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日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と妻」



山内一豊の妻 千代は、土佐・「はちきん」の起源になっている・・?、

戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。
往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、)

長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。
秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。


平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。 
長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。 
長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。

元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。
しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。 
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。
このあたりが歴史の妙味でもあるが・・。


関が原の合戦後、長宗我部氏に代わり徳川家康によって土佐一国を拝領したのは山内一豊であり、遠州・掛川からの移封し、1601年(慶長6年)に土佐へ入国した。

初め浦戸城入城であったが1603年、新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせ、完成したのが現在の高知城である。
高知城は掛川城にそっくりだといわれる、一豊が掛川城から高知へうつり、城を築くときに「掛川のとおり」に築城せよ・・!」と命を下した。

現在のお城は、宝暦3年(1753年)に創建当時の姿のまま再建され、250年後の今日まで本物の城の持つ偉容を保ち、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を残している。


山内一豊は戦国期の武将で、織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えている。
小田原の役の後、遠州掛川6万石となり、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を拝領している。
妻の内助の功により、駿馬を買って信長の好意を得、出世する話は有名である。
その内助の功で知られる「千代」ではあるが・・、

戦国時代の女性は「主人の無事を祈り、家を守る」という重大使命があり、特に重職にある妻は「陰の参謀」とまで言われ、これが夫の出世に多大な影響を及ぼしている。
山内一豊は案外、真面目で凡庸な武士であったらしく、妻・千代の陰の力、思考力、洞察力、行動力が有ってこそ、一豊を大名たらしめたともいわれる。


裁縫が得意な千代は、秀吉への小袖外交・・?、

関が原合戦の直前、秀吉子飼の大名が西に付くか、東に付くか思案している時、妻・千代は書簡を夫・一豊に送り、更に一豊は家康に差し出して、家康側(東側)に付くことを宣言する。
秀吉子飼の大名達もこれに倣ったという。 

合戦後、家康は「この度の合戦の功は、第一に一豊にあり・・!」と評されて、土佐一国を賜ることになるのである。
無論、妻の陰の力と愛があったわけで、家康も当然承知していた。 


高知の女性を称えるのに「はちきん」という言葉があるという。
男勝りに働く女性を意味する言葉で、俗っぽい言い方をすれば、「男には弐金付いていて、4人で八金である」つまり、「はちきん」(男4人)分の仕事をする女性を表す。
この女性のはしりが「一豊の妻・千代」であると言われる。

ところで、山内一豊の妻 千代は、「千代紙」の名前の起源になっていることは、その真偽はともかく余り知られてない。 
一豊が未だ50石どりの貧乏小武士だったころ、千代は不要になった小袖を切り込み、四角い破切れにして縫い合わせ、継ぎ接ぎ小袖として着用していた。 
周囲の女どもは、始め妙に眺めていたが、意外とそれが洒落てて見た目も綺麗に映った。
その内評判になり、やがて秀吉の妻・ねねや信長の妹・お市の方、そして秀吉自身にも創作、縫い合わせして進呈したというが・・?。 
この歯切れの形や色柄(今で言うパッチワーク)が、和紙にも普及し、これがやがて千代の名を付けて「千代紙」になったという。


「千代紙」と「色紙」について・・、

分類すると千代紙は和紙、色紙は洋紙である。 
日本古来の紙はむろん和紙であり、「千代紙」の折り紙は日本の伝統技術であり、千代紙自体、日本の伝統的な図柄として和服にも使われる事が多かった。 
洋紙が導入されるに及んで、和紙では比較的高価であり、厚薄の不揃いで折り目がつきにくい理由て次第に、単色の洋紙の「色紙」、折り紙が普及していったという。

風合いを楽しむ和紙・千代紙は障子紙や「しきし」等に使われている。
因みに、和紙の効用として、埃を吸い取る(微小な隙間が、微弱電気を帯びてプラスのほこりを吸い取る)。 湿度を調節する。 臭いを吸着する。 UV (紫外線)をカットする。 目に優しい。 和紙の服はいい。和紙の寝具等々・・。 

起源としては他に有力なのが京都で、千代紙のことを「京紙」とも称し、京都の伏見宮あるいは閑院宮の千代姫が愛好されたので名付けたという説もある。
信憑性についてはどちらでもよいが、一豊の妻の「千代紙」が納得性があるかもしれない・・?


