日本周遊紀行

15日目:PART8(東京・江戸城界隈、川崎)   PART9(横浜、厚木)へ   観光編へ  写真集
日本周遊紀行:詳細目次
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詳細目次(西日本) 鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
              山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 石見銀山

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紀行(129)東京 「江戸城界隈」



江戸城界隈の代表は「靖国神社」・・?、


明治維新を期に、皇室が京都御所から江戸城に転居し、以後は江戸城中心部の西側が皇居となっている。
通常は皇居部分(西の丸と吹上御所)には入れないが、その東側にある本丸・二の丸と三の丸の一部は皇居東御苑として開放されている。
南側の皇居外苑と北側の北の丸公園(日本武道館)は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。


先にも記したが「紀尾井町」とは・・、

この江戸城・赤坂見附の北側に「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。

現在、東京、日本国の中枢でもある官庁街、議事堂などの近くで、ホテル・ニューオータニ、赤坂プリンスなど日本を代表するホテル群が建ち並ぶこの一帯は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」そして、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていた。 その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」とした。

江戸名所図会」には、尾張家屋敷(現、上智大付近)と井伊家屋敷(現ニューオータニ)の間の道に「紀尾井坂」という文字も見えるという。

そして現、内堀内の北側、北の丸公園の田安門(田安家:一ツ橋家、清水家と共に徳川御三卿のひとつで、実際の領地は持っていないが徳川家の一門として御三家に次ぐ10万石の格式を与えられ、江戸城北の丸・田安門近くに大きな屋敷を構えていた)あたりは、かっては急坂のあった丘陵地であり、「九段坂上」とも称していた。
幕府がこの坂道に九段の石段を作り、九段屋敷と言う御用屋敷を造ったためこの名が付いたともいわれる。


江戸古書には・・、
『 町屋に並んでいる賑やかな中坂に比べて、九段坂は崖っぷちの細い坂道だった 』と書かれていた。
坂の上には当時は幕府の御用地も在り、この空き地は火除けの為の地だったのではないかともいわれている。

この坂は今よりずっと急な坂で、大八車などは容易に上ることが出来ず、車の後押しを専門とし生業にする押屋という者もいて、一回の押賃は一銭だったともいう。

坂の上からは神田、日本橋、浅草、本所はもちろん、安房、上総の連山まで眺められ、そして月の名所としても有名であったといわれる。


靖国神社・・、


この坂上に「靖国神社」が出来たのは、明治2年(1869)に明治天皇の勅願と大村益次郎の献策によりによって建てられたという。

当初は戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され、初めは「東京招魂社」と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。


過去には嘉永6年(1853)、アメリカの提督ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。 

因みに、幕末の志士・吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎などそうそうたるメンバーも「維新殉難者」として合祀されているという。
九段坂の広大な参道の右には靖国神社の大鳥居、そして大村益次郎の像が立っている。


昨今、神社の存在意義、神霊の分社・分祀、要人の参拝の可否などが内外で問題視されているよで、それらの事に関してここでは敢えて申さぬが・・、問題になり、拗れ(こじれる)そうになった場合は創建当時の原点に戻る事も必要であろう・・!。


  靖国神社御祭神戦役・事変別柱数(平成16年現在)■
事変内容  柱数 事変内容 柱数
明治維新 7,751 西南戦争 6,971
日清戦争 13,619 台湾征討 1,130
北清事変 1,256 日露戦争 88,429
第一次世界大戦 4,850 済南事変 185
満洲事変 17,176 支那事変 191,250
大東亜戦争 2,133,915 合計 2,466,532


 「九 段 の 母」  詩 石松秋二  曲 能代八郎 唄 田端義夫(昭和9年) 
上野駅から 九段まで
かってしらない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや 会いにきた
空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに
両手あわせて ひざまづき
おがむはずみの お念仏
はっと気づいて うろたえました
せがれゆるせよ 田舎もの



東京は近年、二つの大惨禍を経験している・・、

関東大震災」・大正12年(1923年)9月1日、関東地方南部を襲った大地震により、死者・行方不明14万2千8百名、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という未曾有の大災害である。被害総額は当時の国家予算の1年4カ月分に達するといわれる。

