日本周遊紀行



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日本周遊紀行(120)諫早 「干拓事業」


写真:諫早干拓の潮受堤防と水門


諫早干拓の堤防はやはり巨大だった、しかし、・・、

眼鏡橋から一旦出島まで戻って、付近の市立病院横に入口がある「出島長崎道」で一路諫早に向かう。 

諫早は県の中央部というか・・?、市域は逆T形の中心に位置し、西側に長崎半島、南側は島原半島それに北側は大村半島・・?のそれぞれ三半島の付け根にあたる。
又、西側に大村湾、東側に有明海(諫早湾)そして南側には橘湾の・・、何と海域も三つの海に囲まれている。
これはもう、地形的には相当珍しい部類に入るだろう。

そして諫早と言ったら、やはり有明・諫早湾の干拓で、この事業で物議を提供している所でもある。


「あの水門が、ギロチンの様に端から閉じられる映像は衝撃的だった・・!」


諫早湾の状態やギロチン水門を見ようと思い、地図を見ながら行ったがなかなか海岸線にはたどり着けない。
国道から海岸線までは遠く、勿論、過去に干拓された広大な農地が広がっているためで、それに海岸・・?へ行くための道は余り整備されていないようだ、場所が違ったかな・・?。 
近所の人に伺うと「この先、車じゃ行けないし、行っても、それからかなりあり堤防は見えないよ、堤防見るにゃ湾の向こう側、国道251を行くだよ・・」と言う。


言われるままその国道を行く。
半島先端の島原へ通じている島原鉄道が並行して走っている。吾妻町の平江地区まで来て、コンビニで堰堤の様子を聞くと・・、

「踏み切り渡って、真直ぐ行くと直ぐだよ」
「車で行けますか・・?」
「車でって、堰堤には立派な道路が付いていて、向こう岸の高来町まで行けるようになりますよ」

言われた踏み切りを渡ると真ッ直線に延びた堤防があった。
上部には立派な道路も取り付けられている。入口部には工事用のバリケードが置いてあったが、何とか通れそうなので進めてみた、途中水門近くに大きな駐車場があり、ここまでは進入できたが、水門から先は未だ工事中なのか、完全に通行止めであった。(2007年12月に全面開通)

この堰堤道路は全長7km、この道路は農産物輸送の合理化、新たな観光ルートの開発、地域間交流の促進を目的に潮受堤防を一般交通として利用するもので、島原半島一帯と多良岳山麓一帯を連絡するものであるという。


しかし、ここでは道路の話ではなく、堤防と干拓のことである・・、

両海面を見ると明らかにその差異が判る、外洋は普通の青く澄んだ海であるが、閉ざされた内海は灰色に澱んでいた。
これらの海水はやがて干拓され広大な新規の土地が出現するのだろう・・?。


堰堤工事は1989年より「国営諫早湾干拓事業」として行われ、1997年に潮受け堤防が完全に閉じられた、例のギロチン閉門である。 
干拓計画では、農用地面積は約816ha(東京ドーム200個分)、作農種は露地野菜、施設野菜、花木、酪農、肉用牛など(やはり米は含まれないようだ)、他に調整池が約2,600ha で事業費は凡そ2,500億円といわれる。

水門が閉鎖されたその後、かつては「宝の海」と言われた有明海は海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化し、二枚貝タイラギが死滅、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど重大な漁業被害が発生したとして、自然保護団体のみならず沿岸の各漁協の猛反対にあっている。 

しかし魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響との主張もあり、海苔養殖業者と他の漁業者との紛争も発生しているという。
克っての海だったところで干上がった地面には、海の生物の腐った匂い、白いフジツボの死骸、放置されて漁船、養殖用の朽ちた立杭、地面は干からびて、ひびが走っていた。 


有明湾干拓について・・、

干拓の目的は防災と優良農地の造成なのだそうだが、防災は高潮などに伴う低地の浸水を防ぐこと、農地については長崎県は三方を海に囲まれ、まとまった平野がないため水田・畑作のための農地不足の解消が長年の課題であった。

諫早の干拓事業の歴史古く、江戸時代や明治〜昭和期には既に行われていて今は農業用地、住宅等に既に利用されている。 
最も古い干拓は、推古天皇の頃(593〜629年)に開かれたともいわれている。 


平成の干拓は国の公共事業の一つで非常に大規模なものであり、「潮受け堤防」は全長が約7キロもあるという。 
同湾の堤防が閉め切られてから9年(1997年)となるが、閉め切り当初は沿岸から堤防までの海域は6 ,7kmあったが、現時点では1km前後と干潟が発達してきているという。