2006年、NHK大河ドラマ、司馬遼太郎原作の「功名が辻」・「山内一豊の妻」が放映される。
主人公・千代は、夫の立身出世を支えた「内助の功」の人物として有名。
一豊が織田信長に仕えていた頃に、嫁入り支度のお金で夫のために馬を購入。
心を込めて手入れをしたその馬が信長の目に留まり、夫の出世を助けたエピソードで知られている。千代に仲間由紀恵、一豊に上川隆也が決定している。

一豊の家臣に武田鉄也演ずる「五藤吉兵衛」がいる。
先代から一豊のいわば守役として幼い時から仕え、放浪時代にもつき従ってきた。
賤ヶ岳(秀吉と柴田勝家)の合戦直前、伊勢亀山城攻めの際、主・一豊に手柄をとらせようと奮闘、壮絶な最期を遂げる。 
この吉兵衛の子孫が高知市内に在住で、古風格な居を構え、現在本屋を営んでいる・・、と噂できいたが・・?。

次回は、土佐の“いごっそう”龍馬・・、

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日本周遊紀行(69)高知 「いごっそう・龍馬」




写真:桂浜と大洋を見据える「坂本竜馬像」



“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・?、  

一旦、はりまや橋の大交差点に戻り、今度は右折して県道34号線を、やや浦戸湾に沿いながら「桂浜」へ向かう。
途中、「横浜」という地名に出会った。 神奈川に住む小生にとっては懐かしい名前である。
思えば、東日本を周遊している時、青森の下北半島の付け根部分にあたる所に「横浜町」というのが在った、たしか、日本一の菜の花の名所と記憶している。
もっとも、横浜という名称はありふれた名で、浜の近辺なら何処にあってもふしぎではないが・・! 

横浜から瀬戸の住宅地を抜けると、突然、太平洋へぶち当たった。
標識に従って、左折し、清々した海岸を行くと、間もなく高台の曲がりくねった道より大駐車場へ出た。
桂浜の駐車場で近くには、土産、物産の販売所がある。 
本日、土曜日であるが、朝まだ早いことから車や人影は殆ど無い。岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がった、土佐を代表する名勝・「桂浜」である。

大海原と青くこんもり突き出た岬(上龍頭岬)との配置景観が実に良く、ハートに響く・・!、満月の夜景を想像しながら「月の名所は桂浜・・」に納得である。 
砂浜に整備された遊歩道をゆく、高台の竜頭岬には土佐を代表する志士「坂本龍馬像」が遥か太平洋を望んで、堂々と建つ。

1866年(慶応2)、京都・薩摩藩邸、奥座敷の一室に長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が控える。
別室に薩摩藩代表小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が着座して居る。

竜馬が駆け込んで、西郷に向かって「おはん等、未だ思案しちょるんか、くだらん意地でこの同盟を、この日本を、だめにしてしまうんか・・!!」 大きな目を正視していた西郷は、一時して「分かりもした・・」と言って立ち上がり、別室の桂に歩み寄り、深く頭をたれて「よろしゅう、おたの申す・・」・・と、遂に、ここに坂本竜馬の努力によって薩長同盟が結ばれ、これが歴史の流れの大きな分岐点となり、倒幕・維新革命への大きな流れを起こすことになる。

後に竜馬は、西郷のことを「 西郷は馬鹿だ!!しかし、馬鹿さの幅が分からない、小さく叩けば小さく響く。大きく叩けば大きく響く・・」と言わしめた。


坂本龍馬は、高知の城下町に住む郷土(※1)の次男として生まれ(1835年)ている。 
青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。
武市半平太(瑞山)卒いる土佐勤王党(※2)に参加し後、脱藩して勝海舟に師事し、海軍建設を計画する。
又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。

龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 
将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。 


龍馬暗殺・・!、

龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。 
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「竜馬像」の姿であり、志であった。

