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日本周遊紀行(81)今治 「海水堀・今治城」


写真:海水掘の今治城



先ず、暗渠で繋がっている海水掘が特徴の「今治城」について・・、

奈良時代の後期に伊予国が誕生し、この国の中心として国府(今の県庁)が今治におかれた。 
市史に、「国府在越智郡」という記述があり、国分寺(国ごとに建立された政治的に影響のある官寺。奈良の東大寺を総国分寺とした。)も近くにある。 
平安期、菅原道真の父・是善公が伊予の国司として今治に派遣されていたことは余り知られていない。その関係からか道真公が京・府内の騒動で九州太宰府に左遷されたことは、西国・伊予に国司として父の在任があったからともいわれる。
九州へ赴く道真が途中、父に会いに伊予の国に立ち寄ったかどうかは定かでないという・・?。


今治(いまばり)は戦国末期、藤堂高虎がこの地を統治する際に「今からこの地を治める」の意を込めて「今治」と命名したという。
実に単純明快である・・!、

藤堂高虎については前にも記したが、近江国(滋賀)の生まれ。
浅井長政、羽柴秀吉らに仕え、姉川の合戦、賎ヶ嶽合戦、文禄の役(朝鮮の役)などで戦功をあげ、宇和郡7万石を与えられ宇和島城を築いた。 
その後も、戦功をあげて伊予国20万3千石の大名として唐子山の今治・国分城に入城し、後に海に面した今治城を築城した。 
城郭は20万石にふさわしく堂々とした建築で、本丸には五層の天守閣が聳え、城門が九カ所、約20の櫓があったという。

今治は、目前に瀬戸内海最大の難所・来島海峡を望む海上交通の最重要拠点であったことは先に記した。 
瀬戸内水軍の動き、海峡や島々を挟む対岸の安芸国(現在の広島県)の情勢を警戒し、それらに即応対処する事が求められていた。
高虎の発想は水軍の将としても一流で、城は海岸線の砂浜に海と一体になるよう築かれ、強固な海上要塞として完成し戦略的効果をも演出したという。
濠には、舟溜まりが用意され、水軍基地としての運用も可能となっている。
当時は、内濠・中濠・外濠から成る三重の濠が造られ、常に海と繋がっていてその幅もかなり広い。 
特に、内濠の幅は60mにも及んでいた。
因みに、三大海水城は、他に高松の玉藻城、大分の中津城などである。

現在の今治城の外郭堀は築港や陸上交通の観点から埋めたてられ、外海と断絶してしまったようだが、暗渠にて濠の水は海と繋がっている。
そのため海水が流出入し、潮の満ち引きで水位も変化し、堀には鯛やヒラメも泳いでいるらしい。
海の水を湛えた堀に映る今治城の姿は、築城の名手が手がけた美しさを今の世に残している。 


今治市は、2005年 (平成17年) 1月、越智郡11町村(朝倉村、玉川町、波方町、大西町、菊間町、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村)の大型合併が施行され、新しい市となっている。 
この結果、唯二の朝倉村、関前村が消滅してしまい愛媛県から村が消滅したという。 

因みに、2005年後半現在で村の無い県は、石川県、静岡県、三重県、滋賀県、兵庫県、広島、香川県、愛媛県、長崎県である。 
    
ここで市町村合併と「村」について・・、

  最近の「平成の大合併」での市町村の数の推移

市の数

町の数

村の数

市町村数

1965年4月

1995年4月

2002年4月

2005年4月

560

663

675

739

2,005

1,994

1,981

1,317

827

577

562

339

3,392

3,234

3,218

2,395



因みに、近年の「平成の大合併」での市町村の数の推移を見ると、村の数が極端にへっているのが判る。 
更に、2008年11月現在で市の数783、町の数806、そして「村の数」が193までになっていた。


