日本周遊紀行



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西日本編   7日目:PartW(足摺、愛南、宇和島)   PartX(宇和島、宇和・大洲、松山) へ
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日本周遊紀行(74)足摺 「38番霊場・金剛福寺」


写真:三十八番霊場・金剛福寺


石鎚神社・・、足摺岬に縄文前期の縄文人が渡来・・・?、

次に金剛福寺に向かう。
窪川町の37番霊場・岩本寺からは、中村、土佐清水などを経て100kmを超し、霊場と霊場の間の距離は八十八力所中一番長い札所であるという。
しかも、道程は深山的難所が多く 足摺半島岬などは往時は陸の孤島とでもいえる所であったろう。 しかし、ここは四国の最南端の地であり、すぐ前は広々とした大海原を望むところから、観音様の理想の土地(補陀洛)だともいわれる。

補陀洛とは、観世音菩薩が南海上の彼方に住むという信仰で、補陀洛渡海(紀州・勝浦の項に記載)といって補陀落を目指して信仰者が小舟で単身海を渡り入仏することで、中世、熊野(補陀洛寺)や足摺岬から試みられたという。


38番霊場・金剛福寺は、こんな明るい風景の岬の頂上にが建っている。 
仁王門をくぐると正面奥に立派な本堂が迎える、右手には清和天皇を祀り、源満仲(清和源氏の嫡流)が建立したという多宝塔がそびえる。
清和天皇、源満仲は源家の創始者であり、武将たち、とりわけ源氏一門との縁が深い寺院であるともいう。
境内は広く、ゆったりと造作してあり、霊気漂う雰囲気が充分に感じられる。
左手に大師堂、弁天堂、愛染堂、鐘楼等が建ち並んでいる。 
弘仁13年(822年)、弘法大師はこの地を訪れ、千手観音像を納めて「月輪山・金剛福寺」と号して第38番の霊場に定めたといわれる。


『 ふだらくや ここは岬の 船の棹 
                取るも捨つるも 法のさだやま
 』  御詠歌


自然の造形と人間の造作に心洗われ、足摺岬を後にする。 

先刻と通ってきた岬の東海岸は、遠慮がちに小さな港があり、人家も疎らで車も難渋がちに通るほど未開発の地で自然十分ところであった。ところが対照的に西側に面する沿岸は高層の建物や人家が並ぶ賑やかな地域である。

尤もで、この辺りは足摺観光の拠点、大きな資源でもある「あしずり温泉郷」が控えていた。
白装束のお遍路さんは勿論、観光客も人汗流すには申し分ない所であろう。

この“あしずり温泉郷”は、古くて新しい不思議な温泉だと言われる・・?。
今から凡そ1200年前、当時極楽浄土に一番近いとされていた最果ての地・足摺村(足摺岬) に弘法大師が金剛福寺を建立したが、その頃より湯が湧き出し、疲れを癒したという言い伝えがある。
ところが150年前、「寅年の大変」と言われる日本で最大級の地震があり、(七日七晩揺れ続けたと言う)その地殻変動により温泉が閉じられてしまったという。
その後、平成の世に至って採掘した所、ラドン含有の良質の温泉が再び永い眠りから醒め、噴出したらしい。
ということで入浴の効用は無論、他にも御利益ありそうな温泉である。


帰路は、「足摺スカイライン」を行く・・、

足摺観光は概ね、この観光道路を利用しているのが普通であり、観光バスをはじめ車の往来も盛んであ
る。 
今思うと往路では、静かな趣のある東海岸道から向かってきたことに納得するのであった。

スカイラインはアップダウン、曲折が多くあるが、道はさすがに良好で、標高も400m程あり時折、視界180°の海が見え、これはこれで素晴らしい。
右手にこんもりした山塊が見えている、半島の高峰「白皇山」(433m)である。 
山頂付近に38番霊場・金剛福寺の奥の院でもある「石鎚神社」があった。
今は、さびれた神社のようであるが名称の如く、山腹には巨石群があり、石鎚神社という名称は納得でアル。 

ところで、石鎚神社というのは、四国の名峰・「石鎚山」があり、この山を神体山(神しずまります山)とする御社の名称でもあるが、こちらの神社とは何かしら繋がりがあるのだろうか・・?。

