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日本周遊紀行(162) 都城 「島津の荘」



母智丘神社


陰石
写真:母智丘神社・拝殿とご神体とされる「陰石」


都城は、薩摩・島津氏の本家筋であった・・、

東九州道を経て国道10号より「都城」へ入った。

地元の人はミヤコノジョウではなくて、薩摩風に“ミヤコンジョウ”と発音するそうである。 
南九州の山間の盆地であり、牛、豚、鶏などの畜産飼育が盛んでJA(Japan Agricultural Cooperative:農協)は日本の中で5本の指に入るくらいの豊かさだという。 

交通網も古来より発達していて、今では鉄道、高速道は勿論一般道も蜘蛛の巣のように張り巡らせている。 平成18年1月1日、都城市、山之口町、高城町、山田町、高崎町の1市4町が合併し、新・都城市が誕生するという。


この地は、薩摩・島津の本家筋であることは意外と知られていない・・、


平安時代の後期に、大宰府の役人(平季基・たいらのすえもと)が当地を開いて「島津荘」を起こしたといわれる。 
以降「島津の庄」と称し、鎌倉期になると南九州一円に広がり日本最大の荘園になっていて、中央文化も流入し神社や寺院の建立など繁栄を極めたという。 
その頃の島津荘の中心であった都城一帯を、中世を通じて近年まで「庄内」とも呼ばれていた。


鎌倉幕府が成立すると、惟宗忠久(これむねただひさ)という人物が日向、大隅、薩摩の守護地頭としてこの地方を治める事になる。 
忠久は源氏宗家出身で、頼朝の子(御落胤)という説もあり、後に姓を地名に因んで島津と改め、島津の元祖となっている。

戦国期、九州の関ケ原といわれる島津一族の伊集院氏と島津氏の内紛・攻防である「庄内の乱」というのが勃発する。この内戦は、都城盆地を舞台に約一年余り続いたというが、ついに伊集院氏が降伏、北郷忠能(ほんごうただよし・島津家の筆頭分家)が城持領主となり、薩摩藩最大の私領(支領)として幕末まで都城を領している。

都城」の地名は都乃城(城郭)から起こっていて、14世紀頃に北郷氏が当地、都島に築城された故に「都之城」と名付けられ、後に一帯の地名と由来となったといわれている。 
行政名として「都城」が発祥するのは比較的新しく、明治初期の「新県設置の令」が発せられ都城県が置かれたのが始まりという。


母智丘神社の御神体は磐座・巨石・・?、

都城、つまり庄内にはいつ頃、人が住み着いたか定かでないが、遺構、遺物等から約10,000年〜6,000年位前の縄文時代早期には既に人が生活していたと言われている。 
その痕跡が、市街地の北西に鎮座する「母智丘神社」にあるといわれている。 

遠目から見ると、お椀を伏せたような小山が点々と有り、その内の一角に、こんもり丸いカワイイ山がその名も母智の丘といい、読みは「モチオ」というらしい。 

社宮は、江戸期の創建で神社としては比較的新しく、本殿もごく普通の造りで特に派手な煌びやかさはない。 御祭神は豊受姫神(トヨウケヒメノカミ)と大年神(オオトシノカミ)で、豊受神はご承知、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神宮に由来し、因みに、神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。

又、この神社の特徴的なのが「磐座・巨石」を御神体とし、聖なる石として崇めているという。 
社殿の裏には石峰稲荷という一枚岩の巨石を中心とした巨石群が散在する。 

この丘の巨石群は、実際は火山の噴出によるものとも言われるが当時は、火山灰であるアカホヤ土(赤ボラともいう※)という地中に埋まっていたもので、母智丘神社再建工事のときに発掘されたという。 
巨石はワニ石、稲荷石、陰陽石などと命名され、特に、陰陽石は数m規模の大きさで雌石、雄石を表し母智丘神社の主神体になっているという。 
陰石(雌石)はこの神社の象徴で、願水をかけると縁結び、安産の霊験があるとされている。

この筋の専門家に言わせると、この丘は巨石を積み上げた小山(高さ約30m位のピラミッド)に違いないと称し、ストーンサークルやストーンヘンジのような巨石を配した巨石文化の象徴であり、日本のピラミッドである可能性もあるともいわれるが・・?。
  
