日本周遊紀行
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【本文関連情報】 紀行(20)岩城 「亀田地区」 秋田の南、小京都と言われる「亀田」と小生の田舎・「いわき」との関係・・?、 国道7号線、松ケ崎の信号を衣川に沿って内陸へ3~4km入ると秋田の南、小京都と言われる亀田地区がある。 克って亀田藩二万石の城下町であり、近年、歴史と浪漫を語る天鷺村(あまさぎむら)や亀田城が真新しく復元されている。 江戸期の頃まで亀田城のあった高城山は、かっての平安初期の西暦800年頃には「天鷺速男」という豪族が居を構えていたといわれ、この豪族の名をあてて新装なった城域を「天鷺村・天鷺城」と命名していて、観光的史跡名所としているらしい。 保存伝承の里とされる「天鷺村のシンボル」・天鷺城は、高さ22m、天守閣から望む景観は遠くに日本海、そして股下に旧城下町の情景が広がる。 城郭の周辺は真新しい武家屋敷をはじめ士農工商の家屋が立ち並んで壮観である。 又、新装・亀田城様式はその少し山の上にあり、当時の陣屋を忠実に復元したものであるという。 城内には美術館などがあるほか、広大な敷地内には日本庭園を眺めながら、古き良き日本文化を堪能ができるという。 ただ何れも、復元された建物が余りの華麗さに歴史の遺産としての重みは感じられず、ただ単に観光的見世物にしか見えないのは残念であるが。 「亀田」は、現在は由利郡岩城町の町域の一部であり、往時の歴史的中心地であったが、現在、行政上の中枢は沿岸部の内道川地区に移っている。 それにしても「岩城」という町名は、懐かしい地名であり、快い響きである・・、 小生にとっては故郷、田舎である「いわき」に縁のある町名であることに、後日であるが気が付いたのであるが。 この亀田藩は、我が福島県の「いわき地方・岩城藩」と深いつながりが有ったのである。 その福島県「いわき」について、チョット述べてみよう・・。 平安後期に岩城氏が東北南部沿岸の「いわき地方」に勢力を得て、中心を「いわきの平(たいら)」とした。 それにしても「いわき」という、「ひらがな名称」は煩わしい。 「いわき」は、最も古くは古事記、日本書紀、陸奥風土記などには、和訓で「伊波岐」と記されているらしい。 古代から中世にかけては磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城(いわき)である。 「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれている。 そして昭和中期の頃まで福島県石城郡であった。 昭和41年(1966)に周辺地域の五市が合併して新たに「いわき市」としたのである。 因みに、ひらがな文字の地域行政「市」名としては青森の「むつ市」についで2番目らしい。 (昨今は「平成の大合併」で、増えつつあるようだが) 磐城地方の領主・岩城氏について・・、 岩城氏は、常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州石城に土着したことが岩城氏の始まりであると言われているが、石城国造(奈良初期の地域名)の末裔であるとも言われている。 鎌倉~室町時代には、源頼朝の奥州征伐にて、数々の功により、岩城氏の本領は安堵され最盛期を迎えることになる。 岩城氏の戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉方に味方し謁見して領土は安堵されが、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方に加担して敗れ、徳川家康に降伏した後、所領の磐城十二万石は除封され、お家は断絶となってしまう。 その後、家康に再興を嘆願した結果、大坂夏の陣で本多正信等に従って従軍し、戦功を挙げたために、岩城吉隆(いわきよしたか)は、信濃・川中島藩に一万石(信濃中村:現、長野・木島平という説もある)の創設を許され大名として復帰する。 更に、川中島から「亀田」に転封(てんぷう)となって入部し、岩城亀田藩の初代藩主となるのである。 