日本周遊紀行



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  21日目:PartU(知覧、鹿児島)  PartV(都城、宮崎)へ      写真集W  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(160) 知覧 「麓と“ぼっけもん”」



「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」 薩摩藩内規・・、

1602年、江戸開幕(幕府を開く)の頃、島津家久は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて鶴丸城(鹿児島城)が城山の南麓に築城された。 
同時に、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋(麓の政庁、支庁舎)を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。

江戸期に至っては幕府の政策の一つである「一国一城令」により、全国に散らばっている殆どの城が廃城となった。 しかし、薩摩国は幕府の権力が、遠方且つ、力のある島津には及ばなかったので、外城はそのまま残存したという。

江戸中期、薩摩藩は地方行政区分(現在の支庁)の外城を「」に改めている。 
藩内を113に区画し、「百二の外城」といわれる地頭仮屋を設けその周囲に「麓」、「郷」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行う外城(とじょう)制度を設けた。 
更に、薩摩には(特に幕末から)厳しい階層があり、薩摩の藩士達は鹿児島城下に住む「城下士」と、地方に住む「郷士」に大きく分類した。


麓」と呼ばれる外城は「郷」、郷士とも呼ばれて・・、

薩摩藩は77万石といわれ、100万石の加賀藩に次ぐ雄藩といわれるが、しかし米高に直すと37万石程度であり、又、総人口の4分の1が士族で、この比率は全国平均の6倍もあり、財政的には非常に苦しかったようである。 

しかるに外城に勤める藩士の多くは、普段の生活では農耕に携わり、定期的に軍事訓練を受けて、イザ・・!事が起きれば武士集落がそのまま軍となってなって戦う制度になっていた。 
それに、財政的に逼迫していたため、、藩士(郷士)は自給自足を原則とし、そこに藩の精神とが重なって、謂わば、屯田兵制度(北海道の警備と開拓のために設けられた兵制)のようなものでもあった。
このような生活習慣があって、薩摩では「郷士」と「城下士」の対立は非常に激しく、郷士は専業武士である城下士に絶対服従というきびしい身分差があった。

因みに西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)は城下士であり、一方、郷士出身者には有馬新七、田中新兵衛、中村半次郎(桐野利秋)ら多数が輩出している。

この敵対意識が明治維新後の西南戦争の引き金となった・・、とも言われている。 
従って、「郷士」と言われる武士達は、城下の武士達以上に武士らしい気概、気構えで暮らし、農耕における体力増進をも兼ねていた。 


“男とは、こういうものだ”・・、

薩摩武士の見本が薩摩の「ぼっけもん」と言われるようで、薩摩隼人が怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー!」と掛け声を上げる。 これらが、薩摩国内各地の「麓」におけるに「郷士」達のおおよその姿であった。 
しかし、本来の「武士道」には優しき味があり、薩摩での武士精神には利口者を卑しみ、朴訥(ぼくとつ)を是としたといわれる。 その朴訥はユーモアに通じ、優しさの裏付けともいわれ、純真な心持を尊重するものでもあった。

明治維新後は、俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め、地主として成功した者も多いといい、それに、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士も多かったとも言われる。 
西南戦争とは、「明治」という近代日本がもう始まっているというのに、未だに武士でいた者たちの自滅の戦いでもあるとも言われ、この戦いを最後に薩摩武士がこの世から消えたのである。
特攻記念館を見て、特攻隊の大和魂と薩摩武士の“ぼっけもん”が重なって見えなくもない・・?。

次回、鹿児島の芋焼酎

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日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩・芋焼酎」



鹿児島県は、全国生産量の7割を越す焼酎王国である・・、

再び、川辺I・Cより指宿スカイラインに乗り、国道225で鹿児島市内へ向かう。
途中、昼食を摂りながら同店内の、かなり大きな薩摩焼酎の展示、試飲及び御土産店を覗いてみた。 主に鹿児島県内特産の各種“薩摩芋焼酎”をずらっと展示し試飲させている。 
人気のブランド一品購入する、更に、娘婿が気を利かして小詰(180mm)の芋焼酎を数本頂いた。 飲兵衛の小生にとっては有難いことである。