次回、母智丘の巨石

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日本周遊紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」



母智丘は巨石文化の跡・・?、

先ず、九州南部の火山について・・、
九州南端の鹿児島から、大分県南部を含む九州中央部まで、これらの地域の地表面から深さ10〜70cm付近には、橙黄色のガラス質火山灰が堆積しているという。 
この火山灰は、凡そ約 6,000年前に「鬼界カルデラ」という巨大カルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地のこと)が生成された時の大噴火の際に噴出したもので、この火山性土壌を特に「アカホヤ」とも呼ばれている。

この土壌は農業には適さないもので、地元・宮崎県の農家の人たちが、恨みを込めて名付けたともいわれる。
平家物語でも有名な鬼界ヶ島であるが、現在、これらの場所ははっきりしないとされるが、鹿児島県南部の海域である薩南諸島の島のいずれかと考えられている。 

鬼界カルデラを形成した噴火とは、とてつもない大噴火で、上空高く舞い上がった火山灰は日本列島を縦断し、東北地方まで達しているともいう。 
火砕流という 噴火現象は、最近では1991〜1995年の雲仙普賢岳噴火が思い出されるが、噴火の規模は、雲仙普賢岳などは対象外で、何でも、富士山一個分が全部吹き飛んだくらいの規模に相当するともいわれる・・?。

カルデラ形成を伴う大規模な噴火は、日本列島では1万年に1度くらい発生しているらしいが、有史時代以降には例がないという。 
人類としては、6000年前もの縄文人が唯一の目撃者で、残念なことに当時の縄文文化はこの時、一旦、ほぼ壊滅状態に陥ったことが推定されている。 
大規模な噴火は、文明をも滅ぼすほどの大影響が有ったとされている。 

鬼界カルデラは、鹿児島県の南方に位置する竹島や硫黄島(京・鹿ヶ谷で平家打倒を企てた「俊寛」僧侶達が流された島として有名)などの島々は、カルデラの縁の一部で、その殆どは海中に没しているという。 
因みに、鹿児島県下には他に、凡そ2万4、5千年前に鹿児島湾奥に生じた姶良火山というのもあり、桜島は姶良カルデラの外輪火山に相当するものともいう。 
九州は、中央部の阿蘇から南部まで火山王国でもあった。

母智丘に巨石を奉ったとされる縄文人、あるいわ有史以前の人類は、この巨大な火山活動で絶滅の危機に陥ったことは確かだそうで尚、知恵をもって一筋の生命を絶やさなかったのも事実であるとされている。


そして、再び、巨石について・・、

石と人との付き合いは、つめれば人類が発生した当初から有ったと想像されてる。
道具として初め使用したのは「自然石」であっただろうが、後には石を加工して使用するようになり、生活用の備品としても使われたともいう。 

以降、人間は自然と石を崇敬するようになり、ここから巨石文化、文明というのが日本を含め世界中に広がったとされている。 そして、これらは遺跡として現在に残されている。

巨石文明遺跡とは、明かな意志を持って人が築き上げた建築物であり、自然の悪戯で移動や加工された岩ではない。 しかし、巨石文明という言葉が生まれたように、数千年前のある時期に極めて広範囲に渡って巨石建造物が出現したことは事実であり、このような慣習が広い範囲に渡って生まれた背景は、尚、考察すべき価値があるといわれる。 


有名なエジプトのピラミッドのように、古代史の一角に占めるものはともかく、石器から縄文時代において、巨石を加工し、運搬し、高位に揚げる技術は超人間的行為とされて、更に、研究推考が残されているという。  
いずれにしても、巨石文明は人為儀礼、太陽崇拝、天文台説などに繋がるともいわれる。 

現在、普通に見られる神社などの「鳥居」というのは、この世に人間が突然産み落とされた時、最初に創られるた崇敬による巨石のカタチであるともいわれ、それが今の鳥居としての継承されているとも言われる。

母智の丘の巨石は、麓から積み上げた超人間的な造作物か、霧島辺りの大噴火で吹き飛んできて堆積した自然造詣のものかは、尚、創造、研究が待たれるともいう。

尚、この神社に似たような巨石に縁が深いと言われるのが、隣の山田町に在る「東霧島神社」(つまきりしま)であるという。 
ここの階段は自然石でてきており、「鬼が一夜にして積んだ」という伝説がある。 
神石といわれる別名、「裂磐(さくいわ)」もあり、巨木と巨石の林立する境内は、古代人の祭祀跡や住居跡があったともいわれる。 

