日本周遊紀行

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紀行(111)いわき 「勿来の関」



奥州・陸奥(浜)街道・「勿来の関」・・、


いわき湯本から旧国道(6号)を経て、茨城県の県境でもある「勿来」へ来た。
国道から勿来海岸の反対側に小高い丘があり、その一角に古来の「勿来の関」がある。
東北の三古関(白河の関、念珠関=鼠ヶ関)の一つであり、因みに、念珠が関(ねずがせき)は小生が出発して2日目に通過している。又、この古関は源義経と弁慶ら主従一行が平泉に逃避する際に通過したことで知られる。 

「勿来の関」は、往年の東北の都・多賀城へ通ずる、陸前浜海道の東北(蝦夷)への入り口として重要な関所であった。 古記には大和朝廷期にヤマトタケルが蝦夷(えみし)の蛮族を征伐するのに通った・・、との記載もあり、既に4世紀ごろから主要街道として機能していたという。 
平安期の後期(1051年)においては東北・陸奥の国で一大動乱(前九年の役、後三年の役)が勃発する。
朝廷はこれを治めるべく源氏の棟梁「源義家」(八幡太郎義家)を陸奥国守として任地の陸奥国に赴かせる。 この時、源義家は「勿来の関」で休泊の時、一句詠んでいる

  『 吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背にちる 山桜かな 』

平安期の頃は東北(蝦夷)の戦乱期も加わって、この浜海道は大往来時代を迎えている。近くには「三箱の湯」もあって、高家、武人、都人、文人墨客(万葉人)等も多く行き来していた。

太洋を望む美景の丘・「勿来の関」は、奥州三古関 と呼ばれており、古くから万葉集の中でも詠まれ、その後も多くの歌人らによって詠まれたのがこの地である。
この周辺は古来より風光明媚な地にあって、松のこずえ越しに太平洋が一望でき、今でも山桜の名勝としても有名で、県立自然公園に指定されている名勝である。
そして歌枕としても名高い「勿来の関」は、古来、“やんごとなき”人々より愛され、詠まれているのである。

  「 みるめ刈る 海人のゆきゝの 湊路に 勿来の関も わが据なくに 」   新勅撰和歌集 小野小町  
  《海人が往来す湊路に来ないでな どという関は設けていないのに最近あなたはは逢いに来てくれないのね》

  「 惜しめども とまりもあへず 行く春を 勿来の山の 関もとめなむ 」    夫木和歌集 紀 貫之    
  《いくら惜しんでも過ぎて行く春だけど勿来の関よどうか春を止めて欲しい》

  「 なこそとは 誰かはいひし 云はねども 心に据ふる 関とこそみれ 」   玉葉和歌集 和泉式部    
  《逢いに行けないと言う恋人の返事に《来ないで なんて誰が言ったと言うの いいえ誰も言ってはいないわ
    あなたが心に関を作って私に逢いに来ないだけだわ》

  「 ほととぎす 勿来の関の なかりせば 君が寝覚めに ますぞ聞かまし 」    藤中将実方

  「 吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背にちる 山桜かな 」   千載和歌集 源 義家    
  《花を散らす風は「来るな」と言う勿来の関には来ないはずだが何と道いっぱいに山桜が散っているとは・・・》

  「 陸奥の 信夫の里に やすらいで 勿来の関を 越えぞわずらふ 」
    新勅撰和歌集 西行   
  《誰にも言えぬ人目を忍ぶ恋に「来るな」と言う関を越すべきか越さざるべきか迷
い悩む私です》

  「 聞くたびに 勿来の関の 名もつらし 行きては帰へる 身に知られける 」
   後嵯峨天皇

  「 越えわぶる 逢坂よりも 音に聞く 勿来は難き 関と知らなん 」
    新千載和歌集 藤原道綱の母    
  《越すのに難儀する逢坂の関よりも更に噂の高い勿来の関の堅固さは貴方もご存知でしょう 
    私は勿来の関なの 口説いても 無駄よ》

  「 よひよひに かよふ心も かひぞなき 勿来の関の つらきへだては 」
   朝五百番歌合せ 大僧正頼意
  《毎晩逢いに言っても貴女は合ってくれない 貴女のガードは勿来の関のようなのがつらい》