又、この近くに「唐人駄場遺跡」といって、この巨石を利用したと思われる「巨石遺跡群」(現在公園施設)がある。
かつては、直径約300mもの世界最大級のストーンサークル(環状列石:巨石記念物の一種、柱状または板状の石を環状に立て並べたもので、新石器時代から弥生時代の祭祀・埋葬に関連する遺構。ヨーロッパ・アジアに広く分布し、イギリスのストーンヘンジはその代表)があったという。 
残念なことに遺跡公園の造成中にほとんどの石は移動し、埋められてしまったというが・・、チョッと間の抜けた話である。

遺跡は、縄文時代前期:紀元前5000年頃に、南方から黒潮に乗ってきた古代人が最初に辿り着いた場所ではないかともいわれている。
石鎚神社は、金剛福寺の奥の院であり、古くから修験の中心地とされ、補陀落渡海の地だったとも云われる。

幕末維新に通訳として日米交渉に活躍したジョン万次郎のことは先に記したが、太平洋を流れる黒潮は、四国の足摺岬が接触点でもあり、黒潮という異界の海上の道は、多くの人やモノを交流させ、同時に古代の人々も、この海の道によって現代以上に交流していたのかも知れない。


クネクネと曲がりクネったスカイラインの道も、やがて下りきって元の国道321号へ合流した。清水の街を抜けると、コバルトブルーの大海と岩礁折りなす美しい海岸線が延びている。
この海岸道は別名「足摺サニーロード」と言われている。
土佐清水の下の加江から大月町に到るまでのシーサイドロードで絶景が連続する。 道は「日本の100名道」にもなっていて、私的選者である須藤英一氏によって選ばれたという。


日本の百名道とは・・、

彼はフリーカメラマンでツーリング写真を主に日本の道、風景を撮りつづけ、取材経験をもとに「日本百名道」(大泉書店)を出版している。
彼に言わせれば「道はただ単に走るだけの場所ではなく、移動するための通過点でもない。クルマで旅するとき、“あの場所に行く”ことだけが目的ではつまらない。途中には日本には美しい景色や風景が沢山在る。これらの風光を目出ながら、味わいながら走る道が沢山あるのです」。 


日本の百名道」  http://www.ramble.net/sudo/road100/index.html 


因みに、須藤英一氏による日本の百名道のうち、小生がこれまで走破したのは凡そ6〜7割に達しているようで、特に大自然の北海道は全道、走行しているようである。

竜串(たつくし)という、風光明媚な海の観光地へ来た。 

さすがにこちらは、日本ではじめて一帯が海中公園に指定された地という、黒潮暖流の影響を受けて造礁サンゴや熱帯魚が生息する海の宝庫で、中でも「見残し湾」のシコロサンゴ群落は国の天然記念物に指定されている。 
周辺の岩場は、海食による奇岩怪岩が乱立していて一層、自然美を際立たせている。トンネルが連続するあたりの先端岬・叶崎灯台が白く輝いて見えている。 この辺の海も実に最高である。

大月町の道の駅「ふれあいパーク大月」で一服入れる。 
公園内には桜の広場や梅林、子供達の遊具やアスレチックがあり、そして広大な公園全体を覆うツツジ(アケボノツツジ・・?)が名所のようだ。
広い区域の物産センターの一角に、テント張りの数件の店舗が目に付いた。美しくエレガントなサンゴ製品のお店であった。 
ここ大月町は、古くから高級な桃色珊瑚の産地で、珊瑚の製造・加工・販売が盛んな地でもあるとか。
 

高知の西端にあたる「宿毛」・・、

宿毛市街のすぐ手前、国道321号に沿って道の駅・「宿毛サニーサイドパーク」があったのでちょっと一服。 
道の駅は松田川の河口部でもあり、宿毛湾に出臍のように出ばったところに在って何より海の景色がいい。海はハワイか沖縄か?と思われるほど澄んでいて心洗われる。

「宿毛」と書いて、恥ずかしながら読み方を知らず、“やどげ”しゅくげ“しゅくもう”などと勝手に想像したが、みな外ずれて正しくは「すくも」と読む。

宿毛は清流・松田川の河口に開けた街である。太古の昔は遠浅の海であり、大湿原には一面に「葦」が生い茂っていたという。
この枯れた葦のことを「すくも」と言い、宿毛の名前の由来はここからきていると言われている。

この地方は、宿毛貝塚といわれる遺跡が発掘されていて、既に、縄文中期(5千年前)頃から人跡が確認されているようで、古い土地柄でもあるようだ。 遺跡は国の史跡にも指定されてもいる。

