日本周遊紀行

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紀行(40)松前 「松前藩」



全国、250以上の諸藩のある中、広い蝦夷地・北海道でも唯一の藩・・、


中世、鎌倉から室町期にかけて、津軽地方は安東氏(平安期の安倍氏の出身)の支配下にあった。
特に、安東氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代を通して、津軽半島の「十三湊」を本拠地とし栄えていた。(十三湖・十三湊の項で前述) 

十三湊を根拠としたのは、水運、海運に利があったとされ、船を縦横に操る安東氏にとって、蝦夷地・松前(当時は福山)などは隣の町へ行くようなものであったろう・・?。 
松前と津軽の竜飛の間は、僅か20kmに満たないのである。

中世、源頼朝が奥州・藤原氏を滅ぼした後は、津軽地方は出羽国より陸奥国に移され,北海道も陸奥の管轄に入ることになった。 
その頃、津軽の安東氏は,鎌倉執権・北条義時により蝦夷管領を命ぜられている。 
しかし、南部氏の台頭によりその領域を奪われ、15世紀半ばごろには安東氏は蝦夷島へ逃れてくる。一方、南部氏の重臣だった蠣崎氏(かきざきし)が反乱を起こし、それに失敗して蝦夷島へ脱出している。 


当時、蝦夷支配権はいまだ安東氏が確保していたが、アイヌとの「コシャマインの戦い」などを契機として蠣崎氏が台頭し、16世紀はじめには安東一門としての蝦夷島の代官となった。
「蠣崎氏」は、若狭の国の武田氏の流れをくむという。 

若狭守護・武田氏の嫡子として誕生した「武田信広」であるが、21歳の若さで出奔し、南部・三戸の南部氏の元へ移っていったといわれる。 


南部氏は、元より甲斐の武田の出身で、云わば同族のよしみでもあった。
その後、南部家の領分から知行を許され、蠣崎・武田氏を名乗るようになった。 
戦国末期、関白・豊臣秀吉に朝鮮出兵時の本拠・肥前名護屋で面会し、蝦夷地支配の朱印状を与えられ、蛎崎氏は名実共に蝦夷地の領主として安東氏から独立した。

次に、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開いている。 
この時期、東軍、徳川軍に臣従していた蛎崎氏は、徳川家康からも安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、日本最北の藩・松前藩を成立させてている。
同時に松前氏を名乗っている。

当時、この辺りはアイヌ語では「マトマ・イ」とよばれていたので、松前になったとされている・・。


幕藩体制下の松前氏は、蝦夷島の主としての客臣扱いで、格付けは一万石相当の「柳間詰め」(大広間は入れない大名席)といわれる大名であった。 
ただ、当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎないが。 

この時期、安政元年・1854に、日本最北・蝦夷地随一の和式三層の城郭が出来上がる。
ロシアの脅威やアイヌに対する警備のために、必要性が幕府に認められたための松前城であった。 
本格築城としてはわが国では最後の築城であるとのこと。


石高(米)の無い松前藩は・・??、


松前藩領は蝦夷地全域とされているが、実効支配していたのは渡島半島のみで、それ以外の領域は放置も同然であった。 
藩の知行制度も、他藩と全く違う制度をとっていた。 
米の生産がないので土地を与えても意味がないためで、「商場知行制」という商い方式を採用していた。特定の区域のアイヌとの交易権を与えるというやり方で、藩士はその地域に赴き、アイヌと実際に交易を行い利益を得ていた様である。

時代が進んでくると商人に交易の全権を委ねて、商人に対する手数料を除いたアガリを得る方法に変わり、又、後には、「場所請負制」に変わっている。 
つまり蝦夷地全域の交易権を有力な商人に全権委任し、毎年多額の運上金(税金に相当)を徴収するのである。 
場所請負制の代表的な商人として、「国後・目梨(クナシリ・メナシ)の蜂起」の原因を作った「飛騨屋」がいた。(根室の項で記載予定)