  「 名にしおはば 勿来といふと わぎもこに 我てふこさば ゆるせ関守 」
   堀川百首 藤原基俊
  《噂では絶対に通さないと言う堅固な勿来の関の関守よ 彼女に逢うのをみのがしてくれ》

  「 いとはるゝ 我が身勿来の 関の名は つれなき中や 初めなるらん 」
   新続古今和歌集 藤原為氏
  《なぜか貴女に厭われる私 勿来の関の由来もこんなつれない二人の仲からきてるのかな》

  「 恋侘びて 昨日もけふも 越ゆべきに 勿来の関を 誰かすゑけん 」
    堀河百首 河内
  《いつだってあなたに逢いたくて恋わずらうのに 勿来の関設けて逢えなくしてるのは誰なの あんたでしょう》

  「 なこそせに 勿来の関は 行きかふと 人も咎めず 名のみなりけり 」
   源 信明(没61歳)
  《名高い勿来の関だから簡単に行ったり来たり出来ないと思ったがそんな事は無いんだ
    名前だけで全然人を咎めないよ》

  「 都には 君に相坂 近ければ 勿来の関は とほきとを知れ 」 
  続千載和歌集 源 頼朝

  「 聞くもうし たれを勿来の 関の名ぞ 行あふ道を いそぐ心に 」
  新拾遺和歌集 綬二位為子
  《勿来の関の名を聞くのもつらい事だわ 彼に逢いに道を急ぐ私に「来てはならん」と言う名の関のあるのは》

  「 東じは勿来の関も あるものを いかでか春の こへてきつらん 」
   後拾遺和歌集 源 師賢

  「 都人 恋しきまでに おとせぬは 勿来の関を さはるにやあらん 」
  永久百首 源 兼昌
  《都のあなた こんなに恋しく思っているのに 便りさえくれないのは 勿来の関のせいにしてなの?》

  「 あずま路に ききし勿来の 関をしも 我が故郷に 誰かすゑけん 」   季花集 宗良親王 


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紀行(112)北茨城 「天心と雨情」

【関東・太平洋道】 茨城(北茨城)⇒⇒⇒⇒神奈川(厚木)


美しい勿来の海岸を見ながら「茨城県」に入る、北茨城の2人の天才・・!、

「岡倉天心」・・、

県境でもある「北茨城」には、景観な五浦海岸(いづらかいがん)があり、日本美術界の重鎮、「岡倉天心」が居を構えたところでも知られる。
明治中期頃までは辺鄙な地ではあるが、太平洋を臨む風光明媚で変化に富む景観地でもある。 この地に魅了され、住居の東側の崖の上に朱塗りの「六角堂」(観瀾亭)を建てたのが天心であった。

天心は、この六角堂に後輩の「横山大観」等を呼んで美術論、文芸論に興じ研究し、雄大な海の色彩や怒涛渦巻く波の形の絵画を生んだのはこの地であった。
又、明治初期、新政府の神仏分離令によって廃仏棄釈が盛んになり、仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していったが、この時いち早く反対し、古美術の保存、保護に尽力したのも「天心」だったと・・。

「野口雨情」・・、

五浦を出て、JR磯原駅前へ至る。
こちらは童謡作家として一世を風靡した「野口雨情」の生誕地である。

『童謡とは、童心より流れて、童心をうたう自然詩である。
童心とは、天より与えられた純真無垢なもので、全愛の心をもち、もののあはれを感ずるものである。
詩とは、言葉の音楽で読んで味わうものではなく、うたうものである。 
民謡とは、民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である。』

「赤とんぼ」、「シャボン玉」、「七つの子」、「青い目の人形」、「赤い靴」、「雨降りお月さん」・・そして「船頭小唄」等々・・お馴染みである。
我々幼少の頃は学校で唱歌の時間に多くの童謡を教わり、心に馴染み、口ずさんでいたものだが・・、今の子供たちはどうなんだろう・・?。 
雨情の童謡は、日本の情景や日本人の情緒に、溢れんばかりの情愛を感ずる。 純真無垢な子供達に、是非、これらの童謡を聞かせて、口ずさんでほしいものだ・・!。

