日本周遊紀行

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紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」



「千葉」の由来と千葉氏、上総氏・・、

アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏がパノラマに見渡せる。


チョット詮索して、「千葉」の地名の由来について・・、

これは諸説あって・・、
古代のアイヌ語とか、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか、定説は確かでないようである。


房総の内陸地形は1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。
地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。
開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない。


「千」や「万」に形容される言葉に、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」という意味でもある。

「房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 
この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。

しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。

又、平安時代中期に作られた総合辞書で地名などが記載してある有名な「和名抄」にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。

そして、この地域に既に在った「千葉」の名称によって、中世より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう。


「千葉氏と上総氏」 ・・、


千葉氏といえば、やはり平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう。

一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。

平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 
その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。


平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。
期に乗じて、「都」(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。

そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。

そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。


それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。
こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。


日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。


平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。 旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない。 この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。
一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。

千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 
だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 

この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。

しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 

その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。

一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 
だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい恐れさせたともいう。 
やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。

これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 

その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。


千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数がある。
彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。

しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。

引続き千葉・「千葉城」・・?

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紀行(128)千葉 「千葉城」



四層五階の「千葉城」って実際に在ったの・・?


今の千葉市に根拠を持った「千葉城」(別名、亥鼻城・いのはなじょう)は、源平争乱の時期、常胤の父・千葉常重によって築城されたといわれる。

当時の千葉城は都川の下流、東京湾に臨む「亥鼻丘」(千葉市亥鼻:いのはな)に築かれ、西は絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続く天然の要塞であったという。 

だが、城郭としての天守や石垣はなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した典型的な中世期の城郭であったという。
その千葉城跡の遺構は今はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部にその面影を留めるのみであるという。

尚、亥鼻山の北側の麓には史跡・「お茶の水」という井戸がある。
千葉氏の祖・平良文(平安中期の武将、千葉氏を含む坂東八平氏の実質的な祖とされる)の子、忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、以降、千葉氏は代々この水を産湯としたと伝えられる。

源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたともいわれる。


現在、亥鼻丘の千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっていて、園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれたという。

天守の前には千葉常胤の銅像が建つ。 

しかし、今の模擬天守閣は、もちろん鎌倉から室町期においては、このような天守閣がありようはずもなく、復元ではなく、近世の天守閣に擬した創作物であるという。

周辺には、北東の台地上に千葉大医学部があり、台地続きの南側に千葉県文化会館、千葉県立中央図書館、千葉城の西約400mの低地には千葉県庁などといった公共施設が多い。

ただ、前述したように、元々の千葉城は天守閣など持たない中世期の木造の平城であった。 
従って、この四層五階の「千葉城郭」に関しては史実とは異なるのではないか・・?、これは行政による偽造であり、捏造だと一部有識者が問題提起しているようである。

又、歴史の偽造を平気で行う当局・千葉市も問題であるが、それを批判しないで持ち上げるマスコミ・新聞もおかしいのではないか・・?、という批判も相次いだと言われる。

観光目的の見世物の、似非物のお城だとすれば・・!、これは一体どうなるのだろうか・・?



千葉市繁華街中心、千葉駅東方に妙見様と言われる「千葉神社」がある。

初め、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたもので、千葉氏宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、宗家の相続元服は代々この寺で行われたという。
また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。

江戸期までは、真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって千葉神社となり、本尊も祭神:天之御中主大神(アメノミナカヌシノカミ:古事記でいう天地創造の神で、天孫降臨以前の高天原の最初の神とされる)に改められた。 

ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年、神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が「妙見信仰」として祀られている事には変わりがないという。

「妙見様」とは妙見菩薩のことで、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で人の福寿を増すといい、特に、眼病平癒を祈る妙見仏の本尊として広く信仰されているという。


千葉市内のもう一社:上総の国の「寒川神社」についても触れておこう・・、

我が相模の国(神奈川)の一宮である寒川神社とは兄弟神に当たるからである。

千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
相模の寒川神社が元宮であろうともいわれているが、実際には不明だとか。

