日本周遊紀行

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資料:当時の旅姿の芭蕉と弟子の曽良

紀行(17)鶴岡 「芭蕉と出羽三山」

芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る・・、  


奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・・』


芭蕉の出だしの第一句に


 『 ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる・・、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。
俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、・・・「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、
 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』といっている。そして船中で・・、


 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 他に・・、


 『 暑き日を 海に入れたり 最上川 』

と合わせて詠んでいる・・。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 
芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している・・。


先ず・・、


 『 雲の峰 幾つ崩れて 月の山 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 
湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、


 『 語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は


 『 有難や 雪をかをらす 南谷 』

の句を詠んでいる。
句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。併せて・・、


 『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』

と詠んでいる。
その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。


 『 めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび) 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。
専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ・・、

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。

相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。
湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。

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紀行(18)酒田 「最上川とおしん」



数年前、秋候の或る日、小生達も「最上峡芭蕉ライン舟下り」を楽しんだ・・、

戸沢村古口(往時の戸沢藩の船着場)から、舟下り終点・最上川リバーポートまで、最上川の流れに身をまかせ、船上からの景色を楽しみながら、雄大な自然の中を船頭の「最上川舟唄」を聞きながら、ゆっくりと下る。

特に、最上峡の右手の赤の鳥居と緑の木立に見え隠れしながら、最上川に落ちる一筋の滝が、白糸のように流れ落ちるのが印象的であったのを覚えている。 芭蕉もこの光景を舟の中から眺めたのであろう。

白糸の滝の側に戸川神社「仙人堂」がある。 その由来書によれば、仙人堂は、源義経の奥州下りの折り、従者の常陸坊海尊(ひたちぼう・かいそん)が建立したとつたえられる。 
その時、傷を負っていた海尊は足手まといになるので、この地で義経と別れ終生この山に籠もり修験道の奥義をきわめ、ついに仙人となったと言われている。 
祭神は日本武尊で「最上の五明神」の一つとされ農業、航海安全の神として信仰されているとある。 


義経はこの地を訪ねたとき、以下のような和歌を残している。


『 最上川 瀬々の白浪 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝 』


さて、最上川といえば近年TVであのシーンを思い起こすのである・・、

NHK連続テレビ小説(昭58年)、一時は60%を超す驚異的な高視聴率を記録した橋田寿賀子原作「おしん」の故郷は山形県で、(山形県出身の実在のモデルもいる)ロケも実際に県内で行われ、おしん生家の藁葺き民家も今も崩れかけてはいるが、中山町の廃村、岩谷地区に残っていると。


明治34年(1901年)「おしん」は、山形県最上川上流の寒村、貧乏小作の子だくさん農家に生まれ、数え年7歳の春、本来なら学校にあがる年に口減らし(家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数をへらすこと)のため一俵の米と引き換えに奉公に出される。 

最初、生家での貧困生活から始まり、奉公先である最上川下流の酒田の材木問屋での辛抱生活が続く。 
そして上京、髪結い修行ののち結婚し、関東大震災をきっかけに夫の故郷である佐賀へと舞台が移っていくが・・。

「おしん」役は小林綾子、田中裕子、乙羽信子と三人が演じ分けたが、特に、おしんの子供時代を演じた小林綾子が注目を集めた。
幼くして奉公に出された「おしん」が、歯を食いしばりながら苦難に耐えていく姿は、全国に涙を誘い、国内のみならず、中国や東南アジア、中南米、中東でも放送された。


なぜ、「おしん」は、こんなに人々の心をとらえ、人気を集めたのか・・?。

それは、明治・大正・昭和、おしんが生きた八十年余の日本の庶民史を踏まえながら、単なる辛抱物語としてではなく「人間として、どう生きるべきか」という命題を問うていたのである。

因みに、「おしん」のTV放送は世界各地でも放送され、その数何と60数カ国で放映されたという。これは実に世界人口の凡そ3割弱の人々が観たことになるらしい。

しかも、その視聴率は国内では60%を越えたということは知られているが、著名な国では60、70は当たり前でポーランドでは80%を越えたとも言われている。まさにマンモス・ドラマであった。



写真:庄内地方の米倉・「山居倉庫」


酒田について・・、


庄内の穀倉地帯を山形県内だけ悠然と流れる「最上川」、その河口に有るのが酒田である、
古来より最上川を経由する、陸と海の拠点で、最上川のすぐ横の支流に新井田川が流れている、渡ってすぐ左の中洲に山居(さんきょ)倉庫があった。 