経済第一主義で、繁栄と肥大を第一義としてきた今日、「村」の意義とは・・?、

21世紀は、「帰郷の時代」(Uターン又はIターン)とも言われる。 
つまり村や田舎の時代が到来するといわれている。        

古里の自然や人の繋がりは、懐かしいものである。
「村」という字を、漢字源で調べてみますと、村は『木+寸』で、「寸」は手の指をしばし押し当てること、つまり人々がしばし腰をおちつける木のある所を表すという。 

「村の風土」は人が育つために欠かせない要素で、人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかないのである。 
だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきであると。 
我々は、その地で採れたものを食べ、身体を成長・維持させ、そして、死んでやがて地に帰る。 地の恵み・「風土」に育まれて、活かされながら生きている。


「身土不二」(しんどふじ)という言葉がある。

元々は仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せないという意味である。
昨今は、食養運動のスローガンとして「地元の旬の食品や伝統食は身体に良い」とされ更に、「人と土は別のものでなく一体である」、「人の命と健康は、食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。 故に、人の命と健康は、その土と共にある。」という捉え方で、「医食同源」という言葉と根っこは同じである。

明治時代の人は、四里四方(16km四方)でとれる旬のものを正しく食べようという運動のスローガンに掲げた。 
現代の日本でこれができたら先ずは最高の贅沢といえるし、出来る条件は何処かといえば、それは「村」であり、農村地域のあろう。


昨今、話題になる「帰郷の時代」は、もっと具体的で現実的である。
それは一つに「団魂の世代」(一般に1947年〜49年生まれの世代)、二つに「少子化問題」、三つに「環境の時代」が要因になると言われる。 
この世代の、人口は700万人位といわれ、来年、再来年(2006、2007年)の定年退職者が4〜500万人相当が対照になるそうで、「2007年問題」と呼ばれる。 
これらの人々の5割以上は、都会から田舎に移って、(所謂、Iターン、Uターンと言われる現象)第二の人生を田舎でのんびり・・?、暮らしたという願望があるそうだ。

又、今年(2005年)あたりから、日本は少子化時代に入ったようで、2006年の1億2700万人をピークに、日本の人口は減りつづけると予想されている。 
この人口減少は、地方や田舎では特に深刻で、過疎化や高齢化では現実の問題になっている。 
地方の行政当局者は、如何に人口減を無くするか、いかに人を増やすか、その為にはどうするかが第一の大きな職務と言われている。


現在は、産業育成の成長時代から環境、又は自然保護の時代と言われる。 
人間生活の基本は衣・食・住であるが、ここに環境が加わり、これが意外と大きなウェイトを占めているという。 
その原点は田舎にある・・、
経済的にも中流となった人々は、精神的にも安定した生活を求めようとしているはずであり、これは一種の田舎への回帰現象とも言える。
現実に、「三位一体」、「地方分権」の施策が進みつつあるようで、これからの21世紀は地方の時代、田舎の時代に移りつつある象徴のようでもある。
 

序に、「村」についての最近の話題を一つ・・、

岡山県に新庄村(しんじょうそん)という極小さな地域がある。 人口約1300人足らずの村で、県の北西部に位置し鳥取県と境を接する。

2005年3月に、周辺地域・上房郡北房町、勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村ら5町4村が合併し「真庭市」が発足している。 
ここで真庭市は面積は県下自治体の中で最大になったという。 又、同年・同月に隣接する新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が合併により新たな「新見市」が発足している。

その新庄村は大地域となった真庭市、新見市との間に挟まれ、今にも押し潰されそうな存在になっている。 
当初は当然両市から合併話はあったようであるが、新庄村は敢えて単独で存続することを選択したのである。 
1990年より就任4期目となった村長の小倉 博俊氏は 「小さいからといって合併しないといけないということはないし、財政問題のみで合併してはならない。合併したとしてもメリットが無いと予想されるし、夢やビジョンも見えない。又、新庄の村民には歴史や文化を大切にしていて、自分たちのことは自分達でやるという主体性がある」との強い意向を示している。

