日本周遊紀行



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西日本編   10日目:PartU(厚狭、九州、小倉)   PartV(福岡、大宰府)へ
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日本周遊紀行(103)厚狭 「厚狭地方」



「厚狭」(あさ)という名称は、歴史的にも大変意味の有る地名であったが・・

国道2号線を更に行く・・、宇部市、小野田市の北部山地をかすめ、山陽町から下関方面へ向かっている。 
宇部は「宇部興産」、小野田は「小野田セメント」といった有名企業名を思い起こす。 
いずれも沿岸地区は、素材供給型化学工業を中心とした近代工業都市として発展し、瀬戸内海沿岸地域で有数の臨海工業地帯を形成している。 

宇部は、明治期以降の石炭産業を通じて資源エネルギーの基地「石炭の町」として、小野田はセメントの発祥の地「セメントの町」として、その基盤が現在に受け継がれている。 
今の社名は、太平洋セメントと称して、小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田セメンとになり、更に、日本セメント(旧浅野セメント)が合同して、その名が付いたようだ。


子供の頃より「粉と水」が一緒になると、どうして「石」になるの・・?、

物心ついて、学生時代には化学も専攻したが、今でもその不思議さは変わらない。
セメントの主原料は石灰石、けい石、粘土および鉄分が原料であり、地球上に無限に有る資源である。主要化学成分は酸化カルシウム (CaO) 、酸化けい素 (SiO2) 、酸化アルミニウム (Al2O3) および酸化鉄 (Fe2O3) で、これらを適切な化学組成となるよう調合し、粉砕・混合するのが原料工程である。 

原料工程で調合した原料粉末を高温(1450℃以上)で焼成することにより原料どうしの化学反応を起こし、クリンカーと呼ばれる化合物を合成する。
クリンカーと適量の石膏(硫酸カルシウム(CaSO4・2H2O))を混合・粉砕して粉末状の仕上げたのが「セメント」である。
コンクリートとは、セメントに砂や砂利(骨材という)に水(水和反応=水が他の物質と結合する化学反応)などを加えて結合させたものを指し、建築資材として一般にセメントコンクリートと呼ばれる。

小野田市には、明治16年(1883年)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯が、わが国に唯一残っているという。
近代窯業史上、西日本における建設事業の近代化を支えた中心的施設として高い価値があり、竪窯は国重要文化財に指定されている。
尚、小野田は2005年3月22日付け、小野田市と山陽町が合併して「山陽小野田市」が誕生している。


その山陽町の町並みに入って来て、「厚狭」の駅前に到った・・、 

山陽本線、美弥線(みね:美祢市を通る)、向う側に新幹線駅舎とターミナル駅のようであるが人影は極少なく、町並みもコンビニが一つ有るか無いかの小さな街である。 

厚狭と書いて“あつきょう”などと勝手に呼んで納得していたが、実は“あさ”と読むのである、薄学の至りであった。
ところで、この地は山陽町である。 だが、所々の建物の看板などを見ると何故か厚狭〇〇、〇〇厚狭・・とあって、山陽〇〇とは殆ど無いのである。 
山陽町は1956年、厚狭町、埴生町が合併し誕生していて、たかが50年の歴史にすぎない。

ただ、厚狭郡山陽町で、僅かに厚狭の地名が残ってはいたが、ところが、最近の合併で「山陽小野田市」になり、昨年(2004年)、同じく厚狭郡楠町が宇部市に編入されるに至って、「厚狭」という行政上の地域名は中国地方、日本から完全に消滅したのである。


厚狭郡(あさぐん・あさごうり)は、嘗ては今の宇部市(岐波地区を除く)、山陽小野田市、下関市の東部(吉田、王喜地区)で構成されていた。 「厚狭」という文字は何時頃から使われたかは定かでないが、既に毛利氏の時代には言われていたようである。 
厚狭はアサと読み、古代アサとは王朝の事を指して呼ばれた名称であるともいう。


山口には神話期の頃から飛鳥・奈良期創生の頃まで、王朝が布かれていたことは歴史に興味のある者は知っている。
大陽町厚狭の東北の位置に当たる今の「加茂神社」(賀茂神社・鴨神社)は、聖徳太子にも所縁があるといい、厚狭川を挟んで西南の地に位置する今の「洞玄寺」周辺は、物部守屋の縁者が一時王朝を敷いていたとも言われる。

寺の裏山には4世紀後半、長門国の初代長官の墓と言われている前方後円墳が発掘されている。 
これは、「厚狭」が長門国最古の中心地であることを物語っており、更に、境内からは西暦600年前後の祭祀に使用された須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた大陸系技術による素焼の土器)が出土している(洞玄寺遺跡)。
この時期が「厚狭」という地名の興りだろうといわれる。

又、後年、毛利氏の時代には、毛利元就の五男・元秋が本家毛利氏の「萩」移封後、厚狭(厚狭郡山陽町)に知行地を与えられたことから厚狭・毛利家と呼称され、八千石余りを領している。 毛利本領の萩城・大手門の南100mの地に「厚狭毛利家萩屋敷長屋」が配され、面積約一万五千uにも及ぶ広大なもので、現在も萩に残っている武家屋敷の中では最も大きい建物となっている。(国の重要文化財に指定されている)