その22年後の太平洋戦争時の「東京大空襲」、昭和20年(1945)3月10日アメリカ軍は東京に無差別大空襲を行った。
2時間半の攻撃で消失家屋27万戸、死者8万3千793人(警視庁調べ・「東京空襲を記録する会」発表では10万人)の大惨事であった。
 

現在は、東京の新しい顔として、お台場エリア、六本木ヒルズ、汐留シオサイト、新装丸ビル、アークヒルズ(赤坂・六本木・霞ヶ関)、品川インターシティ等、複合都市施設も続々誕生している。       


  「東京音頭」
ハア 踊り踊るなら
チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で
サテ ヤートナソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナソレ ヨイヨイヨイ
ハア 寄せて返して
チョイト 返して寄せる ヨイヨイ
東京繁盛の 東京繁盛の人の波
    (以下同様のお囃子)
ハア 昔や武蔵野
チョイト 芒の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都

ハア 花は上野よ
チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ
月は隅田の 月は隅田の屋形船

ハア 幼なじみの
チョイト 観音様は ヨイヨイ
屋根の月さえ 屋根の月さえ懐しや

ハア 西に富士ヶ嶺
チョイト 東に筑波 ヨイヨイ
音頭とる子は 音頭とる子は真中で


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紀行(130)川崎 「川崎の街道」



川崎は橘樹郡・・?、


アクアラインの海底トンネルを抜けると、川崎市の浮島JCTに到る。
すぐ北側には東京都・神奈川県境である多摩川が流れ、河口の都側には羽田空港が隣接している。

川崎市・・、
この多摩川より南の沿岸地帯はかの有名な京浜工業地帯、或いは臨海工業地帯などと言われる石油コンビナート、重化学工業などの大規模な重工業地帯となっていて、昭和30年代の高度経済成長と合わせて大いに発展した。

しかし、この時期「川崎公害」という高濃度の大気汚染や環境基準を上回る二酸化窒素(NO2)などによる大気汚染が、長期にわたり沿道の生活に大きな影響を及ぼしたとして、公害訴訟なども起きていることは周知である。


一般に川崎というと、このような産業、工場地帯をイメージを抱かせるが、市の大部分の地域は実は緑の多い丘陵地、田園地帯が大部分を占め広いのである。

川崎市域は都県境の多摩川に沿って横浜市の北側、西部多摩地域の山域まで、東西に細長く広がる緑多き地域なのである。


ところで「橘樹郡」というのをご存知であろうか・・?、 「たちばなぐん」という。

現在の川崎市域を見渡しても「橘樹」という地名は、行政上の地名としては一切見当たらず、僅かに地域の個々名か学校名で「橘」という字が見えるのみである。
ただ一ヶ所、橘樹神社(たちばな じんじゃ)という名称で川崎市高津区子母口(旧武蔵国橘樹郡)にある神社にその形跡が残されていた。

そしてこの神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祀っている。


現在の川崎市域は克っては橘樹(たちばな)と呼ばれていて、それは7世紀頃の律令制の下で川崎地域は橘樹郡(たちばなのこうり)となり、近代の昭和初期まで存続していたのである。

克っての武蔵国・橘樹郡(たちばなぐん)の範囲は概ね、現在は川崎市(川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域および麻生区の一部)および横浜市の一部(鶴見区、神奈川区の全域および西区、保土ケ谷区、港北区の各一部)になっていた。

郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台あたりに、「弟橘媛」の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられてる。

その近くに鎮座しているのが弟橘媛を祀る橘樹神社である。


橘樹郡の郡名の起こりについても、「新編武蔵風土記」に興味深い記述がある・・、

『 橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり、郡名の起りは其正しきことを聞す「古事記」及「景行記」等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后(きさき・皇帝や王侯の妻)の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしならんと云説あり、今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛の墓といへるもの、もし是なりといはんか、今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、』・・とある。


富士見台古墳は、橘樹神社の裏手の丘にあり、前述のとおり弟橘媛陵であるとする説がある一方、この古墳は 6世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。

ここ富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められている。

かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘であった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部、高さ 3.7m、直径 17.5m の部分のみが姿を留めており公園として管理されているらしい。
だが、その頂から見える風景も、今は宅地ばかりが続く光景となっている。


