日本周遊紀行

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紀行(114)ひたちなか 「常陸(ひたち)」



「武田氏」の元祖は常陸出身・・?、


日立市内からは国道6号より沿岸の国道245を行くことになる、「東海村」 である。

国道沿いの松林と高い塀に囲まれた広大な一角は原子力関連の施設である。
そう・・、東海村は日本で最初にの原子力火が灯った地として知られて、原子力研究所や開発機構、関連企業や事業所等、原子力産業施設が集積しているのである。

ただ、、残念なのは、この東海村でも施設の一角で、日本で初といわれる放射能事故を起こしていた。


1999年9月、J・C・O(株式会社ジェー・シー・オー:住友金属鉱山の子会社)という会社の核燃料加工施設において、臨界事故が発生し,放射能汚染が起こった。

臨界事故とは核物質が核分裂を起こし、この連鎖反応が一定の割合で継続している状態、この時多量の放射能が漏れ出した状態をいう。 
この事故で3名の従業員が重度の被ばくをし、2名が死亡ほか関係者、社員および事業所周辺の住民等600名以上が被ばくした過去最悪の原子力事故となった。 
東海村をはじめ、内外に大きな衝撃を与え、原子力は安全である・・、の神話が崩れたのだった。


隣町は「ひたちなか市」である。

この那珂川の上流、JR勝田駅の南方に「武田」という地名が有る。
ここは甲斐武田の発祥の地といわれる。

源氏である清和天皇を祖にする奥州陸奥の覇者・源義家(八幡太郎)と、その弟常陸国の統治者・源義光(新羅三郎)は平安後期の名の知れた勇猛武者であった。 

義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。 
その長男・義業(よしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市:戦国期頃までは、これより北部の福島・岩城から会津まで広大な地域を支配するが、関が原合戦で西軍=三成派に就いた佐竹義宣は、合戦以降、家康によって陸奥・秋田へ転封される。
現、秋田市の基礎となる)に配し、三男の義清を、「武田郷」(現在の茨城県ひたちなか市武田)に配した。

源義清は武田郷に居を構え、武田冠者義清と称した。
これが「武田」姓の始まりという。

義清とその子清光は、共に武勇に優れていた。
だが、これを恐れた常陸国司(都から派遣された貴族)は清光の「乱行」をでっちあげ、これを理由に義清・清光父子を甲斐国への配流を命じたのであった。 これが甲斐武田の祖となるのである。


甲斐は、甲斐駒という名馬の産地でもあった。 
武勇を誇る武田氏は、この馬を乗りこなし有名な「武田騎馬軍団」の元になり、やがて武田家は、新羅三郎義光から十八代の後、甲斐の武田信玄という希代の名将を生み出すことになる。 

因みに、この武田一族の一派が、陸奥の国へ派遣され南部藩、八戸藩の祖となることは先に記した・。
 


地域行政名の異様さ・・!、


ところで、「ひたちなか市」は小生の故郷「いわき市」と同様、ひらがな文字の地域名である。
「ひらがな」というのは、本来もっている漢字の意味合いを、すくなからず減じているのはたしかであろう。
地名に関しては、地域住民の総意で決したものであることは重々承知で、尚、余計なお世話かもしれないが・・、「いわき」は磐城又は岩城で「ひたちなか」は常陸那珂で良かったのではないか、とも思われるが。

昨今、平成の大合併でさまざまな土地の名前が消え、また生まれようとしている。 
そんな中、怪しげな、意味不明の地名もあるように感じられる。 

地名というものは、そこに暮らした先人達の全てが重なり合い、積み上げられ、そこに住む人達のかけがえのない財産でもある。 
地名に誇りを持つということは、地域人の一つのアイデンティティー(自己の存在証明)ではなかろうか?。 今時の人間が浅はかに、いじくりまわして、改変していい、というものではないようにも思うが・・?。 


地名は、地域の歴史を伝える、文化遺産だともいう。

これは小生の勝手な思考だが、前述したように、この地は常陸国で武田郷という由緒ある地域名であった。 
「ひたちなか」という、ひらがなの合成語なんかではなく、いっそのこと「常陸武田市」にして、そして甲斐の「甲府市」と姉妹都市の提携でもしたら意味のある、結構な事ではないか・・・??、
小生の思い過ぎ・・??