東霧島神社、母智丘神社とも天孫降臨の「高千穂の霊峰」が望まれ、尤も、都城の町からも高千穂峰を主峰とする霧島連山が仰げる。 
地元の人は、高千穂峰のことを「おてんじょだけ」といい、「御天上獄」と書いているらしい。 
昔から都城盆地内に住む人達の祖先は、この山を「父なる山」と崇め、こう呼んできたという。

次回、「グッバイ・ファミリー」

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日本周遊紀行(163)宮崎 「グッバイ・ファミリー」



宮崎F・Tの岸壁には、既にマリンエキスプレスが接岸していた・・、

宮崎自動車道から宮崎市内へでる。
今夜、ここ宮崎フェリーターミナルから最後の航海と言われる「マリン・エキスプレス」が出航するとのことで、我等の家族もこの船で帰路出航することになっている。 
出航が午後8時頃とのことで、先ず、宮崎のF・Tを出向いて下見と出航手続をすることになる、手続といっても乗船券に交換するだけだあるが。

未だ、たっぷり時間があるのでお土産や夕食をとる事になったが、さてどちらへということになり、結局、かって知ったる宮崎空港へ行くことになった。 
大淀川を渡り返して空港へ向かう、やはりフェリー埠頭とは違って空港ターミナルは賑やかであり、お土産屋も食堂、レストランも充実していた。

夕闇が迫り、町の明かりが灯る頃、一時を過ごしたエア・ターミナルから再びF・Tへ戻る。 空港とF・Tは、宮崎市街の中心を流れる大河・「大淀川」を挟んで其々対岸に在り、一ツ葉道路という宮崎道と直結した湾岸を通る道路で、空港やF・Tを結んでいる。


宮崎 F・Tは、白の四角い事務所の手前が駐車場になっていて、(乗船用ではない)その横つまり事務所の正面の海側に、岸壁をつなぐ大きな道路が走っている。 
つまり、ターミナル事務所とフェリ−船は直結されてなく、乗船の際はこの大幅の道路を横断して勝手に乗り込めということらしい。 
しかも、事務所玄関から船着場までは、そこそこの距離があり、天候不順の日やお年寄り、ヨチヨチ歩きの子供は大変だろうことが想像できる・・!、車優先の人間無視の造りである。


岸壁には既に最後の航海である「マリンエキスプレス」が既に接岸していた・・、 
人の気配も先ほどより、さすがに多く、孫たちに「あの、大きい船に乗るんだよ・・」と言うと、既にハシャギ回っている。 
乗船の客は、既に土産の大きな荷物を抱えて各自待機しているようで・・、その内、乗船の合図があり、各自、一目散に船へと向かう、元気のいい人は駆け足である。 

実は急ぐ必要があったのだ・・、二等船室はフリースペースの部屋なので、より良い場所を確保するためである。 我等も幼時三人と80歳の老婆を引き連れて、それでも、急ぎ足で向かったが、やはり思ったとおり最悪の状態になったようである。 

指定された二等船室のスペースは、既にコーナーなどの良場所は人が満ちて、中程の中途半端なスペースのみが残されていた。心配していたことが的中してしまったのである。 

小生は娘に、駄目を承知で「空き個室」の有無を確認するように言いつけた。 
早速、娘と上さんが、実際の交渉に出かけたようだ。 我らは、孫の為にデッキへ出て見物と洒落こんだが、余りの船の大きさに孫たちはピンときてないようである。
 「ジジはここでお別れだから、元気でお家へ帰るんだよ・・」、孫達はキョトンとして「ジジ、どうして帰っちゃうの、どうして船から下りちゃうの・・、」と怪訝そうである、父親が説明に躍起であった。


最後の航海・・?、

ところで、カーフェリーは、昨今の交通網の発達や原油高騰などの煽りを受け業績が悪化し、分社化や廃止を余儀なくされている。 
宮崎カーフェリのマリンエキスプレスは、2005年6月の川崎港発の宮崎港行き(京浜航路)の最終航海をもって、航路は全て休止となっているらしい。 

