日本周遊紀行

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紀行(52)稚内 「氷雪の門」



稚内公園の、もう一つの稗・「氷雪の門」・・、


さて、「氷雪の門」は・・、
戦後、樺太における邦人の苦難の過去、歴史を表した慰霊の碑である。
ソ連軍の侵攻を知った樺太の日本人は、北海道へ緊急避難することを決め輸送を始めた。
この時は、あの北支満州へ侵攻したのと同様に、樺太でも大混乱を極め、港へ着くまでは様々な苦労が有ったと言われる。 
更に、ソ連の潜水艦が出没、留萌沖では「小笠原丸」などが魚雷攻撃で沈没、1800人の犠牲者が出した。


樺太・大泊港はソ連軍によって封鎖されるまで77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという。 
樺太と千島の戦闘では、日本軍3000、民間人3700人が戦死している。
このことは8月15日の日本の無条件降伏が決まった終戦後のことである・・!!。 
更に、68000人の邦人はシベリヤに抑留され、強制労働を強いられた・・。

この門は、これら戦時、否、戦後における望郷の念と、樺太で亡くなった日本人を慰霊する為に建立されたもので氷雪の門の間には、氷雪に耐え、たくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像が立っている。


「引揚船」について・・、

不可侵の約束を一方的に破ったソ連軍の侵攻が満洲・樺太・千島などではじまる。
北方では樺太の老幼婦女子や逓信省職員の北海道への避難搬送が急務となった。
そこで依頼を受けた「小笠原丸」は、8月17日に急遽稚内港を出発して樺太南端の大泊港へ急行し、そこで約1500名の引揚者を乗せて稚内に運んだ。 
しかしまだ大泊には数万の避難者がおり、休むまもなく「小笠原丸」は2度目の搬送のため大泊に向かった。

8月20日出発して同午後に大泊に到着、やはり約1500人を大至急乗せて午後出航し稚内に帰港した。ここで1500人中900人を降ろし、残りの600人を乗せて、北海道西側海岸沿いに稚内から小樽へと急いだ。 
しかし、航程あと3分の1で小樽・・というところで、惨劇が起こったのである。

このときの「小笠原丸」は、もう戦争は終わったからと安心して灯火管制もせずにいたのだが、8月22日午前、突如として潜水艦による魚雷攻撃をうけ、たちまち沈没してしまったのである。
海岸(増毛町)から約4海里(1海里は1852m)の場所だった。 

浮かび上がった潜水艦は、海面を漂って助けを求める婦女子たちに機銃掃射を浴びせて虐殺また虐殺、十分に殺し終わったところで悠々と姿を消したという。

老幼婦女子600人の他に乗組員と警備隊が100人ほどいたが、その一部が救命艇に乗って陸地に急ぎ、漁港に急を知らせた。 
知らせをうけた漁港では至急漁船で救助に向かったが、乗船者の多くは船室に詰め込まれていたのと、危うく海面に逃れた人たちも機銃掃射で虐殺されたのとで、一般乗客で海岸にたどり着き運良くボートに乗れたのは、わずか19名だったと言われている。 
また甲板にいて、かつ泳ぎの達者な乗組員と警備員も、助かったのは4割のみであったという。


同じその日、その付近で、やはり緊急手配された引揚船の「第二新興丸」(2500トン)と「泰東丸」(880トン)も同様に魚雷攻撃を受けた。 
小型の「泰東丸」は撃沈されて生存者はなく、大型の「第二新興丸」は大破されて多くの犠牲者を出しながらも、かろうじて近くの留萌港にたどり着いたという。

「泰東丸」の犠牲者数は約400名、「第二新興丸」のそれは667名だったと言われている。
じつは「第二新興丸」には、用心のために小さな大砲が積まれていた。 

潜水艦は民間船というので油断して浮き上がったため、この大砲による日本側の必死の反撃によって、敵潜は沈没したという。 
だが沈没した潜水艦が、他の2隻に魚雷を発射したものと同じだったのかどうかは分からないという。


