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日本周遊紀行(55)神戸 「湊川の戦い」

皇将・楠木正成はこの地で散った・・、

近辺に位置する神戸・兵庫「湊川」は、その後も軍事上の拠点ともなり、 150年後の南北朝時代において最後の決戦が行なわれた所でもある。
南朝・後醍醐天皇の「建武の中興」で天皇を支えた「楠木正成」が、反旗をひるがえし京都奪回を目指す北朝軍・足利尊氏との最後の決戦に臨むため、京都から兵庫に下る。 
途中、「桜井」(京・大阪の中間地、大阪府三島郡島本町桜井)の地まで同行していた長子・正行(まさつら)には、この地で別れて故郷(河内国石川郡赤坂村:現大阪府南河内郡千早赤阪村)へ帰るように命じる。 

正行を呼び「この世でお前の顔を見るのも最後だ。自分が死ねば尊氏の天下になろうが、命を惜しんで長年にわたる天皇への忠義を捨ててはならない・・、」と諭す。  
別れた正成は、味方わずか七百余の勢力で、迫り来る数万の足利尊氏軍を湊川の地で迎え討ち、激戦の末に破れ華と散る。

「湊川の戦い」とは、1336年,九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫・湊川(神戸市中央区)で新田義貞、楠木正成らを破った戦いのことである。 
その後に正行は、湊川の戦いで父の正成が戦死したことを知り、覚悟していたこととはいえ父・正成の首級が届き、ショックのあまり自刃しようとしたが母に諭されてる。 その後は父の遺言どおり南朝方として戦い、1348年に行われた「四條畷の戦い」(河内・四條縄手)において敗北し、自刃している。


現在の神戸市中央区・神戸駅北口正面には、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った「湊川神社」があり、徳川光圀(水戸黄門・・?)自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠魂碑などが存在する。

楠木正成の命日は、670年前(1336年)の5月25日であり、偶々(たまたま)、小生の道中の昨日に当たる。 
地元・湊川神社では明治5年、殉節された5月25日に鎮座したことも併せて、氏子等が私祭としての「楠公祭」が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者行列などが執り行われた。(官祭は新暦7月12日が例祭日)


『桜井の別れ』  詞、落合直文 曲、奥山朝恭

青葉茂れる 桜井の        正成涙を うちはらい
里のわたりの 夕まぐれ     わが子正行 よび寄せて
木の下蔭に 駒とめて       父は兵庫に おもむかん
世の行く末えを つくづくと     かなたの浦にて 討死せん
忍ぶ鎧の 袖の上に       いましはここまで 来つれども
散るは涙か はた露か      とくとく帰れ ふるさとへ


この歌は、昭和の初期まで国民的に慕われ、歌われた。


鎌倉時代以降は武家政権が続いたが、明治期になって再び朝廷政治へと戻る。 
明治政府は、皇家の最大の忠臣者・英雄として、湊川の戦いで戦死した「楠木正成」 を祭神とした 「湊川神社」(神戸駅前・兵庫県神戸市中央区多聞通)を創建している。 
又、東京駅前の皇居外苑には、出陣する姿の正成の銅像が建立され、皇居の守りについている。


神戸は、江戸時代には鎖国政策のもとで外国貿易は途絶えていたが、国内では西廻り航路の北前船や内海回船の国内の要港として栄えた。
だが、江戸末期の1858年(安政5年)、日米修好通商条約により開港が決められた。 
その後、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海防のため幕臣の教育施設として、この地に「海軍操練所」を設立、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めている。 

これをきっかけに「兵庫港」として開港し、同時に外国人居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展し、「神戸」の名が著名になっていった。 

「神戸」は、勅命により正式に名付けられたという。

そして、阪神大震災のことである

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日本周遊紀行(56)神戸 「阪神大震災」



兵庫県・神戸といえば、やはり阪神大震災のことである・・、


三宮駅前正面・神戸市役所南側にある東遊園地内に「平成7年1月17日」に発生した阪神・淡路大震災の慰霊と復興のモニュメントがある。 
震災を記憶し、復興の歩みを後世に伝え、犠牲者の慰霊と市民への励まし、大規模災害に対する世界的規模での連帯による復興の意義をアピールすることを目的として、平成12年1月16日に設置された。

