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紀行(82)伊達 「伊達家と有珠善光寺」



北海道の伊達市は、東北の雄・伊達家がひらいた・・!、


北海道の伊達市は道内でも最も温暖な地といわれ、「北の湘南」とも呼ばれる。

伊達市の「伊達」は、あの奥州の勇・伊達家から由来し、伊達邦成(くにしげ)がこの地を開拓したことから付けられたものという。
「伊達」を開いた伊達邦成(仙台藩一門、宮城・亘理地方)は伊達家の15代目当主である。 
邦成は亘理(わたり: 仙台より南方25kmの地点、仙台城の南の守備要の位置にある、現・亘理町)の殿様であったが、維新の版籍奉還や廃藩置県の布令で新しい世の中になり、大名たちの土地は国の物となった。 

また、家来の平武士達は平民となり、一部の人々は生活が困難になった。 
その為、家老の田村顕允(あきまさ)を筆頭に北海道で新しい暮らしをしようと考え、 明治3年3月、邦成は大工・人夫などあわせて250人々が先ず室蘭港に上陸した。 
その後、モンベツ(現、伊達市:JR駅名は伊達紋別)へ行って荒れた土地に入り、木を切り倒し、笹やぶを切り開いて粗末な小屋を建てて生活を始めた。 
移住は明治14年まで9回にわたり行われ、延べ2700人余りが入植したという。

因みに、伊達を開拓した人たちは、国からの募集移民とは違い、食べ物・交通費・農具など自前でお金を出し合い、開拓したともいわれる。
温暖な地(平均気温10度上)の伊達は、道内で早くも米作りが盛んに行われ、又,内浦湾(噴火湾)では海面が黒くなるほど魚類が豊富であったという。
これらが幸いして伊達家の人々は次第に、この地に土着していった。


ところで、昨今同じ道内で、石炭の街として有名であった「夕張市」が財政破綻して、四苦八苦している様子が報じられ、話題にもなっている。
現在、我が国自体の財政がきわめて厳しい状況にあるが、(国の借金は平成17年度で凡そ500兆円:国債発行額、国民総員の一人あたり400万円になる。
主要先進国でも最悪国といわれる)危機的な財政状況にあるのは地方財政も例外ではない・・、特に、財政基盤の弱い地方自治体の「家計」は火の車になっているという。
地方財政とは、都道府県・市町村の財政の総称で、昨今、特に財政力の弱い市町村が多いといわれる。

こんな中、当地、「伊達市」は極めて財政は健全で、毎年の経常収支は道内の市町村でも筆頭クラスの黒字を計上していると言われる。
伊達市は全国で初めてのゴミの有料化を実施したことから、環境への取り組みにも優れている市として知られ、高齢者や障害者手当てを積極的に受け入れ、新しい福祉の考え方を模索・実践している(市民参加型の地方行政モデル)。
又、2005年には、小泉内閣の推進する構造改革の一環である都市再生のモデル都市としても紹介されてる。


国道37号と道央道伊達ICを結ぶ途中に「伊達開拓記念館」がある。
開祖・邦成公ゆかりの家、屋敷、史料、美術品等の貴重の品々が展示・所蔵してあり、周辺は緑豊かな広い庭園で、四季折々の趣が有り市民の憩いの場所になっている。
伊達市は、伊達・仙台藩の藩祖:伊達政宗の血脈を汲む土地柄であるが、正宗は御存じ戦国の雄として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」といわれる。

その伊達政宗の国家経営が伊達家及び諸侯に浸透し、幕藩体制においても最優良藩であったといわれる。
各種事業での藩興しの傍ら、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したともいわれる、一説には江戸中期には300万石を超えていたとも。伊達藩を祖としている伊達市は、脈々とその手腕を受け継いでいるのであろう。

合併特例法に基づく市町村合併で、伊達市は山間部の大滝村と合併することが決定している(壮瞥町を間に挟むため飛地合併となる)。 
当初 1市1町1村(伊達市・壮瞥町・大滝村)が合併の協議会を開催していたが、2004年12月に一旦解散している。 
その後、 1市1村(伊達市・大滝村)で協議会を再開し、2005年3月に合意・調印され、2006年3月に実施されるという。 飛地の合併というのは行政区域がバラバラで、行政運営や都市計画上など、やり難い面も多いと思うが・・?。 

因みに、道内では昨日通過した「日高町」が同様の飛地合併になっている。 
2006年3月に新設合併される旧日高町・門別町の2町で新たに「日高町」となる、間には、平取町が入っている。 
尚、ほぼ同時期に後から誕生する「新ひだか町」(静内町と三石町とが合併)とは関係ないらしい。



伊達・善光寺は、長野の「善光寺」の・・??、


伊達の市街地を抜けると広々とした見通しの良い丘陵地が広がっている。 
遠くの山並みは有珠山であろうか・・・、手前を傍若無人に道央自動車道が横切っていて景観を損なっているが。
国道37号線は室蘭本線と並行して走っているが、この路線を跨いだ海岸寄りが「有珠」の駅前だった。 