初代藩主・岩城吉隆は・・、 伯父・佐竹義宣(初代秋田藩主)に子供がなかったため養子に迎えられ、吉隆は秋田藩52万石の第二代藩主となるのである。 後に「佐竹義隆」と名を改めている。 岩城氏が現在の亀田に移ってきたのは、今から380数年前の江戸初期の元和9年(1623)、徳川家光(とくがわいえみつ)が三代将軍になった時期である。 この岩城地域、「岩城町」の町名は、この岩城氏に因んだ地名なのである。 岩城氏の亀田藩は明治維新まで続いていたが、幕末・明治維新における戊辰の役で、官軍の手によって城域は焼かれている。 いわき地方出実の岩城氏は、この秋田の地で脈々と系統を受け継いでいたのであった。 序ながら・・、 初代・岩城・亀田藩の二万石は「城」のない大名格であった。 江戸末期の嘉永5年(1852)になって、やっと城持・城主格の大名となっている。 したがって岩城吉隆が入部した頃の藩の政庁は小規模な「亀田陣屋」といわれるものであった。 この初代藩主岩城吉隆は、後に大大名である秋田藩52万石・佐竹義宣の養子となり、2代目佐竹藩主・「佐竹義隆」となって大出世する。 元々、岩城氏と佐竹氏は隣国同士で(石城と常陸)、相克合い争う仲でもあり、姻戚関係のある親密な間柄でもあった。 これらが縁で岩城・亀田藩の2代目藩主・重隆(しげたか)、3代目藩主・秀隆(ひでたか)が佐竹家親戚からの藩主となって亀田藩を継ぐことになる。 両藩との強い絆の縁戚関係が成立することになる。 しかし、その後の4代目岩城隆韶(たかつぐ)、5代目隆恭(たかよし)の二代は仙台藩・伊達家からの養子が続けて藩主となり、秋田藩・佐竹家よりも仙台藩・伊達家との関係が強まっていくことになる。 これが元で江戸末期の動乱期には、微妙な影響を及ぼすことになる。 明治の維新革命といわれる「戊辰戦争」においては、秋田藩は積年の徳川家の恨みを覚えつつ反徳川、つまり新政府軍につくことになる。 亀田藩は、思惑や苦悩に苦しみながら仙台藩同様幕府軍に属することになる。 結果は周知の如く薩摩軍、長州軍らの応援を得た秋田藩等の勢力の前に、亀田藩は敗れる。 直後の慶応4年9月に「明治」と改元され、同年9月21日には亀田城が焼き払われることになる。 以上が岩城・亀田藩の顛末のようであった。 【本文関連情報】 紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」秋田については、前述したが開祖は「常陸の佐竹氏」である・・、 県庁所在・秋田市の街を右に見る。 その基礎前身である「佐竹氏」について・・、 源氏の清和天皇を祖にする新羅三郎義光(兄は奥州の変=前九年の役=で奥州へ遠征した八幡太郎義家)は平安後期の勇猛武者であった。 義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。 その長男「源義業」(みなもとよしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を配して、義業は佐竹と称していた。 その後、源氏の威光を持つ佐竹氏は治政(治世)、軍政を盛んにして、ついに常陸全域から会津地方、現在の福島南部も手に入れ、全国でも有数の大名に成長してゆく。 戦国期、秀吉の「小田原攻め」(小田原・北条氏政)の時、佐竹義宣はこれに参戦、後に秀吉から54万石の朱印状を貰い、更に加増されて佐竹家一族は80万石の大大名となった。 しかし豊臣秀吉死後、徳川家康が頭角を現し、「関ヶ原合戦」へと時は流れてゆく。 1600年、家康と石田三成らの豊臣方の軍とで関ヶ原で、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分れて戦った。 秀吉から54万石の大封を戴き、子飼(こが)いの石田三成などとも親交があり、その恩義を忘れ去ることは出来ない。 さりとて先見の明ある義宣には、東軍・家康の勝利に終わることが必定(ひつじょう)と認識していた結局、義宣は天下を分けた関ヶ原の戦いにも逡巡の末、あえて鳴かず飛ばずの態度で終止したのである。 家康の文書には「上杉、島津、佐竹・・・は敵」と書き残っている。 結局、関ヶ原が終わってから2年半以上も経ってから「秋田転封」が決せられるのである。 