村民はそんな村長の意向を全面的に支持してきたという。 
つまり、吸収合併して大地域となったとしても僻地には変わりなく、行政においても僻地地域ということで取り残される恐れもあるし、尚且つ合併によって自主性が失われ、独自の政策が執りにくくなるというのである。

一郡一村となった新庄村は、行政と地域住民が一体となった村造りを真っ向・正面から取り組んでいるといわれ、この様な村は、現代の理想郷とも言うべきもので、当然、Uターン者、Iターン者も多いのではと想像される。

平成14年度に、新庄村のPR用に制作した「健康で元気な村づくり」と題するテレビ30秒CMが、2002年度ACC(全日本シーエム放送連盟) CMフェスティバルにて銀賞並びに審査員特別賞を受賞したという。 
国内のラジオ・テレビのCMコンクールとしては最も権威があるものとされていて、新庄村のような自治体の作品が上位入賞することは全国的にも珍しく、岡山県においては民間会社のCMも含め、初めての快挙だという。

新庄村バンザイ・・!!。

次回は、今治・「泰山寺」

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日本周遊紀行(81)今治 「第59番霊場・国分寺」



写真:第59番・国分寺


自家祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事(今治)・・、

今治の郊外、国道196号沿いを訪ねた。 田圃の中に今までの霊場とはやや異なった様子で、高く石垣を組み白い壁塀をめぐらせて台地に「泰山寺」は建っていた。
石垣を上り境内に入るとすぐ 左に鐘楼、庫裏、奥に本堂と大師堂が概ね横一列に並んでいる。背後にある山は山号になっている金輪山で、寺はもともとこの山頂に建っていたという。

弘仁6年(815 年)、天災・災害の多かったこの地に大師は、これを鎮めるために地蔵尊を刻んで本尊とし寺を建立した。 
寺名を延命地蔵経といい、お経の中の第一「女人泰産」からとって泰山寺と名付けたという。境内の「不忘の松」はこの時、大師が記念にと植えられた松であると伝えられている。

更に、泰山寺から車で10分ぐらいの市郊外のち、海岸に近いとこの平坦地に第59番霊場・国分寺があった。 奇麗に植栽された数十段の石段の上、立派な石塀と石門の正面に堂々たる本堂があり、右手に大師堂、左手に 金比羅堂、その一段下ったところ に庫裏がそれぞれ堂々たる構えを見せている。 


伊予の国分寺を中心とするこの辺りには、 600年以上も続いている珍しい「巳正月」という行事がある。
これはその年の1月から11月までの間に亡くなった人の家族、親戚で行われるささやかな催しで、12月の第一巳の日に行うので、「巳正月」とか「巳午(みうま、みんま)」と呼ばれるそうである。
お正月めいた事を家族身内で行われる行事である。 

家には祭壇を飾り、その年に亡くなった新仏を呼んで巳の刻にお墓参りに行くが、その時の行き帰りには口をきかず、焼いたお餅を引っ張りあって食べ、更に、家に帰ると祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事である。

その謂われについて・・、
巳正月は国分寺の武将・脇屋義助公が亡くなった命日にあたるという。
当初は秘密であったため、家来達が義助公を偲んで人に知られないように、夜中にお墓で正月の餅をついて、無言で食べたのが由来だという。


今治の国分寺周辺は伊予の中心で国府があったとされるが、今治の何処にあったかは定かでないという。
その位置に関して様々な説があげられているが、当地の地名にもなっている「国分・古国分」の近辺であることは確かだといわれる。

国道196号線を南下しながら車を走らせると、道の駅「今治湯ノ浦温泉」があり、ここで一休み。 
これ幸いと記念に一浴しようと思ったが、ここには温泉は無く、源泉の湯けむりを石でイメージしたモニュメントのみであった。
ただ、温泉スタンドがあり、100リットルが100円で提供している。 
後方の小高い丘陵地にいろいろと温泉施設が点在する事を教えてもらったが・・思案!。 石のモニュメントは時折、間欠泉のようにドドーっとお湯が湧き出している。