有珠は、こじんまりした町並みで、駅舎はチョット洒落た洋風がかった左右対称の建物であった。
ただ、駅前は人の姿は見られず閑散としている。
有珠・ウスはアイヌ語の「ウシ」(湾)からでたものらしい、そう言えばすぐ近くに有珠湾の入り江があって、湾を取り囲むように町並みが立ち並んでいるようである。

国道をこのまま進めると、「有珠・善光寺」という寺院があるらしく、長野の白馬に別宅を持つ小生にとって「善光寺」というのは長野の「善光寺」を思い起こし、懐かしい名前なのでチョット寄り道してみた。


茅ぶき寄せ棟造りの本堂をはじめ、重厚な建物が江戸時代のたたずまいを伝えている。
近年を含め江戸期の二度の有珠山噴火からも難を逃れてほぼ原型をとどめているという。
その本堂伽藍もさることながら、庭園の素晴らしさ広大さに舌を巻く。

「有珠善光寺」は大洋・噴火湾に面して建っている。
当寺院は、徳川幕府から「蝦夷三官寺」(厚岸町の国泰寺、様似町の等じゅ院)なる指定をされているという。 
根本堂の歴史は古く平安初期、比叡山の僧・慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し開基したと伝えられている。
江戸の芝・増上寺の末寺で総本山は京都・知恩院ということで浄土宗のお寺であり、長野の善光寺とは直接の関係はなさそうである。 

因みに長野の善光寺は、仏教伝来(538年)とほぼ同時に創建されたと言われる由緒あるお寺で、従って仏教が各宗派に分かれる以前のものであり、宗派は持たない。
つまり、宗派における付属の寺や末寺は無かったのである。

5万平方米にも及ぶという庭園は、古くから桜の名所として知られ、昭和初め頃までは有珠駅前から寺まで、数キロにわたって桜並木が続いていたらしい。
(その多くは戦後の混乱期に燃料として伐採されてしまったらしい) 

花見は庶民の数少ない娯楽のひとつで、季節になると「桜列車」も出るほどの賑わいだったという。
もちろん、今も境内に咲く桜を見に多くの観光客が足を運ぶという。 
境内にある「有珠郷土館」には、釈迦如来大仏(道指定文化財)、円空上人の鉈作りの観音菩薩(同)などの文化財・宝物が数多く展示されている。


円空上人・・、
その「円空上人」は、全国各地を放浪して数多くの鉈作りの仏像を残し、日本彫刻史上に特異な地位を築いた行僧である。 (登別・地獄谷の項でも述べます) 
円空は、善光寺を再興し本尊ほか一体を奉納し、また傍らの小祠と合わせて三体を奉納したといわれる。
その前後に有珠山に登り、眼下の洞爺湖に浮かぶ「中島」を善光寺・奥の院と定め、あるいは湖中の中島(現在の観音島)に渡ったあと、善光寺・円空の彫像を納めたといわれる。

次回は、伊達市「円空と蝦夷

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紀行(82)伊達 「円空と蝦夷」


思うに・・、
小生、北国の東北・北海道を巡ってきて気が付くのは、北国はやはり太古の大自然が残されているが、文化的な香りがする土壌はやや西日本に軍配が上がりそう気がするのである・・??。

実を言うと今時は既に西日本の周遊を終えていて、あちらの方は自然というより歴史、文化の色彩が多いのが印象的、特徴的であった。 
特に著名な神社、仏閣、墓稜、歴史的遺産などの歴史を刻む建築物が大いに目を引いたのものであった。 

北海道にもアイヌ文化、蝦夷文化をはじめ歴史的な寺社など、又、古くは縄文期の遺跡等・・存在しているが、注目度としては西方の歴史の広さや深さには及ばないであろう。  

そうした中でも北海道へは何人かの文化人が渡来してきて、それなりの影響を残している。
幕府の役人、探検家として渡来した文化人は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎、最上徳内など。
商人、船乗りなど商行為のため渡来したのは高田屋嘉平衛、銭屋五兵衛など。
又、文芸、絵画、書道、評論などで渡来した文化人は池野大雅、菅江真澄、大原呑響などとされている。

そして「僧侶」として布教のため渡来したのは、「円空」をはじめ木食、文翁、壮海、秀暁など各上人たちがいる。 
お節介のようだが、蝦夷・北海道文化や近代史に興味のある御仁は、これら先駆者といわれる人々のことをより深く調べ・研究することによって、より一層北海道への理解が深まるのではとも思われる。


日本で最も北東の地にある「円空仏」とは・・、


そんな中、美濃(岐阜県)出身の「円空」が北海道に渡ったのは、江戸初期の寛文5年(1665)であった。
鉈(なた)一丁を下げての遊行僧・円空は、北辺の地・蝦夷地でも意欲的に作仏活動を続けていて、現代から300年の風雪を経てもなお円空仏は今も人々の信仰を集めているという。