※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。 そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。

※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた

 

『 みよやみよ みな月のみの 桂浜 
                    海のおもより いづる月かげ
 』 

土佐出身の大町桂月が詠う。

裏山の浦戸城趾は戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となったところである。また、山頂には国民宿舎桂浜荘、坂本龍馬記念館がある。 

桂浜を望む龍頭岬の北側対岸は、浦戸湾口を跨ぐ巨大な浦戸大橋で結ばれ、種崎の岬に到っている。歌でも知られる「浦戸湾」は、入江状になって高知港を形成している天然の良港であるが、現在の浦戸湾は広範囲に埋め立てられ、かなり縮小しているといわれる。
、昔は高知の市街地を含んだ広大な湾域であり、流入河川も多く半汽水湖を形成して、魚の種類も多かったという。

「よさこい節」に言われる・・、


 言うたち いかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎより  

回遊する土佐湾名物の鯨が浦戸湾に入り込んできて、暫しの休息をしながら,多くの餌魚を漁っていた・・、こんな風景は、まんざら作り話しでもなさそうである。

次回は、宇佐、横浪の道

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日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」


写真:武市半平太の像



至誠の人・武市半平太の像が横浪半島の丘に立つ・・、

桂浜を後にして、海岸沿いの快適な県14、県23号線の通称「黒潮ビーチライン」を行く。 
海岸のコンビニで大洋を眺めながら、チョット遅い朝食を摂る。そこからは、わずかに孤形を帯びた宇佐漁港、朱色の宇佐大橋、そして横浪三里といわれる景勝地の横浪半島が右手に見えている。


紀州・和歌山の項でも述べたが、宇佐漁港は「鰹の漁法」、「鰹節」の発祥の地である。
元々、紀州の印南町が鰹漁と鰹の一本釣りの発祥地といわれる。
かつては廻船問屋や漁船の基地として知られ、印南の漁夫たちは日本でもトップクラスの鰹漁の技術を持っていた。
ところが鰹船団で財をなした豪家、角屋甚三郎が、ある事件をきっかけに船団を率いて、土佐へ移ってしまった、その地が「宇佐」であった。

カツオの漁法とともに、鰹節(熊野節)の製法を土佐国に伝えたのを、きっかけに土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、その製法を積極的に取り入れた。 
息子・甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあり、江戸中期の頃までに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けに取り組み、これが改良節、土佐かつお節と呼ばれている。 
更に、宇佐在住の印南の職人が伊豆や薩摩に招かれ、作られたのが伊豆節、薩摩節といわれる。 
明治時代に入って、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになった。

日本沿岸で多量に捕れるカツオは干しカツオにし、さらに焙乾法の出現により鰹節に引き継がれ、日本人の保存用タンパク源、調味料として不動の地位を確立していくのである。
宇佐漁港は、現在、クジラ・ウォッチングの出航地として人気があり、また幕末、ジョン万次郎(中浜万次郎)が船出したという港でも知られる。 


万次郎は、土佐中浜に生まれ、その数奇な運命と独自の才覚によって、近代日本の夜明けともいえる時代に日米の架け橋となる幾多の業績を残した。
あの坂本竜馬にも多大に影響与えたという。
「ジョン」という姓は、捕鯨船・ジョン−ハウランド号に由来するという。
万治郎は故郷へ錦を飾った後、地元の名を付けて、中浜万治郎(1827〜1898)と名のった。アメリカで学んだ英語力を活かし、威臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟、福沢諭吉らとともにアメリカに派遣されるなど活躍、維新後は学校の教師など、日本の英語教育の確立に貢献する。


宇佐漁港の外れから昭和49年に華美な橋が開通した。
その「宇佐大橋」を渡って、対岸の島のような横浪半島へ行く。 すぐに36番霊場「青竜寺」があった、堂々たる山門をくぐり、長い石段を登ると正面に本堂、その左に大師堂、 右に薬師堂が並んでいる。
潮風を受ける本堂の軒下には宇佐の港にも象徴される多くの船を描いた絵馬が奉納され、船人たちの本尊・波切不動明王への厚い信仰が伺える。