いずれにせよ、結局、合計して1700名余(あとの調査で1708名とされたらしい)の老幼婦女子が戦争終結後に犠牲になったわけで、空前の残虐行為であったことは確かである。 

緊急避難時だから乗客名簿などあるはずもなく、したがって遺族にとっては、海で犠牲になったのか陸で殺されたのか、それとも樺太のどこかで生きているのか、それすらも長いことわからないと言われてる。
南無阿弥陀仏・・!!。

この後は宗谷岬など、「温泉や観光」   観光編へ

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紀行(53)猿払 「或る海難事故」

【北海道・オホーツク海道】

北海道(稚内)⇒⇒⇒⇒北海道(根室)



「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。 
心なしか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。 


猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。 
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。

海岸の公園に来た・・、 
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている公園である。この中に「インディギルカ号遭難碑」というのがあった。
その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい。


インディギルカ号遭難とは・・??、

昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)オホーツク海に、一艘の大型輸送船が咆哮していた。
ソ連船インディギルカ号だった。 カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。

冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあった。
この時の天気状況は北海道北部沿岸に暴風警報を出すほどであったという。 

同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい。
本来、宗谷岬の前より西に進路を執らねばならぬのに、この時化と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。 

そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童だったという。
しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという。
遭難者は700人を超えた。

昭和14年頃(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあった。
その顕著なものがソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」であった。

このように日本とソ連は険悪な対立状態の間柄でもあった。 
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っている。


序(ついで)に「ノモンハン事件とは」・・。


ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。 
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。

当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。

以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみがハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。

戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日〜5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日〜6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し壊滅的な打撃を受けた。 
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。

これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになっている。


余談だが・・、

以降日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いている。  猿払村の人道的配慮は生かせれることなく。

後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている。
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 
この時同様に地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今でも続いている。

このことは「西日本編・串本」の項で述べるとして・・、
両遭難事件の因果は異なるであろうが、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。


猿払村は日本最北の村である。
昔は相当な貧村に喘いだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源とが合体して大きく発展しているという。

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紀行(54) 「オホーツクの地」



流氷海道・「オホーツク」を往く・・、


ポロ沼と猿払川付近は既に浅黄色に変色した草紅葉(くさもみじ)が浮島のごとく偏在して、絵の様な美観が漂っている。 そして、間もなく「浜頓別」へ達したようである。

浜頓別・クッチャロ湖の白鳥公園・・、白鳥は未だ来ていないが、10月半ば以降シベリヤより飛来するという。
正式名は「コハクチョウ」、その数一万数千羽、勿論日本最大の飛来地で「ラムサール条約」にも指定されている。 
一部はここで越冬するが大部分は本州を南下し山形・新潟・宮城方面へ飛んでいってしまう、ここは中休みの地である。 三月の暖気、ここを中継してオホーツクをこえて、元のシベリヤへ帰って行き繁殖する。


「ラムサール条約」

イランの首都テヘランの北、カスピ海の近くに「ラムサール」という町がある。
1971年に水鳥と湿地に関する国際会議が開かれ、「特に水鳥の生息地として国際的に大切な湿地に関する条約」が取り決められた。 
この条約は、この町の名前をとって「ラムサール条約」と呼ばれる。

湿地には泥炭地、湖沼、河川、海や入り江、干潟、マングローブ湿地や人工的なダムなどがあり、すなわち水の在るところはみんな湿地であると定義している。
「ぴかぴかの靴が泥で汚れてしまうために立ち止待ってしまう所、そこから先こそが湿地である」と、テッド・ホリス博士(イギリスの生態学者/ラムサール条約の発展に貢献)は言っている。 

湿地には微生物をはじめ魚や貝、昆虫、鳥、獣、そのにいろいろな植物が育ち繁殖している。
このように大切な湿地を世界の国々が守って、特に国を越えて飛んでい水鳥たちを中心にして、湿地の環境を守っていこうという国際条約である。