鹿児島の焼酎は、主として甘藷(カンショ・さつまいも)を原料にしていることは、愛飲家ならずともご承知である。
そもそも、焼酎は蒸留酒の一種で、一般的に、日本酒の製造過程の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留し、水で薄めたものである。 焼酎の原料は多彩で米、麦、粟、黍(キヒ)、稗(ヒエ)、トウモロコシ、甘藷、馬鈴薯、糖蜜など各種で、つまり、デンプン質を含むものなら何でも可なのである・

因みに、お酒は醸造酒、蒸留酒、混成酒(醸造酒、蒸留酒、アルコール:飲用エチルアルコール に種々の果実、香料、甘味料などを加えて造った酒。リキュール、果実酒、みりんの類などの再製酒)の三つに大別され、焼酎はむろん蒸留酒である。 

醸造酒の代表的なものには、うるち米と米麹(こめこうじ)を主原料とする清酒、もち米と麦麹でつくる紹興酒(紹興酒・中国の酒)、麦芽を主原料とするビール、ぶどうからつくるワインなどがある。 
蒸留酒は醸造酒を蒸留したもので、代表的なものは清酒を蒸留したものが米焼酎、ビールからはウィスキー、ワインからはブランデーがつくられる。 実際には漉(こ)して澄んだ液(酒)を蒸留しても旨みが無いので、漉す前の発酵液を蒸留することになる。


焼酎の発祥は、琉球の泡盛にあり・・!、

焼酎の発祥は中近東、東南アジアとも言われ、それが中国に伝わり、更に、中国と交易のあった琉球へと伝わったという。 
東南アジアは米の原産地であるので、当然原料は米が主であり、琉球では泡盛(造るときに、蒸留器から滴る成分が泡になって、器に盛り上がるからその名が付いたという)と称していた。 

16世紀前半、薩摩には中世の港町であった「坊津」(ぼうのつ・※)を通じ、中国や琉球を経由して東南アジアの蒸留酒が伝えられたという。 の麹を唯一の原料とする琉球泡盛が本土九州に伝えられると酒粕、甘藷、麦などのほか、雑穀を原料として多種多様な焼酎が生まれた。 
元々、薩摩地方は火山国であり、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌(シラス台地)は稲作に不向きで、藩では物産を他藩で米に替えて不足を補っていたという。 

シラス台地は稲作に適さないので、米の代用食として畑作のサツマイモが発達した。 
サツマイモは甘藷、唐芋といって、これも中国、琉球から伝わってきている。
甘藷の伝来が正確に何時のことであったかはともかく、米不足の薩摩で琉球から伝わった蒸留酒の原料になる米の代わりに、甘藷を使用するのは当然の成り行きであった。 
現在でも7割が畑として利用されており、畑地率が高く、畑作を代表する地域が薩摩半島南部である。

米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783年)には島津領内には3000軒の焼酎屋があったと言われている。 
その後、米麹と甘藷と水を一度に甕へ仕込む、「どんぶり仕込み」という製法は大正時代の初めまで続いたといい、 現在、鹿児島県は全国の7割を越す焼酎王国でもある。

(※) 「坊津」は薩摩(鹿児島)南端・西部海岸に位置し、古代から中国や南方諸国の受け入れ口として栄えた。 中世からは島津氏の中国・琉球貿易の根拠地でもあり、倭寇や遣明船の寄港地でもあった。 江戸時代になると貿易港としての重要地は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩の密貿易の地としてその地位は保っていた。 伊勢の「安濃津」、博多の「那ノ津」と並ぶ日本三古津の一つとされる。

次回は、薩摩と土佐

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日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩と土佐」

