日本周遊紀行



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日本周遊紀行(59)鳴門 「四国と霊場」



四国は「身一ニシテ面四ツ有リ」、そこには八十八の霊地が在った・・、

神戸・淡路・鳴門自動車道の鳴門I・Cを出て、いよいよ四国上陸である。

小生が未だ20代後半の頃、瀬戸内海の直島(玉野市宇野港の正面にあたる・・)で半年間、銅精錬会社で出張勤務作業をしていた。
この時期、四国・高松に数度訪れ、四国一周を果たしている、それ以来の実に40数年ぶりの四国である。

四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれている。
面四ツとは、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)のことであり、一にして四、四にして一の世界であるとしている。 
徳島、高知・・等の県名は明治期以降に付けられたもので、それ以前は奈良朝の頃までは、4つの旧地域名で示されていた。


四国で、イの1番に思い起こす事は、やはり四国・八十八箇所の霊場のことであろう。 
小生、これから四国の海道一周を始めるのであるが、その近辺にも霊場はあるはずである。序でで部分的になるが、弘法大師の断片的足跡を巡るつもりでもある。

著名人が、不治の病や難病が霊場を巡礼するうちに全快したという話もあり、遍路道をたどる中で大師の「お陰」をいただき、心身の毒素が浄化されていくと言われる。いわば四国は大自然の病院であるともいう。

本年(2005年)、民主党党首(当時)であった管 直人氏が白装束に金剛杖で菅笠(名前に合致・・!)を被り、四国遍路したことは一寸したニュースになった。政治的に悩みを抱き、その精神的ストレスを払拭するため、とは聞いたが果たして政治的目標の為のご利益はあったのだろうか・・?


四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」と言うらしい、「辺路」に通じている。 
お遍路さんが着用する白い衣は死に装束といわれ、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ墓標そのものであるとするし、菅笠は、弘法大師と共に行くという意味で「同行二人」と記入する慣わしがあるという。 
遍路は、昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だった。 
お遍路さんは何日も、何十日も懸けて弘法大師のご利益を戴くのである。

小生は車で、しかもアッという間の観光遍路で、もうとう、ご利益などは望むべくもないが、参拝に際し旅先の安全くらいは願いたい。


今から1200年前に、弘法大師が人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場である。
大師は、奈良後期の774年、地元、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現75番・善通寺誕生院)に生まれている。 
幼少のころより高い教育を受け、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力をつけた。 
ある時出家し、名を無空と改めて山岳修行者に身を投じ、石鎚山等で厳しい修業を重ねた。
20歳のとき、和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度出家し、名を「空海」と改める。
延暦23年(804年)、空海30才のとき、時の政府より最澄(さいちょう・延暦寺開祖)らととに遣唐使として中国(唐)へ派遣され、2年間西明寺で修行している。 
42歳で、自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て「高野山」に堂宇を建立した。その高野山の金剛峰寺において入定(聖者の死去)している、62歳であった。 
延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」号を贈られた。 大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人すべてがそのまま仏となって幸わせが得られるという極めて現実的なものである。

ところで、四国八十八ヵ所は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳のときに開創され、後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりとも云われる。

八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたともいわれている。

その四国の観音霊寺には、発心(菩提心を起すこと)の道場:阿波・徳島 23寺、修行(悟りを求めて仏の教えを実践すること)の道場:土佐・高知 16寺、菩提(仏の悟り。煩悩を断じ、真理を明らかに知って得られる境地)の道場:伊予・愛媛 26寺、涅槃(煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地)の道場:讃岐・香川 23寺の八十八ヶ寺が存在しする。 

四国を一周する遍路巡拝は、一人でも同行二人、つまり大師と共に巡り、心身を研き、八十八の煩悩を一つ一つ取り除き、自分自身を見つめ直す修行の旅である。 

また宗派を問わず、お参りをされる方々の願いが成就される信仰の場でもある。



一番霊場・「霊山寺」


一番霊場・「霊山寺」へ・・、

空海(弘法大師)が八十八か所の霊場を開くことで、21日間留まって修行したという、そして「ここをその一番とするように」との仏の「お告げ」を受けた寺院である。
又、巡礼者が巡拝を始める前に満願成就を祈る「発願の寺」、「一番さん」などと言われ、親しまれている寺が「霊山寺(りょうぜんじ)」といい、神戸・淡路・鳴門ルートの直近、第一番目にも当たる。


鳴門I・Cから県道12号線を行くと、間もなく右側に番札所の「霊山寺」があった。
堂々とした山門・仁王門の前に車をおいて、境内を行く。 
多宝塔、美しい泉水池があり、橋の奥に大師堂がある。正面の階段の上には弘法大師が彫ったという釈迦如来の本尊が安置してある本堂がある。

奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたお寺で、 その後、弘法大師が四国を回られた時、空海(弘法大師)が21日間修法中、インドで釈迦如来が説法している光景を連想し、その事からインドの霊鷲山(りょうじゅざん)を日本に移すと言う意味で竺和山霊山寺と号し、四国第一番の札所としたものという。 
門前には、門前一番街と称して、数件のお土産コーナー、軽食コーナ巡拝用品コーナー、お茶席コーナーがある。


「行基菩薩」は、奈良時代の僧で河内の人。社会事業に尽力した法相宗(ほっそうしゅう・中国創始の仏教の宗派の一つ)の僧で、各地に橋、池、道、船所や、餓死する人々を救うための布施屋を建て、民衆への仏教伝道にも努めた。 
時の政府からの弾圧にも屈せず、民衆救済の活動を進めたため、彼を慕って従うものは1千人にも及び、生きながら「行基菩薩」と称された。 
東大寺の大仏造営には、民衆の絶大な影響力から大仏造営費の勧進(社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること)に起用され、史上初めて大僧正に任ぜられた。 
行基を開基と称する寺院は全国で1400ヶ寺にも及び、現代にまでその遺徳は受け継がれている。


霊山寺の先に2番札所の「極楽寺」があった、その名のとおり極楽のような美景な庭園が特徴のようで、手入れも行き届いている。 
丁寧に置かれた石畳の石門を行くと、大師堂で安産大師とも呼ばれている。子宝に恵まれない人には子宝を授けてくれ、妊娠した女性には安産させてくれるというご利益があるそうで、安産祈願の人が絶えないそうだ。
大師堂には長命杉といわれる樹齢1100年以上の杉巨木がある。弘法大師がこの地での修法を修められた時に、この寺を末永く守護せよとの祈りをこめ、大師自らお手植えされたと言われる。 

台風や火災など、もろもろの困難にも耐え抜いた大杉だけに、幹に触れれば長寿に、またその手で自分の悪いところをさするとたちまち平癒すると言われている。 右奥の高めに本堂があった、行基が開創し、日照山と号す。

次回は、阿波・「徳島」

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日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おんな」



阿波徳島の川と山、そして阿波女・・、

国道11へ戻って徳島を目指す、めざすといっても、すぐ其処であるが。
間もなく秀麗な吉野川の大橋を渡る。 

ここ河口近くの吉野川は、さすがにゆったりと、悠然とした動きであるが、日本三大暴れ川の一つと言われ、四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。他には関東北部の利根川は坂東太郎(ばんどうたろう)、九州・筑後川が筑紫二朗(つくしじろう)であり、暴れ川とは、雨が降るとすぐ氾濫する川のことである。

四国山地を東西に横切る山並みは日本では珍しい先行谷(せんこうこく・山脈の隆起の開始前に河川流路が決められ、その後に流路を横切って土地が隆起した場合、もとの流路を維持したまま下方侵食を行いながら、これを横断して峡谷が形成されているものを指す。
内陸盆地の多い近畿・中部地方に好事例がみられる)を形造り、高知北部の源流域では日本の三奇矯(錦帯橋・山口岩国、猿橋・山梨大月)といわれる「かずら橋」のある祖谷峡や断崖絶壁が続く大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)と呼ばれる観光景勝地を形ずくっている。
吉野川は、この地を北上し、池田町で直角に曲がって東へ向きを変え、四国山中を切り裂き、横断して徳島へ流れ出ている。


ところで池田町とは、阿波池田であり深い山中にある。 
深い山中ではあるが、この地は四国各所へ通じている交通の要衝でもある。

この町は「やまびこ」が返すような狭地に家々が密集しながら存在している。 この地を有名にしたのが県立池田高校であった。 

昭和49年選抜高校野球では「さわやかイレブン」とか「やまびこ打線」と銘打って大活躍した(準優勝)のは記憶に新しい。 
同57年夏、翌年春には優勝し、更に、61年春・優勝した。球児は全員地元出身であるが、監督はあの「攻めダルマ」と異名をとった名将・蔦文也氏である。

蔦氏は、打倒「徳島商業」を合言葉に、部員たちに猛特訓を施し、全国にその名を知らしめた・・!。

この池田町は来年(2006年)3月に、三野、池田、井川、山城、東祖谷山、西祖谷山の周辺6町村による合併協定で調印され、新しく「三好市」が発足する。例によって著名な「池田町」の名が消えるのは残念であるが。


阿波デルタの向こうに、新緑のなだらかな高原状の山が見えている、眉山(びざん)である。女性の眉型を連想させることから、眉山と名づけられたそうで、ロープウェーで上がると徳島市内が一望でき、広い吉野川や遠くは淡路島まで見渡せる。 
徳島をこよなく愛し、阿波女を妻にした「モラエス」、そのモラエス館が山頂に在る。