そういえば、「シャボン玉」のことをを知ってますか・・?、
「屋根まで飛んで壊れて消えた・・」・・とあるが、雨情の長女が病気のため二歳で亡くなり、その想いを詩にしたそうです。
野口雨情は生涯に2000余の詩を作っているが、童謡ばかりでなく、ご当地ソングといわれる民謡や学校校歌なども多数ある。  
  童謡 「七つの子」 野口雨情作詞・本居長世作曲
烏 なぜ啼くの
烏は山に
可愛七つの
子があるからよ
可愛 可愛と
烏は啼くの
可愛 可愛と
啼くんだよ
山の古巣に
行つて見て御覧
丸い眼をした
いい子だよ。

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紀行(113)日立 「水木浜」



日立の「水木浜」とは・・・、


紙の町・高萩の沿岸から十王町、日立市に入った。十王町は本年(2004年)、日立市と合併し新日立市になっている・・。 お馴染みの総合メーカーである日立製作所は、ここが発祥の地である。 
往時の日立の山地は銅鉱石の産地であり、明治期、殖産興業、軍事増産の掛け声で、「日立鉱山」として発足し、採鉱、精錬を開始している。 

「日立鉱山」を取り巻く電気、機械の修理部門だった各工場が、自社製品の開発、販売にのりだし、そして独立したのが日立製作所である。 現在は日立グループとして、家電関係はもとより、ITやバイオテクノロジー、ナノテクノロジーなどの最先端技術や知識を結集し、次世代の中核事業を担っている。


又、「日立」は太平洋戦争に過酷な歴史を体験した・・、

昭和10年代、日立鉱山と日立製作所は益々発展する中、世間は軍事色が強まってくる。 
同社の金属製造、加工技術は次第に軍事関連へと向かい、戦争関連産業の拠点になっていった。
太平洋戦争に突入した日本は昭和20年には沖縄占領、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下等敗色が濃厚になってゆく。 

そんな最中(さなか)、軍事産業都市の日立も、当然攻撃目標の対象になった。 
米軍の艦砲射撃、爆撃攻撃は激しく、全市街地の約7割が焦土と化し、壊滅的な打撃を受け、1500人を超える市民の命を失ったという。 
当時、小生の故郷「いわき湯本」でも艦砲射撃の音と、燃え上がる日立の街の様子が確認出来たという。


市街地の北部、国道6号線に沿って「神峰公園」がある。 
高台、丘陵地にあって太平洋の展望がすこぶる良く、動物園、遊園地、レジャーランドなど市民の憩いの場所になっている。
ここの一角に神峰神社があり、立派な石造りの階段の上に本殿、拝殿が鎮座している。 
創建は、室町中期(1428年)とされ、祭神は日本創生の神、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)を祀る。

こちらの社殿及び山頂社から眺める大洋もすこぶる良い。
江戸期の1695年、徳川光圀候が神峰神社に参拝した時、海上から朝日の昇る様子を観て、『朝日の立ち上る様は領内随一』として、一帯を日が立ち上る地・「日立」と命名したといわれる。 
無論、日立は常陸(ひたち)の国からきていることは疑いの余地がない。

徳川光圀(とくがわみつくに)といえば・・、
三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「控え居ろう・・!!、この紋所が目に入らぬか」と曰く、御存じ「水戸黄門」のことである。 
尚、光圀候のことは水戸の項でチョット詳しく述べることにする。


日立の海岸・「水木浜」と磯出大祭礼について・・、


日立の南に「水木浜」という浜辺が在る。 ここは、何と72年毎に神事が行われる祭事場である・・。
茨城県内陸部、水府村に「東金砂神社」と金砂郷町に「西金砂神社」と、奥山に両神社が鎮座している。両神は平安初期に日立市の水木浜の大島という磯に出現し、後に内陸地の東金砂山と西金砂山と相対して聳える山上に、其々祀られたという。伝説によると西金砂山の神は女神で、東金砂山の男神に嫁いで夫婦になったとも伝えられている。

