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日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社祭礼」

平国祭と鵜祭
写真:鵜祭(背負篭に鵜が入っている)と「おいで祭」(平国祭・気多大社をでる御巡幸)



気多大社には、前記に因んだ「おいで祭(平国祭)」というのがある・・、

平国祭とは、大国主が能登国開拓のため御苦労された跡を偲び奉る御祭で、特に関係の深い羽咋市、羽咋郡、鹿島郡、七尾市の二市二郡の間を神馬、騎馬神職を先頭に御輿、烏帽子姿の白丁など総勢約60人が古代絵巻のような行列で御巡幸するという。 
羽咋の気多大社を出発、鹿西町の邑知平野に沿って七尾市の気多本宮に赴き、又、羽咋に戻る5泊6日の行程約300kmに及ぶ巡幸である。


それと、もう一つ、気多神社の奇祭とも言われる「鵜祭」というのがある。 

冬至に近い12月16日、しかも、深深の夜明け前の午前3時頃に行われるという。 
この祭は、日本の祭りの原型とも言われ、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

鵜祭は、鵜浦町で捕らえられた鵜を神前に供え、その動きを見て翌年の豊凶を占うという奇妙な行事である。
鵜の捕獲は特定の家に限られており、捕獲場所も決まっている。 
七尾南湾の南部先端岬付近)から鵜捕部(うとりべ) 衆 といわれる三人衆が鵜を捕獲し、 又、鵜の運搬も世襲の鵜捕部と呼ばれる家々が交代で勤め、2泊3日の行程を徒歩で気多神社へ運ぶという。この時の行程や道筋、立ち寄る場所なども毎年同じ足順、手順で行われているという。

気多神社までの道中は、「ウトリベー、ウトリベー」と大声で呼びながら進み、運ばれる鵜は「鵜様」といわれ、道筋の人たちは「鵜様」が通りかかると戸外に出て賽銭をあげて拝む。 
鵜祭を終えた鵜は、最後に気多神社前の真っ暗な空に放たれ、神前で案上(案は机の意味、神事を行うための机のこと)に留まるまでの鵜の動きによって、来るべき年の豊凶を占うという。 
何とも変わった祭礼で、奇祭と言われる所以である。

この祭礼の起源は極めて古く、祭神・大国主命が能登の国造りのために、七尾市鵜浦町鹿渡島(かどしま)に上陸した折、この土地の氏神である御門主比古神(ミカドヌシヒコシン)がウミウを捕らえて大神に献上したことに由来するとの説がある。 
加賀藩主・前田利家も、この古儀式を重要視した記録も残っている。

出雲の御国を旅立った大国主は、能登(七尾市)に上陸する前に御存じ因幡の国・気多崎(鳥取市白兎海岸の西部にある小さな岬と想像する、手持ちの地図には載ってないが、岬の北方にも白兎という小島が在る)に上陸している。 あの「白兎伝説」の地である。 

この地は、大国主の白兎伝説が伝わるが、尚、老翁夫婦の素戔嗚尊(スサノウ)・稲田姫(イナダヒメ)によって接待をうけたという伝承も残っているという。 
この老夫婦は大国主の父母、又は、祖に当たると言われる。 
現に七尾市の南に「玉比古神社」というのがあり、通称「気多大宮」と言われ、主神に大国主、相神に素戔嗚尊・稲田姫を祭っている。

ところで「気多」というのは、因幡・気多崎の地名をもって名付けられたという伝承もある。
又、気多大社の「気多(ケタ)」という言葉は、古代語で「鰐=サメ」を意味しているともいわれる。 
鰐といえば、出雲神話に登場する「因幡の白兎伝説」で、白兎がサメを騙して橋の代わりに渡る・・という下りがある。 
この辺りは当時はサメが多かったのだろうか・・?、これに因んで上陸した岬を「気多の崎」と名付けたというのは合点がいくし、当地巡幸の道すがら、「気多」という名称で社宮を建立し、現存しているのである。

次回、気多大社・由緒

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日本周遊紀行(212)羽咋 「気多大社・由緒と現在」



気多大社が文献に初めて見えるのは「万葉集」である・・、 

天平20年(748年)、万葉歌人でお馴染みの越中守・大伴家持(おおとものやかもち)が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、

『 之乎路から 直超え来れば 羽咋の海 
                    朝凪ぎしたり 船楫もがも 』

(はるばると羽咋の地に赴けば、羽咋の千里の海は朝凪ぎで素晴らしい景色である。ここに船や楫(かじ)が有れば、漕ぎ出してみたいものよのう・・)

と早速詠んでいる。

本社がいかに重んじられ、後に能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。 
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、このような国家の厚遇は、北越、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではないといわれる。 
能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威は中央国家にまで及んでいたのである。
  
