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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰(3)」



『 かくすれば かくなるものと 知りながら 
                やむにやまれぬ 大和魂 』  松陰
・・、

密航、亡命に先立って松蔭は、江戸にいる親友達に集合をかけている。 

このとき既に弟子である「金子重乃助」を同行者と決めていた。 特に東北遊学で苦楽を共にした宮部鼎蔵などは「海外渡航は国禁であり、見つかれば死罪は免れない」、「これは筋が通らぬ上、命を粗末にする無謀な計画だ・・!」などと言って諌めた。 

だが、一方の友人は「人並みはずれた勇気と、それをすぐさま実行に移す行動力は吉田君の長所である。細心さや自重を説いても無駄なことであろう・・!」とも云っている。  

松蔭は内心既に決心していた事ではあるが、心中を察してくれた事に感激し「男子が一度決めた事だ・・、富士の山が噴火しようと、利根川が枯れようとも、志に変わりはない」 
元より松蔭は大げさな表現は好まないが、この日の松蔭は心中いささか高ぶっていたのだろう。 
最後に友人達と別れの挨拶を交わし、貴重な物などを交換し合い、金子と共に米艦隊が停泊する横浜へ向ったのである。

松蔭の密航第一の理由は、西洋の科学技術や情報を見聞・習得することにあり、本場で洋学を修めた後、国に尽くすこと、つまり、脱藩という重罪を犯した彼に対し、遊学の許可まで与えた「藩」の恩義に報いることでもあった。 
だが彼の本来の理由は彼自身にあり「真の志士は艱難苦難に愈愈(いよいよ)激昂し、才識を極める」ことで、噴気のようなエネルギーを発するところにある。
こうして、二人はどうにか戦艦ポーハタン号へ赴き、願いの密書を携えて密航を訴える。
結果は、無念ながら米艦軍人達(主にペリー)に良心的に拒否されている。 
その後、幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。

ペリーの米艦航海記の中の「日本遠征記」には、「この不運な熱血漢たちが、彼らの閉ざされた帝国を超えた大きな世界を一目見ようとして、私の上着の胸に入れた物があり、その手紙の丹精な、はっきりと書かれた文字は、言葉の意味が理解できない者でさえ、知性と分別のある人の手で書かれたことが良くわかる」と記述されている。 この託された手紙は、1854年のペリー再来時の下田での松陰(瓜中万二:くわのうちまんじ、と偽名を使って)の密航計画を記したものであった。


松蔭の嘆願密書には、「胸の中で悶々として口にすることもできず・・、法律を犯すことになっても五大陸を周遊できるように、穏密にあなた方の艦隊に乗船し、航海することを・・、どうかわれらの願いを軽蔑せずに実行できるようにしていただきたい・・と」
(長文・略)

しかし、その願いは拒絶されるのである。 
その主な理由は、日本は、その国民が外国に出国することを死刑をもって禁じている。 艦内に逃れてきた二人は、アメリカ人から見れば罪のない者と思われるが、彼ら自身の法律から見れば罪人であった。 
二人が述べたことを疑う理由がないとしても、微かに、彼らのいう動機とは別の不純な動機に動かされたのだということもあり得る。


この事件のペリー提督の感想に・・、

「 日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことである。 日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか・・!。  そして、投獄された二人を確認して、不幸な二人の日本人が甚だ狭い一種の檻の中に拘禁されているのを認めて・・、彼らは自分達の不運を非常に平然と耐え忍んでいるらしく、アメリカ士官達の訪問を大いに喜んでいるようでもあった。 哀れな二人の運命がその後どうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねるというような極刑を与えないことを望む。 なぜなら、それは過激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである・・、」と述べている。

米艦隊のキャップ及び乗組員は、松蔭等に対して極めて寛大な態度を示している、当然といえば当然であるが、事(こと)国内において、まして江戸表・長州藩邸では再び松蔭のため大騒動になっていた。 
それは、2年と数ヶ月前の脱藩事件においては長州藩内の話であって、幕府の知った事ではなかったが、今度ばかりは国禁を犯したのである。 
この頃の長州藩は10数年後、倒幕の先陣を切る脅威の藩ではなく、幕府を恐れ慌てふためいていた、ただの藩であった。


そして凡そ半年後、幕府は裁定を下した・・、

江戸詰の松蔭の兄・杉梅太郎、父の百合乃助も監督責任で謹慎させられ、師である佐久間象山も松蔭の仲間であり責任者、合意者ということで伝馬町牢に投獄されている。 
松蔭は、「同じ国禁を犯した赤穂義士は本懐を遂げ、我は失敗した。 しかし、志に差があるものか・・」
として獄中で・・、

『 かくすれば かくなるものと 知りながら 
                   やむにやまれぬ 大和魂 』


と詠んでいる。

次回は、更に獄中の「吉田松蔭」

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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰(4)」