1996年6月には93カ国837カ所が、2000年2月には、118カ国1016カ所、2001年2月には、123カ国1060カ所が登録湿地となっている。
日本は1980年にラムサール条約に入り、釧路湿原が最初の登録湿地になり、次いで1985年に伊豆沼・内沼、1989年にクッチャロ湖、1991年にウトナイ湖などが登録湿地になった。


今は、人っ子一人いない寂々とした湖岸に、木製の桟橋が沖中へ延びている。
桟橋の中ほどで、屈んで(かがんで)水中を覗くと藻草が微かに揺れていて、手の平大のモズク蟹・・?が一匹這っていた。 

水草の茎を差し出すと”両はさみ”で挟んだ・・、ソーッと引き上げるとそのまま付いてくる。
水面を出たところで片手でヒョイと摘んで桟橋へ載せた。蟹は気が付いて慌てふためく、暫く(・・といっても、ホンの1分少々だよ・・)遊んで離してやった。

  『 北の果て 我一人来て クッチャロの     
                    しばしの休み 蟹とたわむ
る 』・・小生
 


網走から美幌峠を越えた処に「屈斜路湖」がある。 

韓字読みでクッシャロと呼んでいるが、アイヌ語源の意味ではこちらと同名の「クッチャロ」が元々らしい。どちらも同じ意味のアイヌ語から名前がつけられ、クッチャロ湖の語源は、「トー・クッ・チャロ」と言われ、日本語では「沼から水の流れ出る口」、「沼ののどもと」、「沼の出口」という意味になる。


明治期のゴールド・ラッシュ・・、


この辺り、明治中期には一大金の産地として名を上げたという。 
頓別川の上流部、ウソタン川では今でも砂金探しの観光地になっていて、地図を見ると、砂金山、金ヶ丘、ウソタン砂金地、金山神社等、金にまつわる名称が多く残っている。

明治33年に浜頓別を流れるウソタン川で発見された重さ768グラムの金塊が、日本最大のゴールドラッシュの始まりであったといわれる。


ところで、採取高というのは常に極秘とされているために正確な生産高を把握することが難しいといわれているが、地元の『殖民広報』によると砂金採取量は、明治32年をピークに年々減少していると記しながらも、明治32年176貫(660キロ)、33年120貫(450キロ)、34年107貫(401.25キロ)、35年52貫(195キロ)、36年32貫(120キロ)と記録されている。 

又、『浜頓別町史』は大正7年までの産出高累計550貫(2650キロ)と記している。


現在のように機械力が駆使されていない時代に2トンあまりの採金は、驚異的な数字であり、ウソタン砂金地がいかに豊富な埋蔵量であったかを物語っている。
現在でも、ウソタン川近郊には「砂金採掘公園」なるものも在り、 500円の入場を払って砂金掘り体験をすることができる。 

一日にとれる砂金の量は微量ながら、埋もれている夢とロマンの大きさはゴールドラッシュ時代の昔と変わりないという。 
毎年8月上旬には「ウソタン砂金フェスティバル」が開催され、又、周辺には砂金採掘全盛時代を忍ばせる石垣や金鉱跡などの遺跡も残っている・・。



さて、「オホーツク文化」についてであるが・・、


浜頓別のクッチャロ湖畔には、「オホーツク人・文化」の遺跡が多く出土しているという。
更に、枝幸町(えさしちょう)、興部町(おこっぺちょう)界隈も遺跡が多く発掘されている。 
尤も、当地域に限らずオオホーツク海の沿岸地域は古代遺構が数多く発掘されていて、この地は克って「オホーツク文化」が栄えた地なのである。 

北海道特有の擦文文化(「手塩」の項で若干述べた)とアイヌ文化の中間に位置し、北海道の北部と東部辺りに7世紀から13世紀にかけてオホーツク海沿岸を中心に栄えた文化といわれる。
年代は、奈良時代から鎌倉時代の始め頃にあたるとされ、オホーツク文化の担い手をオホーツク人とも呼んでいる。 
そして、この文化は「アザラシ」と深い関係があるといわれる。 

