日本周遊紀行

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紀行(116)鹿島 「鹿島神宮」

鹿島神宮.JPG
鹿島神宮楼門と本殿(拝殿)



鹿島神宮は、皇紀年間(神武天皇即位・西暦紀元前7世紀)創建とされる古社・・、


大洗からは国道51を行くことになる。 
旭村、鉾田町、大洋村は来年(2005年)「鉾田市」として発足することになっているらしい。

北浦と鹿島灘に挟まれた砂丘陵地を行くと、間もなく「鹿嶋市」.である。
行政名では「嶋」で、山編に鳥と書いて鹿嶋(かしま)と称するらしい。

一般的な地域名や固有名は「鹿島」であり、先に市制施行していた佐賀県鹿島市からクレームが来て、古書の「鹿嶋神宮」の表記に因んで、「鹿嶋市」として市制施行したという。 

鹿嶋神宮が、いつの頃から鹿島神宮に書き方が変わったかわ定かでない。 
因みに、鹿島神宮では鹿が神の使いとして崇められ、神宮の鹿園には30数頭の日本鹿が飼われている。


鹿島アントラーズ・・、


藤原氏により鹿島神宮を大和の国へ分霊し、「春日大社」の遷宮創建に際して、西暦768年に白い神鹿の背に分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良の都まで行ったとされている。

英語で鹿の枝角(つの)をアントラー (antler) と言い、「鹿島アントラーズ」のチーム名の由来ともなっているのは周知かどうか・・?。

国道のすぐ横に、その巨大な鹿島サッカースタジアムがあった。 
このホームグランドである鹿島アントラーズは、1993年に発足して、いさなり初代ステージチャンピオンになっている。 
その後はステージ優勝4回、年間優勝2回、カップ戦でナビスコカップ2回、天皇杯2回のタイトルを奪取している、Jリーグの名門チームだ。発足当時、ブラジルから招請した、現日本代表監督のジーコをはじめ、ジョルジーニョ、アルシンド、ビスマルク等の海外組をはじめ、秋田、相馬、本田、柳沢、小笠原・・etc、 といったスーパースターを輩出している。

そのスタジアムの近くに「鹿島神宮」がある。

鹿島市・JR鹿島線の鹿島神宮駅の傍に「鹿島神宮」が鎮座している。

「鹿島」という名称が並んだが、因みに「鹿島」と言う地名は「神島」から成ったとされ、古記にも表記されているらしい。 
その鹿島という地名は、全国的にも分布していて、地名地図事典では16ヶ所くらいで在るそうだ。

共通するのは海辺に近く、海と陸地の接点あるいは境界領域に位置している地域である。
陸地の最果ての地点、あるいは最先端の場所として意識されているようで、従って、ここ鹿島も畿内の大和朝廷から見ると、東国のはて(涯)と見なされていたようである。


鹿島神宮は皇紀元年、西暦紀元前660年の創祀とつたえられ、「東国三社」の一つにも数えられている名社である。 

東国三社とは、「鹿島神宮」のほかに千葉県佐原市の「香取神宮:沼尾社(経津主神・フツヌシノオホカミ)」、鹿嶋市の隣りの茨城県神栖町の「息栖神社:坂戸社(天児屋命・アメノコヤネノミコト)」で、いずれも鹿島の大神と共に東国開拓、そして先導した神とされ、同様の神武皇紀の時期に創建された二千数百年の歴史をもつ古社である。


その昔、「お伊勢参りの後の三社参り」と呼ばれるほどの篤い信仰を集め、これらの社は、何れも茨城と千葉の県境、水郷と呼ばれる一帯で、利根川、常陸利根川、霞ケ浦、北浦などを中心とした水の豊かな情緒溢れる土地に鎮座している。 

「常陸国風土記」の香島郡の項に・・、
『 孝徳天皇の御代、神郡が置かれ、其処に有ませる天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三所を合せて、惣べて香島の天の大神と稱ふ』とある。
この「天の大神の社」が当社・鹿島神宮のことである。 

当時は、坂戸社と沼尾社を合せた神宮とされていたが、現在、両社は境外摂社となっている。 


「鹿島神宮」は武勇の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、さらに鎌倉期以降は武家政権の信仰も得てきた。

当時、「神宮」というのは最高位の神位で、伊勢神宮、香取神宮と鹿島神宮の三神宮だけだったとされていた。 
常陸国一宮で、旧社格は官幣大社であり、「武甕槌神」を主祭神とする。 
香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされている。

引続き「鹿島神宮の祭神」

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紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の祭神」



先ず、祭神・「武甕槌神」(タケミカヅチ)とはどの様な神であろうか・・??


「古事記」における神話の「イザナギ」、「イザナミ」の「神産み」において、伊邪那美命(イザナミ)が生んだ火の神・火之迦具土神(ヒニカクヅチノカミ)が元でイザナミは火傷で死んでしまう。
愛する妻を失ったイザナギはその怒りから、迦具土神(カクヅチ)の首を十拳剣(トツカノツルギ:神話での剣)で斬り落としてしまう。 
その時に飛び散った火神の血(赤い焔)から刀剣三神の(甕速日神:ミカハヤヒノカミ、速日神:ヒノハヤヒノカミ、それと武甕槌神:タケミカヅチ)が生まれた。

迦具土神は火雷の神ことで、雷神、剣神としての性質を持つ。 

武甕槌の「タケ」は猛々しさを表し、「ミカ」は神秘的でいかめしい事を表している、ミカを「甕(土器)」と見る説もある。

記紀(古事記、日本書紀)の「国譲り神話」(大和の神が、出雲の神を屈服させ、国を奪い取る物語り)によれば、失敗を重ねる葦原中国(大和の国、日の本)の平定に、天照大神(アマテラス:伊勢神宮)は業を煮やし、そこで、天鳥船神(アメノトリフネ:息栖神社)、武甕槌神(タケミカヅチ:鹿島神宮)と経津主神(フツヌシ:香取神宮)を派遣することにした。