円空上人は寛永9年(1632年)、美濃国(現岐阜県)生まれ、早くから小僧として仏門に入り、やがて寺院を出て窟ごもりや山岳修行をするようになる。 
そして美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深め、随所で「鉈作り」や「木っぱ仏」と呼ばれる仏像を彫刻し、残している。  

円空は、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを分別しながら刻み歩いたようである。
その足跡は、美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北そして北海道にまで及んでいる。 
元禄8年(1695年)、故郷で64歳で亡くなるまでにその数は何と「12万体」に及んだともいわれ、晩年の作は他の追随を許さない境地に達し、日本の彫刻史上確固たる地位を占めているといわれる。

寛文6年(1663年)に流浪の身を咎められ、津軽藩の弘前城下からも追われて松前に渡ったことは知られてる。 
その後、道南の渡島半島の各地を廻り、広尾や釧路の近くに至るまで多くの仏像を彫っている。
円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようである。
なかでも30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅の目的は、有珠善光寺や太田権現という道南の古刹霊場に触れる事だったようで、彫り上げたその殆どの仏像は洞窟の中などに祀られているという。

因みに、「大田権現」は渡島半島西部・瀬棚町大成区大田にある日本海に面した社宮で、古く平安期の頃から祭られていて、現在は「太田神社」とも呼ばれている。
参道は山道で急傾斜の崖を登り、更に、百数十段の急な石段を鎖・ロープにつかまって登る難所で、鉄ばしごやロープを伝う急な山道や絶壁を進むこと約40分、拝殿に「猿田彦命」が祀られている。 

太田山(485m)全体をご神体とする山岳信仰の場でもあり本殿は、太田湾を一望する山頂直下の切り立ったがけの岩穴にある。 
当初は庶民が地蔵尊を祀ったのが始まりらしく、その後「円空」等によって観音像が祀られた円空仏堂もあるという。 
航海の守り神、霊神の加護として信仰されている。

円空が釧路まで足を延ばしたかは定かではないらしいが、釧路の厳島神社に円空の彫った観音仏が祀ってあり、日本で最も北東の地にある円空仏であるという。

円空が渡った江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった時期だが、当時、円空の彫った観音像をアイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたといわれる。 
円空は、アイヌの人たちの居住域をも旅しているので、アイヌの世話になることも多く、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として祀られ、拝まれたこともあったと想像できるのである。


円空が仏像に「くすりのたけごんげん」などと銘打ったことについて・・、


円空が仏を彫るにあたって、背銘にそれぞれ「いわうのたけのごんげん」、「くすりのたけごんげん」、「たろまえごんげん」などと記されてあるという。

当時は蝦夷地といえど、遊行者でも自由に旅をすることはできなかった。 そこで背銘にその名を刻し、仏が安置されるべき場所を書いたともいわれる。 
因みに、「いわうのたけ・・」は豊浦町礼文華の「いわう岳権現」(岩屋観音)、「たろまえ・・」とは苫小牧市高岳の「樽前岳権現」(樽前神社)であり、「うすおくのいん小島」は有珠善光寺・奥の院小島(洞爺湖中島)である。
そして「くすりのたの・・」とは釧路市米町「久寿里岳権現」(厳島神社:アイヌの聖地といわれる)であることは明白であるという。


釧路=久寿里(くすり)地方・・、


今の釧路・厳島神社は元々は阿寒大神、つまり厳島神社の原型といわれる円空仏がまつられていたという。 
釧路市史によると・・、
『 阿寒大神は、往古よりアイヌ人が「アカンカムイ」(アイヌの神)として祭祀してあったものと伝えられ、むかしは漁船が入港する時、社殿が見える所までくると必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念し、また感謝して帰港したものといわれる 』と記している。

阿寒大神(アカンカムイ)は、「阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神」とされているが、円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里(くすり)地方の霊峰の神に捧げられたことでアイヌにも深く受容されたという。
後には厳島神社が勧進されて海の神としても信奉されている。 

釧路地方のアイヌは松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、彼らはアカンカムイを祭祀するが、和人の弁天(厳島神)や稲荷神などの海や漁業の神として、併せて祭祀していたという。
厳島神社は無論、芸州・宮島の厳島神社のことで「海の神」といわれ、航海安全と豊漁祈願のために本来、和人が分霊、勧請したものである。 


現在の釧路・厳島神社の祭神は宗像三神の市杵島姫大神(イチキシマヒメ)であるが、相殿として阿寒大神(アイヌの神)をはじめ、他に稲荷、金比羅などが祀ってある。
何れも海や海運の守護神である。

久寿里(くすり)とは「釧路」の語源となったもので、原名アイヌ語のクシル、クシ「越える」 ル「路」からなり、「ここより各地へ道が通じていった」の意味とされるらしい。
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