元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神に祀っている。

天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めている。

尚、「寒川神社」とはどのような神社なのか・・?
これらの詳細は私論を含めて「周遊紀行」(西日本編)の「茅ヶ崎」の項に記載しております。

湘南紀行(6)茅ヶ崎 「浜降祭と寒川神社」



千葉についてだが・・、


戦国末期、豊臣秀吉が天下を統一すると、関東の地を徳川家康に与えている。

次いで家康が江戸に幕府を開くと、両翼とされる相模の国同様、「房総・千葉」は江戸のおひざ元として、経済的にも軍事的にも重要な地になった。

幕府は、当地に外様はもちろん譜代の藩も置かず、天領、旗本領として直轄支配していた。こうして「千葉」は江戸幕府直轄地として発展し、現在に至っているのである。

次回は大東京である。お江戸の象徴・「江戸城」界隈を・・、

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紀行(129)東京 「半蔵門と甲州道」



半蔵門
江戸期と現在の「半蔵門」


江戸城・表門の大手門に正対する「半蔵門」の曰く因縁・・、


東日本・前編の「甲州街道」(甲州街道)でも述べたが、東京・・、否、江戸の中心は勿論、「江戸城」である。
その正門は「大手門」であるが、対して、裏正門に当るのが「半蔵門」である。


江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところにその「半蔵門」がある。

名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。
立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。


徳川家康は天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため織田信長の居城・安土城を訪れていた。 
そして、6月2日、祝賀を終えた家康は帰路、堺で遊覧中に京都で起った「本能寺の変」を知ることになる。

信長と義兄弟の間柄にもあった家康は、当然、光秀の襲撃の対象にされていた。
この時の家康の供は小姓衆など少人数だったので極めて危険な状態となり、狼狽した家康は感極まって信長の後を追おうとするほどであったという。

この時、側近の本多忠勝に説得された家康は、服部半蔵の案内と護衛を受けて伊賀越えを決行し、加太越(現在の鈴鹿峠)を経て伊勢国から海路で居城である三河に向かい、かろうじて戻ることができたという。

服部半蔵の見事な采配振りを高く評価した家康は、後に、半蔵を伊賀同心(甲賀同心)として幕府警護のため江戸に出府(幕府の所在地たる江戸に出ること)を命じることになった。


甲州街道、半蔵門は、万が一の江戸将軍家の避難路・・?、


甲州街道は江戸城・半蔵門に直結していて、一般の街道基点である日本橋には繋がっていない。 
現在も今の国道20号線、つまり「甲州街道」がこの城門に直結しているのである、それは・・?、

家康は江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。
江戸と各城下町を結んだ街道造りもその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。 
日本橋から京都の三条大橋に至る最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。
五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられた。


その「参勤交代」であるが・・、

沿道には東海道には145家、日光・奥州街道には41家、中山道には30家の各藩があった。
では、甲州街道では何家の大名が使ったか・・?、

実は三家だけであった。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、それに3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。


甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。

甲州街道を進んでいくと、御存知あの「東京・新宿」(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)がある、そのすぐ北側・新大久保辺りに「百人町」がある。 
更に進むと八王子には「千人町」があり、その後、山梨・甲府城につながる。 

武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている、つまり、甲府は徳川の領内のようなものであった。

百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所である。
又、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。

江戸幕府で事変があった時、将軍は服部半蔵の部下に守られながら甲州街道を進み、そして百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 

つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのであり、甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていたという。


大名格式の「お茶壷道中」・・?、

ただ、甲州街道では、大名行列にも劣らぬ大行列があった。
お茶壷道中」というのがそれで、幕府に献上される「京・宇治の茶」を、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入り江戸に向かった。

この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 

庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある。

このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間といい、ほぼ江戸時代を通して続いたという。

新宿・百人町を過ぎた辺りから「下にー、下にー・・、」と掛け声も一段と大きくなり、正面・「半蔵門」を通過した行列は、やがて西の丸である将軍世継ぎの住居居間か大奥へ運ばれたのかも知れない・・?、

次回は、江戸城炎上・・!!  PART(7)へ


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