湯浦温泉は、四国で始めて国民保養温泉地(温泉の利用促進を狙い、温泉法第14条に基づいて環境省が指定をした温泉地のこと)に指定されましたところ。 
温泉の有る湯浦地区内には数件のホテルや旅館、日帰り入浴の出来る「四季の湯」がある。 温泉は弱アルカリ性・ラドン含冷鉱泉、源泉25℃、効能、神経・痛筋肉・痛関節・痛五十肩

湯浦温泉を出立すると、直ぐに小松町に入った・・ようであるが、2004年に西条市に吸収合併され、新たな西条市となっているようである。


この先、R196道沿いには幾つかの霊場・札所が並ぶ。第61番・香園寺、第62番・宝寿寺、第63番・吉祥寺、第64番・前神寺等がある。
このうち先ず、宝寿寺、吉祥寺へ向かうことした。
中山川の大橋を渡り、JR予讃線を越えると大きな三角交差点に出る。この道は、松山へ向かっている国道11号で、今度はこちらを走るようになる。 
伊予小松駅のすぐ近くに第62番霊場・宝寿寺が住宅で囲まれるようにあり、山 門の前に巨大な文字で「一国一宮・宝寿寺」と刻 んだ古い石標が建っている。 

宝寿寺の「宝寿」の文字は複雑な旧漢字で表され、その古さを感じる。 
門 をくぐると、緑に覆われながら正面に本堂、右に大師堂が建ち、境内参道の左側には枯山水を思わす石庭が趣きを添えている。

奈良期・天平年間、聖武天皇が 諸国の国府に一の宮を造られた時、この近くに伊予・一の宮神社が建てられ、その別当寺として創建された。 
弘法大師が四国巡行の際、この地に留まれ、十一面観音像を刻み本尊として第62番の霊場に定められた。
ところが大正10年に予讃線が計画されたため境内を駅へ譲って、現在の地に移転したという。


次に、予讃線の伊予氷見駅そばの第63番霊場・吉祥寺(きちじょうじ)へ参る・・、 

このお寺も宝寿寺同様R11号線沿 いにあり、庶民の寺という感じがする。 
本来、立派な山門から参道入堂しなければいけないのが・・、珍しく、広い境内のほぼ本堂の横まで車が入れるようになっている。 
門の正面に本堂、左手に大師堂が建ち、右手に庫裏が ある。本堂には、四国霊場の中で唯一体の「毘沙門天」が本尊として祀られているという。

戦国期、天正年間の豊臣 秀吉の四国征伐(長宗我部氏)の時、この辺りの殆どの寺院は戦乱に巻き込まれて焼失しているが、当山も例外ではなかった。
往時は、寺域も広く、塔中二十一坊を有する大伽藍であったという。 

毘沙聞天の脇仏である「吉祥天」(毘沙門天の妃また妹ともされている)は富をもたらすとして、境内にある「くぐり吉祥天女」の下をくぐるとご利益があるとか、又、本堂の前に高さ1.2mもの「成就石」と呼ばれる穴の空いた岩があるが、この穴に目を閉じて金剛杖を通すことができれば願いが叶うともいわれている。

ほかに、長宗我部元親が難破したスペイン船を救助した際、船長から託されたマリア観音という秘仏も所蔵されているという。

次回は、西条・「石鎚山」

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日本周遊紀行(82)西条 「石鎚神社」


写真:国道横に堂々と立つ「石鎚神社・神門」


「日本100名山」の石鎚山は、日本三大山岳修行・修験の山でもある・・、

国道11号のすぐ左横を予讃線が並行している。 その伊予氷見駅からすぐに「石鎚山駅」が在る。
さすがに石鎚神社駅とは言わない、石鎚山は関西一の高峰、四国一の名峰であり霊場でもあり、その名を尊崇の念をもって称したのであろう。 

