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日本周遊紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」


禄剛崎北端

禄剛崎灯台
写真:能登の最北端表示と禄剛崎燈台




禄剛埼の中心に、さほど背は高くないがドーンと鎮座しているのが白亜の灯台「禄剛崎灯台」である。 どっかの灯台の項で記したが、こちらの灯台も「日本の灯台の父」と呼ばれるスコットランド出身の鉄道技師・リチャード・ヘンリー・ブラントンによるものであった。

明治16年、初点灯の禄剛崎灯台はブラントンの設計により、日本人の手による洋式灯台の最初の建設であり、「国産の証」である日本で唯一の菊の紋章が灯台正面の記念額にに掲げられている。 
灯塔の高さは12m、三角形のガラス板を幾何学的に組み合わせた巨大なレンズはフランス製で、3秒毎に明滅して、約35km先まで光を届けることがでるという。

日本では明治以降、灯台守を職業とする人達がいた。 
灯台守として禄剛崎灯台を始め、全国を渡り歩いた内の一人である「小坂長之助」氏は、美保関(島根県)、烏帽子島(福岡県)、大立島(長崎県)などへ妻子とともに赴任して、1928年に伏木(富山県)の地で生涯を終えたという記録がある。 

この灯台はその後も長く灯台守の常駐体制を守り、昭和38年(1963)4月になって無人化さたという。 当時、灯台守は映画にもなった「喜びも悲しみも幾年月」を地で行くような人材が、全国に数多く居たのである。


奥能登にあって120年余の風雪に耐えてきた禄剛崎灯台は、今もなお現役の「航路標識」であるとともに、明治の面影をとどめる貴重な近代化遺産とも言われる。 
遺産としての禄剛崎灯台、実は、日本の灯台の23基の中の「保存灯台」にも選ばれている。

平成10年11月1日、灯台記念日に日本の灯台50選にも選定され、11月1日は灯台記念日としている。
灯台は航路標識の一種で、すなわち灯火によって船舶の航行を支援する施設の一つである。 
因みに江戸時代は「灯明台」と呼ばれていた。 

航路標識とは、一般に灯光、灯標、立標、浮標、霧信号所などの標識によりその位置または航路や障害物の所在を示すものとされる。 
航路標識を管理する「海上保安庁」は、標識(灯台)が正常に機能するよう定期的に点検整備を行い、航路標識の消灯や故障に対しても直ちに復旧できるように努めている。

映画やTVの「海猿」で馴染みになって御存知とは思うが、海上保安庁の主業務は警備業務、海難救助業務、海洋情報業務とそれに交通業務がある。 
その交通業務の中に、灯台の設置・管理、航行支援システムなど、海の交通警察・海事情報提供機関としての業務がある。
海上保安庁の北陸地方の海域(新潟県=本部、富山県、石川県、何故か海の無い長野県も含む)は、第九管区海上保安本部が受け持つ。

よく北朝鮮の船舶「万景峰号(まんぎょんぼうごう:Man Gyong Bong)」(日本と北朝鮮の間を不定期ながら年20〜30回くらいの頻度で行き来し、人と貨物を運んで新潟に入港する。
日本と北朝鮮を結ぶ唯一の貨客船 )が入港する際の管理、監督は第九保が受け持っていることは周知である。 

能登地方はその中の七尾海上保安部・ 能登海上保安署が担当しているという。 
従って、名灯台と言われる「禄剛崎灯台」は七尾市に管理所が在ることになる。


「灯台」と「燈台」について・・、


灯台は構造物を表す言葉で、ごく近年建てられた一部の灯台を除き、殆どの灯台では地点を表す固有名詞の後に「燈台」を付け正式名称としていた。 これらの多くは、常用漢字として「灯台」が採用される以前に命名された灯台である。

常用漢字が制定されてからは、燈台と言う名詞が付いているにもかかわらず「灯台」の字が使われることがある。
しかし、基本的には人名同様、既に記されている固有名詞であり、常用漢字が制定された以前に「燈台」と名前が付いている灯台は、燈台で良いのである。 つまり、「禄剛崎灯台」は、「禄剛崎燈台」が正しいと言える。 

もっとも、この様な事例は他にも沢山あるが・・?、
地域の名称が役所の都合で簡略に変換(漢字の変換)されることには、小生も疑問符をもち、地域の固有名詞は人名と一緒の筈である。 
何時の日か、小生もウッカリして人の名前の「廣」という字を「広」と書いてしまって、当人にお目玉を頂戴した記憶が有る。

当用漢字は1946年11月に公布,教育漢字は1948年に公布されている。 
更に、常用漢字は1981年10月に内閣告示された漢字のことで、当用漢字に代わるものとして告示された。 実際、常用漢字は一般の社会生活における漢字使用の目安とされ,日常生活で日本語を表記する「目安」として定められたもので、専門分野や固有名詞は対象としていないともいう。


能登半島の北東端で、海面上46mの段丘上に灯台があって、灯台下の崖下には「千畳敷」といわれている平らな海食棚が広がる。 
干潮になると姿を現し満潮になると海中に没するらしいが、規模的には九州・日向(宮崎)海岸の「鬼の洗濯板」に比ぶれば可愛いものである。