尚、日本武尊(日本書紀表記、古事記では倭建命)と弟橘媛に関しては、千葉・「木更津と袖ヶ浦」の項でチョッと詳しく記載してあります。



太古の川崎には、既に北西部の丘陵地帯に人が定住していたらしい。

黒川地区などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されている。
当時の多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだといわれる。

7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか・郡の府)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。
何れにしても、当時の川崎の政経上の中心は中原区、高津区辺りの、現在市域の中央部にあったことが想像されるのである。


江戸時代になり事実上の首都が江戸に移ると、川崎は京や甲州と江戸を結ぶ交通の要衝となった。

西から津久井街道、大山街道、中原街道、東海道、これらの道路を横断して結ぶ府中街道などであり、これらの街道が市域の縦横を走る。

津久井街道」は川崎西端部の登戸から西へ、生田、柿生(かきお)、鶴川に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方、甲州に至る道である。
この街道は甲州街道の脇街道でもあり、津久井・愛甲(津久井、半原は養蚕の盛んな地であった)で産した絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」とも云われたこともあったという。

大山街道」は、多摩川を渡り二子、溝口を経て多摩丘陵、厚木、大山の麓の伊勢原、足柄峠を越える。
東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれて、古くから大山詣りの道として知られ、主に現在の国道246号と合致している。

府中街道」は、川崎市域を縦断するかたちで東京都東村山市から府中市を経てJR川崎駅に達する道路のことであるが、多摩側では「川崎街道」、川崎側では府中街道と呼んでいる。
中世の頃までは川崎を含む武蔵の国の国府(東京・府中)と橘樹郡の郡衙が置かれていた高津を結ぶ道路としてその名が付いたとされる。

中原街道」は、小杉から東海道の平塚宿場へ到る。
平塚には中原という所もあり、ここからほぼ真っ直ぐに川崎の中心・小杉を通って江戸へ延びているのが中原街道である。
現在では県道丸子・中山・茅ヶ崎線と呼ばれている。 
中原街道は武蔵国と相模国を結ぶ街道としてかなり古くからある道で、少なくとも中世には使用されていたらしい。

江戸期に入って東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸−平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。 

東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用したのであるが、かの赤穂浪士達も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。 
小杉(現在の川崎市中原区小杉御殿町)と平塚中原に御殿が作られると、将軍の駿府との往復の際や鷹狩の際などにも利用されたという。


さて、御存じ「東海道」であるが・・、


古来より五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ日本の中で最も重要な街道となった。
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は53箇所(東海道五十三次)で、当初は、主に軍用道路として整備されたらしい。
宿駅は53箇所のうち、江戸より2番目が「川ア宿」である。(1番目は品川宿)東海道を上る旅人が昼食や休息をとる場として、また、江戸より下る旅人にとっては六郷の渡しを控えた最初めの宿泊地としてにぎわった宿場町である。

川ア宿より、自然に拓かれたのが「大師道」で、厄除けで知られる川崎大師に至る道である。 
古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、徳川十一代将軍・家斉が江戸後期に公式参拝してから、一層広く信仰されるようになったという。

引続き川ア・「堀の内」

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紀行(130)川崎 「六郷と堀の内」



川崎宿と六郷の渡し・・、


徳川幕府により、東海道に宿駅伝馬制度(街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度)が敷かれたのが慶長6年(1601)のことである。
川崎宿はそれよりおくれること22年後の元和9年(1623)で品川から神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設された。

この頃の慶長5年、既に多摩川に「六郷」の橋が架けられていたが、元禄元年(1688)の大洪水で流されて以来、明治7年(1874)まで、「渡し」が続けられた。

因みに、明治初年の天皇の行幸の際には、多くの船を並べ繋ぎ、その上に板を渡した橋、即ち「船橋」(ふなはし)で渡ったという。


さて江戸時代、東海道を行く者にとって多摩川の「六郷の渡し」は江戸に入る大切な要であり、常時十数隻程度の舟で旅人や荷馬を渡していた。
前述の明治天皇の渡御の際には23隻の舟を横に並べ、船橋を作って渡ったという。 

