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日本周遊紀行(125)熊本 「熊本城」





写真:熊本城と「武者返し」


熊本城は「武者返し」(石組み)で見れる防衛の為の城であった・・、

お城へ向かう・・、
肥後・熊本について、熊本県人の気質は「肥後もっこす」として知られる。 頑固でへそ曲がり、反骨精神に溢れ、気性は荒いと言われる。 

海を隔てたお隣「肥前・長崎」は「ばってん」と一時、間をおくが、「肥後・熊本」は「そうに決まっちょる」と一刀両断、単刀直入であり好対照であるという。
よく言えば純粋で正義感があって意地を貫く。
意地は熊本、気は薩摩」といい「肥後武士の意地は、筑前、豊前を合わせたるより上と知るべし」・・と江戸期のガイドブックにも記されているという。
反面、荒っぽいのは表面だけで、実は気が小さく強がりが多いというが・・?。


その肥後・熊本人の象徴、熊本城の天守が既に見えている、案内に従って二の丸駐車場まで車を運んだ。 
正面に位置する「頬当御門」(ほほあてごもん)という箇所から然るべき入場料・入城料を払って歩を進める。

入城門には厳しい(いかめしい)・・?武者姿の門番が大槍を持って直立不動で見張っている、「肥後もっこす」である。 
近ずくと中年のオジサンで、「ご苦労さん、(鎧を着けてるので)格好いいですね、でも暑いでしょう・・?」「はあ・・仕事ですたい・・」とニコニコ顔・・。 

正面に、既に石垣の上部に大天守の城郭が見えている。 
外周を囲う大石垣を通って、すぐに大天守、小天守の正面に出た。 石垣上に聳える圧倒的な威容を誇る城郭で思わず息を呑む。


「武者返し」という城壁・・、


それにしても大規模な石垣の立ち上がりの曲線が美事である、「武者返
し」という手法の石積みであるとか。 
天下一流と名を馳せたこの熊本城の石垣は、「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配をもつ。 
清正が近江の国から卒いてきた石工「穴太衆」(あのうしゅう:織豊時代=安土桃山時代に活躍した、主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団)が持つ特殊技能を駆使して造られたといわれる。
下部は30度近い勾配が上に向かうに従って角度を高め天端では、ほぼ垂直にちかい絶壁になる。
城攻めにおいて攻め手は石垣からも攀じ登るが、この時始めは登りやすいが次第に勾配が急になってきて、終いには垂直になり落ちてしまうというわけである。
これが“武者返し”と言われる由縁である。

本丸主城へ入城し、各種展示物を見物しながら天守閣へ昇る。


展示品は主に650年の歴史を誇る細川家伝来の所蔵品が多く、特に参勤交代用の御座船(藩主、貴人が乗る船)の船絵図は豪華である。 
天守閣の展望の間は城下熊本市街をはじめ遠く阿蘇の山並みが鮮明である。 
山の合間に風力発電機であろうか、一列縦隊になって山裾から上部へ延びている。
すぐ眼前には本丸に並んで建つ小天主がまた良い。

日本三名城(姫路城、大阪城)の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。


築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれている。 
落成に際して、この地を隈元から「熊本」に改め、合わせて隈元城を「熊本城」とした。
城郭は周囲9km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えである。 

この石垣にも観られるように、この城の特徴は「堅実な守り」に重点をおいた造りと言われ、このことは明治期の西南戦争でも証明された。 
熊本城は城を甘く見ていた西郷軍の攻撃によく耐え、誰一人として城内に侵入することができなかったとされる。 そして、この戦いでは「武者返し」が大いに役立ったという。

ただ、西南戦争での50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前に原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失したともいう。


往時の「本丸御殿」は藩主の居間、対面所と見られるが、特筆すべきは華美な障壁画や「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」など特別の間が在り、それに全国的にも類例の無い地下通路である「闇り通路(くらがりつうろ)」と呼ばれる特別な設えもあるという。
この本丸御殿や昭君の間は、城主の清正にも不釣り合いな程の相当な貴人を招き入れる格式の高い様式であり、清正よりも高貴な人・つまり豊臣秀頼のために造られたのではないかとも云われる。

関が原戦後、再び豊臣方と徳川方が戦った場合、豊臣家に絶対の忠誠を尽くす加藤清正は、豊臣秀頼をこの城に迎え入れ、徳川方と一戦交える覚悟だったとも言われている。

この本丸御殿は、現在数10億円をかけて修復中であり平成20年度あたりには、華美な障壁画や「昭君之間」などが一般公開されるという。


この城は清正亡き後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となった。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。 
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。
現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。 
中でも本丸南西に位置する飯田丸・五階櫓は、平成13年に復元が始まり、本年(平成17年)2月に完成、お披露目したばかりのピカピカの城郭である。

尚、熊本城は築城以来2007年で400年の節目を迎えるという。

次回は、善政の雄・加藤氏と細川氏

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日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」



熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるらしい、更に細川家も・・、

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国生まれで豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もある。
加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗り、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てている。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、一気に肥後北半国19万5千石の領主を任命される清正27歳の時である。 
入国当時の肥後は、国人衆(こくじんしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていたという。
当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残していくらいである。 


武勇の将、築城の名手、治水・土木の天才・「加藤清正」・・、


清正入国後は治山治水、新田開発などに力を入れ、又、南蛮貿易に乗り出すなど積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果、領民からは神様のように慕われるようになった。 今でも熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるという。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では石田三成、小西行長らとの確執から東軍に付き、その功績によって肥後国大半を領して実質ともに54万石の大大名となる。 

関ヶ原で東軍についたとはいえ豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城にて秀吉の遺児・秀頼と徳川家康を会見させることに成功する。
これで豊臣家も安泰と思われたが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなっている。

享年50歳であったが、奇しくも生まれた日と同じ6月24日であったという。
豊臣家も清正の没後僅か4年で大坂夏の陣に破れ滅亡する。


清正亡き後、加藤家は家督争いが高じて寛永9年(1632年)5月、突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無作法」であるとして出羽・庄内に一万石だけを与えられて配流となる。
これが豊臣譜代の名門大名加藤家の没落の始まりであった。

熊本の礎を築いた「清正公」、幼少の頃は虎退治の加藤清正として教えられた。
然るに清正は当時六尺(180cm)の大男だったらしい。 
武勇の将、築城の名手、治水・土木の天才であった事はよく知られ、清正独特の治水技法を生みだした。

又、敬虔な日蓮宗の篤信者でもあったという。
その死後、権化(ごんげ)、権現の人であるとされ、次第に所願成就の「神」としてお祀りされ全国各地にお堂、神社、碑、像、日蓮宗派の寺院などで清正公信仰が広まった。 

特に、土建業者の信仰が厚いといわれる。

なお、熊本では「セイショコ」と言い、一般には「セイショウコウ」と称しているようである。 
肥後・熊本、入国以来県内各地の河川、田畑、新田開発に大きな実績を残し、しかも自ら陣頭指揮で工事に当ったといわれ、清正公の偉大さを偲んで市民会館・国際交流会館には往時の治水工事指揮姿の清正公座像が、熊本城をバックに建っている。


熊本・細川氏について・・、

細川氏は、源氏創家・清和源氏(清和天皇)の一派で河内源氏の流れを汲む足利氏の支族であり、室町時代には有力守護大名および管領家の一つとなる(三管領・室町幕府の主要な職制、交代で将軍を補任した細川・畠山・斯波氏をいう)。 
室町中期の管領・細川家は、細川勝元と山名宗全(持豊)との将軍家(足利家)の跡目相続の争乱である「応仁の乱」は有名である。 

戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は、織田信長と羽柴(豊臣)秀吉に従い家運を回復する。
関が原の戦いでは藤孝の息子忠興(妻ガラシャ:明智光秀の長女)は東軍に属し、江戸期に細川氏は小倉藩主と成る。 
そして忠利(忠興嫡男・三代目)の時代に加藤氏に代って54万石の熊本藩主となる。 

江戸中期の細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革や藩校・時習館での人材育成を行った事で知られる。 

明治維新後に細川韶邦(よしくに)が版籍奉還に応じ侯爵となる。 
近衛文麿の首相秘書官である細川護貞は政治的活動も行い、護貞の子で1993年(平成5年)に日本新党代表として非自民党連立政権を成立させた細川護熙(もりひろ)は、第79代・内閣総理大臣となる。 

細川藤孝直系の18代目の子孫に当る。


「宮本武蔵」が細川家と縁が有ったことはよく知られる・・、

武蔵は、足利将軍家の剣の師範である吉岡一門を倒し、奈良・宝蔵院流槍術の達人に完勝。又、徳川家指南役・柳生新陰流の弟子達を破り、兵法家としての名を高めていった。 

1612年、藩主・細川忠興の小倉に移り、そこで細川家に武芸の指南役としていた佐々木小次郎との勝負を希望する。
これを忠興は認め下関と小倉の間に浮かぶ舟島(「巌流島」)で勝負し勝利した。 
所謂、「小次郎敗れたり」の巌流島の決闘である。
小次郎の剣法を「巌流」と言われたので、この舟島を巌流島と称してしたとある。(この決闘は真偽不明説もある)


剣豪・宮本武蔵は寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれて晩年を過ごしたという。武蔵が熊本に来たのは終焉の地を求める他に、武蔵が剣の道から得た真理を治国経世に役立つよう願ったともいわれる。 
武蔵はこの地で自ら創始した「二天一流兵法」を大成して、「兵法三十五ヶ条の覚書」、「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送ったという。 
城内で62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られたという。

この地が選ばれたのは、恩顧を受けた細川藩主の江戸参勤交代を、草葉の陰から拝し、守りたいという武蔵の願いだったといわれる。

次回は、熊本・西南の役    PartXへ

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