家康の「佐竹義宣」評を 「 今の世に佐竹義宣ほどの律儀なものは見たことが無い、しかし、あまり律儀過ぎても困ったものだ 」 と言わしめたという。 国替えの命を受けた義宣は、禄高不明と先行き不安のなかで、最小限の家臣を随行し、慶長7年(1602)、出羽の国に到着した。 天下を分けた関ヶ原で不覚をとり、心機一転して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始されたのである。 秋田は古くから米どころとして名高く、「秋田こまち」で知られる。 又、美味しいお酒の産地としても知られている。 だがなんと言っても、秋田と言えば「秋田おばこ」と言うくらい、美人が多いことでも有名である。 小生の知ってる秋田出身の美人の中でも「藤 あや子」は代表格と思える。 ポッチャリした瓜実(うりざね)、こけしの様な丸顔、何より色が透き通るように白く、いわゆる餅肌である。 秋田美人は、一般に云われる鼻の尖った研ぎ澄まされたような顔ではないようだが・・?。 「秋田音頭」に・・・、 『 秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれ在所、おめはん知らねのげ 』 と歌われている。 小野小町は秋田美人の祖である・・、 小野小町は平安時代の伝説の歌人であり、その美貌はクレオパトラ,楊貴妃とならんで世界三大美人といわれる。 小野小町は県南 雄勝郡雄勝町福富桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)で生まれたと言われている。 父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実,母は土地の豪族の娘・大町子とされている。 二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた。 福富の荘はいつしか「小野の里」と呼ばれるようになったという。 このようなことから,当地は小野小町の出たところ「小町の郷(さと)」として,全国的に有名になり,今なお,小野小町はこの地に息づいている。 「秋田美人、秋田おばこ」と言われる真実性には俗説、通説であって、確説はないとされる・・?。 しかし、これら総合したものが秋田美人と言われる所以かも知れない、「秋田美人のウェブサイト」もあるくらいである。 常陸の国(茨城)は、京との繋がりも深く古来美人の国だったといわれる・・、 それが、佐竹氏が徳川家康により、常陸から出羽国秋田へ国替えになったとき、佐竹氏を慕って常陸の国中の美人という美人が秋田へ行ってしまった。 それ以後、秋田が美人の国になり、常陸の国はカスばかりになってしまったという。 これは俗説であろう。 些か時代調になるが・・、 東北が西日本の大和政権に屈服、征服される前までは、東北は「内なる外国」として位置づけられていた。 そこでは独自の文化が存在し、そして大和政権に抵抗し続けた蝦夷・エミシがいた。 西日本は弥生人系、つまり渡来系で中国、朝鮮半島の人種で、どちらかというと黄色系の顔立ちである。 東北人は縄文人系の顔立ちが多いと言われ、その蝦夷の原点は縄文人なのであり、古来より大陸系と繋がりが多い。 一部ではユーラシア北部の民族が北日本日本海側に移住し、混血したためとも言われる。 元々、縄文人は魚貝草種を主食とし、季節的にも雪の多い風土であり、こんな縄文的風土が色白で、きめ細かい肌の「秋田おばこ」(秋田小町、秋田美人)を多く育くんだ、という説は説得力がある。 田沢湖畔に伝説の美女の「辰子姫の像」が立っている・・、 辰子姫は秋田美人の代表とされ、秋田出身の文章家の野口達二氏は喩えて・・、 『 ふさふさした黒髪は,黒鳥の濡れ羽のように艶やかであった。つぶらな瞳は,うるおいがあって碧い湖のような神秘な光を底にたたえていた。すうっと通った鼻筋は,雪をいただいた白くたおやかな峰のように人を引き付ける気品さがあった。また,桜の花びらのような唇は,愛らしく,なんとも魅惑的であった。そして餅のような肌は,なめらかで,透き通るように白かった。 』 と美文で描いている。 田沢湖に立つ「辰子像」のイメージである透き通るような白い肌は、老女になっても変わらないのである。 『秋田音頭』 秋田県民謡