出雲の稲佐の浜に降り立った彼らは、十拳剣を波間に突き立て、その剣先に胡座をかいて大国主神(オホクニヌシ:出雲大社)に国譲りを迫った。 
しかし、大国主神は事代主神(コトシロヌシ:美保神社、恵比須神社)に、この国の全権を任せていると答えた。 武甕槌神は、天鳥船神を使って事代主神を連れ戻し、国譲りを納得させた。 
だが、それに納得しなかったのが建御名方神(タケミナカタ・大国主の子、諏訪大社)であり、暫く睨み合いが続いたが、やがて戦いへと発展してしまう。 

力の差は歴然であった。

武甕槌神の手は、氷柱や剣先に変化し、建御名方神を追い込んで行く。 
建御名方神は逃げ出すが、執拗に追跡し、信濃国の諏訪湖まで追いつめ、遂に屈服、服従させたのである。
それらを大国主神に伝えると、「もはや何も問題はないでしょう。この国(出雲)を差し上げます」と答えたという。

これが「国譲り神話」の一幕である。
古代史の観点から見ると、武甕槌は元々常総の「土着神」であったとされている。 
武甕槌神の鹿島神宮は、大和政権の東北遠征において重要な拠点だったことから、神話同様、重要な置位に昇格したといわれる。 
鹿島神宮の分社が、東北地方に集中していることからも伺える。

武甕槌神が葦原中国平定のため派遣された際、建御名方神が、「然欲爲力競(よし、それなら力比べをしようぜ・・!)」と言った後、武甕槌神の腕を掴んで投げようとした描写がある。
武甕槌神はその際、手をツララへ、またツララから剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。 
逆に武甕槌神は、建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったという。 
この事象が、以降の「大相撲」の起源になったとされる伝説がある。


大化改新で有名な中臣鎌足(藤原氏の祖・死の直前,天智天皇から最高の冠位と「藤原」という姓を賜った)の出身も鹿島であり、彼を祖とする藤原氏は武甕槌を氏神として篤く信仰している。 

奈良期の768年に、藤原不比等(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣、藤原鎌足の次男)が武甕槌神を大和の国に勧請し、春日大社の第一殿に祀った。 
鹿島神宮は武芸で有名であり、剣術の道場にはよく鹿島大神と書いた掛け軸を飾ってある。

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紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」


「鹿島神宮」の要石宮について・・、

大鳥居をくぐり、参道をまっすぐに東へ歩くと赤い楼門が構えている。 
楼門内、参道の右手に拝殿があり、拝殿の後方に本殿、御神木、鏡石と並ぶ。 
更に、参道はまっすぐに奥に延び、突き当たりに奥宮がある。 奥宮から左手へ降りていくと、御手洗池、右手奥へ進むと「要石」(かなめいし)が祀られている。

要石社は、鹿島神宮を地震や津波から除ける神様であることは、余り知られていない・・?、
神社参道の最奥に奥宮があり、そこの「要石宮」は地中の鯰(なまず)を押さえている・・、と伝えられ、震災除けの神といわれる。
実際、日本の各地に要石神社があって、震災除けの霊験があると伝えられている。 


鹿島市のすぐ南、水郷の地である千葉県香取市香取(佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生)に香取神宮(かとりじんぐう)が鎮座している。
下総国一宮で、日本全国に約400社ある香取神社の総本社であり、祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)である。
前に紹介した鹿島神宮の武甕槌神と共に日本書紀・古事記にでてくる重要な神で、出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変活躍した神である。

この二つ神社に共通しているのが「要石(かなめいし)」である。

この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜き取ることができないとされ、鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしているといわれる。
昔、水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われる。

この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきたとされる。
昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれている。 
このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれている。ただ、安政の大地震(1885年10月)では多少の被害が出たという、この時は地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話は一応納得である。

  『 揺ぐとも よもや抜けじの 要石  鹿島の神の あらん限りは 』

大昔は地震は、地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようで、その蟲がいつのまにか地震を予知できる「なまず」に置き換えて考えられるようになったという伝承もある。


蛇足になるが・・、

小生の知ってるもう一つに、旧東海道の宿場・沼津の先に「原」の宿が在る。
今の東海道線の原駅近く「千本松原」で有名なところだが、ここの一角に「要石神社」がある。 

東海地方を襲った安政の大地震の時、東海、関東地方は地震と津波により大災害を発生させたが、ここ「原の宿場」は地震、津波とも全く無害だったと言われる。

鹿島、原には要石といわれる大岩魁が、地表露出部こそ小さいが地中部では連なっているともいわれる。


昨今、東海、関東地域における地震予測が公表されているが、一度、原の「要石神社」にも、お参りしなくてはと思うが、
序ながら、拙宅の檀家寺は臨済宗妙心寺派で京都の妙心寺に本山を置く。
この禅宗・臨済宗の「中興の祖」といわれるのが「白隠禅師」であり、この地域の原駅近く、「松蔭寺」の出身である。

  『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり 富士のお山と 原の白隠 』

と慕われている。


すっかり夜の闇に包まれてしまったようだ。  しかも雨もかなり強くなってきた。
国道51号より、「道の駅・いたこ」へ向かう。

判り難くかったが、何とか探し当て、近くの大型ドライビング・スペースのファミ・レスで食事を摂る。 
ついでに今日の纏めを行い、今夜は、道の駅で雨の中の車中の人となる。

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