有明海・諫早湾の潮の干満変動差は日本でも有数で、最大約6m(我が国最大といわれる)もあるという。 
因みに、東京湾では2m程度しかない。

このため、諫早湾は日本においても独特な海域であり美しい自然と海の幸を提供してきた反面、この干満の大きさと遠浅な地形のために湾奥部では有明海から運ばれる土・粒子が堆積しやすく、干潟が発達しやすい。 
干潮時には海岸線から5〜7kmの沖合にまで干潟となって露出し、干潟は多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長するという。


ところで、「干拓」と「埋め立て」の違いは新たに土を持ってくるか、来ないかにあるとされる。

干拓は字の如く新たな土壌を持ってくるのではなく、海底土を乾かして耕土にする、そのため海水の塩分を多く含んでおり除塩の為の土壌改良が必要になる。 一時騒がれた海苔の不作、有明海の環境変化など、この干拓事業との因果関係については様々な説が飛び交い、一時期、工事停止の司法判断でも「関係がないとは言い切れない」ということで、誰も、はっきりとした事は判らないといわれる。
平成の諫早干拓は、まだまだ物議が出そうである・・!。


諫早干拓の地、堤防を後にして国道57号(国道251と一部併用)まで戻り、今夜の泊まり小浜温泉へ向かう。
国道57号は、長崎市から大分県大分市へ至る一般国道で、島原半島の雲仙山域から島原市へ到り、熊本県宇城市三角町までは有明・島原湾の海上ルートを通っている。 
小生が辿る予定の小浜から、明日の熊本方面への予定のコースでもある。


千々石と書いて「チチイシ」と読む・・??、


愛野町の橘湾の海岸近くから251号線がY字路になって合流し、このまま小浜方面へ向かう。
気が付くとこの辺りは霧島半島(島原半島)の付け根にあたり、この国道(R251・島原街道)は半島をグルッと一周りして、又この地へ戻っているのである。
久しぶりに、奇麗な砂浜の千々石海岸を見た。

今朝から、激しい入り江や出島の入り組んだ海辺や高低差のある断崖の所謂、リアス形の海岸を見慣れてきただけに、小波が寄せる、輝く白砂の海岸は気持ちが広やかになる。


千々石と書いて「チチイシ」と読むと思ったが実は「チジワ」と読むらしい、難解である。 
海岸から一時、内陸、山間へ向かうようである。ここから望む霧島山系の高峰が美しい。 
気がつくと霧島の火山岩であろうか石を積み上げ、垣を造り上げ、きれいに整備された棚田群である。 田圃の畦や段差は今ではすぐにコンクリートで固めてしまうのが普通であろうが、こちらではほぼ同じ大きさの石を積み上げることで土地を上手に使っているのが分かる。 

一望すると民家の周りはほとんど棚田の田圃で、かなり高方まで山の端をかけあがているのが判る。 棚田の田圃は緑の稲波が風にそよいでいる、一部畑もあるようだが。

清流にも恵まれた「棚田」では、山あいの昼夜の気温差が大きく、美味な米が収穫されるという、特に千々石町の「棚田米」は県内でも高い評価を得ているという。 
また、「じゃが芋」は北海道に次いで全国第2位の生産量を誇る。長崎県では「ばれいしょ」と称しているらしいが、ここ千々石町においても春と秋の二期作を基本として育成に取り組み、ほぼ一年中おいしい「ばれいしょ」を提供できるという。

千々石の棚田は水田枚数約6500枚、傾斜度は20度から40度、大体180年の歴史が有るという。「日本の棚田百選」に認定され、岳地区の棚田、清水の棚田とある。

棚田は食料を生産する場としてだけではなく、山から流れ込む水を蓄え、ダムの代わりをなし土砂崩壊防止も果たしている。 
同時に山の斜面や丘陵地に段々と折り重なり、側溝からは、せせらぎを見聞きすること出来、四季折々の風物を見せてくれる。 

棚田の美しさは、心にやすらぎを与えてくれる日本人の原風景でもあろう。

次回は、「小浜温泉」

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日本周遊紀行(121)小浜 「小浜温泉」


写真:小浜温泉街


海岸に沿った街中から、100度の源泉が湧く肥前・小浜温泉・・、

千々石町は国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、小浜町、南串山町の同程度の7町域が大同合体の構成組織となり、平成17年10月11日に「雲仙市」となった。

一走りで小浜の温泉地へ着いたようである、珍しく海岸に湧く温泉地である。
海岸沿いに国道がほぼ直線に走り、海辺に良く整備された公園が細長く道路と平行している、その右はもう波打ち際の海岸線である。 