それに、宿毛の幡多地方には、チョッと変わった名所があった・・、
幕末から明治にかけて、各村の要所々々に泊屋(とまりや)といって若い衆が宿泊する風習があった。
未婚の若者たちが火事などの見張りや災害に備えて泊り込み、救助に出動する慣わしになっていた。
今でいう火の見櫓の番小屋のようなものであろうか・・?、建物は二間四方の木造高床式の平屋建てで、屋根は入母屋造りのどっしりとした風格のある建物である。

当時の一般家庭の住居は殆どが平屋建ての建物で、平地ならこの高床式の泊り屋からは一望の下であったろう。
高床式の風格のある独立家屋は、多いときで百数十ヵ所も設置されていたといい、当時の、この地方の文化と治安状況が如何であったかが想像できる。
各集落にあった古風な泊屋も、今では大部分は破壊され、残っているは芳奈地区の4軒のみであるという。
現在、国の指定をうけ、宿毛屈指の観光名所ともなっているという。

次回は、愛媛の「愛南町」

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日本周遊紀行(75)愛南 「平成の大合併」


写真:第40番霊場「観自在寺」


愛媛の愛南町という名称は納得であるが、もしかして・・、

国道321号は、ここ宿毛で終点となり、以降は中村(四万十市)から延びてきた国道56号線と合流し乗り入れることになる。
R56号線は高知から到って、松山を結ぶ凡そ300kmの道程である。

松山方面へは、先ずは山中を行くようになるが、一本松の峠トンネルを抜けると高知県から愛媛県へ入ったことになる。
一本松町であるが、実際は新町名「愛南町」というそうで 2004年10月に周辺の4町1村、一本松町、御荘町、城辺町、西海町、内海村が合併して「愛南町」が発足している。


旧一本松町の山中から幾つかのトンネルを抜ける、眼下には土佐とは明らかに違う穏やかな宇和海が広がっている。
宿場町といった風情を感じさせる豊田を抜けると御荘町へ出る、清らかな流れの僧都川の北側を行くと、右手にサッカーや高校野球で有名な「南宇和高校」の立派な校舎が目に入った。
そして、間もなく第40番霊場「観自在寺」の山門前に来た。 
40番とはいっても伊予・愛媛県の「菩堤の道場」としては第1番目に当たる。

石段を上り山門をくぐると境内 左手に石の多宝塔が見る。
正面にはチョットさえないコンクリート造りの本堂、その右手に大師堂が建つ。
境内には、十二支を刻んだ石仏が並ぶ。

本尊は衆生の疾病を治癒し、寿命を延ばすと云われる「薬師如来」で御堂には、大師が一木に彫ったという本尊・薬師如来、脇仏に阿弥陀如来、十一面観世音の三体、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた尊像が安置されているという。
これを「宝判」といい、大師が諸人の病根を除くことを祈願したものといわれ、現在も、この宝判でお陰を受けた人が万病を癒し、特に多く盲目や心臓病が治ったという。

平安初期、平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願所として天皇の名に因んで平城山・観自在寺とした。
その後、度々天皇勅使が度々参詣したという。

チョッと変わったところで境内に「栄かえるの石像」があり、石碑に次のように書いてあった。
「親・子・孫と三かえる」、「お金かえる」、「福がかえる」、「病気が引き(ひき)かえる」


御荘の街は、比叡山延暦寺ゆかりの荘園であったことから、この地方を御を付けて御荘(みしょう)町と名付けたという。 
この先には広大な「御荘公園」があり、一角に珍しい往時の戦闘機「紫電改」が展示してあった。

1979年、付近の久良湾(西海半島の南)の海底で一機の「紫電改」が発見され引き揚げられたという。 大戦中の1945年7月に豊後水道上空で交戦した未帰還機6機の内1機とみられて、機体は回収後に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実戦機として御荘町の公園に保存・展示されているものという。

「紫電改」(しでんかい)とは、局地戦闘機、紫電(しでん)改良型であることから命名された。
局地戦闘機、即ち迎撃戦闘機として、太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
因みに、迎撃に対して攻撃型の戦闘機は零式艦上戦闘機・略して「零戦」といい、日本海軍の主力戦闘機・艦上戦闘機として、日中戦争の途中から太平洋戦争の終わりまで戦い続けた。
太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、主交戦国アメリカから「ゼロファイター」の名で恐れられた。昭和20年3月、呉軍港を襲った米海軍機動部隊のグラマン F6Fヘルキャット戦闘機を主力とする艦上機の大編隊(合計で350機以上と言われる)を、紫電改56機、紫電7機の計63機で迎撃、戦闘機48機・爆撃機4機の合計52機を撃墜し、日本海軍戦闘機隊の有終の美を飾ったというのは、結構、有名な話らしい。