次回は、須須神社


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日本周遊紀行(218)珠洲 「須須神社」


須須(スズ)神社


蝉折の笛と弁慶の守刀
写真:須須(スズ)神社の大鳥居と燈篭
資料:「蝉折の笛」と弁慶の守刀




禄剛埼灯台・・狼煙・・煤・・珠洲・・須須神社・・美穗須須美命・・、

狼煙を後にした。
内陸伝いの山道から、一転海岸に出たところ寺屋地区に「須須神社」があった。
鄙びた部落の様相とは不釣合いな程の五段の台座に一対の石灯篭を従えて、立派な鳥居が海岸道路沿いに立っている。 

日本海の大洋に向けて真東に向いていて、時期、時刻によっては鳥居の正面に太陽を迎えるが如く輝くという。 
参道の奥には二の鳥居、更にこの奥に三の鳥居が控えていて、そこからは鬱蒼としてやや苔生した感じの奥参道もあり、社殿はその奥に鎮座しているという。  無論、この海岸からその姿をここからは拝見できない。

1万坪にもおよぶ境内の社叢は、スダジイを主とする照葉樹林(暖帯系常緑広葉樹林)であり、種々の温帯、冷温帯の植物が見られることから、照葉樹林の北方的限界性を示しているともいいう。  一帯は国の特別天然記念物に指定されている。 
神域は、派手々々しさはないが何か格別な古社を感じるのである。

須須神社は通称、神仏混交時代の名残で三崎権現とか三崎明神と称した。 
又、当社は高座宮(たかくらぐう)と称し、すぐそばにある金分宮と山頂・奥宮の三社合わせて須須神社と呼ぶ。 
祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒダカホコニニギノミコト)と木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、それに土着神(氏神)の美穗須須美命(ミホスズミノミコト)、他に建御名方命(タケミナカタノカミ)、武甕槌命(タケミカヅチオ )、保食神(ウケモチノカミ)等の錚錚(そうそう)たる神々が祀られているのである。


これらの神々を復習のつもりで一寸解説してみよう・・、


瓊瓊杵(ニニギ)はアマテラスの子(又は孫)で九州の日向・高千穂に降臨した神で日本の建国の祖神と言われる。 
木花咲耶(コノハナサクヤ)は大山祇神(オオヤマズミ:山の神)の子(姫)で、桜の木の命名の由、富士山をご神体とした浅間神社の総本社でもある。 
この両神は「夫婦神」で後、海幸彦、山幸彦を生む。 山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇とされる。
建御名方(タケミナカタ)は大国主(オオクニヌシ)の子で、長野県諏訪地方の大神:諏訪大社の主神である。 
そして、武甕槌(タケミカヅチ)は、元々は鹿島(茨城・鹿島)の土着神で雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰され鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている神である。 
両神は、出雲の「国譲り」で最終的に争った神とされ、結局、武甕槌が建御名方を打ち破り、後に、諏訪の地に押し込めたとされる。 このことから両神は「相撲」の起源ともされている。
保食(ウケモチ)は、祖神であるイザナギとイザナミの子で、食べ物を受け持った(ウケモツ)神様、五穀の食物起源の神で多くの神社に祀られている。
  

須須神社の創建は古く、一説には二千年前とも言われる。これはもう神代の時代である。 
鎮座の位置、方位性などから東北鬼門、日本海の守護神としてあまねく信仰され、古代より縁結びの神として知られる。 
この「結び」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく安産・育児・病気平癒・槌児祈願、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・・鬼門除け等、人としての総ての生業(なりわい)をいうらしい。

社宮は元々、来る途中の山稜、狼煙地区の「山伏山」(鈴ケ嶽)に鎮座していたらしく、八世紀半ばにここ寺家(じけ)の地に遷宮し、分社されたという。 
山伏山には今も奥宮が鎮座する。 その昔はこの奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、夜ごと大神に献燈(狼煙)しており、これが日本海を航行する船舶の狼煙としての印にもなったという。 
奥宮の鎮座する地は、狼煙(のろし)町と呼ばれるのもこのためであり、社名の「須須」は、煤(すす)という解釈ともとれる。


又、この社は義経に纏わる伝説がある・・、

義経一行が奥州へ向かったのは能登、珠洲の経路であり、義経の妻は能登(珠洲市)へ流された平時忠の娘であることは先に記したが、妻を伴った義経一行が奥州へ逃れる途中、義父・時忠を訪ねて珠洲にしばらく滞在したと伝えられている。 

能登から奥州へ向かう途中、一行が珠洲岬の沖合で暴風に遭った為、海上守護神の三崎権現(須須神社)に必死に祈ったところ、たちまちに風が止んで難を逃れたと伝承はいう。 
その時のお礼に平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛・「蝉折の笛」(せみおれのふえ:鳥羽天皇が宋の国〈中国〉から送られた蝉のような節のついた漢竹の笛で、その節のところから折れてしまったところからついた名前とされる)と弁慶が寄進した「左」という銘入りの守刀を奉納したのが今に残るという。

平成17年度のNHK大河ドラマに「源義経」が放映されているが、同様に義経は昭和41年にも大河ドラマの題材に取り上げられている。 

その時の原作者・村上元三は珠洲を訪れ・・、

『 義経は 雪に消えたり 珠々の笛 』  

と詠んでいて、当社にその歌碑も建っている。

この海岸に向かって屹立する大鳥居の寄進者は「北海道・札幌市」の人であるという。 
奥能登にひっそりと佇む神社の鳥居を札幌の方が寄進されたということは、珠洲地方と北海道とは深いつながりを示し、氏の先祖が珠洲地方の出身だといわれる。 
因みに、明治30年頃の石川県民の北海道移住者の数は珠洲地方が最大だったらしい。

次回、伝説とロマンの里        Part13    

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