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日本周遊紀行(175) 萩 「吉田松陰(5)」



『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
                    留め置かまし 大和魂
 』       松蔭


松蔭は、萩の獄舎で囚われの身となっているが・・、

「野山獄」は現在の北古萩町、萩城址とJR山陰線の東萩駅を結ぶ主要道路の中間地・本行寺付近に在って、今も「獄舎跡」として記念碑などとともに残されている。 
野山獄の向い側には、「岩倉獄」という獄舎もあって同様に獄舎跡があり、隣同士向かい合った二つの獄舎址を目にすることが出来る。

野山獄・岩倉獄の発祥のいきさつは、江戸・天保年間初期、岩倉という藩士が隣家の藩士である野山宅に酔って押し入り、家族を刀で殺傷する事件が起こった。 
この事件で藩士・岩倉は死罪、一方、切り込まれた藩士・野山家も取潰しになってしまい、それ以降この両家の屋敷は萩藩の獄舎になったという。 野山獄は上牢と呼ばれ、藩士、武士の身分の者が入獄する、一方、岩倉獄は下牢と呼ばれ、庶民が入獄するものとされていた。 


さて、松蔭とともに密航を計画し、行動をともにした「金子重乃輔」のことであるが、彼はこの岩倉獄で結核のため病死している、松蔭より1つ年下の享年25歳であった。

金子は松蔭と違って足軽の出であった、そのため江戸伝馬町の獄でも、“ごろつき”などを主として収容する下級階層の牢獄にいた。 
環境はきわめて劣悪で、屈強な金子もさすがにこの環境には勝てず次第に心身が蝕まれ、労咳(結核)におちいった。 
しかも、江戸から萩への護送は冬の最中に行はれ、寒風の吹きすさぶ中、更に体調は悪化していった。 松蔭は盛んに金子に気配りをしたが、獄舎の違いもあって充分にその意思は伝わらず、金子は岩倉獄の獄舎で静かに息を引きとったという。

金子は松蔭に、「もう私は永くなく、日本の行く末を見ることは適わんでしょう。だが、先生と渡海を決めた時から命は捨てておりました。今生きているのは“おまけ”のようなものです。後は一目、父母の顔さえ見れれば、全て良しとします。」 
松蔭は間際の金子に、釈迦の前世、現世、来世の教えを説いた、「現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか・・!、この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか。 君は幸せなり・・!!」
これが師弟の最後の便りとなった。

獄吏のはからいで、金子は父母と「末期の再会」を果たす事ができ、体力の消耗は激しかったが意識は明瞭であったという。



幕末の安政年間、この時期、井伊直弼が大老に就任、開国思想を持つ大老は攘夷派に対して弾圧を始める、所謂、「安政の大獄」が進行してゆくのである。 

大老の懐刀・長野主膳は、松蔭の動きをつぶさに観察している。 松陰は5年前、渡海(未遂)という、死罪に値する国禁違反をおかしたが、「実家で蟄居」という寛刑ですんでいる、にも拘わらず過激な尊皇思想を説き、御政道に異見をさしはさんでいるとして吉田松陰は悪謀の働き抜群と直弼に報告している。 そして、井伊政権は、「吉田松陰、御吟味の筋これあり・・」として、遂に吉田松陰の江戸召喚を決定した。


野山獄にいる松陰に、「江戸移送」の報を最初にもたらしたのは兄・杉梅太郎だった。 
この時、松蔭は「拙者このたび、江戸に移送されるとのことで、すでに覚悟を決めております。 たとえ一命を捨てても国家のためになるのならば本望というもの。ただ、父上と母上には不孝の限りですが・・、」と、したため併せて、死を予知していた松蔭は臆することなく遺書を書き始め、それは翌日の暮れにまでおよんだという。

冒頭に・・、

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
                    留め置かまし 大和魂 』