公園の一端に、御荘湾をひとまたぎする海上ロープウェイが、西海半島付け根の山頂まで達している。海上を跨ぐロープウェイも珍しい。 
御荘湾は、西海半島を挟んで深い入り江が複雑な形で宇和海へ延びていて、天然良好な港を形成している。
南宇和海のこのあたりは、実に自然豊かな景観を成しているのである。  


国道56の宿毛街道を北上する・・、

津島町に入ったように思えたが、実は平成17年8月1日に、宇和島市・吉田町・三間町・津島町が合併して新しい「宇和島市」が誕生している。


ここで、又々、「平成の大合併」について・・、 

先の愛南町といい、新しい宇和島市といい、四国南部の地域も合併が盛んに進んでいるようである。 現今、全国的に「平成の大合併」の時代を迎えていて、全国の市町村は合併によりその姿を大きく変わろうとしている。 

現在、小生は全国を周遊している旅の途中であり、その都度、地域々々でカーナビや地図を頼りに巡っている。
それは何れも旧態の地域名なっていて地元に足を踏み入れて、はじめて地域名が変わったのに気がつき困惑してしまう。
又、そのまま気がつかずに通過してしまうときもあり、帰ってきた後、いざ記録を纏める段になって気が付くときもある。 
はたまた、そのまま気ずかずに旧来の町村名を本文に記載しているかもしれない。
そのような事態は是非ともご容赦願いたい。

序ながら今回の合併について述べておこう。合併には「合併特例法」という法律があって、色々な優遇措置が設けられている。

@ 合併特例債(合併に役立つ事柄について借金すれば、国が利息や元本を7割までもってくれる)
A 地方交付税の特例(合併しても今までの市町村の状態での計算方法で地方交付税を算定する)
B 合併により人口3万人以上となった場合、無条件に「市」になれる、普段は人口が5万人いないと「市」になれない。


一方、いわゆる小泉政権・政策のうち今、「三位一体改革」を進めている。

三位一体(さんみいったい)とは、元々、キリスト教の意味合いからきた言葉で、一般には、三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであるという意味合いである。 
今、政治で言われている三位一体とは、「国庫支出金を減らす」、「税源を地方に移譲する」、そして「地方交付税を見直す」、これらが一体になった地方分権化を勧めるのであり、このため国は地方の合併を勧めているわけである。

元より各地域は、次第に地方交付税が削減され、弱小自治体の財政が逼迫する状況もあって全国津々浦々、合併論議が花盛りとなっている。勿論、合併は直前で破談になることもある。

「合併」には大きく分けて、「編入合併」と「新設合併」がある。
「編入合併」は、いわば会社の吸収合併のようなもので、ある自治体の中に他の自治体が取り込まれる形態を言いう。
この場合は、大きな自治体は領域だけ広がり、小さな編入される自治体は姿を消すことになる、「新宇和島市」はこの例であろう。

「新設合併」は、いわば対等合併のようなもので、合併する自治体は全て、いったん消滅し、同時に新しい自治体が立ち上がるという形式になる。
「愛南町」がこれに相当すると思われる。

又、一方昨今では、国から地方へ権限を委譲する手段に、もう一つの大きな目標である「道州制」がある。
小泉内閣の片隅で話題になっているらしく、首相の諮問機関である「地方制度調査会」というのがあって、これらの機関が北海道をモデルに調査研究し、内閣に答申して国会にまで提出しようとしている・・?。

今の「地方」と呼ばれる九州や中国、四国が、九州道、中国・四国道と言われるようになるヤも知れないのである。
四国の由来でも述べたが、この際に「愛媛」という愛着ある名称が、もしかしたら消えるかもしれない・・!?。 

