日本周遊紀行

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紀行(57)常呂 「カーリングと遺跡とホタテ」



常呂は、ホタテと遺跡とカーリングの町と、賑やかである・・、


広大な「サロマ湖」の東に面して位置するのが「常呂町」である。
常呂町は、冬季オリンピックの「カーリング」ですっかり全国的に有名になったが、遺跡の宝庫でもある。 又、サロマ湖東岸を中心とした「ホタテ」の水揚げでも屈指の地であると。
「常呂はホタテと遺跡とカーリングの町です」と町民は誇らしく云うらしい。


又々、遺跡のことであるが・・、

常呂町には常呂川やライトコロ川水系を中心として、町内のほぼ全域に遺跡が広がるという。 
現在のところ、発見された遺跡は128箇所と言われ、町内全体の竪穴住居の数は何と約1万軒、世界一に匹敵するのでは・・、ともいわれる「遺跡の町」である。

中でも国の史跡でもある「常呂遺跡(栄浦第二遺跡)」からは、日本最大である2500軒もの竪穴住居が見つかっているという。 現在の常呂町の人口が凡そ5000人であるから、縄文期にはそれをはるかに凌ぐ人々が住んでいたことになる。 これは驚くべきことである。

常呂町の遺跡の特徴は、日本人類創世といわれる約2万年前の旧石器時代から始まって、縄文、続縄文、擦文とオホーツク文化、アイヌ文化と・・、あらゆる時代のものがソックリそのまま揃っているという。 北海道の有史以来の人類の歴史が詰まっているのである。 

しかも常呂川河口遺跡では16に分かれた地層から発見されているため、造られた遺物の変化が時代の変遷に合わせた如くはっきりと判るという。
常呂の遺跡からは、人類継承の文化と文化のつなぎ目を知るうえでの貴重な資料が数多く発見されているといわれる。

町名の由来は、アイヌ語の「トー・コロ」(沼のある所)と言うとおり、水域に縁のあるところである。
常呂の地域はサロマ、能取湖のほぼ淡水の食域と、オホーツク海の流氷を含めた海の食域、そして、黙っていてもサケ・マス類が常呂川を上って来る川の食域がある。 

又、南方の山域、森林帯は野の獣が豊富である。 
古代の生活者・住人にとって、気象条件さえ考慮に入れておけば、これほど住み易い場所はなかったのではないか・・?。 
常呂町では、日本有数の規模と内容を誇る遺跡を町づくりの柱の一つとし、展示資料や映像で学ぶことができる施設「ところ遺跡の館」や竪穴住居を復元した「ところ遺跡の森」などで、発掘された遺物の整理・保存する施設、遺物の修復作業として見学できるという。 
いずれ、常呂町に行くと北海道の歴史のすべてを目で見ることができるかもしれない。



次にお待たせ、常呂町と「カーリング」のこと・・、

本年(2006年)早々に、冬季オリンピック・「トリノオリンピック」が開催され、日本チームはフィギアスケートの荒川静香氏の金メダル1個のみ・・と、成績不振のうちに終了した。 

そうした中、激しい運動のウィンタースポーツの内で、静かで優美な闘志を醸し出す種目がある・・、その「カーリング」が注目された。小野寺、林、本橋、目黒、寺田の各氏のが女子日本代表チームとして健闘したことは周知で、7位とメダル獲得には至らなかったが懸命な姿に大きな反響を巻き起こした。

そして小野寺歩、林弓枝、本橋麻里の三選手は常呂町出身なのである。
本格的にカーリングが普及する発端となったのは北海道で、1980年に道庁がカナダから講師を招いて道内市町村に広めたのがはじまりといわ、常呂町の他士別市や占冠村(しむかっぷむら)なども古い歴史を誇っている。
こんな中、常呂町は常呂町=カーリングと言われるほど町をあげてカーリングを奨励、推進し、日本で一番カーリングが盛んな町とされている。 

人口が約5000人の常呂町民の内、その6〜7割もの人々がカーリング経験者という驚異的数字もあり、しかもこの町には、1988年建設の国内初の屋内カーリング場「常呂町カーリングホール」があり、小学校や中学校の授業の中でもカーリングをやっているとか・・、
そして町内のリーグ戦もあるという。

そんな常呂町に縁が深いカーリングが、1998年の長野冬季オリンピックの際に、日本代表として出場し、その時は出場選手の半分である 10人中5人が常呂町出身という比率であった。

2002年のソルトレーク冬季オリンピックには、全員常呂町出身のチーム 「シムソンズ」が女子日本代表として出場、一躍有名になった。 

その「シムソンズ」をモデルにした映画「シムソンズ」が、2006年2月公開されている。


その、「カーリング」 (curling)と は・・、

氷上で行われるのスポーツの一つで4人ずつ2チームの対抗戦で行われ、目標とする円をめがけて各チームが交互に8回(4人*2投)ずつ石を氷上に滑らせる。 
石を円の中心により近づけたチームが得点を得る。
これを10回繰り返し、総得点で勝敗を競う。 