しかし、領土の上知(あがりち:幕府や藩に没収された土地)や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は奮わず、藩士も城下の民も苦しいものには違いなかった。

下って、戊辰戦争では、箱館戦争の一環として松前城で旧幕府軍と戦って敗戦の憂き目をみている。
その後、お城は奪還したが、明治期、版籍奉還や廃藩置県で社会体制が変化、その後の松前藩は明治期には館藩と称し、ほんの一時、館県と称し、ついで約1年の青森県管轄を経て開拓使所管に入った。

正確な行政区は松前藩、館藩、館県、弘前県、青森県、青森県松前出張所、開拓使函館支庁へと、明治2年より5年の間にこれだけの行政上の地域名が変化している。

お城の奥まったところに郷土資料館が在り、他に藩屋敷や大館跡、松前家墓所等があり、松前はやはり歴史の街であることを実感する。
松前城を出て振り返ると、丘の上の天守閣がハッキリ望める。 
成る程、この状態だと艦砲射撃の餌食になりやすい、納得である。 
城郭に”サヨナラ”と言って先へ進む。


上の国の天の川・・・、 


国道228を進む、右に見えてる山あいは、だいぶ緩やかになっている。 
その風景はササやススキと低木の、いわゆる坊主山が連続している。
やはり海の青はいくら見続けても飽きない、空も青く晴れ渡り、水平線の彼方ではこれが一体となって境目が無く、その為視界が青色一色に染まり、尚一層、深い透明感と爽快感入り混じり実に美しい。

単調な、でも快適な海岸道路を走って、ようやく「上の国」へ来た、上の国という町の名前である。
「上ノ国」は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。


1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部(ぬかのぶ:糠部郡は、かつて陸奥国にあった郡である)や津軽の人々が上ノ国付近まで逃れたという。
鎌倉時代以降、蝦夷地はその安東氏の管轄とされたが、本格的に蝦夷地の支配に乗り出したのは15世紀初頭に、北海道に移住してきてその地を治める豪族となったのが「蠣崎氏」(かきざきうじ)であった。 渡島半島各地に砦を築き、この砦は「館」(たて)と呼ばれ、この時期築かれたの館の数が12余りだったので「十二館」と総称されている。 


函館の周辺は「下之国」、江差の周辺は「上之国」と称された・・、


このとき函館の周辺は「下之国」、上ノ国や江差の周辺は「上之国」と称された、これが町名の由来であるが。 
このころの上ノ国は松前や箱館とともに蝦夷地を代表する港であり、十二館の一つとして作られた花沢館は「上之国」地域の中心拠点として機能した。

1456年にはコシャマイン率いるアイヌ人の蜂起があり、和人の諸館が次々に陥落したが、花沢館主・蠣崎季繁の客将であった武田信広が指揮する軍が、コシャマインを殺害これを鎮圧した。 

信広は、これを機に蠣崎家を継ぐこととなり、花沢館の近傍に勝山館、洲崎館を築き、「上ノ国」は蠣崎氏による蝦夷地支配の拠点となった。 
1514年、二代の光広は松前に本拠を移したが、勝山館に城代を置いた。

その後も上ノ国は檜山地域の政治・経済・軍事の中心であったが、江戸時代に入った1678年、江差に檜山番所が作られると拠点機能も江差へと移り、上ノ国の役割は次第に小さくなっていった。


「道の駅・上の国もんじゅ」(もんじゅ・・??)で一息入れる。

もんじゅ」という名は駅から20m離れたところに立つ、知恵の仏・文珠菩薩に似た「文珠岩」からつけられたという。
街へ入る手前に「天の川」という名称の真澄の河が流れていた。 

「上の国の天の川」・・なんとも響きのいいロマンチックな名称である・。

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紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」