オホーツク文化・・!、
当時の北方地域の人びとはアザラシの皮や腸を衣服にし、油を食料や明かりにして、肉を食料に骨を釣針やモリ先などにと無駄なく利用している。
オホーツク文化より後のアイヌの人びとも同様な暮らしをし、アザラシや魚の油を、ほたて貝に入れて明かりとしたりした。
つまり、アザラシは当時の人々にとって最も生活に身近な動物だったのである。

オホーツク人は、ロシアや中国の国境近くのアムール川(黒竜江)の海域をサハリンから南下したと考えられ、彼らは先ず北海道の北部で生活し、しだいに東へ南へと範囲を広げていった。
その痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいるが、その後のオホーツク文化はアイヌ文化に取り入れられたともいわれる。

人々は、アザラシ等の海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送り、彼らの遺跡から出土した生活痕からは多くの釣針やモリ先、アザラシやトドや魚などの骨が出て来ている。
これらの遺跡は海岸そばに限られ、内陸には存在しないという。

このことはオホーツク人の生活は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣狩猟に重点があったともいう。 
このことは流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためとも考えられている。 

遺物に描かれた絵や模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたらしい。 
又、海獣の他に既に豚と犬を飼い、どちらも食用にしていたらしい。 
ただ、道東では豚飼育は低調だったが、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩ったという。 

集落は海岸のそばに置かれ、住居は竪穴式で何十人も収容できる大型の住居や、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居もあり、大規模住居は中心集落で見られるという。


「古代人・縄文人が生活し食べていくのに、オホーツク沿岸ほど良いところはない」・・、といわれる。 おそらく世界一だろうと・・、


流氷と共にやって来るアザラシやオットセイなどの海獣はシベリヤやサハリンと酷似していて、流氷は無味漂白のように思えるが、実際は「食の倉庫」であったとも観られる。 
オホーツク海の魚貝類をはじめサケ・マスなどの回遊魚は、「食」のほうが川を上って向こうからやって来るのである。


又、気候・季節的にみても面白い・・??、

オホーツク気団という「寒気団」がある・・、これが発達して東風(コチ)が吹くと稲作がダメージを受ける「やませ」である。 
だが同時に、この北の地域は豊漁になる、大寒流がオホーツクから千島列島を抜けて太平洋に流れ込む、一部は日本海へ向かう。 此れが「親潮」である。


「親潮」という名前がいい

北の漁業者が感謝をこめて付けた名だそうで、この海流は栄養に富みサケ・カニ・タラ・ホタテ・ホッキ等魚貝や海藻を育てる。
要するに、オホーツク海は稲作社会にとっては恐ろしい海だが、漁民にとっては「親のような海」なのである。

この現象は、今も変わることはない。



「紋別」までやって来た・・、


G・スタンドで若い衆に「紋別には温泉は有りますか・?」、「ハイ・この近くに天然温泉ではないが立派な施設がありますよ!」丁寧に地図まで書いてくれた。

街のほぼ中心である国鉄廃止線になった紋別駅の跡地に、スーパーマーケットや海鮮・生鮮市場棟「オホーツク 海紋市場」と、温浴施設やレストランなどがあった。 
温泉は「湯けむり紋別・とっかりの湯」という。

22種のお風呂を楽しめる大浴場『とっかりの湯』


施設はまだ新しく綺麗に整っているようで、早速、「とっかりの湯」を訪れた。 
磨かれた廊下の横に二十帖ほどの広い休憩室があった。 

お湯の特徴としては、「お湯には紋別大山の森を通る伏流水を使用。
遠赤外線を放射するブラックシリカ(神明石)でお湯を仕上げているという、「血液の循環を促進して新陳代謝を高めてくれる」とあった。

ゆったり、のんびり旅の疲れを洗い流した後、大広間の和室にて食事を摂りながら今日一日のまとめを行う。

因みに、センターの名前にもなっている「とっかり」とは、アイヌ語の浜ことばで「アザラシ」という意味であり、今でも、北海道の漁師たちはアザラシのことを「とっかり」と呼んでいる者もいるという。

後は海岸沿いの道の駅「オホーツク紋別」で車中の泊りとなった・・。

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