厚狭には、厚狭毛利家の累代の墓所及び墓碑が在る。 
墓所は洞玄寺裏山に概ね500uの敷地で、厚狭毛利家の菩提寺として二代元康以降、十三代に至る歴代当主及び一門四十三基の墓碑が建立されているという。 
三代元宣が、元康の法号により洞玄寺と命名したとされる。(市指定文化財指定)

当時の厚狭は山陽道の宿場として、又、厚狭の市と呼ばれる定期的に市も開かれ、大いに繁栄したという。
かつての宿場街が、現在もそのまま商店街となっていて、年季の入った木造の金物屋、造り酒屋の土蔵を改造した酒舗、幾時代か前の商店街という雰囲気を味わうことができる。

この様に「厚狭」という名称は、歴史的にも大変意味の有る地名であった。
今は厚狭の駅前は閑散として、時折、高架の新幹線がガーオーと往来しているのみであるが。


次回から「九州

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日本周遊紀行(104)九州 「九つの国」



九州はその昔、九ヶ国に分かれていた、それは・・

国道2号線で本来「下関」を目指し、周遊観光するつもりであったが時間的に余裕が有ったので一気に九州を目指すことにした、下関は帰路に立ち寄ることにしよう。

中国道の小月I・C から関門橋を渡るが、その前に関門橋の展望地らしい「塩の浦P・A」にて小休止してみた。 
関門鉄橋のすぐ下に広い展望ゾーンが広がって、関門海峡、巨大な関門橋を一望出来る。 
かなりの迫力と圧巻であるが、本州・四国の架橋を見つめてきたせいか意外と短小に感じたのは小生の偏見か・・!。

橋は今から30年前(昭和48年)に開通した全長1068mの吊り橋である。海峡は、かの有名な「壇ノ浦」や「決闘・巌流島」更に、江戸末期の馬関戦争など歴史的にも特筆される地であるが、これらに関しては後日記載する。橋の右手に門司港が鮮明であり、それにしても関門海峡は、大小船舶の往来が盛んなようである。  


さて、関門海峡を渡る・・、


思えば小生六十有余年、物心就いて脚の行くまま、気のゆくまま各地を巡ってきたが、この地「九州」、九州七県は始めての地であった。 
期待を込めて九州へ向かう。


四国は「身一つにして面四つ」と言われたが、同じく数字の付く「九州」は、九つの国の成立によって九州の呼称が生まれた。 
即ち筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九ヶ国に分かれていたことから。

そして、日本列島で、いち早く国々が成立したのは「九州」であり、その後、国々の名が付けられたのは律令国家が成立した時期(7世紀後半から8世紀前半頃)と言われる。 
その間の平安時代から明治初期になって廃藩置県が決行せれるまでの凡そ1000年の長期にわたって変更がなかった。


律令制(奈良期後半に定められた政令)において、諸国をまず「五畿七道」(ごきひちどう)に分け、九州は「西海道」と称し、個々の国についての総称を九国、中国(大陸、当時は唐)の地方単位である「州」になぞらえて九州と呼んだ。 
これはあくまでも慣用表現であるという。因みに、「五畿七道」の「五畿」とは、大和、山城、河内、和泉、摂津のことで、都・大和を中心とした畿内(近畿地方)の五つの国の事である。 
「七道」とは、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海(四国)そして西海(九州)の七つの官道と、これにつらなる国の領域を表している。 

特に、都より山陽道、西海道を経て太宰府までつながる道を大路(主官道)と称し、他に東海道、東山道等を中路、その他の道として太宰府より九州各地へと向かう西海道を小路と呼んでいた。
当時は道を軸として国名が付されていったのである。


律令制(りつりょう)とは・・、


大宝律令、その後の養老律令のことで、東アジア(中国の隋、唐の時代)でみられる法体系のことであり、「律」は刑罰法令、「令」は律以外の法令、主に行政法に相当するもので奈良末期の西暦701年に制定され、この時、合わせて倭国から「日本」へと国号も定めている。

尚、古代、大和朝廷の時代には、九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。
それが律令によって細分化されて、「筑紫の国」が「筑前:ちくぜん」、「筑後:ちくご」に、「豊の国」が「豊前:ぶぜん」、「豊後:ぶんご」に、「肥の国」が[肥前:ひぜん」、「肥後:ひご」に、「日向の国」が「日向:ひゅうが」、「薩摩:さつま」、「大隅:おおすみ」の九つに分けられて、筑前にあった「太宰府」が九州全域を統括する場所として九州が完成している。

「大君の遠の朝廷」と讃えられた「大宰府」が、大和朝廷期に「筑紫大宰・筑紫の国」として置かれた。
府の庁舎が置かれたところを大宰府政庁といい、「太宰」とは、オオミコトモチと称して最高長官を表す。

