法 話 (みのりばなし)

あえて、法話(ほうわ)を「みのりばなし」と読んでみました。
受け取り方を変えると気が楽になるものです。
気が楽になれば、心が豊かになります。
「心の休日」の三原則は「あせらず」、「おこらず」、「かたよらず」です。

今までの法話はこちら

凡夫のこころ

み法聞く身となるまでは  己が心のおろかさを
知らず我こそ善人と   思い上がっていたけれど
気づいてみれば恥ずかしい   智慧も力もないくせに  
己が力で何もかも   出来るやれると思い込み
生きているのも我が力   食うているのも我が力
誰の世話にもならんぞと   りきむ我が身の身体さえ
生まれた時から死ぬるまで   人のお世話になりどうし
吐く息、吸う息、みな空気   水一滴もみ仏の
恵みなければ、得られない   おかげを知らず、愚痴小言
我が身勝手を棚に上げ   人の落ち度のあらさがし
よその秘密を聞きたがり   言うなと言えば言いたがる
人が困れば、うれしがり   友の成功、ねたましい
少しのことを恩にきせ   受けたご恩は、忘れがち
見よと言われりゃ見たがらず   見るなといえば、尚見たい
するなといえばしたくなり   せよと言われりゃ嫌になる
天の邪鬼ではないけれど   素直になれば敗けたよに
思う心のひねくれを   どうすることも出来ぬ我
あァはずかしや、我が心   地獄行きとは吾ことよ
それを地獄にやるまいと   四十八願、手をひろげ
救わにゃおかぬご誓願    弥陀のご恩の尊さを
知らせたまえる祖師知識    ああ、ありがたや南無阿弥陀仏

「弥生」 とは・・・

立春(2/4)を迎えても春という気がなかなか起こりませんね。

しかし、暦の上ではもう「弥生」です。この「弥」には「だんだん」「いよいよ」「ますます」「あとからあとから」「次々に」という意味があるそうです。だんだん生き生きしてくるのが弥生の意味合いでしょうか…。
私達が寒い、冷たいと愚痴をこぼしている時でも知らないうちに冬から春の準備を大自然はしているのです。花を咲かせる前にはつぼみを膨らませる準備が、つぼみを膨らませる前にはつぼみにする準備が…。

私達も人生の花を咲かすためには色々な準備が必要です。

「信 仰」 とは・・・

信仰と聞くと信じ込んだり、信じ込ませたり、拝み倒したりするものだと思っていませんか?
信仰の「信」は信じ込んだり、信じ込ませたりすることではありません。「信」とは信用、信頼のことなのです。信頼のある人には他の人が頼り、認め、この人は間違いないと手が合わさる…。この信頼をお互いに持ちつ持たれつ尊厳することが信仰の「信」なのです。
信仰の「仰」は拝み倒すことではありません。ものの尊さに気づいたら手が合わさらずにはおれないという心をいただくことです。こんな私を思ってくださるあなたのおかげであり、命をお与えいただいたご先祖さまのおかげであり、日々私を生かしてくださるあらゆるもののおかげであった…と「あおぐ」ことなのです。

信用、信頼できるものに出逢い、信用、信頼できる自分になり、他のもののおかげと仰ぐ心をいただくことを「信仰をいただく…」というのです。



 

「はたらく」ということ… 

「はたらく」という心得を知っていますか? ともすれば「自分が働いてやってる!」とは思っていませんか?人が動くと書いて「はたらく」ですが、自分勝手に動けば良いものでもありません。言われた事だけやっていてもダメです。
「はたらく」とは「はた」が楽(らく)になることです。「はた」というのは他の方々が…ということですから「あの人がいてくれて助けていただけた…。」「あの人に任せれば大丈夫!」と他の方々が感じれば「はたらく」ですが、「余計なことをして仕事が増えた…。」「心配で任せられない…。」と他の方々が感じれば「はた迷惑(めいわく)」という不満が残ります。
「はた楽」にするにも「はた迷惑」にするにもあなた次第です…。

「休む」ということ 矢崎節夫氏の講演で味わったお話

休みの日には何をしていますか?かえって自分の時間を使いすぎて、休むということを忘れてはいませんか?身体を休めるばかりが、休むことではないそうです。心も休めてみると人と木の関係がわかってきます。人は二酸化炭素を吐いて酸素を吸い込みます。木はというと酸素を出して二酸化炭素を取り入れるのです。つまり、木は外にある肺のはたらきをしてくれていたのです。人は木のおかげで生かしていただいていることに気づくことが「休む」ということなのです。
「人と木」の関係が「ひととき」でも味わえますように・・・。


 

「忙しい」と「忘れる」

大人から子供まで使う「忙しい」ですが、りっしんべんは心をあらわします。忙しいは心を亡くした状態。この頃ではご多忙と言わず、ご多用と言う事が増えて参りました。忙しい、忙しいと口にせず、少し心を見つめてみてはいかがでしょう。自分のことが精一杯で他人のことが構ってられないという「忙しさ」から、多い用がある中でも、都合をつけて相手のことを思いやる心を忘れたくないですね。
また、亡くした心が落ち込んで、深身にはまると「忘れる」という字になります。
いくら遊んでもつかれない筈の子供が「つかれた」と使うのは自分自身しか見えなくなった忙しさに心が「つかれた」という信号ではないでしょうか?
人間らしい自分自身は忘れないように・・・。

渋柿の 渋そのままの 甘さかな

渋柿は知らずに口にすると顔がゆがむほどの渋さですが、その渋柿も秋冬の風にさらされ、太陽に照らされますと柿が本来持っているタンニンのはたらきで、渋みを甘味に変えてゆきます。
私たちもこの渋柿のように、人間の荒波の中で、ずるくなり、醜くなり、いやしくなり生きてきましたが、それでも護っていただける何かのおかげで、あたたかさを味わい、尊さを味わい、安らぎを味わう人間味がでてきました。
柿は渋さを抜き取って甘味に変えたのではなく、渋さを持ちながら甘味に変えたのです。私たちも煩悩を取り払って仏心をいただくのではなく、煩悩を持ちながら仏心に変えて行くのです。
あのお釈迦さまでさえも、苦行をして「苦行ではさとれない」とさとったのですから・・・。