武田地区の住宅の一角に、武田氏館(たけだうじやかた)が在る。 
主屋には甲斐武田氏発祥の関係資料などを展示している。

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紀行(115)大洗・水戸 「水戸藩」

 【 関東道 】



「水戸」の名称は、大洗に流れる那珂川の「水運の戸口」とされていた事に由来するという・・、

市街地より那珂川の海門橋を渡ると、海洋観光地「大洗」である。
大洗には素敵な民謡が有った。  

  「磯節」  茨城民謡
(ハーサイショネ)
磯で名所は 大洗様よ(ハーサイショネ)
松が見えます ほのぼのと (松がネ)
見えますイソ ほのぼのと
 (囃 以下繰り返し)
荒い波風 やさしく受けて
心動かぬ 沖の石 (心ネ)
動かぬイソ 沖の石

三十五反の 帆を捲き上げて
行くよ仙台 石巻 (行くよネ)
仙台イソ 石巻

洗の北、町界を川幅いっぱいに悠々と「那珂川」が太平洋に注ぐ。
関東第三の大河である那珂川は関東随一の清流としても知られ、多くの魚類が生息しており、往時の江戸期にははサケの遡上する河川として水戸藩へも献上品とされていた。

江戸初期、那珂川から涸沼、北浦を結ぶ運河の整備が計画されていた。 
水戸と江戸を結ぶ流通を発展させることを目的に、鹿島灘を迂回せずに直接北浦から利根川を経て江戸に物資を輸送させることで、財政難にあえぐ水戸藩の財政を好転させることを目的としていた。

しかし、財政難で農民の負担が余りにも大きく、大規模な百姓一揆を誘発したこともあって事業は頓挫してしまったという。 
だが、那珂川が舟運として使われていたことには変わりなく、水戸藩は水運河港として大いに盛え、水運は近代まで存在していた。
「水戸」の名称は、この「水運の戸口」とされていた事に由来するという。


ご存知「水戸」は水戸・徳川家所縁(ゆかり)の地で、水戸黄門(徳川光圀)、日本の三名園・梅の「偕楽園」で知られ、また、明治時代以降は納豆の生産と消費が盛んであり、水戸納豆として親しまれている。
水戸は、無論、「常陸の国」が前進である。

常陸は今の茨城県を指すが、当初の常陸国は現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県から宮城県南部にまで至る辺境の広大な国であり、奈良期の7世紀に成立している古い国柄である。

奈良期・八世紀初頭の養老年頃の編集とされる「常陸風土記」によると、常陸国の国柄、名の由来は、以下の様に記されている。

『 然と名づける所以は、「往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり」。倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。』


又、常陸国風土記が編纂された時代に、常陸国は、『土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ 』とある。

「常陸」は、常世の国(陸は極楽)として名付けられたようだ。

奈良期の政庁・国府は現在の石岡市にあったとされ、遺跡も発掘されている。
又、官寺である国分寺も石岡市府中にあった。


水戸藩の成立・・、


さて、水戸の始まりは、平安末期に、常陸の国の名門・大掾氏(だいじょう)一門が、水戸台地に居館(水戸城)を構えたのが最初と言われる。

戦国期、常陸は戦国大名・佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は東軍・徳川方に加担しなかったため、出羽秋田(久保田藩20万石)に減量転封されている。 

佐竹氏の後、徳川幕府が開かれ、家康が駿府に移動するに当たって、家康の11男・徳川頼房が25万石で入って「水戸藩」が成立する。 
水戸市の原形は、この頼房によって拓かれてゆくことになる。

余談だが・・、
佐竹氏は、秋田に左遷されるにあたって、藩主家の墓地と水戸の美人を根刮ぎ、転封先に持っていったと云われる。
これが、秋田美人のルーツともされるようだが、このため近年に至って秋田は美人の産地となり、水戸には美人がいなくなったとも云われているが・・??。

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紀行(115)水戸 「水戸黄門」



お馴染み、「この紋所が目にはいらぬか・・!!」の水戸黄門・・、


徳川頼房の三男、水戸藩二代藩主が「水戸光圀」である。

水戸藩主は徳川御三家の中でも唯一江戸常勤が定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていたため「天下の副将軍」と言われた。 

徳川家康の孫に当たる、御存じ『水戸黄門』としても知られ、諡号(しごう:帝王・相国などの貴人の死後に奉る、贈り名)は「義公」と称した。

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。 
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、麺類をはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆などがあるという。 
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていたともいう。 