現在の六郷大橋の欄干には渡船のモニュメントがあり、当時の多摩川の姿を伝えている。

川アの宿場は、江戸から六郷の渡し(現、六郷大橋)を渡りきると、現在の堀の内町から駅前の砂子、南町地区辺りが旧東海道の道筋である。


川崎・堀の内というのは平安末期に河崎基家がここに居館を構えたのが、この名前の起源といわれる。

河崎基家は坂東平氏の秩父氏の末流といわれ、基家がここに知行を受けて、その地名を名乗ったようである。
その館は現在の堀之内の稲毛神社付近と伝わり、神社の案内板にもそういった由来が書かれている。

多摩川がこの地域のすぐ近くを流れ、「堀の内」はその渡河地点を押さえる重要な立地だったという。

因みに、基家の子である河崎重家が武蔵国の渋谷を賜ったことから渋谷姓を名乗り、これが現在の東京・渋谷の始まりだそうである。

渋谷の駅から200mの至近、静寂の地に「渋谷八幡」(金王神社)があり、渋谷氏の城があった所で、現在の渋谷の地名の由来といわれている。


一般の宿場町も、概ねそうであるが・・、


江戸期の川崎宿駅は一般通行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、飯盛り女の手引きで客を引きながら宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげていた。
飯盛り女とは、宿駅の宿屋で旅人の給仕をし、売春も兼ねた女のことである。


ところで現在の堀の内地区は昔の面影というには気が引けるが、男相手の客商売、所謂風俗営業の店が軒を並べ、関東屈指の風俗街と成り果てて、繁盛しているようである。


余計で私事ながら、男になりました・・!、


この「堀の内」には思い出がある。 実は小生が「男」になった所なのである。

未だ20歳そこそこの頃、田舎の会社、工場勤務より東京大手町の本社へ出向転勤になり、この会社の社員寮のある大田区・六郷土手に居を移した。
六郷土手は、京浜急行の「六郷土手」の駅があり、東京よりの多摩川堤のすぐ近くで、僅かなところに第一京浜国道(旧東海道)の六郷橋が架かる。

或る日、先輩に連れられて、六郷の橋を渡り、川アの堀の内で遊び、男として初めて「筆おろし」をしたのであった。
堀の内は、昭和中期頃までは、公の遊郭街として有名であり、近郊の男供を相手に正々堂々と商売し繁盛していたという。 

ところが、売春防止法(昭和31年)が発布されて公には出来なくなり、飲食店という形式で内々に行っていたようである。
小生が始めて訪れた時も、カウンターで飲食をしながら、徐に(おもむろに)意志を確認しながら商談・・?をまとめ、何がしかの金銭を別に払って、二階の特別室で用を済ませたものであった。

その後も給料日の後などは、下駄履きでカランコロンと六郷の橋を渡り、お馴染みの所で、たまにはお馴染みさんと「筆ならし」を行ったもんである。


初詣は、大変な賑わいの「お大師様」・・、

東海道・川崎宿の堀の内地区は大師道の分岐でもあり、お大師様参詣で賑わったところでもある。

大師道は六郷の渡しから医王子、若宮八幡宮を経て、川崎大師・平間寺(へいけんじ)の山門に至る道を言い、川沿いの道(大師道)を下りて18丁(1962m)の所にある。

厄除けで有名な川崎大師は江戸時代から東海道を通過する旅人だけでなく、江戸を中心とする庶民の霊場にもなっていた。
尚、江戸表から訪ねて来る参詣人は、多摩川を渡るとき六郷の渡しではなく上流の矢口や丸子の渡しを利用して渡ったといわれる。中原街道の丸子の渡しは水量も少なく、庶民の渡しだったのだろうか・・?


川崎大師は大治年間(1126〜1131年)、尊賢(そんけん)が開山、平間兼乗(ひらま かねのり)の開創といわれ、後北条氏の時代から弘法大師信仰の零場として賑わっていた。

江戸時代になると、徳川家斉、家慶、家定、家茂らの各将軍も厄除け参りをするようになり、その為御膳所、御成門も建立され門前町としても多いに発達したという。

川崎宿の繁栄は、この川崎大師の隆盛の影響も大きかった。


現在、高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東三本山の一つとされ、毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなる。

2006年初詣客は272万人となり、全国3位、神奈川県1位を記録している。

当寺への参詣客を輸送する目的で1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京急(京浜急行電鉄)の基となった。

次回は、「横浜」  
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