 『 江差の町を 何かと問えば
            昔は鰊で今追分か 中を取り持つ開陽丸 』・・小生


国道228号線を別名「江差ソーランライン」とも呼んでいる。 
鰊と民謡の「江差」に到った。


蝦夷・北海道で唯一藩の「松前藩」は万石挌の大名であった。 
普通、石高というのは耕地面積、つまり米の収穫高で決まったが、山が迫り北国の蝦夷地・松前藩はその米が無かった。
藩は、蝦夷との交易や漁業(主に鰊)に依って経済収入を得ていた、それは鰊に伴う運上金(税金)のことで、特に江差から吸い上げた額は莫大であったという。
江差には藩の奉行所が置かれていたが、役人が在住するのはニシンが水揚げされる時だけとも云われた。

  江差の五月は 江戸にもない 

江差の五月は、ニシンが海上を泡たつように群れをなしてやって来る。
この時の賑わいは「江戸の街」以上のモノがあったという。 
湾形に恵まれた江差は、時期になるとニシンが獲れに獲れて、「北海道一景気のいい町」と言われた時期も有った。


江差の浜に姥神町があり、「姥神大神宮」が祀られている。

松前地はもとより蝦夷地の一宮として、代々の藩主、領民の尊崇を集め、藩主の巡国の折には、かならず参殿して藩の隆盛、大漁、五穀豊穣を祈願する祈願所となっていた。

昔、江差の村に姥神という老婆が現れて・・、

この村に、ニシンという小さなサカナが打ち寄せるだろう。毎年、これを捕って暮らしたらよかろう」と告げ、なお「網の大きさは、高さが五尺三寸(約1m59cm)目の数は63だよ」といい、老婆はこれを固く守るようにと村人に言い渡して姿を消した。 

江差の浜は、やがてニシンで満ちあふれ、村は豊かになった。 
しかし、欲に目のくらんだ人々はいつしかこれを忘れて、大きな網で漁をするようになった。
それは明治の初めの頃だといい、この頃からニシンが次第に捕れなくなり、それは、老婆の言い付けを守らなくなったからと信じる人が、今もいるという。 

その後漁民は、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや、次々と大網を切る網切り事件も起きた、これを「檜山騒動」ともいう。 


こんな騒ぎで、江差の浜は無人の浜になろうとしていた、そんな中、10年ぶりにニシンが押し寄せてきたのである。 
だが江差の浜にはすでに漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったという。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せたが、現在に至るまでニシンは完全に幻の魚になってしまった。 

姥神のお告げを無視した漁民は、自らその過ちのド壷に嵌っってしまったのであり、その教訓のためにも「姥神大神宮」が祀られているという。


ニシン漁と追分節・・、


16世紀頃から始まったといわれるニシン漁は、昭和30年代に終幕を告げたが、「江差追分」が江差に残った。 

普通「追分」とは信州追分のことで、今の信州・小諸付近である。

ここは中山道が北国街道へ通ずる分岐点でもある。
追分節の発祥「信濃追分」が北国街道の越後から北前船に乗って、松前や江差にやって来たといわれる、これが「江差追分」の原点といわれる。

鰊漁で賑わう江差の番屋の宴会の席で、信濃の国からニシン漁の出稼ぎに来た人達が、故郷を想いながら唄う信濃追分に、一座の人は同様に郷愁を感じたのに違いない。 

追分節は江差に馴染んだのである。


江差追分は今では日本を代表する民謡に発展し、今では「追分節」の中心挌になっている。 
ともあれ、江差の風土にとけこみ、幾度もの変化をとげてきた追分節は、北前船が消えて、ニシンの大群が去っても人々の心に残り受け継がれた。 

神宮大祭の「姥神祭」では今も祭りの前夜に江差追分が奉納されているという。 
さらに近代では、独特の深い哀調や奥の深さから、江差だけでなく全国の民謡愛好家に歌われるようになった。 

恒例の全国の大会もこの地で行われ、隆盛を極めているとか・・。


江差追分』  北海道民謡

かもめの鳴く音に     江差の五月は     松前江差の
ふと目をさまし        江戸にもないと    かもめの島は 
あれが蝦夷地の      誇る鰊の        地からはえたか
山かいな           春の海         浮き島か