の歌を置き、全編を「留魂録」と命名した。


安政6(1859)年5月14日、松陰を乗せた篭は萩・松本村の杉家を出立した。

萩城から南へ約5キロ、山道に1本の大きな松の木が立っていた。 
他国に向かう旅人はここで見えなくなる萩の景色と名残を惜しみ、帰国する人は長い旅の終わりを知る。 いつしかこの木は「涙松」と呼ばれるようになったという。 
松陰を乗せた篭がその前を通りすぎようとしたとき、松陰は護送役に声をかけた。「これが萩の見納めじゃ。ちょっと外を見せてはくれまいか」 罪人用の駕籠であるが、護送官は承知して戸を開けた。 
「忝(かたじけ)ない、これで大安心」、そして萩の城下町が遠くなっていった。


6月25日、長州藩江戸藩邸に到着している、そして、直後から尋問がはじまる。
尋問中松蔭は、「私には死罪に値する罪が二つあります。死罪の一つは、藩主・毛利敬親に勤皇策を説こうとしたこと、もう一つは同志とともに京都に上り、朝廷を惑乱していたご老中・間部詮勝(あきかつ)を詰(なじ)ろうとしたこと・・」
「しめた!」と尋問者たちは思惑を抱きながら、快哉(かいさい・痛快なこと)を心中で叫んだ。 
そして、「そちには国を思う真心がある。しかし、大官であるご老中を斬ろうとした。大胆にもほどがある、覚悟しろ・・、吟味中、伝馬町獄入りを申し付ける・・!」

暫くして遂に松蔭に「」が下った、「・・不届きにつき打首申し付ける・・!」


安政6(1859)年10月27日、この日の正午ごろ吉田松陰は江戸・伝馬町獄の刑場で打ち首に処せられた、 享年・満29歳であった。


「松陰刑死」の報を聞いたとき高杉晋作は号泣し、「仇討ち」を誓った。 
その後、師・松陰と同じように「」(たけだけしさ)を発し続けてきたという。


元治元年(1864年)、松陰が火をつけた尊皇攘夷の炎は、ここで最初の頂点に達しようとしていた。 
藩は、いくつかの小変を経て「幕府と対決してでも京都に上り、尊皇攘夷を実現すべし」という「暴発論」が長州藩の大勢をしめるようになっていった。

京では新撰組が三条の池田屋を急襲し、「武装蜂起を決行しようとした」として斬り殺された尊皇派志士の中に、松陰のまな弟子、吉田稔麿や親友だった宮部鼎蔵がいた。 

この事件が引き金となり、長州藩は暴発する。 
翌7月、長州軍は三方から京に攻め上がったが、幕府、薩摩、会津の連合軍に撃退される、所謂、「蛤御門の変」である。

この時から彼らは一つになり、特に晋作は、身分制度を打破した「奇兵隊」を創生し、旧体制に挑んだ。そしてその後、その推進力によって吉田松陰が夢見た新しい政治体制が確立され、「日本」が誕生するのである。  

松陰の一生は、豊作だったといえる。

次回、松蔭と松下村塾

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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰(6)」



吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。
その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・勤皇」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。

江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 
松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 
合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。


松蔭は武士である、だが・・、

従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし、だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 

自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず・・」
、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。 それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 

天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、1に「神話的血縁関係」、2に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに「法的義務」としている。 
維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 

やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。


因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、

【松下村塾の弟子】
 
高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

【明倫館の弟子】 
桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

【松蔭の師】 
玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、

松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、

『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』

と説いている。

「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 
彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。

松陰は伊藤を・・

『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』

と評していた。

彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 
明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。


山裾北側に「護国山・東光寺」がある・・、

全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。 
黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 
現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。
有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。

この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。


以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・「関 厚夫」氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてあります。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書

「吉田松陰人とことば」  http://www.bk1.jp/product/02912250
「吉田松陰人とことば」  http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml
「吉田松陰 魂をゆさぶる言葉」  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html

次回は、長州・毛利氏    Part8へ

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