日本周遊紀行



写真集

西日本編   5日目:PartY(尼崎、宝塚)    PartZ(神戸)  
小生の旅と山旅  日本周遊紀行   日本周遊ブログ  写真集T
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山

【本文関連情報




写真上:尼崎の事故現場(読売新聞社提供)

日本周遊紀行(54)尼崎 「惨劇、そして悲劇」



あの日を忘れない「尼崎の悲劇」・・!、

大阪城のすぐ北を国道1号線が走っている。

この国道1号は、JR大阪駅(私鉄・梅田駅)の駅前の主要十字路でR2(国道2号線)に引き継いでいる。国道1号線は、東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田新道までおよそ570km、途中横浜・静岡・名古屋・京都と主要な都市を結び、都市圏の産業道路であったり、名所の箱根や浜名湖畔沿いなど変化にとんでいる。 
もちろん現在の東海道の主役は新幹線や東名・名神高速道路であるのはいうまでもないが、地域の生活や産業にしっかり密着している国道のスーパースターである。

その国道1号から国道2号線に乗り継いで・・?、兵庫の六甲山麓の有馬温泉へと向う。 
その途中でもあり・・、邪心とは承知のうえで「尼崎」に寄ることにした。 
邪心としたのは、その付近で最近(四月)大きな鉄道事故が発生していて、その現場を参見するつもりであるから。

大幹線道路、大型貨物車がゴーゴーと走る阪神工業地帯の真っ只中の尼崎駅前付近から、右方向の地方道へ入ってようやく開放された。 
工業地らしく大小の会社工場が乱立していて、近くをJR福知山線が走る、この線が東海道本線と合流する地点駅が尼崎駅である。 
そのすぐ北側を名神高速道が走り、福知山線と交差する辺りが悲しい事故現場のはずである。 
車をグルグル走らせて、どうやら目的の地へ着いたようである。


目礼の事故現場・・!、

報道記者が数人カメラを持ち、高さのある脚立を構えて立っているし、ガードマンも直立不動で事に当たっている。 
車を「日本スピンドル・・」という会社工場の正門横に置いて、小生もカメラ片手に神妙に出かけた。
すぐ福知山線の踏み切りに来た、開かずの踏み切りでなく開けっ放しの踏み切りで、人も車も常時往来自由である。

無論、ここは事故現場で、この鉄道の列車は運休中なのである。 
右方のレール上はバリケードがしてあり、すぐ横にTV映像でも何回も見せられた白の幕で囲われた仮祭壇らしきものがあった、こちらは裏側にあたるのだろう中の様子は覗い知れない。

鉄路にそって、あの高層のマンションが立つ、このマンションの地下駐車場に、事故列車の1両目の車両が殆ど突っ込み、死者凡そ30人を出した所でもある。
2両目は、この建物の前方に激突し、くの字にへしゃげて大破、死者およそ70人、そして3、4両目は脱線した衝撃で180度前後が入れ替わり大破した、死者4〜5人出している・・!!。

この電車の乗客は約540人というから、死亡率18%、負傷率79%にもなる。


今はただ、冥福を祈るのみであるが、その悲しみは・・、

現場に居合わす鉄道関係者は基より報道、ガードマン、それらの人々はいずれの顔も強張って、堅そうで、緊張感のなかで脱力している。 

見れば、行き交う人々も表情は重く、何か悲しげである、この地上に居る人達は皆、そのようだ・・! 
時折、子供のカン高い声が響き、車の行き交う無味は騒音が耳に届くが・・。
否、この場に在る空気や人々の雰囲気が重いばかりでなく、周辺地域に住む人達も本来の笑い声は暫くは聞けないだろう・・!、家族の対話も、近所の茶飲み話しも。 

あれから1ヶ月少々、こらから蒸すような暑い夏がやって来て、更に、悲しみの熱風が辺りを支配し、威圧し、人々は更に無口になってゆくだろう・・!。 
辺りを支配している死に到る悲しげなウメキの声が、途絶えるのは一体何時になるのか・・? 
苦悶の霊が漂い浮揚している、怨念を負っている107の霊は、そう単純には仏となり得ず昇天は出来ないだろう・・!。 

それらの霊を救済する天女が現れて、元の晴れ間に戻るのは何時になるのか・・?、
やがてやって来る秋の涼風が吹く頃か・・?、
天女が涼風に乗ってやって来て、これらの霊を慰め、静かに抱えて天界に同伴してくれれば良いが・・!。 