金砂両神社の大祭礼は何と・・、「72年毎」に行われるという、なぜ、72年毎かは定かでないが、祭礼は「磯出大祭礼」といい「金砂大田楽」とも言われる。
磯出大祭礼の当日は、東、西金砂神社が、それぞれに総勢500人を超える氏子が7日間(6泊)をかけ、常陸太田市を経て日立の「水木浜」までの往復約70kmの道のりを古式にのっとり渡御(行列)し、水木浜の清い潮水で御神体を浄めるという神事である。 
これはは五穀豊穣、天下泰平を祈願して72年ごとの未年(ひつじ年)に行われるという。

第1回目が平安初期の(西暦851年)から第16回目の前回が昭和6年に行われ、第17回目が昨年の平成15年3月に行われた。
この間、時代の変遷、変動期にも一回として途絶える事無く、受け継がれているという。 
渡御の途中には、休憩して神事を行う御休場(おやすみば)と、宿泊して田楽舞や神事を行う御泊場(おとまりば)が各地に設けられる。

金砂大田楽の田楽とは、民間の舞踊で田植の時、笛や太鼓を鳴らして五穀豊穣、万民豊楽を願うもの。昨今では田楽舞といって伝統の舞踊形式になっていて、渡御行列の際に奉納されている。 又、この期間は地元・地域の郷土芸能や伝統行事の奉納披露も行えわれ、大祭を盛り上げる。 

ただ、昔日に人々の平均寿命は72歳以下であろうし、神社の氏子、祭事関係者は無論、御近所さん達にしても存命中にこの大祭礼に遭遇することもなく、寿命を全うしてしまった人もあろう。
正に、一生に一度の祭礼なのである。 
運良く祭事に携わった人達は、正に「天運」といっても過言ではなく、更に、参拝に授かった人々も「幸運」の持ち主なのである。


ところで、小生、ふとした縁で、昨年の大祭に孫娘と一緒に参拝し、御札(おふだ)まで授かっているのである。 そして渡御行列及び水木浜での神事を謹んで参見している。 実に小生も、所謂、幸運の一人なのである・・。

小生のその時の記録・・、

  「金砂神社磯出大祭礼」に寄せて

花井菜菜美は現在満3歳である
此の度、縁あって72年毎に行われる「金砂神社大祭礼」に際し、西金砂社殿に参拝し、幼少ながら「家内安全」「健康豊楽」を付添人と共に祈願することが出来た。 そして社宮より、72年に一度発行される記念すべき御札を授受することができた。 つきましては、身内安泰と無病長寿を成就し、この御札を72年後の次期大祭(第18回)に西金砂神社に返拝することを願う。そして次に72年に一度の東金砂神社の御札を授かることを、併せて希望する。
時に西暦2075年、花井菜菜美75歳の御時節である。

  付添人 織内 将男 64歳(花井菜菜美 祖父)
       神奈川県厚木市
       平成15年3月31日(西暦2003)吉日

「金砂神社磯出大祭礼」概要
磯出大祭礼は、西金砂神社(茨城県久慈郡金砂郷町)と東金砂神社(茨城県久慈郡水府村)が、五穀豊穣、天下泰平、万民豊楽を祈願し、72年ごとの未の年に同時期に執行しているお祭りで、金砂大田楽(かなさおおでんがく)ともいわれています。仁寿元年(851年)に第1回目を執行して以来、一度も途絶えることなく続けられてきたとされ、総勢500有余人にも及ぶ渡御行列と祭事、そして、金砂田楽(田楽舞)から成る。 
西金砂神社あるいは東金砂神社からそれぞれ出社した数百人規模の行列は、古式服飾にてり6泊7日をかけて日立市水木浜までの往復約75kmの道のりを歩く。 行程の途中数箇所で祭事や国選択民俗芸能・茨城県指定無形民俗文化財の「金砂田楽(西金砂神社田楽舞・東金砂神社田楽舞)」を披露奉納します。

第17回目の大祭礼は、西金砂神社が平成15年3月22日(土)から3月28日(金)まで、東金砂神社は3日遅れて平成15年3月25日(火)から3月31日(月)までの日程で行われました。

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