今回の乗船は最終航路の記念として、特別に旅行会社がツアーを企画したものであった。「マリンエキスプレス」は、総トン数・12000t級、全長200m弱で速力25ノットの仕様らしい。

因みに現在、船の大きさは総トン、排水トン、載貨重量トンなど、船の容積や重量であらわされている。総トン数とは、船の大きさを表すもので「トン」という呼称が付くが、船そのものの重さを表しているわけではなく、船の容積を基に算出したものである。 数字が大きいほど、その船は大きく、商船や漁船などでもっとも広くつかわれている。 
他に載貨重量トンとは積める貨物、燃料、清水などの重さをあらわし、おもに貨物船や原油タンカーなどでつかわれている(積載総量)。 
又、排水トン数は船の重さをあらわし、船を水に浮かべたときに押しのける水の総重量で表され、主に軍船などでつかう。

日本では昔、船の大きさを五百石船とか千石船というように、積むことができる米の石数で表していた。
当時の日本経済は、米を基準の物指しとしてたので、石数であらわすほうが便利だったからである。
明治時代になり、貿易がさかんになると国際化が進み、トン数であらわすようになった。


船舶の速度単位である「ノット」とは・・?、

船や飛行機の速度単位は「ノット」と称して、国際標準の速度の単位であり、時速何海里かということである。 つまり、1ノットは1時間に1海里進む速さと定義されている。 
1海里 = 1852メートルなので、1ノットは1時間に1.852キロメートル進む速さとなる。 
ところで1海里は、地球上の緯度1分(地球の円周:約40000Km÷360度÷60分)の長さに等しいとされ、航空機や船舶は地球上を長時間航行するので、地図上では非常に判りやすい単位となっている。 
因みに、毎時25ノットを換算すると、25ノット*1.852km=46.3km/時である。


航海の無事を祈って皆々と別れ、小生は下船した。 
かなりの高位にあるデッキから可愛い孫たちが、絶叫に近い声で別れを惜しんでいて、何かジーンとくるものがある。 
天候は良さそうなので、きっと、いい船旅ができるだろう、それを祈るばかりである。 
別れを惜しみながら、レンタカーを返却するため再再度、空港方面の大淀川の一ッ葉大橋を渡り返す。 

大淀川は、河口に近いこともあろう、1kmにも及ぶ川幅一杯に満々と水を湛えて、滔々と流れ下る。
川は、九州でも五番目に大きい川で、その源を鹿児島県に発し、各支流を合わせつつ都城盆地を貫流して宮崎平野を潤し日向灘に注いでいる。 

往時、陸上交通の未発達の頃、大淀川は流域で生産された物資などを舟を使って河口まで運ぶ行路であった。 河口部に位置する赤江港(河口の南側地区)からは更に千石船に積み替え、江戸や大坂へ運んだという。 
特に、内陸に位置する「都城」は日向地方の中心地であり、交通路は大淀川の船便に頼ったという。 
しかし、この川には難所が在った、都城盆地の北部「轟」地区というのがあり、その名の通り「白浪、厳に轟く」と言われるほどで、船を止めてしまうほど「瀬と滝」があったという。 江戸期、都城領主であった島津久倫(しまずひさとも)は、激流のなかで開削の難工事を三年がかりで完成させ、都城から大淀川河口まで舟の通行を可能にすることができたという。(寛政の開削工事)、


空港近くのレンタカー事務所で車の返却手続中、娘から電話で「個室の申し込みは首尾良く『特等室』が二部屋取れました・・!」と喜びの連絡が入った。 
小粒の孫三人と年寄りを抱えての船旅なので、何よりもホッとしたところである。

レンタカーの事務員に温泉施設の有無を確認したところ、幸いにすぐ近くに「がらっぱの湯」というスーパー銭湯が在るとのこと。 
「がらっぱ」とは、日向、薩摩地方で「河童」のことらしい。 
早速、その「河童の湯」を訪ねると、自前の温泉ではないが、岩風呂には霧島温泉の湯を直送しているとの事であった、ご苦労さん・・!。 

心身サッパリしたところで、今夜の泊まり場は久しぶりに愛車内とした。

次回は、宮崎神宮    第22日目へ


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