その頃になって、やっと人々の本来の笑い声、歓声が聞こえて来るかも知れない・・!。
それらが少しでも早からんことを本当に願い祈るのみである・・!。


小生も、邪心ながらも現場に立っていても悲惨で、遣り切れなくて、胸が詰まり、切なくなって、何か込み上げるものを禁じ得ないのである。

今は、ただただご冥福を祈るばかりである。


この事故は、東京地区でいうなれば、品川駅近くで山手線か、京浜東北線が事故を起こした様なものだろうか。

本年(2005年)4月25日の午前の事である。

この事故を一般に「JR福知山線脱線事故」と称している。 


惨状の日・・!!、


2005年4月25日午前9時18分頃に、JR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口〜尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。
事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の右カーブ区間、塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。
事故列車は宝塚発、片町線(学研都市線)の同志社前行き上り快速電車である。
列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。


余り知られてないが、同時刻には並行する下り線に新大阪発⇒城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であった・・!!。
だが幸いなことに、事故を目撃した近隣住民の機転により、近くの踏切の非常ボタンが押され運転士が異常を察知し、凡そ100m手前で緊急停車したという、そのために、二重事故が回避されているのである。

曲線区間の制限速度は70km/hであるが、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。
この時の列車の運行時間は定刻より1分30秒程遅れていたとか。

救助作業は、昼夜を問わず24時間続けられ、3日後の4月28日に終了したという。

事故の犠牲者は、運転士を含む死者107名、負傷者は555名。 
犠牲者の多くは1両目か2両目で、殆どが多発性外傷や窒息で亡くなっていて、所謂、クラッシュ症候群(挫滅症候群・ざめつしょうこうぐんともいい、身体の一部が長時間挟まれるなどして圧迫され、その解放後に起こる様々な症候をいう)という二次性の疾患も確認されている。

事故の規模は、死亡者の数に限定するならば戦後の旧国鉄時代を含めると1962年の三河島事故(この時は二重事故・死者160人)に次ぐ大惨事となった。
又、JR発足以降に限定すると1991年の信楽高原鐵道(正面衝突・42名が死亡し、614名が重軽傷)での衝突事故を抜き、史上最悪の鉄道事故となった。


惨状の中の賛美・・、

107人もの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故において此の程、人命救助に尽力した人に「紅綬褒章」が授与された。 
その中の一人に浜崎節美さんがいる、事故の時、近くを通りかかり、とっさに踏み切りの非常ボタンを押して対向の特急電車が突っ込む二重事故を防いだのである。

又、事故直後、近くの機械メーカー「日本スピンドル製造」では、斉藤社長号令の下に即時操業を中止し、社員全員工場から毛布、医薬品、工具を持ち出し救助に当たった。 
トラック等も全車出して怪我人を乗せ、現場と病院をピストン輸送した。 
褒章を受けた両名は、「 光栄に思う、と同時に戸惑いも感じる。それより何よりも、ご遺族と負傷者の皆さんを思うと心が痛む 。」とコメントしている。

たまたま、この会社の正門横に車を止めていて、小生自ら撮った写真に社名が写っていた。
確かに事故現場はすぐ前であった・・!!。

因みに尼崎は、先の(1995年1月17日) 阪神・淡路大震災で死者49人、負傷者7145人を出している。

次回は、同じく尼崎、「千の風になって」

【本文関連情報



日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」



鎮魂の尼崎に、「千の風・・」が舞う・・、

今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという。

小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 
確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう。 
その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。

この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌でもあり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌でもある・・、といわれる。 
人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。

この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 
又、美しい曲を聞いていると「それ」を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・!。


この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 
10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。

震災の回忌・追悼式や慰霊祭は元より、教会や各地各所、各人が寄り添って、この「千の風になって」を演奏し、唄われるという。


過ぎ去った時間を墓の前で悔いる人達を、彼らは「 空や木々の間を吹き渡っていて、死んでなんかいません 」と言う。 
慰霊や鎮魂は死んだモノたちではなく 残された者達の為にあり、過去を悔いながらも 墓の前にひざまずく足が、又、希望へと前に進めるようにと。


2005年には、地元・宝塚歌劇団が阪神大震災から10年のチャリティーコンサートとして歌はれ、又、劇映画も製作され、本も出版されたという。 
2004年には、前述の盲目の沖縄のテノール歌手「新垣勉」が唄った。 
この頃はまだ世間には知られていない流行以前の曲であったが、やはり全盲の歌手として活躍している「塩谷靖子」氏の優しい歌声と深い表現力が話題になり、あの、聖路加国際病院・名誉院長「日野原重明」の推薦するCDが新聞などの報道により話題を呼んだという。

その後、やはりテノール歌手の「秋川雅史」や「中島啓江」などによって唄われている。 
特に、この詩を新井満が日本語に訳し、曲をつけたものを、NHK紅白歌合戦(2006年)では秋川雅史がこの歌を熱唱し、多くの人々に感動を与えた。 
その後、問い合わせが殺到、翌年1月のオリコン総合チャートで1位を獲得している。
これらの歌詞は、新井満や塩谷靖子氏らによって翻訳詩、作曲されている。