このモニュメントを含む東遊園地全体では、毎年1月17日にご遺族やボランティアのみなさんと神戸市によって、「阪神淡路大震災1・17のつどい」が開催されてる。 
又、中央区波止場町 メリケンパーク東端、メリケン波止場の一部(約60メートル)を震災で壊れた状態のまま保存しており、 震災の被害の凄まじさを目の当たりにすることができる。神戸港の被災状況や復旧の過程などを紹介してる。


悪夢の1995年1月17日の早朝・・、


阪神・淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 
淡路島及び阪神間(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・尼崎市・伊丹市・大阪府豊中市など)を中心に大きな被害をもたらし、特に神戸市中心部は壊滅状態になった。 
地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した、戦後国内での最大の震災となった。

大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話など、所謂、ライフラインは寸断され、広範囲で全く機能しなくなった。 
港湾都市である神戸は、神戸港も被害を受け多くの埠頭が使用不能となった。また埋め立て地を中心に地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震の直接的な被害は無かったが、全長が1m伸びるという事態が発生したという。

これらの被害については、死者 : 6,433名、 行方不明者 :3名、 負傷者 :43,792名 、避難人数 ::30万名以上、住家被害 :全壊104,906棟、半壊:144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊263,702棟、火災被害 :住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 、その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所 、被害総額 : 10兆円規模とされる。


因みに、先の大戦で神戸が被災したのは死者7500人、重軽傷者1万7000人と言われ、主に、終戦間際の昭和20年8月に入ってからの数字である。 
死者の数こそ戦災の方が多いが、震災は1日の一瞬の出来事である。 
如何に神戸の震災が甚大であったかが判る。


元々日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えうる構造であるとされていたが、ビルやマンション、病院、鉄道の駅舎などで広範囲にわたり倒壊、全半壊が多くみられた。 
特に火災の被害が甚大であった神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。 
西宮市においても、住宅街に面した山腹の斜面において大規模な地滑りが起こり、多くの人々が犠牲になった。

三宮駅前に林立する、所謂ペンシルビルと言われる建物は斜めになって、隣のビルに次々寄りかかるという異常な事態にもなった。 
新開地近くの金融関係のビル群は、座屈している。 市中を走る「ハーバーハイウェイ」(阪神高速道路)が横倒しになった、この凄惨な震災現場は、今度の震災の大きさの象徴的シーンでもある。

一方、基礎工事がしっかりしていた最近の高層ビルは、ガラス一枚割れることなく無償であり、神戸大空襲の時に焼け残った昭和初期の建物も、殆どが倒壊を免れたとも言われる。この事は、ある種の建築手法による人災ではないか・・とも囁かれたが・・?

いずれにしても阪神・淡路大震災は、戦後の自然災害史上では最も大きな被害をもたらし、その後の復旧・復興過程を含めた生活への影響は実に甚大でかつ非常に深いものであった。 
現在も、被災地では復旧・復興への厳しく長い闘いが繰り返されている。

戦後の日本社会が経験してきた諸災害と比較しても、被災者が受けた衝撃は余りにも大きく、被害の大きさ(全半壊家屋数、人的被害の大きさ)からも、けた違いの災害であり、被災後の社会的対応という面でも、かってない規模と内容の広がりをみせ、社会的問題が一気に噴き出した。 
それに対する行政、防災関連機関をはじめとする社会のすべてのレベルにおける対応のあり方も問われたのであった。
神戸市は、あれから10年経った今日、ハード面の復興は進んできたが、引き続き市民の暮らしの再建をめざしてるという。

この後、淡路島へ渡って、道の駅・「あわじ」で今夜の泊まりとする。

次回は、「淡路島」   第6日目へ

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