国道を挟んだ反対側に、大きな鳥居と銘柱があった。車を正面に進めるとすぐに、狛犬を従えた巨大な二層の神門が構える。
その奥まったところの高台に華麗な石鎚神社の本殿がお目見えする。付近には豪奢な神社会館や神社を総括する社務所、神社森の神苑が控えている。特に、本殿までの両脇には四国、九州、近畿と多方面から寄せられた石柱が目を引く。

本日は晴れていて下方の町並みや瀬戸内海が見渡せるが、山域の方は濃い霞がかかっていて石鎚山はおろか前衛の山々も姿は無い。本来なら石鎚の山並みが見て取れ、特に本社から見る頂は荘厳さを感じるという。


石鎚山は神が鎮まる山として山全体が御神体とされ、ここJR石鎚山駅近くに本社(里宮)と石鎚山北の中腹に在る「中宮・成就社」、山頂に頂上社(奥宮)、東南の山稜に在る土小屋遥拝殿、この4社をあわせて「石鎚神社」と称しているようである。
祭神は、イザナギとイザナミの第二子とされる石鎚毘古命 (イシヅチヒコノミコト)を祀る。

石鎚山は、1300年余り前、役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、弘法大師も石鎚山で修行したといわれる霊山で、皇族や武将の信仰も厚く、桓武天皇、文徳天皇、武将として源頼朝、河野家一族、豊臣家一族の篤い信仰があった。
特筆されるのは慶長15年、豊臣秀頼が福島正則を普請奉行として中の宮・成就社が御造営されたという。
 

『 わすれては 不二かとぞ思う これやこの 
                       伊予の高嶺の ゆきの曙
 』  西行法師

石鎚山は標高1981m、四国のみならず西日本最高峰の名山岳で、深田久弥氏撰する「日本100名山」の一つでもある。
わが国で最も古くから讃えられた名山の一つであり、太古から信仰の山としても知られ、釈迦岳(奈良県)、大峰山、大山(だいせん)、白山、富士山とともに日本七霊山の一つにも数えられている。

神変大菩薩(諡号・しごう、生前の行いを尊び死後に贈られる称号)・役小角(奈良時代の山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野の金峰山・大峰などを開いたという)が初めて山に登り、開創したと伝えられる。
山岳信仰の時代は4ヶ所の鉄鎖を手で繰り、頂上に登ることを許される者は水垢離(みずごり、神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)と禁欲など厳しい戒律をクリアした敬虔な信者だけであったという。

現代の今日でも毎年、7月1日のお山開きには白装束の信者達がご神体とともに山頂を目指すという。
石鎚山頂に登るには、2つのコースがある。 
一つは、面河渓の関門から土小屋まで石鎚スカイライン(12月〜3月は閉鎖)を利用して車で行き、そこから徒歩で登る(約2時間)方法。
もう一つは、西条市側から石鎚ロープウェイとリフトで成就社まで行き、徒歩で登る(約3時間)方法である。

山頂付近の絶壁には三カ所に太い鎖が架かり、下から一の鎖(33m)・二の鎖(65m)・三の鎖(68m)と呼ばれ、この鎖を伝って攀じ登る。(迂回路有り)
主峰天狗岳山頂からの眺めは雄大で、遠くは中国・九州そして四国の山並みが一望できるという。
「石鎚山」とは、その山系を指し、山頂は特徴的な天を指す鋭鋒で「天狗岳」と称している。
関西在住の登山愛好者の人気No1はこの「石鎚山」といわれ、全国の山愛好者による「あなたが選ぶ100名山」(私的・ネット投票)では第9番の人気を博している。


国道11が、「西城」の北を流れる「加茂川」の加茂川大橋を渡るとき、大きく広がる河原には水流が無く、干からびて殺風景なのに気がついた。 加茂川は、西条市を育んでいる「母なる川」とも云われアユ、アマゴ、ニジマスが泳ぎ、その上をカワセミが飛び交うという清流であるはずだが。西日本最高峰である石鎚山を源流とし、名水百選「うちぬき」の水源にもなっている。 それが、水面が無くなっているのである。