また、海外では米国での「アメリカ同時多発テロ事件」(2001年9月11日)で亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。 
米紙によるとすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したといい、1987年には女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。



「千の風になって」の原曲・・、

ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、原歌曲は一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、甚だ、興味津々である。

以前、朝日新聞の「天声人語」(新聞の一面コラム・囲み記事、短評欄)に、「誰が創ったのか判らない一編の短い詩が、欧米や日本で静かに広がっている。 
愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である・・・」とある。

この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)という、アメリカ人女性が書いたのが最初の詩とする説が有力であるという。


メアリーが同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなる。 
しかし、当時のドイツは、反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかった、そのことが原因で落ち込んでいた、そこで彼女のために一片の詩を書くのである。 
メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に一息に、込み上げる詩を書き付け、紙切れを差し出した。
これ、私が書いた詩なの、私の思う《人の生と死のあり方》なの、あなたのためになるかどうか分からないけど・・」

マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。 
私この詩を一生大切にするわ」・・、暫くして、彼女の家族の友達が、詩をはがきに印刷して人々に送り、これが人々に「人伝い」で広まった、これが最初のだといわれる。

そして、明らかになった事実は、メアリー・フライが友の癒し・追悼の為にこの詩を書き、この詩になんら「著作権」が設定されていない事実であった。 
そのため、人々は自分の文体や言葉で自由に表現でき、その人の共有財産になったという。ということで原作者の彼女は、一銭の報酬も受けていないのである。

この件についてメアリー本人は次のように話している、「 この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ、今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・多分」



『千の風になって』 原作詞:アメリカ メアリー・フライ 訳詞・作曲:新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
『A THOUSAND WINDS』
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.

次回、女の城・「宝塚」に日本の紳士

【本文関連情報



日本周遊紀行(55)宝塚 「日本の紳士と女の城」



女の城に日本の紳士がいた・・、

尼崎での鎮痛な気分を切り替えて、地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。
阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。 
西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 
宝塚、西宮郊外、芦屋は六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 
特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 

武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 
又、宝塚は宝塚歌劇団で知られる国内トップの、美しき女性専門の歌劇団の所在地でもある。だが、こ


こでは女性の事でなく、実は男性の事なのである・・、


話は大きく転じて・・、

先の大戦(太平洋戦争)での敗戦の結果、占領軍が上陸して大臣、閣僚のお偉方が平身低頭して右往左往する中、ただ一人、占領軍・司令長官「マッカーサー」に「NO」といった男・「白州次郎」のことである。
白洲次郎は1902年(明治35年)、この芦屋に生まれている。 

英国留学、更に英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得、終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。


先ずエピソードを一つ・・、

マッカーサーに「NO」といった男・・!、

彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとした。マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。 
その瞬間、白洲は顔色を変えて怒りを爆発させ、「 いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、“その辺に置けとは何事か・・!” 」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。 
驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意して鄭重に贈り物を置いたという。 

これらの振る舞いにマッカーサー及びGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。

GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・!」と称している。 

彼の一言は重要である・・!!、あれから今日までの幾星霜、「日本国憲法」はどうなっているか・・??。


講和会議における白州の諫言・・、

サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されているが、この時予定としてはGHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。 
これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。

田首相に独立国の面子として日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら日本語で演説していたのである。 

白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。 



吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ・・、


その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。
幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。


ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 

日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。 
そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも保留又は撤回されている。

2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 

安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会でも「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっている。 しかるに21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。

このブログを書いている最近(2008年11月)になっていて、現在の総理大臣は代わりに代わって麻生太郎氏である。奇しくも麻生太郎は、当時、憲法草案に当たった吉田茂の孫である。

果たして、吉田茂の側近であった白洲氏が、「GHQによって創られた日本国憲法は、作り替えねば戦後は終わらない・・!」と言わしめた現憲法の事が、麻生氏の頭の中に有るかどうか・・?見守りたい・・!!。

似たようなことは、拉致問題(人攫い問題)も同じである・・!。


今度は艶っぽく女性の話です・・、

宝塚は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名である。関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。 

夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 
左前方に大きく特異な建物が見えている、赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている「宝塚大劇場」である。


東の東大、西の宝塚・・、


宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地においている。 
花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 
劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。 
音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校である。

各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 
小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・・!これは余計・・。


大阪、尼崎、宝塚と巡って記録に留めたい事がある・・、

今年は、阪神大震災から丁度10年目に当たる。 
道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない。 
巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?、又は完全復興したのであろうか・・?、
しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという。


この震災は、記憶、記録に留めておきたい・・、


1995年(平成7)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。
死者:6,433名、 負傷者:43,792名、避難人数:30万名以上、被害総額:10兆円規模といわれる。

大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。

次回は有馬温泉・・、  PartZ

日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山
【小生の旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

「山行リスト」 
 
立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)

「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」