東北四大祭りの一つ「秋田竿燈まつり」は有名だ・・、 以前は「ねぶり流し」といって、庶民の間で五穀豊饒や技芸上達を願い、七月七日の七夕にお盆を迎えるための一連の行事でもある。 真昼の暑さもようやく静まる夕暮れ、瞬く間に通りが光の稲穂で埋め尽くされる。 まさに夏の夜空から降りた天ノ川のようで、その数なんと230本、1万個におよぶ提灯を操るのは、旧市内の37町内、職場、企業のより生え抜きの差し手若衆である。 勇壮なお囃子の音と「どっこいしょ」の掛け声とともに、1本約50キロの竿燈を額、肩、腰へと軽々と移し変えていく様は、観衆の心を幻想と感動の世界へと引き込んでいく。 秋田藩久保田城下の町民たちによって受け継がれ、現在の竿燈の形が除々にできあがっていったという。 それにしても、秋田県に入ると、新潟や山形とチョット様子が異なって見えた。 道路、民家の家屋、屋根は黒く光った瓦が数多く目立ち、人工物が新しく、綺麗に、大きく感ずるのである。 秋田県・県民は、一段分裕福なのかなと私的に感じたが・・?。 ただ、反対に自然物の荒廃が気になった、今年は台風の大当年。 これを書いてる10月の時点で実に10個の上陸が有ったし、日本海側にも、かなりの影響があったのも承知している。 そして、国道7沿いの山林を見渡すと、広葉樹の欅や紅葉類の大木から低木まで、今年の葉は殆ど落ちてしまっているのである。 そして春先の様に新芽・新葉が吹き出ている・・妙な光景なのである。 これは台風の強風、潮風による塩害であろう。 今年は台風の大当たり・・?の年だ、現在時点ではや10個の上陸を数えるが、これは過去最高の有難く無い記録でもある。 この上陸した台風は今年の傾向として、殆ど勢力を維持したまま通過して、特に日本海・北海道側へ抜けた時に、東北・北海道は少雨強風の傾向が有るらしく、この時、大きな塩害をもたらすという。 塩分は糖分の凡そ10倍の浸透力があるといわれ、落葉樹はその名の通り、塩分により窒息状態になって、葉が落ちやすい様相になる。 生長しきった秋口に、強烈な潮風に吹かれると落葉樹はおおきなダメージを受ける。 この時、同時に大雨であったなら、塩分を洗い流してくれるのだが、台風による少雨強風の影響をモロに受けているのである。 余談(否・・そうではないかも・・)だが・・、 更に、台風・少雨強風の影響を受けた地域は、特に秋の紅葉シーズンには要注意だとか。 一般に、紅葉は始まってから凡そ2週間位で落葉するらしいが、しかし、これらの影響を受けた地域は、この期間が大幅に短縮されるか、あるいは殆どその期間が無くなってしまう恐れがあるといわれる。 そして色合にも変化が有るとか、 紅葉見物には、この点に留意が必要であろう。 ところで、針葉樹は広葉樹とは生態が異り、あまり影響を受けないはずであるが・・??、 ただ、ここの針葉常緑の杉、松・・も同様なくらいに軒並み白骨化し、丸坊主になっているのだ。 この松の松枯れ現象は台風のセイばかりでは無いと思われる、これが、見渡す限り延々と連なっている、・・これも気になる風景である。 松食い虫の食害によるものというが・・?、 秋田県沿岸の「松枯れ」が爆発的に広がったのは2000年(平成17年)初頭からで、「所によっては4~5年で壊滅的な状態になった」ともいう。 原因は一般に「松くい虫」の仕業といわれているが、元より海外から持ち込まれた伝染病だという。 松を枯らすのは「マツノザイセンチュウ」という体長1mm程度の線虫で、元々、日本にはいなかったらしい。 米国、カナダから木材とともに運び込まれた線虫が、日本の松林に生息する「マツノマダラカミキリ」に寄生し、活動範囲を広げていったという。 線虫が枯らした松は、カミキリの産卵場になるため、お互いが共生関係にあるという。 今、この松枯れ現象は全国に広がっていると・・、 これも地球温暖化の影響もあるのか・・?。 ただ、先に記した山形庄内海道の深く濃い緑の松林を見て来ただけに、ヒジョウに気になった次第であるが、この違いは何処にあるのだろうか・・?。 次回は、男鹿の「ナマハゲ」 PARTⅣへ 【本文関連情報】 |
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