高度な戦略が必要とされ、その理詰めの試合展開から「氷上のチェス」とも呼ばれる。
15世紀にスコットランドで発祥したとされ、当時は底の平らな川石を氷の上に滑らせていたものとされている。

ところで、あのストーン、小生を含めた俗人は漬物石にちょうどいいと思うが・・?、
実は、すごい高価な物だという、16個セットで100万円以上するとも・・!!。

常呂町は、2006年3月5日に北見市、留辺蘂町(るべしべ)、端野町と新設合併し、新しい北見市の一部となった。(住所表記は北見市常呂町)合併後も自治区が設けられ、一定の自治権が認められる形となっているという。

次回は、 あの刑務所のある「網走」です

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紀行(58)網走 「番外地と遺跡」


網走の番外地と、はたまた「遺跡」です・・


「網走湖」は、北部の網走川を2kmほど経てオホーツク海に注いでいる。
この網走湖に近い網走川の畔に、あの有名な「網走刑務所」がある。

以前、お上さん(妻)と冬の北海道を訪れた時、雪の中の刑務所を見物したが高倉健の映画ですっかり有名になった網走刑務所も今ではすっかり網走観光の名所になっている感がある。 
観光を目的として観光客が刑務所を訪問するというのは、ここ「網走刑務所」だけかもしれない。

網走川に架かる鏡橋を渡ると、重厚な赤レンガ造りの正門が出迎える・・、とは言っても受刑者が出入りする門ではなく、今は観光客用のものであるらしい。 

刑務所特有の周りを取り囲む赤レンガの重圧な「塀」は相当な高さがあり一般人は脱獄なんてとても無理だと思われる高さである。 展示会場、販売店には受刑者が製作した木工製品や小物類や民芸品などをて観光客に販売されている。

看板には「博物館網走監獄」と記載してあるが、元々は「釧路集治監網走分監」として1890年(明治23年)に設立され、網走、旭川の道路工事を行うために受刑労務者を収容するのに開設されたのが始まりであるという。 
大正11年10月に「網走刑務所」と名称が変わったという。


江戸期には、既に和人の定住が始まっているが・・、


明治維新以前、北海道は蝦夷地と呼ばれアイヌの人々が住んでいた。 
本格的に開拓されるようになったのは、明治維新後に蝦夷地が北海道と名を改められ、北海道開拓使(現在の道庁・赤レンガ庁舎)が置かれるようになってからである。 

明治期の日本は、欧米諸国に対抗しようと富国強兵政策を採った。 そして、国の経済を発展させるには、未開の地だった北海道の開拓が必要不可欠と考えられ、更に南下政策をとる帝政ロシアの脅威から国を守るための軍事拠点としても、北海道は重要な場所であった。 
しかし、当時の国内の財政は北海道を大規模に開拓する余裕はなかった。 そこで考え出されたのが囚人を北海道開拓の労働力として使うことであった。

幕藩体制が天皇制に移行した明治の初め佐賀の乱や西南の役などの反乱が続き、その際に検挙されたいわゆる国賊と呼ばれる政治犯や荒れた世相の中で罪を犯す人々で、国内の監獄には囚人が溢れかえっていた。 
その解決策として、内務卿だった伊藤博文は明治12年に太政大臣に提出した伺書の中で、こう述べたという・・、 

北海道は未開で、しかも広大なところだから重罪犯をここに島流しにして、その労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えて解放された者は、ここにそのまま永住させればいい』  


開拓の第一歩は、人や物資を運ぶための道路を整備することであった。 
明治23年、網走刑務所の前身となる「網走囚徒外役所」が作られたのも、札幌−旭川−網走を結ぶ中央道路の開削工事に囚人を動員するためだった。
当時の網走は夏場には漁場が開かれていたが、冬は厳しい寒さと流氷に閉ざされる海沿いの小さな集落だった、そこに突如として1300名もの囚人が送り込まれてきたのである。

明治24年、中央道路の建設が開始される。 
この道路は物資運搬のための流通道路と同時に、軍用道路しての役割が重視され、ロシアの南下政策に危機感があった政府と軍部は、網走−石北峠間の約180キロ区間を年内に開通させるよう命じた。

手付かずの原野を切り開く工事は、険しい地形と「熊」との戦いだったいう。
そして、昼夜を問わない突貫工事はあまりに過酷で、多くの犠牲者を出すことになった。 

北海道では炭鉱や硫黄鉱山など、危険な場所で囚人労働が行われていたが、しかし、中央道路工事ほど数多くの犠牲者が出た現場はないという。 
囚人たちは命がけで大地を切り開き、今の網走発展の礎となる道路を造ったのであった。
その後、過酷な囚人労働は国会で「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきなのか」と追求をうけ明治27年に廃止されたという。 