「薩摩には 偉大な山が 三つあり 
                桜に開聞 西郷どんよ」
・・、

鹿児島市内から再び九州道に乗り、加治木JCTから東九州道を経て都城へ向かう。
朝方の雨模様から、今はすっかり青空の区域が広がっている。雨で洗われたせいか、鹿児島市街の上空も澄んでいて、再び煙がたなびく桜島の勇姿が望めるようになっていた。鹿児島の錦江湾に浮かぶ桜島は、どこから見ても雄大で美しく、そして、鹿児島では桜島にも引けをとらない偉大なる人物で人気者は、やはり「西郷どん」であろう。

過日、市内の名所を訪れた時に、西郷隆盛のことを記したが、「西郷と言えば薩摩、薩摩と言えば西郷」と言われる程である。 

克って、土佐の竜馬は西郷を「西郷は馬鹿である。しかしその馬鹿の幅が、どれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る」と言っている。 
一方、西郷も竜馬のことを、「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と称している。


『 薩摩には 偉大な山が 三つあり 
             桜に開聞 西郷どんよ 』  
小生


思えば、西郷の薩摩と龍馬の土佐は共通項が多いのに気が付く・・、
前述した焼酎に関しては、土佐も焼酎造りが盛んで、鹿児島県のいも焼酎はともかく、土佐は栗焼酎が有名である。 土佐の高知は古来より栗の特産地で、特に四万十流域に多いと言う。 
地域的には、鹿児島も高知も江戸や京から覗うと辺境・僻地である。 日本の果てといっていいほど、どちらも江戸・東京から遠い、遠すぎるのである。 

江戸時代には、島津の殿様は江戸と鹿児島を片道50泊かけて参勤交代したとされ、江戸からはどれだけ鹿児島が遠いところか分かる。 だが、高知も遠さでは負けていない。
本州の果てから瀬戸内海を渡ると、四国を横断する峻険な山地が控え、更に吉野川上流の大歩危・小歩危という渓谷を縫って、やっとの思いで高知に着く。 紀貫之の「土佐日記」の頃だったら、京の人が土佐に旅することは、地の端に行くような覚悟が必要だったのではないだろうか。


「ぼっけもん」と「いごっそう」・・、

ところで、中央から遠いからなのだろうか、薩摩も土佐も人柄が純朴そうなイメージがあり、薩摩は「ぼっけもん」土佐は「いごっそう」というい、男子は、とても頑固で硬派な感じは共通する。 

薩摩隼人は怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー!」と掛け声を上げ、土佐人は腹が立つと「なめたらあかんぜよ・・!」と相手を威嚇する。


郷士と一領具足(いずれも下士・シモザムライの意味)・・、

又、武士や藩主の間柄も共通部分が多い、先にも記したが、薩摩武士(薩摩隼人)には城下士と郷士という身分制度があり、この間で格差、確執が激しかった。 
土佐では江戸初期に山内家が土佐に入り、山内士(やまのうちさむらい・城士・上士)と旧来の一領具足(前領主・長宗我部氏によって行われた農兵制度、後には土佐藩・郷士:下士の別名となる)所謂、郷士との身分格差による抵抗が激しかった。 

これらの相容れない競争意識が幕末、国を動かす原動力になっているのである。 
これに幕末には藩主・土佐の山内氏、薩摩の島津氏ともに改革派の名君として知られる。

又、現在でも、鹿児島も高知も教育熱が高い土地であるということも共通している。 
鹿児島はラ・サールや鶴丸、高知は土佐・高知学芸といった進学実績の高い名門高校も多く、高校野球も強い。 
そして何といっても、鹿児島と高知は歴史を変えた一大地域である。 
なにしろ鹿児島は西郷、高知は龍馬の出身地で、彼らが成し遂げた大業は革命であり、その後の近代日本の国家百年の運命を決定づけ、日本史を変えた両雄であることは言を待たない。

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