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日本周遊紀行(178) 津和野 「千姫事件」



津和野は、「つわぶきの生い茂る野」から、その名が生じたというが・・、

益田は、古代から山陰と山陽を結ぶ交通の要衝地であった。
現在でも主要幹線である国道9号線が京都を発って日本海を巡り、ここ益田で高津川沿いに内陸に向かい、「津和野」を経て、山口、山陽道の下関に達している。 
そして、並行してJR山口線が走っている。 
山口線は、山口市の新山口駅から益田市の益田駅に至るJR西日本であり、国道と同様に、中国山地を斜めに横断する主要な陰陽連絡路線でもある。 

山口線で特筆されるのは、御存じSL(蒸気機関車)列車の運転であろう。 
ここのSLは、国鉄時代からの1975年12月を最後に姿を消していたが、地元や鉄道ファンの要望により、観光も兼ねて1979年8月に山口・小郡から山陰内陸の「津和野」まで運転されることになったという。 

貴婦人と呼ばれるC57(シゴヒチ)形蒸気機関車牽引で「SLやまぐち号」が走り、すっかり有名になり全国区にもなった。 
この事は「動態保存」という保存法の先駆けとなり、この列車の成功を受けて全国主要各地でJRの蒸気機関車の復活運転が行われるようになったのは周知である。

SL運転で有名になった内陸の地「津和野」は、元々、全国的にも有名な観光地であり、関東地区からも「萩・津和野」のツアー観光などで常時、紹介されている。 
山峡の地で、谷あいに赤い石州瓦の家々が密集する小さな町であるが、一言で言えば「萩の縮小版」とも言われる。 
人によっては、山に囲まれて、のんびり長閑なところは萩よりも風情が有り落ち着けてよろしいともいう。 町屋は歴史的建造物や史跡なども多く、「山陰の小京都」と言われる所以である。


津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれる。
遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・、つまり「つわの」と呼ぶようになったという。 

因みに、「つわぶき」(石蕗)とは、フキに似た植物で、葉に艶(つや)があることから「つやぶき」、転じて 「つわぶき」になったといい、晩秋に黄色い頭花を 咲かせる。 観賞用のほか、茎は食用にまた葉や根茎は民間薬として利用される。


津和野は、既に縄文の頃より人が住み着いていたという痕跡もあるが、鎌倉期になって本格的な城つくり、町つくりが始まる。 鎌倉期、鎌倉幕府の御家人・吉見頼行が地頭として任じられ、文永・弘安の役の直後だっただけに、日本海の海岸防備に当たらせた。 
この時期、吉見氏は本城・津和野城を津和野に築き、当時は三本松城と呼ばれていた。 


戦国期、吉見氏は、主君である大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)や益田氏らの大軍に山麓を包囲され猛攻撃を受けたが、100日余の籠城戦での末に毛利元就の援助を受け陶晴賢を退却させている。
この戦いは、世に「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に知らしめたという。
津和野・吉見氏は、この後14代続いたが、慶長五年(1600年)「関が原の役」にあたり、毛利氏に組して西軍に味方したため、敗れて長州へ移されてしまう。 
その後に入部したのが坂崎出羽守成正であった。


関ケ原の合戦の後、軍功のあった坂崎出羽守直盛が津和野城主となり、城の大修築を行ない、高石垣の近世山城を築き上げ、現在見られるような津和野城跡の原型を造りあげた。

この坂崎出羽守も、かの「千姫事件」のため一代でお家断絶となった。


「千姫事件」とは・・、

元和元年(1615)の「大坂夏の陣」に際して、坂崎出羽守は炎上する大坂城内から徳川家康の孫である千姫(7歳の時に豊臣秀頼に嫁ぐ)を満身創痍となって助け出した。 
これには、千姫を助けた者には嫁にして与えるという、家康の言葉を信じたからであった。 

ところが意に反して千姫は、今で言うイケメンだった本多忠刻(ただとき)のもとに嫁ぐことになってしまう。
これを知った出羽守は千姫の輿(こし)を奪い取り、刺し違えようとまで思いつめる。 
だが、このことは幕府の露見するところとなり、千姫の父・二代将軍徳川秀忠は坂崎直盛に対し、幕府への反逆として断固たる処置を命じた。 