忍路高島     沖を眺めて    板一枚下が
およびもないが  ホロリと涙    地獄のアノ船
せめて歌棄    空飛ぶ鴎が   よりも下の二枚が
磯谷まで      懐かしや      おそろしや


 忍路高島(おしょろたかしま)及びもないが せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで」と・・、

江差追分の数ある歌詞の中で良く唄われている。
「忍路そして高島」は、積丹半島基部・余市に忍路があり、小樽市市街に高島、高島岬がある。 


又、歌棄、磯谷は渡島半島の付け根、寿都町にある。 
積丹半島の先端には神威岬があり、昔はこの岬から北へは女人禁制で、女性は入ることが出来なかったという。 岬を越えて恋しい人を追っていくことが出来ないので、せめて江差から忍路・高島の中間点の歌棄、磯谷までは参ろう・・、と歌っているのである。


江差と開陽丸・・、

江差の町入ると左に近代的な港湾が広がり、そこに資料館と大きな帆船が浮かんでいた。
開陽丸」(復元された)である。 

先刻の北海道を襲った台風18号の影響で部分的に被害を受け、見学乗船は出来なかったが。
江戸幕府がオランダに依頼して建造した、最新鋭の大型軍艦「開陽丸」が横浜へ入港したのは、1867年3月である。操艦したのは榎本釜次郎(武揚)が後の艦長になっている。

京の鳥羽・伏見の戦で幕府側は敗れ、当時の将軍・徳川慶喜は大阪よりこの開陽丸で江戸へ敗走している。その後の江戸から東北の戦・「戊辰戦争」でも幕府軍は敗れる。
幕臣だった榎本は開陽丸、他数隻を率いて、蝦夷地に独立国を造るべく箱館へ向かった。


仙台より土方歳三以下陸兵を満載した船は函館へ上陸、そして五稜郭を落とす。
その後松前方面へ進
撃して松前城を攻略する、この時の指揮官は土方である、そして最後の砦となったのが江差であった。榎本は土方と謀って、海からも攻めるべく開陽丸を江差え差し向ける、榎本はすぐ沖に開陽丸を停泊させて上陸した。 この時期11月(今の12月)であった。

その時から天候が急変し猛烈な吹雪になる。 
操舵の甲斐も無く、一発の砲弾を撃ち込む事も無く、開陽丸は沈没してしまうのである。

それから幾星霜、昭和50年頃から、開陽丸調査発掘が行はれ、引揚げた遺物は2万点を超え、砲弾だけでも30トン・900発という。
 因みにこの水面下一帯は「文化財埋蔵地域」になり、海底の開陽丸は文化財になっているという。

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紀行(42) 「奥尻島と震災」

北海道南西沖地震で一時、奥尻島は海に沈んだ・・!、

国道228号線の「江差ソーランライン」の海岸線を北上するにしたがって、沖合いに横たわっていた。
あの「奥尻島」が次第に近づいてくる。 
奥尻島へは江差の港からもフェリーで乗り付けることができるらしいが、1日1便と数は少ない。


「北海道南西沖地震」について・・、

この島の南西部の青苗地区はかって、1993年(平成5年)7月12日に起こった「北海道南西沖地震」で、中心部が津波の被害を受け200人あまりの死者を出した地域であるのは周知である。

その後、防波堤などの大規模な津波対策がなされ、「スマトラ沖地震」の後は、島における津波対策の先進地ということで、各国の防災担当者から注目をあびることにもなったというが。


1993年7月12日22時17分頃、北海道南西沖、奥尻島近くの日本海海底でマグニチュード7.8の地震が発生した。 
震源の深さは約3kmで小樽市、寿都町、江差町、青森県深浦町で震度5を観測した。
奥尻島には当時地震計が設置されていなかったが、被害状況から震度6と推定されている。
そして、地震発生数分後に「大津波が」発生したのである。


