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日本周遊紀行(188) 米子 「倭国大乱」

.2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる・・、

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱であるともいわれる。 中国の複数の史書にその記述が見られるという。
それは列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある

記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記や日野郡誌にも記録があるという。

後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。 

この争いは、後に「卑弥呼」を大和王朝の大王として擁立する事によって収まったともされているが・・?、 この事は、歴史家達の長い間のj研究テーマでもあるらしい・・??。 

この時期の古事記の条を見ると「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、共々に播磨口を入口として、吉備国を平定なさった」とあり、吉備津彦命が大乱に関連していると考えられ、近畿、中国地方においては2世紀後半に出雲や吉備、九州筑紫地方で戦乱、つまり倭国内での大乱があったようである。 

又、地元の「日野郡誌」には、中国地方(出雲国・伯耆国・吉備国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在しているとして、この伝承が「倭の大乱」に関連しているともしている。 


更に、大山北麓の「孝霊山」に関して・・、

大和の国から遠征してきた孝霊天皇は、日本海から上陸して孝霊山に居を移したとある。
この遠征の最終目的地は出雲周辺であり、大和と出雲の騒乱は「倭の大乱」として表していると想像される・・、とある。
そのことを示すように、孝霊山麓には「妻木晩田遺跡」という広大な遺跡群があり、弥生期の二世紀頃の遺跡とされ、全国最大級の規模という。 

郡誌は、孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが、実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くであり、伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋して姫を皇后にしたとあり、孝霊天皇の皇后の出身地であることから最大級の遺跡になったとも考えられる。
すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られていることは前述した。


倭の大乱以前・・?

出雲統治圏については先の出雲の項にも記したが、その領域は山陰・北陸地方から信濃の国、瀬戸内海沿岸地方から筑紫の国であったとされることから、「倭の大乱」後は、出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっているのである。  
このことは出雲神話によく登場していて、所謂、大国主が戦さに敗れて「国譲り」を行い、出雲一国の国王になってしまったことでも表わされていて、即ち、神話伝承と史実が重なるようである。

出雲の国王は、出雲地域を離れる事は無かったが、出雲に勝利したリーダー(吉備の主とも言われる)は各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。 
ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで数世代はかかったとされ、統一された連合が「大和王朝」で最初の統治者が「卑弥呼」であるとされる。

考古学の見地からも「倭国大乱」、つまり出雲、吉備(大和)地方においての争いは実際に有ったことが、ある程度は裏付けられているという。


この戦乱の時代背景は・・?、

2
世紀頃というと、日本史の流れからすると弥生時代の後期にあたり、この頃は既に稲作文明が広く一般化し、九州、近畿はおろか中部から関東地方にまで及んでいた。
稲作を施す工具にしても、金属の青銅器はおろか鉄器が普及し、製鉄技術も朝鮮半島から伝わってきていて、砂鉄の産する出雲地方では既に製鉄が始まっていたことは既に記した。

ただ、稲作を施すには個人や部族という小規模地域では困難があり、どうしても地域の拡大や組織化された人々の連携が必要になってくる。 更には土地そのものが必要で、それも小規模からより大規模になってゆくのは必然であった。 
そこには組織化されたリーダーが必要になってきて、必然的に集落や部族間で争いが起こり、土地の収奪や新しい機器の導入のための争奪も起こってくる。

国内において、当時の現状は部族や地域のリーダー、豪族はいたものの大地域の統治者というのは未だ存在してなく、まして、国としての体裁はなく、真の国王などは存在していなかった。 
邪馬台国とか倭国という国名・・?は中国において日本につけた名称であった。 


中国の「後漢書」によると・・、

弥生時代の倭国は多くの政治勢力(小国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたとしている。 そして、倭国大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いということになっている。

ただ、国内事情においては前述した稲作文明の波及、鉄器及びその製造文明等、いわば時代の革命時期であり一大転換期、過渡期でもあった。 そして、このような時期は必然的に領土的主権を合い争う時代でもあったのである。 
このような理由で、国家大勢を導くには「倭国大乱」は必然でもあったようである。

また、時節的に見ても、弥生期は2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けたとされ、土地の収奪争いは一層顕著になったとする。 
いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した「倭国大乱」は、生活様式、気候的変化をも合わせて、集落に変化を生じさせ、所謂、「高地性集落」を営むようになったとされている。