次回、更に「愛媛」について

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日本周遊紀行(76)宇和島 「伊予愛媛」


写真:宇和島城天守閣


前回の、概ね続きになりますが、「伊予愛媛」についてです・・、

「愛媛県」という名は明治期、さる伊予人の申請により太政官布告(明治政府)によって決められたという。

先にも記したが・・、
四国について「古事記」がイザナギ、イザナミによって国を生む記述がある。
最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。四国については「身一つにして、面(おもて)四つ有り・・」とあり、それぞれ男女の人名が命名されている。 
讃岐は、男性で飯依比古神(イイヨリヒコ)、 阿波は、女性で大宣都比売神(オオゲツヒメ)、この神は食べ物の神で鼻、口、そして大きなお尻から食べ物を取り出してご馳走を作る不思議な女神という。 大宣(おおげ)とは、大食で、田、畑、食べ物の豊かな土地を意味する。 
土佐は男性で建依別神(タケヨリワケ)で、「雄々しい」という意味であり、
伊予は愛比売神(エヒメ)で文字通り、いい女という意味である。


「愛媛」とは随分と粋な名を、県名に付けたもんであると感心してしまうのである。 
おそらく松山の教養人が担当官に具申して、この様な名前がが採用されたのであろう。 
「いい女」という行政区域でこのような名称は、世界中にもないであろう。


話は些か反れるが、小生が若かりし頃、瀬戸内で半年間仕事をしていたことは先に述べたが、この時、宿のお上さんが「四国には讃岐男に阿波女、伊予の女に土佐男という言伝えがあろのよ・・」という話を真剣になって聞いたものである。
まさか宿のお上が古事記の内容を知って言ってるとは思わないが、いずれにしても2000年余の歴史が、ここに生きていて歴史や風土が脈々と現代にまで引き継がれていることは、驚嘆に値するのである。


四国・四県、そして「愛媛県」という、粋な名称は是非残したいもんである・・!!

今回の旅の目的の一つに、その地域の歴史や文化に少しでも触れることであり、市町村の特色を知ることでもある。 
合併によって、町村名が消えてなくなることも仕方ないことではあるが、若干でも旧地名を残したいものである。
たとえ消えて無くなってもそれらを記憶し、記録に留めておきたいと希望するものでもある。 
今回の合併で、消滅した歴史ある地域名については、改めて無念の意を表したいのである。


旧津島町の中心であった街並みを後にし、長い松尾トンネルを抜けると間もなく宇和島の市外に達した。港に近い国道56のバイパスから宇和島城を目指して進む。 
カーナビや地図上では気が付かなかったが、宇和島の市街地は小さな入り江を成していて三方は山域に囲まれている、そこに築港が拓かれたようである。 
その小さな市街地のほぼ中心にコンモリした小山が見えている、どうやら宇和島城は海岸べりに築城した山城のようである。

車に給油しながらお城の様子を伺うと、宇和島城は標高80mの丘に築かれたお城で、石段を登って見物するには小一時間くらいかかるらしい。 
夕刻せまり、この先、松山・道後までの道程を思うと、お城見物は断念せざるをえない。 
お城は、秀美華麗な現存天守で、姫路城の大天守をひとまわり小さくした感じともいわれる。

宇和島城」が築かれたのは、関が原の合戦が終了した1601年、当時の領主であり、築城の名手と言われた藤堂高虎(三重県・津市の項で記載あり)の手によるもの。
その後、1614年には奥州の雄・伊達正宗の長子・伊達 秀宗が宇和島の領主となり、二代目藩主伊達宗利の時代に現在の天守閣が築かれている。 

秀宗は、豊臣秀吉のもとで元服し、秀吉からの一字と父の字を賜って秀宗と名乗っている。 
政宗の長男であったが、わけ合って仙台藩を継がず、徳川家康から関が原参陣の功として伊予宇和島十万石を継ぐこととなり、南海の地に伊達の別家を起こすことになった。 
東北の雄とはいいながら、四国の果てまで流れて着たのは前例が無いだろう。

江戸末期から明治期、伊達氏八代藩主・伊達宗城(むねなり)は福井の松平春嶽、土佐の山内容堂とともに幕末の三名君に数えられている。 
三人の中でも最も先見の目があった人物とされ、薩摩の島津斉彬と並んで西洋事情を取り入れ、地元の近代化に着目実施したとして知られる。

開化後は、民部卿兼大蔵卿となり鉄道敷設などに尽力、明治4年には天津で日清修好条規に調印するなど、明治維新後の活躍も目覚しいものがあったという。
四国三県、阿波の蜂須賀家、土佐の山内家、伊予の伊達家と戦国時代の各大名が関が原以降、いずれも当時、徳川の外様大名として四国を領有しているのは面白い。

因みに、讃岐・高松は、当初は豊臣・生駒家であったが、すぐに、譜代の徳川・松平家が赴任している。

次回は、宇和島・和霊神社   PartXへ

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