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日本周遊紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」


奴奈川神社


天津神社本殿
写真:奴奈川神社と天津神社の本殿



いよいよ、「日本周遊紀行」の起点箇所でもある「糸魚川」へ戻ってきた・・、

親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。 
思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。 そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。 

先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。

ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。 姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。 

大儀・・!!、大儀・・!!

前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その時、姫川や翡翠、糸魚川−静岡構造線(フオッサマグナ)のことは若干であるが述べた。 
ここでは更に、糸魚川や姫川、その周辺について伝承的な意味合いで検証してみたいと思う。


2005年(平成17年)3月19日:旧糸魚川市、能生町、青海町が合併して現在の糸魚川市となっている。
糸魚川の南駅前に「ヒスイ王国館」という仰々しい名前の御土産屋がある。 
駅前から海岸に向って進むと大町の商店街にこざっぱりした公園がある。 
ここは以前の旧糸魚川市役所の跡地でもあり、この一角に「奴奈川姫の像」が建つ。 その像は、左手にヒスイを持ち、下につかまっている子供は「建御名命」(タケミナカタ)だそうである。 

又、駅南側の現市役所の西隣に「天津神社」、「奴奈川神社」が同一敷地内に並んで建ち、殆ど同じような造りの建物で、いずれも市街地の中にコンモリとした深い緑に囲まれて鎮座している。
 

奴奈川神社・本殿内部には平安期・藤原時代風の木造「奴奈川姫像」が安置してあり、又、天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (ニニギ)、左が天児屋根命 (アメノコヤネ)、右が太玉命 フトダマノミコト)である。 

ニニギは御存じ九州・高千穂に降臨した天孫降臨の祖であり、又、天児屋命も日本神話に登場する神で岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる。 そして天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣氏(藤原氏、神事・祭祀をつかさどった中央豪族)などの祖となったとされる。 
所謂、この三神は天孫族(大和朝廷系)の神々である。

天津神社は糸魚川一の宮で、近年の祭礼では 「けんか祭」 として知られている。 
近郷近在では昔から 「十日の祭り」 と呼ばれ、祭日は毎年4月10日で、この日待って春はかけ足でやってくるといわれる。 
一方の奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命(ヤチホコノミコ)を合祀したという。 両神は夫婦神であり、八千矛命は出雲の大国主の別称でもある。
  
昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名を奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡を支配していた古代女王であったともされる(古事記)。 糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったとも言われる。 
奴奈川姫という名は、「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、又は、個人名ではなくこの地方の代々の女王一般を指す場合もあるともいう。


大国主命、出雲から越後へ遠征・・、

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主の命は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて越の国に渡ることになる。

大国主は一旦、能登の国に漂着し、邑知平野(おうちへいや)を開拓(七尾市・気多本宮、羽咋市・気多大社)し、伏木港より越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) 
そして越後の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦は、大国主の出現にひどく怒り居所の身能輪山に乱入したが結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子が生まれる。 
この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命である。

一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいわれる。 
大国主神は侵略と脅しで姫を追い詰め、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしていたともされている。 

結局、奴奈川姫は大国主の子である建御名方命を産むのであるが、奴奈川神社(大正10年再建)の社伝によると、その後、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになる。 
その息子の建御名方命(タケミナカタ)は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は諏訪上社に、八坂刀女姫は諏訪下社に祀られている。 
真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる「御神渡り」は建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。

そのうち、大国主命は本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。 
しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。 
それは出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守るという使命があったともいう。 
それでも大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。 
そこで姫は姫川の奥深く逃げ込んだが、追っ手が厳しくなり無念の自殺をしたという。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。

次回は、天津神と出雲神


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日本周遊紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」

けんか祭り
写真:天津神社の「けんか祭り」


天津神社と奴奈川神社は仇敵同士の筈が・・? 

奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。 
その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。

奴奈川姫の支配する「越の国」(越後)は、この後は出雲が統治する国の領域になる。 


一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。  しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。 
だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていて、国譲りの伝説についても出雲の箇所でも述べたが、出雲の神々というは始祖のスサノオと国土開発の英雄・大国主を主人公にしている。 そして、最後には天孫族に屈伏し国の支配権を譲るのである。 

このように出雲の神々はどちらかというと天孫族の敵役といった印象であり、謂わば大国主が造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけである。
 

「天津神社」は天孫族のニニギを祀り、その横の「奴奈川神社」は出雲族の首領・奴奈川と大国主を祀っている。 
お互いの神社は仇敵同士のはずであるが・・?、実際は仲良く並社して祀ってある。 

尚、天津神社の「けんか祭り」は二つの神輿が衝突、相争って競う神事で知られるが、この祭りの本来の謂れは不明とある。 或いは、両社の如く天孫族(大和族)と出雲族の争いを表現しているのではないか・・、と想像するのは根拠はともかく面白い・・!。


古事記における「出雲の国譲」りは、高天原の神々が大国主に葦原中津国(日本)の支配権を譲るように迫り、遂に承諾させるというもので、武甕槌神(タケミカズチ)と天鳥船神(アマノトリフネ)が剣を突き立てて国譲りを迫るというものである。 だが、大国主の意を息子の健御名方は反対する。 
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ息子の方が敗れてしまう。(この力比べは大相撲の起源ともされる) そのために出雲の国の国譲りが実行されるのであるが、敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。 
 
姫川の上流地域の信越国境の小谷村(おたりむら)において、6年(古式で云うと7年)ごとの諏訪大社の御柱祭に併せて、「薙鎌(なぎかま)の神事」(諏訪社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける珍しい祭事。 

薙鎌とは鎌に長い柄の付いた昔の武器、諏訪大社の御神体ともいう)という奇妙な祀りが行われる。
この神事の謂れや意義は定かでないが、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れ、追われて諏訪の地に逃げこんだ際、その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したとされる。 
この薙鎌は「ここからは出ない」というし(しるし)ともいわれるが・・?。
諏訪の大神は「この地から出ない」と約束したため、八百万の神々が出雲に集まるという「神無月」でさえ、この神様だけは諏訪に留まっていて、従って諏訪地方には「神無月」というのは無いのである。 


『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも
 拾いて得し玉かも 
                      あたらしき君が老ゆらく 惜しも 』
   万葉集十三巻より


この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。  
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され、最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
既に、遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。


姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠(おおだま)や勾玉(まがたま)、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。 
即ち、縄文期の紀元前4000年頃の世界最古のヒスイ文化が実証され、古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。 
更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や大平洋岸までヒスイが運ばれているともいう。 陸奥の国(青森)の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000〜5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠が相当数発見されているという。
 

その後の神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が「翡翠の勾玉」を身につけ霊力を発揮して統治していた。 
古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭の儀式には必ず用いられた。 このような重要な祭器であったから、特に霊力の強い勾玉は「三種の神器」の一つとなったといわれる。

この神器は、神話では国生みの神・伊邪那岐(イザナギ)が、天照大神に高天原の統治権の象徴として三種の神器を与えたものとされ、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨の際、これをお護り・御守りとして持参し地上に降り立ったといわれる。 
後に神武天皇まで継承され、天皇家の三種の神器の一つとなった。
 
先にも記したが、三種の神器とは王の権威を表すもので、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)、神剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)、それに、神璽(しんじ)=八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされる。 
鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、特に皇宮に永く継承されている三種の神器は、日本全体の祖神ともいうべき「天照大神」の時代に端を発し、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。 
そして元来それは君民一体の日本民族の精神であり、心の拠り所とされるものでもある。

神のしるしである神璽と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト)と呼ばれる職人集団の祖神とされる。 
玉祖命は岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作り、その際、天孫降臨の時ニニギに附き従って天降るよう命じられ、五伴緒(いつとものお:ニニギの降臨に従った五神)の一神として随伴したという。 

家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものといわれる。

次回、姫川         Part8(糸魚川)へ

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