次回は、「妻木晩田遺跡」

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日本周遊紀行(188) 米子 「妻木晩田遺跡」



「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)について・・、

孝霊山の麓の大山町に所在する国内最大級の弥生集落遺跡である。
いわゆる「大乱の影響」とされる高地性集落で、国内でも比較的大規模で長期にわたる遺跡は少なく注目されているという。 

この遺跡は、鳥取県大山町富岡・妻木・長田地域から米子市淀江町福岡地域に所在する国内最大級の弥生集落遺跡で、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡の五倍にも及ぶ大規模なものであるという。

標高90〜120メートル前後(平野部との比高差−100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されていて、一連の集落は「弥生時代後期」を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれているという。 

又、遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土していて、特に鉄器は?・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで197点が出土しており、大陸性のものも確認されているという。

その他にも日本海と近畿、瀬戸内を結ぶ物流と軍事の重要な地点に、大乱にも関係しているとされる「弥生集落遺跡」が多数発見されているという。 
県内加茂町の「加茂岩倉遺跡」、斐川町の「荒神谷遺跡」、出雲市の「西谷墳墓群」、松江市乃白町の「田和山遺跡」等の弥生式遺跡が多数存在している。 

更に関連して、「古代鉄の資料館、博物館」などが出雲の南部地区である安木市、三刀屋町、仁多町、吉田村等にも存在する。

特に吉田村の「菅谷たたら山内」には、かつて「たたら製鉄」が操業されていた「高殿」と呼ばれる形式の生産施設が唯一残されており、国の有形民族資料に指定されている。 

「たたら」・・とは、砂鉄は重さ(比重)を利用してふるい分けられる、これに良質の木炭を混ぜて還元炉(無酸素状態の炉)に入れ,ふいごで送風し熔解する。 
炉内温度は低いので,炭素を多く含む銑鉄はできず炭素含有率が2%以下の鋼(はがね)ができるという。 
たたら製法を行う家屋を「高殿」といい、ふいごを「踏鞴」(たたら:足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。)と書いていずれも「たたら」とよんでいる。 
「鑪」という字も「たたら」と読み、「たたらを踏む」という表現は、このふいごを踏む動作から来ている。 
この製法を「たたら製鉄」」といい、古代からの製法なのである。

そして、実際に史実として日本史上に登場するのは、「倭国大乱」の後の統一後でもあり、邪馬台国の「卑弥呼」が30余国を統一支配し、中国(魏)との正式な交流が始まる段になってからであるとされている。 

その後、尚100年たって、西暦350年頃、大和王権が国内をほぼ統一するに到る。


序ながら、日本書紀の神功皇后記において、魏志倭人伝の中に「卑弥呼」に関する記事を引用している。 このため、江戸時代までは卑弥呼=(イコール)神功皇后だと考えられている。 

この説にたてば、邪馬台国の大和王朝は既に畿内にあったとされている。 
そして、神功皇后の息子、応神天皇は八幡神として宇佐神宮(大分県宇佐市、既に記載)に祀られ、皇后自身の祭殿も同社に在るのは、大和王朝と朝鮮半島の通交が活発化し、通交航路である瀬戸内海沿岸(大分県宇佐市)に神功・応神を祀る八幡宮が置かれたともいう。 
これらの事項についても既に宇佐神宮の項で記述している。


いずれにしても、「大山」の背比べ」伝説からはじまって、孝霊伝承、温羅伝説、桃太郎伝説、八俣大蛇伝説、渡来人と鉄器・製鉄、国譲り伝説、倭国大乱、大和王国等々の項目を並べるだけで、古代・出雲地方における壮絶な歴史物語の原型を見る事が出来るのである。  

特に桃太郎の鬼退治のくだりはヤマト王権と出雲族、朝鮮半島からの渡来人との間で起きた武力衝突を、伝承や御伽噺として脚色、伝承したものが元になったという点で、興味津々である。


文部省唱歌 「桃太郎」 詞・不明、作曲・岡野貞一
桃太郎さん、桃太郎さん、
お腰につけた吉備(黍)團子、
一つわたしに下さいな。
やりませう、やりませう、
これから鬼の征伐に、
ついて行くならやりませう。
行きませう、行きませう、
あなたについて何處までも、
家來になって行きませう。

そりや進め、そりや進め、
一度に攻めて攻めやぶり、
つぶしてしまへ、鬼ヶ島。

おもしろい、おもしろい、
のこらず鬼を攻めふせて、
分捕物をえんやらや。

萬萬歳、萬萬歳、
お伴の犬や猿雉子は、
勇んで車をえんやらや。

次回は、「名和」     Part14へ

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