この時、騒動の張本人である家康はすでに亡く、老中評議の結果、坂崎出羽守の自決で決着させようとした。 
しかし、出羽守はこれを聞き入れず、結局、坂崎家の家老が出羽守を殺害し、その首を幕府に差し出して一件落着となった。 
これには将軍家の指南役・柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。 
この事件のため坂崎家は、津和野城主となってわずか16年でお家断絶となっている。


2005年9月25日、津和野町、日原町が合併し、現在の「津和野町」が発足している。山口や萩と関連が深いが、れっきとした出雲・島根県の所在である。

次回は、浜田
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日本周遊紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」



江戸期、商人・会津屋の密貿易で浜田藩は窮乏から脱したという。即ち、会津屋は藩の恩人であった、だが、幕府の罪人でもあった・・?、

山間の三隅町から再び海岸へ出た所で「夕日パーク三隅」というのが在り、次に「夕日パーク浜田」という道の駅が在って、この地で小服する。 
気が付くと、先ほど展望休憩したところは“サンシャイン”と言っていたが、こちらは、“夕日・パーク”と和洋折衷の個名で、何れも下手な英名を名乗ったり、英名と国語(日本語)がチャンポンになったりで、忙(心が亡ぶ=忙)しい国である。

「夕日パーク浜田」は浜田港を見渡せる高台にあり、港周辺の展望が抜群である、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋が一つの風景となって見渡せる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」といい。 すぐ左にも同様の島々が有って美観を添えてる。

ただ、この巨大な架橋は国際貿易・水産都市浜田のシンボルとして、総工費約70億円を費けての竣工したものらしいが、一般地元の人の見る目は冷めていて、その意義や有益性については疑問視もあるという。 


浜田港は、島根県唯一の国際貿易港として今は三万トンクラスの船舶が利用可能となっているらしいが、将来は五万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中とのこと。
平成13年には浜田港と韓国の釜山港を結ぶ国際コンテナ航路が週1便開設されていて、更に浜田港は、北東アジア地域の交流促進や県西部の活性化が期待されていという。


石見地方の中心都市・浜田が、本格的に城郭と城下町、そして湊町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
築城主は元和5年(1619)、伊勢・松坂から転封されてきた古田重治(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。 浜田藩・5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、この時、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人がいて、それらを伝えた技術が後の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降、五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。
しかし、江戸末期の慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受けて落城する。 藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史は幕を閉じている。

江戸期における浜田港は、北前船の寄港による物資の集散地として栄えたが、一方では、密貿易も行っていて浜田藩は更に潤ったとされている。
江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易が許可されているのは幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 
しかしながら、鎖国の本当の理由は、幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。 実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、江戸後期には内密で薩摩藩をはじめ、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。


会津屋八右衛門のこと・・、

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密ともされた「間宮林蔵」(隠密説は・・・?)に摘発され、発覚して天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となり、又、責任者でもある藩の家老や年寄などの重職も切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。 

浜田藩庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである。


因みに、間宮林蔵は江戸後期の探検家で、伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北方、北樺太を探検、後の間宮海峡を発見し、地図上でもその名前を残していることは周知である。 その林蔵は、幕府の隠密でもあったとされる。
晩年には勘定奉行・遠山景晋(とおやまかげみち・北町奉行・遠山金四郎の父親)の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 
普通に見ると、探検家が隠密に転身したような見方もあるが、そもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、諜報活動でもあった。

忠敬は石州・浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行に報告し検挙に至らしめている。 彼は隠密らしく変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしていたともいう。 
浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋へ潜入に成功している。 
後に間宮は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐していたという。


浜田港の東方、一丘越えたところに浜田城址(城址公園)が在る。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆の際、浜田城攻防の歴史を調査している。 
本丸城跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文が記してある。


『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、藩の恩人でもあった「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。

次回は、石州瓦     Part10へ

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