あの日のこの頃、小生は既に布団に入り、見ていたTVも消してオフタイマーのラジオを聴きながら寝に付こうとしていた。 
ボンヤリ聞き入っていたラジオから突然、NHKの定時番組が切り替わり、臨時放送を流し始まったのであ
る。 

始めの地震情報からすぐに津波の状況を伝えていて、次第にその様子が明らかに成るに従って、小生の聞く耳は緊張を強いられ、眠気をスットばしたのであった。 

特に、当地に偶々(たまたま)宿泊していた、ある報道カメラマンの体験談話は、その恐怖と安堵感が迫真に迫るものがあった。 
この夜、小生は殆ど寝ずに聞き入っていたが、うたたね同様の、短時間の浅い睡眠で翌朝目が覚めると、今度はTV映像が津波で襲われた地域が大火事になって燃え盛っているのであった。
そんな、あの日の事が思い起こせるのであった。

これは余分だが・・、
やはり、同じ時刻同じ状態で、2002年9月11の夜を思い出すのである・・!。 
ニューヨーク発であったが、11日夜、同時多発テロが米国を襲い、ニューヨーク市のWTC(世界貿易センタービル)が破壊され、ワシントンの米国防総省の本部(ペンタゴン)も損害を受けたときである。 ニューヨークでは数千人が命を落としたとみられ、犠牲者数を約1万人とする報道もあったのである。


その時、奥尻は・・?、


地震の後の、それに伴う津波によって、死者行方不明231人、負傷者305人、家屋全半壊流失937軒にも及ぶ大きな被害を出した。 
地震発生後、津波は地震発生後の約5分後に奥尻島の海岸を襲い、最高で西海岸・藻内地区の背後の谷筋にそって海抜30.6mの地点まで海水が上昇した。 
この時、22時22分に札幌管区気象台から大津波警報が発令された時にはすでに到達後であったという。


島南端の砂州の上に広がる青苗の最南部市街地の「青苗五区」では、第一波が西からの直撃波として押し寄せ、全戸が完全流失し、ここで70名の死者を出した。

奥尻島の最南端の青苗岬のすぐ沖合海域を東に向かって回り込んだ津波は、本震発生の7分後、背後に当たる島の南部、初松前集落付近に集中して、ここで13.2mもの海面高を示したという。 

人口80人の初松前は全戸流失して32人もの死者を出した。 
本震発生後16分ほどして海水は、市街地北側防波堤の付け根の隙間から市街地の北部に浸入して、市街地のなかに強い南下流をつくった。 
木造家屋の柱や屋根材、家具などはこの南下する強い流れに運ばれ、南側防波堤の付け根付近で海に投げ出された。 津波の翌日に撮影された航空写真には、市街地を薙払った海水の強い南下流の存在を示す、内港の水面をびっしりと覆った木片の浮遊が見られた。 
南端の青苗岬では2m以上の波が1時間に13回も観測されていたという。


又、北海道・本島でも大規模な津波が観測されており、島牧村栄磯では7.5mの高さまで津波が到達した。
又、ここ北檜山町・瀬棚町・大成町(現せたな町)などでも死者を出していた。

津波で壊滅的打撃を受けた青苗地区では、12日22時40分頃、翌13日0時30分頃と相次いで火災が発生した。
津波で倒れたホームタンクからの灯油漏れ、道路寸断により他地区から消防車の応援を得られなかったなどの要因により火は燃え広がった。
鎮火に至ったのは最初の出火から11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は190棟に及んだ。 
火災を直接の原因とする死者はなかったようである。


奥尻島は、一見フラットに見えるが、島の中心部から南西部よりの位置に、島内最高峰の神威山(標高584m)が立ち上がっている。
奥尻島の主な目玉は、漁業および観光で、特に夏場はとれたてのウニやイカが絶品という。

特にウニは特産らしく青苗地区の浜には、「ムラサキウニ」をモチーフにしたマスコットキャラクターの「ウニマル」が立つという。 
又、同地区に奥尻島津波館が建ち、津波慰霊碑が立つ。

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