍港とし、第三海軍区佐世保鎮守府として戦事一色の港になった。 

昭和20年に終戦を迎え、一端は、軍港としての幕を閉じ、昭和23年には貿易港の指定を受けたが、同年6月に勃発した朝鮮戦争により、港湾施設の大半を米軍に接収され、再び軍港としての色合を濃くした。 
他の港にない特徴としては、港内の水域の約83%が「日米地位協定」に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、日本の船が航行する場合にはいろんな規制や制限が課せられているという。

太平洋戦争末期、米軍は佐世保の市街地だけを爆撃し、広大な軍港の施設、巨大な弾薬庫や貯油施設をほぼ無傷で残した。
このことは通常の常識では考えられない全く逆の軍事攻撃を行ったのである。 そして、まんまと思惑通り軍事施設をそっくりそのまま手に入れたのである。 

戦後はそのまま米海軍第七艦隊の基地となり、朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンに出撃、現在はイラク戦争の最大の補給基地になっている。 
沖縄と佐世保の米軍基地がなければ、イラク戦争は遂行できなかったともいわれる。

軍港のイメージが強い佐世保であるが、もともとは西海国立公園の九十九島(南九十九島)を始め、西に赤崎岳、市街地北部に連なる弓張岳、烏帽子岳など景勝地も多く、これに西海橋や、昨今では「ハウステンボス」などのテーマタウンも加わわって、観光都市としての色彩も十分である。


針尾の瀬戸と早岐瀬戸・・、

直に国道と港に面した佐世保駅前で暫し港を見物して(軍港ではない)一部、西九州道を乗り継いで、例のハウステンボスへ向かってみた。 

佐世保の南側の海域、陸域は,これまた複雑な地形になっている。 
琵琶湖よりも小ぶりな「大村湾」だが、この海域は細い二つの瀬戸(幅の狭い海峡になっていて、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところ)で外洋に繋がっている。 西側の西海町を隔てている「針尾の瀬戸」と東側の「早岐瀬戸」(はいきのせと)である。 



大村湾は針尾の瀬戸と東側の早岐瀬戸とで外洋に繋がっている


最狭部の「早岐瀬戸」と「観潮橋」


「早岐瀬戸」
は、佐世保市早岐町付近を南北に通じていて、一見、川の様でもある。 又は、陸地を切り削って造った運河のようでもあるが、しかし、れっきとした「海峡」で海である。
長さ12キロ、平均幅50mで、日本でも最も狭い海峡と言われ、現に東側の陸地は針尾島という島である。
最狭部は早岐町の国道202号線に架かる、その名も「観潮橋」といい、僅かに10m足らずの幅で轟音を立てながら海水が流れている。 
おまけに、川べり、でなく海べりに「潮音荘」という旅館が在り、潮を観るのではなく、潮の音を聞く旅館というのがミソ(醤油、味の素)である。

因みに、世界で最も狭い海峡として、小豆島の土淵海峡(どぶちかいきょう)がギネスに登録されているというが、こちらの早岐瀬戸の最狭部とは僅か数10cmにすぎない。

尚、針尾の瀬戸は、日本三大潮流(阿波の水門:鳴門海峡、早靹ノ瀬戸:関門海峡)の一つである。 

又、この大村湾の最奥部が諫早で、この地域は東側には例の干拓で物議のある有明湾に接してもいる。
尚、諫早の干拓については後の記載いたします。


ハウステンボスとオランダ村・・、

この「早岐の瀬戸」の大村湾寄りの針尾島側に、オランダの街並みを再現した「ハウステンボス」が所在する。

このヨーロピアン・タウンは、東京ドームの33個分という広大な敷地に17世紀のオランダの街並みが再現されたウォーターフロントリゾートである。 
ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、街には船が行き交う全長6kmの運河が走り、ホテルを主体に様々なアミューズメント・ミュージアム施設をはじめ、ショッピングやレストランも充実している。郵便局や銀行等生活する街としての機能も備えているという。

変わったところでは高貴な「迎賓館」というオランダ王室等のVIP宿泊用に設けられたホテルもある。
過去に宿泊した主なVIP は天皇・皇后両陛下(2002年11月、「全国豊かな海づくり大会臨席時」)ベアトリクス女王(オランダ女王)、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、有名人にはマイケル・ジャクソンなどもいるという。


西九州道よりR205へ、早岐瀬戸大橋を渡り(当日は、正直、この地が早岐瀬戸とは全く気ずかず、普通の川でと思って通過している)、案内板に従ってハウステンボス方面へ向かと、間もなく、緑の中に煌びやかな建物群が現れた。 
様子を伺いながら奥のほうのガラガラの駐車場へ車を置いて全貌を眺める。
手前の水辺に回遊船であろうか、十数隻の船が、暇そうに係留されている、尤も、今日あたりはウィークデイの平日である。


その向こう遠方にシンボルタワーの『ドムトールン』とかいう十字架が天を指す高層の建物が聳えている。 
高さ105mのタワーは、敷地内のどこからでも見える“道しるべ”的存在であろうか。 それにしても平日のせいとはいえ、人の姿は殆ど見受けられない。

この「ハウステンボス」は1992年3月25日にオープンし、建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。
巨額の投資でオープンした、さしものテーマパークも、時勢というか不況の煽りで、2003年2月26日、遂に会社更生法を適用し事実上倒産した。
負債総額は2289億円といわれる・・が、更生法適用後はスポンサー企業の申し出も殺到しているそうである。 
総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けているらしいが、ガンバレ・・!!「ハウステンボス」。


西海パールライン、眺めのいい針尾の瀬戸の西海橋をわたり、国道202から更に国道206南下する。
大村湾の西部、西彼半島の北部に位置する西彼町(せいひちょう)にやって来たところで、今度は赤レンガの洒落た洋風の建物群が現れた、こちらは「オランダ村」である。 
ところが、ハウステンボスとは違って、ここは人気は全く感じられず静まり返っている。
それもそのはず、当地は2001年に閉鎖していたのである。

長崎オランダ村は、町役場職員の神近義邦氏によってバブル(泡、気泡、泡沫、転じて実体のない見せかけだけのものという意味)景気絶頂の時期の1983年に開園している。 
彼は「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆な意気込みで、国内旅行需要増加も手伝い長崎観光の新しい目玉にした。佐世保市のテーマーパークのハウステンボスのルーツとなった施設でもある。 
だが、バブルの波が去った2001年には閉園し、現在も跡地利用のめどは立っていないといわれる。

最終日の10月21日には、新聞報道によると6500人という入場者があったそうである。 
乗り物や釣などもみんな無料で、土産屋は安売りなどもされていたが、ちょっと寂し気であった・・、と来場者は語っていた。その日は生憎の雨となり、オランダ村がなくなるのを惜しんでいるようでもあったという。

西彼町は大瀬戸町、西海町、大島町(島部)、崎戸町(島部)の計5町は2005年4月に合併して、新しく西海市(さいかいし)が誕生している。

次回から、いよいよ「長崎」   PartWへ

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