四国は、今年(2005年5月)に入ってしばらく雨が降らず、渇水状態であることはニュースで聞いていたが、四国最大の吉野川水系である早朝浦(さめうら)ダムの水位が0に近いとも知らされていた。 
加茂川の中流部には黒瀬ダムがあるようだが、ここも干上がっているのだろうか・・?
これ以上渇水がすすむと、いよいよ(伊予伊予・・?)霊山・石鎚に雨乞いの儀式、神事でもせねばなるまい・・!。

平安中期、伊予の国司・藤原範国が四国地方の大旱魃にあたって、「能因」をして雨乞いの歌を詠ませ、一宮である大山祗神社(オオヤマズミ・大三島)へ上奏させたという。

このとき能因法師(平安期の歌人、100人一首、三十六歌仙の一人)は・・、
 

『 天の川 苗代水に せきくだせ 
               天降ります神 ならば神
 』

の歌を残しており、この祈願により伊予の国中に、三日三晩にわたって雨が降り続いたという。

「祈り・・、四国に雨を乞う・・!!」


新居浜市の北側山系は別子(べっし)といって、小生にとって懐かしい名称である。
若い頃、窯業関係(金属精錬のための炉の設計)の仕事に従事していて、この住友別子鉱山や瀬戸内・直島の住友鉱山に関連した銅精錬の溶解・精製炉の設計作業をしていた。

ここ別子は、太古の昔から、とてつもなく巨大な鉱脈が眠っていた。
人跡未踏の赤石山系の、その名も銅山峰(1291m)・南斜面(現、別子山村=新居浜市)で、1690年(元禄3)、銅鉱露頭が発見されたという。(現、遺跡の「歓喜坑」が第一発見地といわれる)

大坂の豪商・泉屋、住友吉左衛門友芳により巨額な資本を投下して、この地域を「別子銅山」として開発し、備中(岡山県)の吉岡銅山、出羽(山形県)の幸生銅山(日本三大銅鉱山)に続いて、わが国では三番目の開鉱であった。

開抗からわずか8年の元禄11年には、年間産銅量1500トン以上を記録するなど、当時、世界最高の産銅量を誇る銅山であった。
その後、明治26年には日本初の山岳鉄道(現在、松山で記念に走っている・坊ちゃん列車と同形といわれる)を導入、産銅量は一挙に5000トンに達し、別子の山中には12000人もの鉱山関係者が住んだと言われている。 
坑道の総延長約700km、採鉱場所は海面下1000mにも達したという。

明治以降は、西洋の近代的採鉱技術その他を導入して採掘を累増させ、外国貿易の重要な輸出品としてわが国の経済を支え、産業の近代化、事業の多角化に貢献した。
この銅の生産量は、栃木県の足尾銅山に次いで日本で2番目に多いという。
「別子銅山」は、住友巨大財閥の原点・源流とも言われ、わが国唯一の民間鉱山としても、その役割を果たした功績は大きいという。

昭和48年、多種要因にて別子銅山は閉鎖するに至り、栄光の歴史に幕を閉じた。 
新居浜市から別子山村に至る、標高1000m大山岳地に残る広大な銅山の多くの遺跡は、今ゆっくりと自然に還りつつある。
煉瓦造りの巨大な貯鉱庫や建築物、索道基地跡などの遺構景観は、別子銅山を「住友のインカ帝国」とか「四国のマチュピチュ」(マチュピチュ:ペルー南部にあるインカ帝国の都市遺跡。海抜2400メートルの高原に位置し、石造の神殿・宮殿・水路などが残されている、古代の空中都市とも言われる。世界遺産)と形容し、紹介もされている。

新居浜のすぐ北側、別子銅山跡地に、「マイントピア別子」という鉱山の歴史や当時の生活風景を紹介する歴史資料館や鉱山鉄道、貯鉱庫跡などの鉱山遺跡がある。

次回は、伊予三島市・「川之江」  PartWへ

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