「山居倉庫」・・、

瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群で、日本有数の米どころ庄内地方の象徴として、今も現役で活躍している。 
倉庫は明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家によって建てられた、いわば、官営の大倉庫であった。 

庄内藩により厳しく管理され、倉庫の前には船着場があり、舟で最上川、新井田川から庄内米が次々と運ばれた。 

最盛期には15棟在ったが現在は12棟、周囲には数十本のケヤキの大木が繁り、これが、夏は涼しく冬は暖い保温の効果をしているという、内部は真夏でも18〜20度のみごとな低温倉庫になっているとか・・。
保管物は主に庄内米、1棟で1200トン、2万表の米が保管されていたという。 

今では減反で米が減少、地酒や大豆も保管されている。 酒田市の歴史を伝える、史跡の一つで、酒田の観光名所にもなっている。


酒田は、古代、「袖の浦」と呼ばれ、この地には平安期、朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡(きのわのさくあと:最上川の下流、城輪・きのわ地区にあり、今から1200年くらい前に東北地方を治めるために建てられた役所のあとと考えられてる)があるように、地域の歴史は古い。 
以降、奥州藤原氏の家臣36人が最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し造ったといわれる。


酒田の商人は、藤原氏・平泉の遺臣・・?、

平安末期の平泉政権・奥州藤原清衡が、平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時、上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊へ運ばれ、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。 
後に、頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守る為に、36人の遺臣がこの地に落ち延びた。 

その後、遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。 現在三十六人衆の中で、平泉からの遺臣達で家が残っているのは、粕谷という姓(酒田市史)と見られている。

江戸初期、西回り航路(関西方面)が開かれると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び奥州屈指の港町として発展した。


酒田の商人・・、

酒田の有力商人からなる36人衆と呼ばれる集団は、北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商であると共に、彼らが酒田の自治組織の中心でもあった。
江戸初期、天和年間(1681〜84)の記録では入港船数は春から秋口までに2,500〜3,000艘もあり、月平均では315〜375艘もの船が停泊していたことになるという。


中でも・・、

 本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に 

とうたわれた本間家は、戦後の農地改革まで日本一の地主だった。 

集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名を馳せていた。
江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていて、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っているという。

酒田は特に関西の京、大阪とは頻繁に交易が行はれ、上方の文化を取り入れた独自の経済、文化を築いている。 
酒田の言葉は、今でも京言葉に似ていると言われる。


あのテレビの「おしん」もここから出世していった。


『 最上川舟歌 』   山形県民謡
ええや えんやえ〜 えんや え〜と
よいさのまかせ えんやら まかせ

「酒田さ行(え)ぐわげ 達者(まめ)でろちゃ」
よいしょ こらさのさ
「はやり風邪など ひがねよに」

え〜や〜え〜や〜え〜 えんや〜 え〜と
あの娘(こ)のためだ
なんぼとっても たんとたんと
えんや〜 え〜と えんや〜 え〜と
よいさのまかせ えんやこら まかせ
よいさのまかせ えんやこら まかせ


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紀行(19)鳥海・象潟 「鳥海山と象潟」



出羽富士・鳥海山のこと・・、 


酒田街道・羽州浜街道・おけさおばこライン、と色々な呼び名がある国道7号線をさらに北上する。 
雄大な鳥海山を右に見ながら・・と言いたいところだが、本日は雲の中・・残念であるが。
日本海より双曲線を描いて2240mの頂へ達している「鳥海山」は、別名を「出羽富士」と称しているのは周知である。 

山好きで趣味の一端どもあり、各地の山を巡った小生ではあるが、東北第一の高峰(・・と思われているが、実は上州国境の尾瀬に聳える燧ケ岳が2346mで東北一である)である鳥海山には、未だ足跡を残していない。

高さこそ3000m級のアルプスには劣るものの、日本海の海面すれすれの大地から望めるその勇姿は勝るとも劣らないだろう。 
飯豊連山(いいでれんざん)や朝日連峰を眺めてきたように、東北の山は一般に、連嶺をなしてガッシリと重厚であるが、この鳥海は重畳さはともかく孤高が故に颯爽としていて、見ていてスッキリと気分が晴れる思い・・、と誰かが言っていた。 


これはこの山の持つ不思議さに通じるともいう・・、

普通の山は山麓から森林地帯になり、森林限界を過ぎてからハイマツなどの低木になるが、ここは初めから大きな樹木は一本もなく、膝ほどの背丈しかない草木が一帯を覆っているという。
その草木がまるでハイマツのように見え、3000メートル級の山を歩いているような感じだったと、このあたりが鳥海山がスッキリ見える所以なのかもしれない。