モラエスは、日本をこよなく愛した徳島を代表する文化人の一人で、ポルトガル人。 
富国強兵の日本に興味を抱き、来日して神戸で副領事、総領事を務め、阿波女・ヨネを嫁にしている。 退職後は、亡き妻・福本ヨネのふるさと徳島に永住し、眉山のふもと伊賀町の長屋で執筆活動をする。 「おヨネとコハル」、「日本精神」、「徳島の阿波踊り」など、明治・大正時代の徳島の風習を紹介した数多くの著書を残している。


「さだまさし」がこの山を舞台にした「眉山」という小説を最近書いている。
さだ まさし(佐田雅志)はフォークシンガー、シンガーソングライターとしては超有名人だが、映画監督、噺家、小説家としては余り知られていない。 
過去、数冊の小説を書いているが、毎年、徳島でコンサートをする内、徳島の魅力に感動し、愛着と親しみを込めて昨年(2004年)、「眉山」を書き下ろしたという。

徳島を舞台に書かれた長編小説で、阿波踊り、人形浄瑠璃等、地元・徳島の自然や文化が詰まった内容という。母と娘を中心とした家族の物語で、母・お龍が病院の中で医師に啖呵を切る場面や最後のクライマックス、母がどうしても見ておきたいと車椅子に乗って出かけた阿波踊り会場で。
さだ氏の歌曲同様、独特の家族への思い、優しさ、愛するとは何か?を教えてくれるという。近々、映画化、TVドラマ化されるという。


古来、「東男と京女」と言うふうに、「讃岐男に阿波女」、「阿波美人」といわれ、阿波女は近隣で重宝がられてきた。

阿波は、室町幕府のころから京都と関係が深く、足利尊氏の末裔が阿波に住み着き、将軍(14代将軍:足利 義栄:在位1568)も輩出している。
この時期に、白拍子などが入り込んで都風の遊芸とともにその優雅な美形を伝え、阿波女の特性をつくったという。 
これは、阿波踊りの女連による美雅な踊りにも表れているといわれる。

讃岐では、「嫁をもらうなら阿波の女性を」というのが讃岐男の願望らしい、たしかに阿波の女性は働き者であるという。
朝から晩まで働きづくめでも、何一つ愚痴をいわない。事実、この組み合わせは多く、殆どがうまくいっていると・・。

又最近、各企業において女性の社長の進出が目立っているが、その割合を県別に見ると阿波・徳島が一位で、県内の主な企業の内一割が女性社長という。 
又、県内の世帯収入の内、三割が女性による収入であるとか、阿波女の働く女性として姿が浮かんでくる。
徳島県の女性の活躍ぶりは他県の女性を断然引き離しているといい、愛嬌があり、やさしく、尚且つよく働き、それでいて控え目で男性を立てて実に良く尽くしてくれる。  
女房にするなら阿波女だ・・、頑張れ、讃岐男、ニッポン男児・・!。 

次回、徳島名物・「阿波踊り」・・、

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日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おどり」



「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」・・、

徳島市は、吉野川とその支流がつくり育てたデルタ(三角州)の上に発達した人口26万人余の県都である。
このデルタの中心、JR牟岐線とR11が接するあたり、その背後に徳島城址の城山が見えてる。 
徳島城は阿波17万石・蜂須賀家の城であることは先に記したが(淡路の項)、この城は天然の吉野川と、ここより引き入れた掘割川を防衛堀とし、正面に大海を望み防衛と進攻を兼ねた。

戦国後期、乱世も豊臣秀吉によって納まりかけた時期、1585年、後に秀吉に仕えて美濃・墨俣城の築城や中国遠征での対毛利戦で大活躍した蜂須賀小六正勝に阿波の国17万石を与えている。
秀吉から阿波一国を与えられた正勝は、家臣ではあるが秀吉とは事実上義兄弟のような仲であった。 これを子の蜂須賀家政に譲って本人は辞退している。正勝自身は、恩賞などより秀吉の側近として仕えるほうに興味があったかららしい。

家政が築城の際、老臣たちは山中・要害の地を勧めたが、彼は頑として、この地に固執したという。 
理由は、これからは軍事よりも経済であると言うのであった。(実際は、なお戦乱は続くのであるが・・)
家政はこの地に築城を勧め、突貫工事で完成させたという。 
この工事を「それ急げ・・、やれ頑張れと・・!!」と励まし、応援したのは秀吉だったらしい。
秀吉は正勝の子・家政を少年の頃から知っているから、彼に城を持たせた事が、よほど嬉しかったにちがいないと・・!!。

