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日本周遊紀行(51)和歌山 「雑賀党」



紀の国の鉄砲集団:「雑賀党」・・、
 

中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれる集団が、農業生産や鍛冶といった技術に秀出ていた。又、紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。

種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する.
雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。

現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれる。

戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域であった。 


紀ノ川を、20kmほど遡った辺りの岩出町にある「根来寺」・・、

高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていた。 
戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を止め聳え立っている。 
秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っているという。(5箇所)

ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方とに分かれるという。 学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり、僧兵武装集団での根来衆は、この根来寺行人方のことである。 



鉄砲と根来衆・・・、

彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになる。
鉄砲伝来は、「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。 

鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。

数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。 
時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。
その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有したのである。 信長いまだ九歳だった時分である。
こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成したのである。


雑賀衆と「鈴木氏」・・・、

戦国時代に紀伊国・十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)を本拠地としていた土豪で、鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集して雑賀衆をつくり、その指導者的な立場にあったという。
江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという説もある。

雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降の事で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れたという。
16世紀の半ばには鉄砲で武装したある程度の規模の傭兵的集団として活動していたともいう。

元より鈴木氏を名字とする家は多くの流れが知られているが、その殆どは穂積を本姓としており、穂積氏は又、日本古代の氏族・物部氏を祖先に持つとも言われる。
穂積とは、祭礼の際に田に指す神木のことをいい、又、刈田に積まれた稲穂のこととも言う。
いずれにしても稲作にまつわる祭礼と縁の深い姓であると考えられている。


当本文、「浜松」の項でも記したが・・、

鈴木氏は、熊野三山信仰と関係が深く、穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。 

鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗って全国的に神官として分散したと考えられ、鈴木の名字は東日本を中心に全国的に広まっていったといわれる。

雑賀党の鈴木氏は、穂積姓鈴木氏の分派でもある。

次回は、「加太半島」

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写真:賑やかな、でも薄気味・・な「淡島神社」

日本周遊紀行(51)和歌山 「加太半島」



奇態なお宮・「淡島神社」・・、

紀ノ川の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。道路脇に淡島神社という案内板があったのでチョッと寄ることにした。加太の港町から左手の海岸線を辿ってみると、正面に大陸のような淡路島が横たわっていた。
間もなくお目当ての神社正面に達した、こちらは「淡島神社」である。朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。

この神社は、由緒ある神社ではあろうが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。 
建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさん・・と、一面に土間であろうと、通路や階段であろうと、玄関(・・?)であろうと夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。 
そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これにもまたびっくり・・!!。


この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されているらしい。
女性の信仰と漂泊神の信仰であると言われ、現在は雛流しの神事が有名であるとか。

お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。
奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。 
神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が、男びな、女びなの始まりという。

余りに稀有な神社で目を白黒させながら、こんどは北上する。


加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から「友が島」群が勇壮に望まれる。 

実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」、「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」、「神島」の小さな島があり、この四島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。 
向こうに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を友ヶ島水道。 島々の海峡「加太の瀬戸」、「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。

太平洋の大海が瀬戸内海へ向って動き出すとき、ここで強力な海流を引き起こす。 
淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られる。

因みに「瀬戸」とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。

この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。 
紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされ。
その、みかん船の帆柱が淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながらこの帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている。

嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。
それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。 

現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。

次回からは、いよいよ大阪に入ります、先ず世に知られる「岸和田・ダンジリ」

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日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」




「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い・・、

加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へのる。 
岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。 

岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと・・、

現在の岸和田地区は南北朝時代初め、「岸」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。

江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 
稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 
1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。

江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。
江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。


岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいう。
東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。

岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く4輪で重い物をひく車のこと。
「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。 
スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。

だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、 
いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。 

欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。
緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。 
「遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。 
遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。

この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる・・、といった事由があるかも知れない。 
日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。

氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。
だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。


冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!、

その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。
ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。

正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。 
河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。


鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。 
反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。

1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた) 
鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。
尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。 

足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。 
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。
正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。

この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれる。


楠木正成は、南北朝時代幕開けの武将であった・・、


南北朝時代とは、日本史の時代区分の室町時代(足利時代)前期で、1336年、新田義貞、楠木正成が敗れた後は、後醍醐天皇は吉野に遷幸する(南朝)。 
一方、勝利した足利尊氏は、光明天皇を践祚(せんそ・天皇の位を承け継ぐこと)する。(北朝) 以降、両朝が合体するまでの1392年までの57年間をいう。 
広義には、建武新政期を含めて鎌倉幕府滅亡の1333年(元弘3)よりの60年間をいい、時代区分としては室町時代に含めるのが通常とされる。



東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている。 北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。
浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。 
その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。
 
飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。
では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。
そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 

海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 
彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。


金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。 
又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。

次回はお待たせ大阪の「浪速とミナミ」   PartX

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