当時、中国(唐)、朝鮮半島(百済、新羅、高句麗)との交易があり、当初は外交府としてあったが、白村江での敗戦(はくすきのえ:倭国=日本、百済の連合と唐、新羅連合との戦い)の後、外敵の上陸・南進を防ぐための対外防衛拠点としても存在した。 

尚、古代政庁・「大宰府」については、後の項で・・。


同時に大宰府は西海道(九州)諸国を統括する内政の府でもあり、八世紀頃には西国の政治・経済・文化・宗教の中心として都市的な繁栄を見るようになる。
ところで、律令制により「筑紫(ちくし)の国」が分割されて、筑前、筑後の国になったが、この「筑紫」は「つくし」と読むのか「ちくし」と読むのか、という論点があるようだ。

我々、外野の者、関東人は近くに「筑波(つくば)」もあり、筑紫は「つくし」と呼ぶのが一般的のようだが、地元では「ちくし」と呼ぶようである。 
近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は、「ちくし」と読むのが普通であるし、公式の読み方としても多く採用されているようである。
しかし古代、この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は、「つくし」と読む習慣もあるとか・・?。

次回は、その「筑紫の国」

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日本周遊紀行(105)小倉 「北九州市」



「小倉生まれで 玄海育ち・・」・・、

北九州の小倉、人力車夫の「富島松五郎」が、思いを胸に祇園太鼓を打つのが小倉城下である。
関門海峡に面した歴史の街・小倉は、陸・海の交通の要衝であり、その中心に小倉城がある。 

お城は関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(戦国武将、信長、秀吉に仕える。後に肥後熊本藩に移封ず、細川家の祖。妻は光秀の娘・ガラシャ夫人)によって、1602年に本格的に築城が始まり約7年の歳月を要して築城された。 
忠興は、城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工を盛んにし、外国貿易も行い、同時に京風・祇園祭も誕生させている。 


現在でも福岡の各地に特色を持った「祇園祭」が存在するが、中でも、博多の「祇園山笠」は代表的祭りであろう。
小倉祇園祭は城下町としての繁栄のために城内に祇園社(八坂神社)を創設し、領内の総鎮守として豪華で華やかな祭りが始まったとされる。
はじめ博多と同様の“山笠”の祭りだったが、明治期に現在に繋がる太鼓を打ち鳴らす祭りへと変化している。

小説の富島松五郎伝が映画・無法松の一生として作品発表されると知名度が更に上がった。
因みに、「無法松の一生」の歌詞では「玄界灘」が登場するものの、実際は小倉を始め北九州は響灘及び周防灘に面しており、玄界灘には面していない。


現在の「北九州市」の中心が小倉であるが、北九州市は九州北部の隣り合った五つの都市・門司、八幡、若松、戸畑、小倉が合併して1963年2月に誕生している。

北九州地区に最初の町ができたのが小倉で、その後は小倉城を中心に城下町として発展してきた。
明治期以降は小倉は軍と商業の中心、門司は国際貿易港、八幡、若松、戸畑は所謂、筑豊の石炭産業と八幡製鉄所(日本初の製鉄所として明治30年に創業した、現在の新日本製鐵(株)の 前身)を中心として、重工業と化学工業が発展し、日本の四大工業地帯の一つ、「北九州工業地帯」として急速に発展する。

「筑豊」という呼び名が生まれたのは明治になってからで、この地域の筑前と豊前の頭文字をとって「筑豊」と呼ばれるようになった。 


日本の近代化を支えてきた石炭産業の歴史は、そのまま日本の産業史であり、世界の中の日本であるために明治政府の工業立国の政策と需要の拡大や中央の三井・住友・三菱・ 古河などの大手も進出したことによって、良質で我国最大の炭田を抱える筑豊が時代を推進するのである。
筑豊の地底には今も全体埋蔵量の70%の石炭が眠っているという。

北九州市制誕生直後に、三大都市圏(東京、名古屋、大阪の各圏)外で最初に政令指定都市となった。
五市合併の際、新市名を住民公募した結果、「北九州市」という名称は2位だったという。
1位は「西京市」だったが、「西京」の異名を持つ山口市が反発したというエピソードがある。


 「無法一代の一生」 作 吉野夫二郎 曲 古賀政男 歌 村田秀雄
1 小倉生まれで 玄海育ち
  口も荒いが 気も荒い
  無法一代 涙を捨てて
  度胸千両で 生きる身の
  男一代 無法松
   -度胸千両入り-
  
空にひびいた あの音は
  たたく太鼓の 勇み駒
  山車の竹笹 提灯は
  赤い灯(あかし)に ゆれて行く
  今日は祇園の夏祭り
  揃いの浴衣の 若い衆は
  綱を引き出し 音頭とる
  玄海灘の 風うけて
  ばちがはげしく 右左
  小倉名代は 無法松
  度胸千両の あばれうち
2 泣くな嘆くな 男じゃないか
  どうせ実らぬ 恋じゃもの
  愚痴や未練は 玄海灘に
  捨てて太鼓の 乱れ打ち
  夢も通えよ 女男(みょうと)波


次回は、「海の中道」   PartVへ


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