学問を好み、若い頃には中国の歴史書「史記」などの歴史書を愛読し、遂に、大書「大日本史」を著わすことになる。


当書は、初代の神武天皇の時代から後小松天皇までの百代の帝王の治世を、「紀伝体」といわれる文体で記した日本の歴史書で、徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には水戸藩及び水戸徳川家の事業として執筆・校訂が継続されて明治時代に完成したという。 
完成させるまで実に250年の歳月を要したという。

「紀伝体」(きでんたい)という名前は史書において、「本紀」と「列伝」の下の文字を取って付したもので歴史叙述の一体裁を現したもの。 

歴史現象の総体の中で「本紀」(帝王1代の年譜)、「列伝」(列侯、特に国に仕えた官僚、爵位を持った家臣の一生や周辺の異民族の民俗を書き並べたもの)の他に、「志」(天文や地理・礼楽・制度など特殊な分野の変遷)や「表」(制度の一覧)などに分類して記述すること。

中国の史記で試みられ漢書で確立、以後中国の正史は多くはこの体裁をとっている。 
個人や一つの国に関しての情報が集約して紹介されているため、その人物や国に関しては理解しやすいという。

この「大日本史」の編纂により、学芸が振興し隆盛となって「水戸学」を生み出し、後世(幕末)に大きな影響を与えたとされる。 


一方では、藩の年間財政収入の3分の1近くをこの事業につぎ込むこととなり、領民への負担が多く、そのため農民の逃散が絶えなかったともいう。
(一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたとも言われる) 

○公○民とは、農家に割り当てた米による租税率で、徳川家康は慶長6年から10年に亘り、全国の総検地を行い、課役の法を定めて、四公六民を常率としていた。 

だが、全国260余藩の大名は、各自に税率を定めていたとされ、七公三民では重税と言われた時代である。八公二民が如何に重税であったかか判ろうというものである。


尊皇攘夷の水戸藩であったが・・、


因みに、幕末の「尊皇攘夷」の元となった水戸学では、水戸徳川家は天皇と対立した場合、天皇側につくために将軍を出さないように作られていたと考えらていた。 
しかし、結果的に幕末第15代将軍「徳川慶喜」を出すことになる。
だが、風雲急を告げる江戸幕末、水戸学の精神は尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもつながった。 ただ、明治維新後における政府の保護は得られず、元水戸藩士が明治の主要役人になっていることは余り聞こえない。

水戸光圀の「大日本史」の編纂実績は、250年後の明治の時代に「親政」を生むことになる。 
水戸学における「尊王攘夷」は幕末の革命に繋がり、攘夷はともかく尊王の精神は明治政府に受け継がれ、天皇親政の時代が平安期以来、再来するのである。 
これが昭和の終戦まで続くことになる。


水戸光圀が「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布され、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされたことは周知である。 
尤も、その内容は大半がフィクションであるが・・。

光圀は、大日本史編纂のために家臣の各層の学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。 
在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなったときには・・、

  『 天が下 二つの宝 つきはてぬ 
                 佐渡の金山 水戸の黄門 』


という狂歌が流行ったという。 

このような名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われるのである。


御馴染みの「助さん・格さん」とは・・?、


劇中「水戸黄門」の家臣に、助さん・格さんが登場し、人気の的になっている。 
名は佐々木助三郎、渥美格之進であるが。

通称・助さんは実在の光圀候の家臣であった「佐々十竹」(じっちくは号、本名宗淳:むねあつ)がモデルであるといわれ、大日本史編纂の専門校「彰考館」の総裁であったともいう。
佐々氏は戦国武将、あのアルプス越えで有名な佐々成政の末裔(実姉曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていたという。 
讃岐国出身で15歳のとき僧侶となったが、仏教以外の諸学問にも通じていた。
38歳のとき仏教に疑問を持ち寺僧と大論争をした末に寺を追われて、還俗して水戸藩に仕えるようになる。 徳川光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いたという。

一方の格さんは、まじめで実直と言う設定であり、彼のモデルは、水戸藩士の安積澹泊(あさか たんぱく:通称、覚兵衛)といわれる。 
安積氏は江戸中期の儒学者で、光圀を助けて「大日本史」を編纂し、その歴史観は水戸学の基礎を築いたともいわれ、評価されてるという。
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