「雲外の鶴 籠の中の鶏」・・、

松蔭は、下田沖でペリーの艦隊に潜入し、密航を図ったがペリーに良心的に拒否され、身柄を拘束された。 
その後、下田獄から江戸・伝馬町の獄舎へ移され、更に、萩へ護送されて暫し父・杉百合乃助の元で謹慎処分になっていた。 
萩では、藩命により武士専用の「野山獄」に収容された。
この時、綴られた松蔭の詩に・・、


逸気神州を隘(せま)しとし
乃ち五州を窮(きわ)めんと欲す 
憐れむべき蹉跌の後 
一室に孤囚となる
(訳意)
日本は狭い
世界を知ってやろうと勇んでみたが
哀れ失敗に終わり
今は独房にいる


『 雲外の鶴 籠の中の鶏 』  (大海を夢見た松蔭は、今は野山獄の一個になってしまった)
1859年(安政6年)、吉田松陰は江戸にて処刑されている・・、。


この間、萩で謹慎、蟄居中の頃、捕われれの身でありながら半分は自由の身であった。 
松蔭は近隣の青少年の教育をはじめている。 
これが世に言う松蔭の「松下村塾」であった。

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。 後に、松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に謹慎、蟄居するにおよんで、杉家の母屋を増築して塾を主宰した。 
藩の許可を得るが、松陰が「安政の大獄」で粛清された為に、僅か3年で廃止におい込まれた。

一方、藩校・明倫館でも塾頭を務めた松陰は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れている。
松蔭の講義については、門人によると・・、

「先生は、教え方はあまり流暢ではなかった。 正座し、膝の上に脇差を置いて常に両手で両端を押さえて、肩を張って話をしていた。 講義をされる際、忠臣や徳人が自分の身を犠牲にして義に殉ずるくだりになると、先生は大粒の涙を浮かべ、声を震わし、時にはその熱い涙が本の上に点々とこぼれていったという。 このため講義を聴いている門弟たちは皆感動し、同じように涙を流したもんだ。 忠臣には涙をし、逆臣には目をカッと見開いて声を張り上げ、怒りをあらわにした」と言う。 
誠に生き、義に殉じた松蔭ならではの人柄であり感情なのである。


村塾は短期間しか存続しなかったが、尊皇攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。 
著名な門下生には久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江杉蔵、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、小野述信らがいる。

その内、久坂玄瑞(松蔭の義弟、蛤御門の変で討ち死に、享年25歳)、高杉晋作(奇兵隊を創設、第二次長征で幕府を討ち薩長同盟の立役者、肺結核のため死去、享年27歳)、吉田稔麿(奇兵隊員、新撰組・池田屋事件で討ち死、享年24歳)、入江杉蔵(奇兵隊の参謀、蛤御門の変で討ち死に、享年28歳)を塾生門人の「四天王」と呼ばれている。 
門人達は「高杉は恐ろしかった、稔麿は賢かった、久坂には就いてゆきたかった」と証言している。

彼等は幕末の変で眩いばかりの輝きを見せながら、維新を見ることなく夭折してしまったが・・。
松下村塾は、明治維新の後に再び復活し、明治25年頃まで存続したという。国指定史跡


『雲外の鶴 籠の中の鶏』・・、

松蔭は獄中にいる。
罪状から察すると終身刑でもおかしくなく、普通なら落胆するであろうし、絶望を感じてもおかしくはない。 
ところが、松蔭という男の不思議さは、この牢獄という別世界を興味津々に眺めるだけでなく、同囚や看守を巻き込んで学問、教育の場に変えてゆくのである。 「獄舎問答」、「江戸獄記」などの著作は、野山獄、伝馬町獄の体験が基本になっている。

松蔭は、いかな同囚であろうととも、へりくだり、年長者を敬いながら、猛烈な勢いで読書に励み、その数ヶ月に50冊に及んだとも言い、月間の読書数が30冊に止まった時など、「この月、甚だ無精なり」と己を蔑(さげす)んでいる。 

松蔭は、「獄中では学問を通じてお互い切磋琢磨し、勉強会に参加しなかったのは10人の内2〜3人である。僕がここで天寿をまっとうすることになるならば、十数年後には獄中から傑物の一人や二人は必ずでるであろう・・」とも洩らしている。

現に、松蔭よりはるか年長者の「富永有隣」は儒学と書に秀でて、幼少より松蔭に匹敵するほど神童の誉れ高き人物であった。 
だが、「虚言癖があり、酒色におぼれやすく、群小を憎む尊大さ」があり、その性癖で周囲からは弾かれた存在でもあった。 
彼は獄中、松蔭と会って改心し、後に松下村塾の講師に招かれている。 
松蔭曰く「天下に人材が居ないわけではない、登用するに足る人物がいないだけである・・」

次回、「松蔭・・、散る」     Part7へ

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