このように網走刑務所は、北海道の開拓を担った記念の碑的建物でもある。

過去に遡れば以上のような発端があったが、その後、言われるように重罪犯を収容していた。 
しかし、現在では初犯をはじめ2〜4年刑期の受刑者が収容されているようである。 
そして、この刑務所は嘗ては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われた。

明治の脱獄王「西川寅吉」(模範囚として過ごし釈放)や昭和の脱獄王「白鳥由栄」(脱獄に成功)らが収監された。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがあるという。

又、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画「網走番外地」シリーズの舞台ともなっていることは周知である。 
映画「網走番外地」シリーズで、所在地が映画の主題になっているが、刑務所の所在地は正しくは網走市三眺地区であり、住居表示では網走市字三眺官有無番地となっているらしく、まさしく番外地なのである。

映画「網走番外地」は1965年頃、東映系で劇場公開されたヤクザ映画で、主演高倉健、監督石井輝男のシリーズとして劇場公開された。 
ヤクザ映画のハシリになった映画で、大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇など主演の「高倉健」が熱演、スターダムに駆け上がった映画でもある。 

高倉健唄う「網走番外地」の歌もヒットしている。


網走番外地』 唄 高倉 健

春に 春に追われし 花も散る
酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮(きすぐ)れて
どうせ俺らの 行く先は
その名も 網走番外地


テイチクから発売されたこの歌は、高倉健の初レコードで、映画の大ヒットとともに、200万枚を超すベストセラーとなった。 
しかし、歌詞に「酒(きす)ひけ」など香具師(やし:縁日・祭礼などの人出の多い所で見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とする者、てきや。)の隠語が使われているため、一時放送禁止になった。
因みに、「酒(きす)をひく」は「酒を飲む」、「酒暮れる」は「日がな酒を飲む」という意味である。



湖の東側に小高い丘で標高200m余りの「天都山」がある、山頂に展望施設があって、ここからの眺めは360度ですこぶる良い。 
能取湖や網走湖を眼下に網走国定公園の全容はもちろん、知床半島と阿寒の山々の大パノラマを一望できる。 何よりもオホーツク海の流氷の景観は圧巻であろう。

すぐ北側に「北方民族博物館」がある。北方地域に共通する衣・食・住・精神文化・生業などをテーマにした展示品があり、又、国指定のモヨロ貝塚遺跡からの出土品、による、オホーツク文化を紹介するコーナー等もある。


モヨロ貝塚遺跡

度々記したが北海道、特にオホーツク海沿岸には規模大きな古代遺跡が多い。
ここ網走にも国指定史跡の「モヨロ貝塚」(網走市北1条東2丁目)という遺跡がある。
この遺跡は網走湖から流れ出る網走川の河口にある巨大遺跡で、大正の初期この砂丘から大量の貝殻層を発見し、これに混じって土器や石器も出土したという。 

この器はかっての日本人が使用してた縄文土器類とは全く違ったものであり、更に調べるうちにこれは北方系、つまりシベリヤ・カラフトから渡来した物である事が判明した。 
つまり、北海道における「オホーツク文化」の発見であったという。 


モヨロ貝塚の発見には、ひとつのドラマがあった・・、


実は、この遺跡を発見したのは学者ではなく、理髪師の米村喜男衛(よねむらきおえ・1892〜1981)という人物であった。彼は東京で理髪師をするかたわら、アイヌ文化の研究に没頭する日々を送っていたが、大正2年にアイヌの研究のために網走を訪れた際に放置されたままの貝塚を発見している。 

網走川沿いの急な断面に露出した貝殻層の中には、これまで見てきた縄文系の土器とはまったく違う文様の土器が混じり、周辺を歩くと幾つもの竪穴式住居跡があった。 
彼は最寄村で発見されたことから、この貝塚を「モヨロ貝塚」と名付け、ここに住んでいた人々をモヨロ人と呼んだ。 
今まで見たことも無かった特異な文化を持つ「オホーツク人」(オホーツク文化)の痕跡を見つけた米村は、すぐに網走に移り住むことを決意している。 

米村は理髪店を経営する傍ら、モヨロ貝塚の研究と保存に没頭し、そして、店の奥に山積みにされていった出土品は、希望者に公開されるようになる。
この出土品の置き場が、昭和11年の北見郷土館(現在の網走郷土博物館)の開館につながっていく。

文化財という観念すらない時代に、彼は私財を投じてモヨロ貝塚を研究しながら、収集した3000点以上の考古資料を提供し博物館は開館に至ったという。 

次回の知床は、世界遺産・知床半島編 として紹介してます。

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