因みに、「不動明王」とは・・?、

仏教で云う「大日如来」とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏のことで、仏像には普通、大日如来を真ん中にして右側に観音様(壷を持つ=凹=水)、左側に不動明王(剣=凸=火)を配置するという。
つまり、観音様は肉体で、「不動明王は精神を現す」といわれる。これは、人の腹、首、頭の三位一体を教えているともいう。
不動明王の精神は、仏道に導くために煩悩を打ち砕き、悪魔を下し、邪物を畏怖せしめ、菩提の心が揺るがないことから不動という。押し寄せる大波(煩悩)を粉々に打ち砕く不動様を特に「波切不動明王」と信じ、この不動様を拝めば、どんな嵐でも船は安全であり、大漁もまた間違いなしといわれる。


朱色が鮮やかな三重塔が石段の途中の左側にある。
「青龍寺」は、弘法大師が唐の都・長安のにちなんで建立したという。 
また、「平成の大横綱」と形容されるモンゴル出身の「朝青龍明徳」という「しこ名」は、四国霊場・青龍寺に因んで名づけられた。
明徳の名は、同寺の近くにある出身校であり、高校野球でも有名な明徳義塾高校の名をを付けたもの。

因みに、「朝青龍」の所属するの砂部屋は現、若松親方(元大関・朝潮太郎)で、出身は室戸市である。


横浪スカイラインへは、更に屈曲した道を登り、細長く伸びる横浪半島を縦走する。
高知県内一番の人気のドライブウェイというが、小生にとっては見慣れた風景でもある。
南に荒々しい太平洋、北には四国山脈と南国の保養地・入江三里といわれる鏡のように穏やかな内海(浦の内)を望め、半島全体が深緑におおわれて目にも優しい。 
横浪黒潮ライン途中に休憩所があり、ここに、龍馬と同じく土佐藩の幕末志士の一人、武市半平太(瑞山)の堂々とした像が立つ。


至誠の人・武市半平太瑞山(1829年〜1865年)は桂浜、浦戸湾の近くで生まれている。
幕末・安政期、桜田門外の変(大老・井伊直弼の暗殺事件)の後、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成する。
龍馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩に見限りをつけ脱藩し、半平太と進むべき道を異にしたのである。
龍馬の脱藩を知ったとき半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と言ったという。
半平太は、その後も土佐藩を勤王思想・尊皇攘夷で統一しようと活動を続け、一方の龍馬は勝海舟と出会い、開国論に目覚める。 
二人は、其々違った道で世の変革を求めるが、半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄され、慶応元年(1865)、道半ばにして36年間の生涯を閉じている。

辞世の歌は・・、

『 ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 
                  今は惜しまぬ 身となりにけり
  』

維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。 
しかし、維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った・・?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたとも言う。

勤王党仲間内でも、一死君国のため脱藩した志士達も、お互いを呼び合う時は全部土佐弁丸だしでオンシ、オラを使い、年齢の後先はなかったという。
身分の上下を越えて、みんなオンシ、オラで、このオンシ、オラは勤皇志士の合言葉でもあった。
ただ、武市瑞山は別で、一枚上であったという。
皆は瑞山先生とか、武市先生とか呼んだという。
「瑞山」とは号(ごう)で、武市を称える名称でもある。


「維新土佐勤皇史」には、次のような記述がある・・、


『身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。』

武市の人格を評するには「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことが伺える。

坂本龍馬と半平太の出会いは、龍馬が初めて江戸へ剣術修行(千葉道場)に出たとき、土佐藩下屋敷で一緒になったのが始まりで、半平太は龍馬より6歳年上、このとき龍馬は19歳、半平太は25歳であった。
半平太は、城下でも謹厳実直できこえる器量人で、しかも几帳面。
龍馬とは正反対のタイプで考え方においても、事あるごとに二人は対立したようであるが、どこかでウマが合い、竜馬を弟のように思い、仲が良かったと言われる。 
尤も、龍馬とは遠縁にあたるともいう。

次回は、窪川町の「あぐり」・・?  PartVへ



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