小浜温泉は、街のいたるところに白煙(水蒸気)が上がっている。 
近付いて視ると民家の(小規模な旅館・・?)すぐ前に、コンクリートとブロックを二階の窓くらいの高さまで造り上げた四角いタワーが在り、そこからモウモウと蒸気が漏れて吹き上がっている。
(タワーは温泉水と蒸気を分離する施設)
上部から耐熱用の赤い塩ビ管が数本、取り出し用に設置してあり、地中に潜っている。下には湯溜りが有って、そこには「タマゴ、湯とおしはご自由に、どうぞ・・」とある。

この小浜には源泉が20数ヵ所確認されているといい、ここはその中の一つであろう。 
商店街の通りから一つ入った小さな路地であるが、水蒸気をあげた源泉のすさまじさに圧倒される。 
小浜温泉街は「源泉巡り」の散歩も楽しみの一つかもしれない。


この温泉町には、所謂、高級・大規模のホテルや旅館はあまり見当たらず、観光地化されてない比較的庶民的な温泉、湯治場風の面影を残しているようである。 
源泉温度100度、一日の湧出量15,000トン、泉質はナトリウム含有泉。神経系疾患、婦人病、リウマチ、胃腸病、呼吸器病などに効果があるという。

昭和37年には既に国民保養温泉地に指定されていて、雲仙温泉の指定範囲拡大の際に小浜温泉の範囲も国民保養温泉地に指定されたという。 
尤も、島原半島そのものが、雲仙火山群(昨今では普賢岳の大爆発が記憶に新らしい・・、後記)で形成されたもので、大活火山の島なのであるから。


町中をゆっくり周遊して、お目当ての共同浴場へ向かう。 
海岸沿いの町営「浜の湯」を訪ねてみた。 

自動販売機で150円の入湯券を購入広い浴室内へ、夕刻で適当な時間帯のせいか結構な人数が湯浴みを楽しんでいる。 浴室はかなり広く、浴槽は二つがつながっている。
左側が「ぬるめの湯」、右側が「あつめの湯」と表示され、源泉の流入口の脇にそれぞれ水道の蛇口があって、水で薄めて浴槽の温度調節をしているようである。
何しろ源泉温度が100度では水で薄めざるをえない。 小生は、ぬるめの湯のほうが常に適温である、舐めるとやや塩っぱいのは海に近いせいかもしれない、無色透明で無臭のようである。


雲仙岳山麓の橘湾に面した海岸に湧出する小浜海浜温泉の歴史は「肥前風土記」(713年)にも記されているほど古く、既に、江戸時代には湯治場として利用されるようになったと言われている。 

大正12年から昭和13年までは鉄道が開通(小浜鉄道は、1932年に廃線)、多くの観光客がこの地を訪れ、更に、山上の雲仙温泉街までの道路(現、国道57号線)が整備されてきたのもこの時代である。
全国の温泉の中でも湧き出す温度が高く源泉も数多い。 

昔は海辺の砂浜を掘ると温泉が湧き出たという。 


かの長崎居留のシーボルトは、著書「ニッポン」の中で・・、


「 温泉嶽の麓、島原の西海岸に接して病を癒す効力ありとして名なる温泉あり。 その近くなる漁村の名を取りて小浜という。  ここは満潮時には海水来り、被うを特異とす。 ひびきも立てず沸き立つこともなく、岩の底より湧くを浴場に導き来るなり。 温度はおよそ華氏の90度にして色は清く泉水の如く透明なり・・。 」

と記している。

長崎大学医学部にいた歌人・斉藤茂吉は、この地で湯楽・愉楽しながら橘湾に沈む夕日の美しい風景を詠んでいる。
   
『 ここに来て 落日を見るを 常とせり 
                    海の落日も 忘れざるべし
 』   茂吉


海岸国道を更に行った小浜の中心街から、やや外れの海沿いに今夜の目的地・国民宿舎「望洋荘」があった。 

部屋から眺める夕日が素晴らしい! 風呂は、大浴場、穴風呂(単なるトンネル?)、ジェットバス、うたせ湯、露天風呂等があり賑やかである。 一通りの湯浴みをし、食事は勿論海鮮料理を主体とした「御造り」で、お酒と一緒に美味しく頂きました。

気が付かなかったが温泉街中の海辺に、「波の湯・茜」という新しく出来た町営の温泉場があり、海上露天風呂も在って料金300円で入れるらしい。

次回、今度は雲上の温泉・「雲仙」   第12日目へ

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