普通、気を「き」と発音すべきか「け」と発音すべきかで、両方の読み方があろうが、この辺り、北陸地方では「け」と読むのが慣わしらしい。
敦賀に気比(けひ)神宮、こちらは気多(けた)大社である。


「気」という字は、気になる字である・・!、 

大げさに言えば全ての生き物には気が生じていて、これが生命の基本になっていることは確かである。しかし、それよりも尚、自然の営み、自然現象そのものが、気の力で成り立ち、地球そのものが気なのである。 

戻して、人間同士、気が気を呼ぶ、気多で、気が多いのは困るが、合縁気縁(奇縁・・?)女性の方は気麗になって気縁を結ぶ。 

気多大社は、出雲大社と同一神であり、縁結びの神なのである。 気多大社は女性に関する催し物もあり、昨今では、うら若き女性に大変人気があるとか。 「超」と付くほどの由緒ある神社で、真剣に願を賭ければ気が多く受けられて、必ずや適う事請け合いである。


本殿西隣に「正覚院」(しょうがくいん)という寺院がある。
越前・平泉寺を開基した「泰澄大師」が伊勢内外宮を参拝しての帰り、夢枕の歌として

『 恋しくば 尋ねても見よ 能く登る 
                  一つの宮の 奥の社へ 』
 
のお告げを受け、かの地に神宮寺を創建したと言い伝えられる。 その一院が正覚院である。

院は元々、千年以上にわたり気多大社神宮寺で別当寺(神宮寺)であった。 
明治初頭の神仏分離により、主要な寺院の長福院・地蔵院・薬師院などが廃退したが、ただ一つ正覚院のみが残存し、現在に至っているという。 
元神宮寺・正覚院の配置を見ると、建物はは気多大社の本殿に向かって建っているといわれる。
本院も、他の神宮寺に見られるように、神社を支配下に置き、仏事で社宮の祭り事を行われたことを伺わせる。


二千年にも及ぶ歴史と伝承の聖地に、世知辛く、俗人による宮司の継承について醜い争いが生じている事を偶々(たまたま)知った。

羽咋市の気多大社の現宮司・三井氏が不都合を起こして、神社本庁(東京)より懲戒免職を言い渡された。 しかし氏は宮司の座を譲らず、恒例の神事である豊漁や海上安全などを祈願する伝統の「御贄祭(みにえさい)」が、新旧二人の「宮司」によってそれぞれ営まれたという異例の事態になった。
つまり、8月29日付で免職となった三井氏、そして翌30日、相手宮司との対面も致さず、事務引き継ぎも行われないまま執り行はれ、又、一方新しく任命された宮司・厚見氏も初めて気多大社の神事を執り行ったという。 

三井氏は、御贄祭などの祝詞を読み上げて玉ぐしをささげた後、「滞りなく終わりました。今後ともよろしくお願いします」と十人余りの参拝者たちに挨拶したという。 
一方、式典後、厚見氏は「拝殿を開けていないのが残念だ。三井前宮司には話し合いに応じてもらいたく、今後も氏子や地域住民が納得できる神社運営をしたい」と意欲を語った。 両者の相克は暫く続きそうで、古社のイメージダウンは避けられないという。

気多大社は昨年(2005年)9月、神社本庁からの離脱を表明しその手続きをとったが、同本庁側が神社規則変更内容に不備があると指摘して却下した。 
石川県、文科省を巻き込んでの騒動で、現在でも裁判沙汰は続いている模様であり、神社は神社本庁の包括下に置かれているという。 若い女性に「縁結び」で人気の気多神社の混乱は、しばらく尾を引きそうだ。


尚、今年2006年に行われた「鵜祭」の鵜は、放たれた後数分後に台の上(案上)に乗ったという。 
古老の見立てでは「来年は後半がよくなる」とのお告げらしい。 
だが、これが裁判所の判断にどう結びつくかはどちらも予想できないと・・?。


ところで追伸ながら、2007年3月25日午前、能登半島の沖の日本海でM6.9の地震が発生した、「平成19年(2007年)能登半島地震」という。 
本震では、石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強を観測し、石川県・富山県を中心に死者1名、負傷者が279人も出している。 
電気・ガス・水道などのライフラインの寸断し、能登空港も被害を受け、能登有料道路の徳田大津IC〜穴水IC間では、数ヶ所の道路崩落が生じた。 半島北部、羽咋市周辺でも家屋の被害が多数出している。 
これは、或いは社霊を蔑ろにした、気多大社の御神霊による厄災ではなかったか・・、と思うのは考え過ぎ・・??。

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