書には『 鳥海山や月山など日本海側の多雪地帯では、シラビソなどからなる亜高山の針葉樹林帯が欠如し、かわりに「イネ科草原」やお花畑、チシマザサ、ミヤマナラ、ミヤマハンノキなどの低木が優占する現象で、景観上、高山帯によく似ているので「偽高山帯」と呼ばれている』とある。

独立峰であるがゆえに気象条件が変わりやすく、麓からでさえ、霞や雲にさえぎられ、その全容を眺望できる日は少ない神秘的な山であると。

鮮やかな容姿を現したとき、地元の人々でさえ新たな感動を覚えるし、登山者にとって、朝日を浴びた鳥海山が、日本海に黒いピラミツド型のシルエットを映し出す「影烏海」は、あこがれの的になっているという。
こんな鳥海を古人の人達が朴って於くはずがなく、鳥海はやはり霊峰だった。


鳥海山の豊かな自然は、山麓に住む人々に命の水と山の幸をもたらし、荘厳な山容は、神の鎮まる山として信じ仰がれている。 

中世以降、大物忌神(日本神話に登場する神で、伊勢神宮の外宮に奉祀される豊受大神の別名とされる。食物神)が祀られ、五穀豊穣をもたらす神の山として仰がれるようになった。
海岸沿いにそびえる鳥海山は、海に生きる人々にとっても、沖合いから漁場を分ける目印であり、航行の目標であったため、古くから豊漁と海上安全を守る神の山ともされてきた。


修験者が毎年6月に虫除け祈願に登拝し、人々はその際の修験神礼をもらって田畑に病害虫がないように祈ったり、豊作祈願に『鳥海山牛玉宝印札』を田の水口に立てるなど、修験は人々の暮らしに大きな影響を与えるようになった。
このような、農業、漁業を営む上で不可欠であった鳥海山を仰ぎ見る心は、数々の神事、行事、芸能を育み、今に伝えているという・・。 山麓一帯では、山岳信仰の流れをくむ共通の番楽(秋田・山形両県で、秋に行われる神楽の一種、能楽の古い形を残しているという)や獅子舞が数多く伝承されている。

鳥海山の伏流水は、夏でも水温10度前後の冷水(冬は温水)で、これらを利用した数々の農業用溜池や日本で初めて考案・設置された水路など土地改良施設が残されている。

秋田県民歌の冒頭には「秀麗無比なる鳥海山」と歌われている。



写真:陸の松島・「象潟」


西の松島と言われた「象潟」(きさかた)だが・・、


道の駅・「鳥海」で一服して、国境を跨いで秋田へ入る、
さらに、道の駅・「象潟」(きさかた)へ、こちらもかなり広い駅である、中央に4階建てのビルを配し、1Fが地元特産品・2・3Fが新鮮魚貝を中心とした飲食レストラン・そして4Fがとっておきの温泉大浴場、此処からみる日本海の夕陽そして鳥海山、素敵だろうな・・!。


出羽の国(古名で出羽の国は山形、秋田を指し、正確には「羽後」である)・・、 

ここ象潟は芭蕉が訪れた最北の地でもあるが、元より、ここ象潟の地は芭蕉は訪れる予定はなかったらしい。 
最上川から酒田へ出た時、「象潟はいい所だよ」・・と誰かに聞かされて、此処まで脚を延ばしたらしい・・キット!! 、そう言えば、ここは「陸の松島」とも言われた。


芭蕉がこの地を訪ねたのが元禄二年(1689)のこと・・。

当時は、象潟は「九十九島・八十八潟」といわれた景勝地であり、芭蕉も「東の松島 西の象潟」と評したほど景観随一の地であった。 

しかし、江戸末期には「 松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し 」と評されている・・!!。


それは何故か・・?。

1804年、芭蕉が訪れた凡そ110年後、この地を大地震が襲ってきて象潟の美景は、土地の大変動によって大きく失われてしまったのである。

往時、芭蕉はこの地で次のような句を詠んでいる。


『 象潟や 雨に西施が ねぶの花 』
 
「西施」(せいし)とは中国・春秋時代(紀元前5世紀頃、呉越の戦いの時代)の「越の国」の美女のことである。 越王・勾践(こうせん)が呉に敗れて後、西施が呉王・夫差(ふさ)の許に献ぜられ、夫差は「西施」の色に溺れて国を傾けるに至った。
傾城の美女」の起こりである。 