築城にあたっては、小早川隆景(毛利元就の三男・3本の矢の1人智謀の武将)と長曽我部元親(土佐・高知の戦国武将)に援助を命じ、600日で出来上がったという。 戦国期、天守閣は権威の象徴だったが、家政は三層平城のごく貧弱なものにした。 
かれは威を誇示するよりも、領民の繁栄の方を好んだといえる。

伝承として、城普請完成の日が、お盆の7月15日だったということで、作業者や領民たちは、新しい城の完成と領主のために、盆供養も兼ねてお祭りを催し、多いに踊ったと言われている。 
これが「阿波踊り」の発祥ではないか、という説もあるとか・・?。

江戸時代を通して徳島藩・蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えるが、明治2年(1869年)版籍奉還により廃城となった。
明治8年(1875年)には鷲之門を除く天守や櫓など全ての城内の建築物が撤去されている。
明治以降の城地は苔むす石垣と堀、庭園、鷲之門が残るのみで蜂須賀氏の栄華は偲ぶべくもなかった。昭和16年(1941年)には表御殿の庭園が国の名勝に指定されている。


『 エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ・・、阿波の殿様 蜂須賀公が、今に残せし 阿波踊り 』

尤も、「阿波踊り」は蜂須賀氏から始まったわけではないらしい。
その元祖として、平安期には京の街で風流(フリュウ)が流行している。
風流とは仏事や祭礼の時など、庶民が華麗に仮装して唄い、群れ踊りをさしている。  
室町期では、四国を地盤にした細川氏(★1)が京の管領となり、その後の三好氏は徳島を中心に四国・畿内を支配している。 
従って、この頃に京の風流が徳島(当時は板野地方)に流入したのは極めて自然ともいえる。 
戦国末期、畿内を征圧した三好政権(三好長慶・★2))を、軍事的に支えたのは阿波の国人衆であり、その国人衆の間にも流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事(お盆・祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事)となって定着していたようである。

★1・・清和源氏の支流で、足利氏の支族。 四国を中心に8カ国の守護職を占め、室町時代には有力守護大名および管領家の1つとなり(三管領・斯波氏、畠山氏、細川氏)、畿内に勢力圏を有する。 戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は織田信長、豊臣秀吉に従い家運を回復する。 江戸期には、近世大名となり、肥後・熊本藩主家として明治維新まで存続。 明治以降、終戦まで侯爵の爵位にあった。 平成になり、子孫の細川護煕(もりひろ)は、旧熊本藩主細川家の第18代当主で、第79代内閣総理大臣となる。

★2・・現在の徳島県三好郡三野町出身。 戦国前期、長慶は細川氏の重臣であったが、後に政争で細川政権を倒し三好政権を誕生させる。自らは幕府の相伴衆となって幕政の実権を掌握し、畿内(都のある近畿に一大政権を築き上げる。



阿波踊りの始まり・・、

「阿波踊り」は、はじめ「ぞめき踊り」といわれ、「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。
又、幕末には全国的に「ええじゃないか」の乱舞が流行し、徳島城下からも御蔭詣(おかげまいり・お伊勢参り)で参じた阿波衆が伊勢で、「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。
この踊りが面白いというので阿波一円に広がり大流行したという。
このあたりが現在の阿波踊りの原型であろう。 「エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」の唄で知られるようになった。

「手を上げて、足を運べば阿波踊り」といわれるとおり、阿波踊りには決まった型はなく、ようは楽しく踊れればそれでいいという。
だが、人が見て「きれいだ」と思う踊りを踊るには長くつらい鍛錬が必要だともいう。
そして何より一番大切なことは、笑顔を忘れないことであると。

阿波踊りでは、一つの踊りのグループの事を「連(れん)」と言っている。
県内には有名連と呼ばれる連が多数あり、その他、同好会的要素の「連」も数多い。毎年8月12日〜8月15日迄の4日間開催され、徳島駅前、市内の各所に演舞場が設置される。演舞場の種類には大きく分けて「有料演舞場」と「無料演舞場」があり、有料演舞場では全体的に有名連が踊り込んで来て、無料演舞場では同好会の大学連や企業連などが多い。

近年は徳島以外でも夏のイベントとして催され、徳島の阿波踊り連が指導に当たっているという。
小生の地元・神奈川県下では近くの大和市でも盛んであるが、有名なのは、徳島出身者が夏のイベント用にと提案して導入されたという高円寺(東京杉並区)の阿波踊りである。 
因みに、徳島・高円寺・越谷(こしがや・埼玉県越谷市)が、日本三大阿波踊りと呼ばれているようである。

眉山に見守られながら、阿波徳島を後にした。

次回は、小松島と義経  PartVへ

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