序でながら・・、

呉と越は長年の宿敵同士であり、呉王は越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。
しかし、呉の奇策によって大敗し、代わって太子の夫差が呉王として即位した。 
夫差は、父を殺された恨みを忘れないために薪の上で寝るようにし、功臣の補佐を得て呉を建て直して、今度は、越に攻め込み越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は夫差に和を請い、夫差はこれを受け入れた。

勾践は、呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝(きも)を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。
勾践のこの時の辛抱遠慮を・・?、「臥薪嘗胆」という故事の元となったという逸話である。

「ねぶの花」の合歓(ねぶ)の木は、日当たりのいい湿地を好んで自生する樹木で、夕方になると葉と葉をあわせて閉じ、睡眠をする。眠(ねむ)の木とも言い、漢語では色っぽい、合歓という。 


「合歓」とは、男女が共寝をすることである・・、
 

ねぶの花は、羽毛に似て白に淡く紅をふくんで、薄命の美女をおもわせる。 
芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、「西施」の凄絶なうつくしさに憂いを思い、それを「ねぶの花」に託したのかも知れない・・?。
合歓という漢語をつかい、歴史をうごかしたエロテイシズムを表現したとも思われる。 

尚且つ、芭蕉は深い情感を以ってこの句を詠んでいる様で、同時に、芭蕉はこの時、一人身のやるせなさを句に託し、女性を想っていたに違いないと。

当時の「象潟」は、こんな気持ちが透き通るような風景の地であったのだ。


こんな「九十九島・八十八潟」と言われた象潟であるが・・、

今から約2600年前、鳥海山の大規模な崩落によって流れ出た土砂が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が出来上がった。 
やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖が出来たといわれ、そして小さな島々には松が生い茂り、松島の様な風光明媚な「象潟の風景」が出来上がったと言われる。

芭蕉は正にこの風景をみて感じ入ったのである。


この地方を文化元年、大地震が襲った・・、

ところが、今から200年前の文化元年(1804)に大地震が起こって、海底が2m40cmも隆起し潟の海水が失われて、水に覆われていた「潟」は陸地に変わってしまい、往年の美しい面影は失われたという。

残念ながら現代の私たちは、芭蕉が眺めた様な風景を観賞することはできず、つくづく200年前の地震が恨めしいのであるが。 

尤も、当時の人からしてみれば、突然地面が湧き上がり、新しく土地が出来上がった事で、稲穂の実る水田となり、米作を作れるようになったのであるから、喜ばしいことだったには違いない。


現在は陸地になり、水田の中に元々島であった小山が点々と存在するような場所となり、美しい島々の姿が、古様(いにしえ)を偲ばせてくれる、これが「陸の松島」と言われる由縁(ゆえん)である。

その後、干拓事業による水田開発の波に飲まれ、歴史的な景勝地(松が茂る島々)は消されようとしていたが、当時の「蚶満寺」(かんまんじ)の住職の呼びかけによって保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となったという。

蚶満寺は、松林の中に立つ曹洞宗の古刹で、かっては象潟の海に浮かぶ島々の一つだった所に座していたが、時の大地震で海が隆起し現在の様になった。
境内には往時を忍ばせる舟つなぎ石も残っている他、芭蕉も立ち寄ったことから、その句碑も立っている。


蚶満寺は「かんまんじ」、象潟は「きさかた」と読むが・・、

」とは、一字で「きさ」とも読み、「赤貝」のことで「きさがい」と広辞苑にも記されている。
この地域は昔から「赤貝」の産地であったのかもしれない。

古い時代には「象潟」は「蚶方」とも書かれていたらしく、寺名は「蚶方寺(きさかたでら)」であったという。 
それがいつのころからか「蚶万寺」と書き間違えられ、さらに「蚶満寺」と書き換えられ、一時は「干満寺」と書かれたこともあったという。

こうなると、もう訳がわからない、早い話が「象潟」と「蚶満」はもともと同じ言葉であったということで、読み難いだけでなく、なんとも面妖(不思議で奇妙なこと)な地名のようだが、こうなると逆に何故か心地よい気もする・・?。


一帯は、国の名勝で、鳥海国定公園の指定地でもある。

現在も、102の小島が水田地帯に残され、とりわけ田植えの季節ともなると満々と水が張られ、この様子はあたかも往年の多島海の風景「松島」を彷彿させるという。

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